『無量寿経』第十八願(極楽往生の条件):「設我得佛,十方衆生,至心信樂,欲生我國,乃至十念,若不生者,不取正覺。唯除五逆,誹謗正法。」
五逆罪は仏身より出血させる・阿羅漢を殺す・和合僧を破る・父を殺す・母を殺す。正法は衆生を解脱させる正しい法義であり、大乗と小乗の法を含む。
何故五逆の重罪を犯せば極楽往生できず、証果も明心も解脱もできないのか?何故正法を誹謗すれば証果も明心も解脱もできないのか?
まず仏身より出血させる罪について言うと、仏の業種は完全に清浄であり、いかなる悪業・悪縁も感召せず、一切の悪報が存在しない。故にいかなる衆生も仏を殺せず、仏の色身に傷を負わせ出血させることも不可能である。では何故「仏身より出血させる」という説があるのか?仏の血脉とは法脈、即ち仏法の流伝であり、仏身より出血させるとは法脈を断絶して正常な伝播を阻むことを指す。仏法は衆生を生死より解脱させるものであるから、この行為は極めて重大な無間地獄の業となり、この悪業を造った者は解脱を得ず生死の苦から離れられない。
阿羅漢は一切の煩悩を断じ尽くした解脱の聖人であり、その解脱の徳により人天ともに供養すべき存在で「応供」と呼ばれる。八地以上の菩薩の解脱の証量は四果の大阿羅漢に相当し、初地から七地の菩薩の解脱の証量は三果の聖人に相当する。一絲の惑業を留めて解脱果を取らず解脱正位に入らず、無余涅槃に入らぬよう保証する。阿羅漢を尊重し供養する果報は煩悩を断じ解脱を得て生死を解除することである。逆に阿羅漢を殺害すれば煩悩を解脱できず解脱を得られず生死を離れられず、生死の苦を離れる全ての解脱の道が閉塞するため、極楽往生できず証果も明心見性もできない。
和合僧団について、僧:梵語Samgha、正式名称僧伽とは出家修行する男性仏教徒を指し「衆」「大衆」「団契」を意味し、広義には女性も含み男女の出家衆を総称して僧尼という。僧伽は四人以上の仏法に依る出家者が組織する宗教団体である。出家の身分と資格がなければ僧尼に属さず、人数が多くとも団体を形成しない。聖義僧については真に証果し明心見性した僧侶でなければならず、意識による仮の証果・仮の明心の者は依然として凡夫僧であり、意識が操作されない時は完全に証果も明心もない意根の本性が露呈し、必ず意根の思想見解と煩悩に従って生死輪廻する。
和合とは六和敬の宗旨に従って共住することを指す。六和敬とは見和同解・戒和同修・身和同住・口和无諍・意和同悦・利和同均である。意見と見解が一致しなければ和合でなく、三帰五戒・八斎戒・比丘戒・比丘尼戒・菩薩戒を遵守せず修める戒律の内容が一致せず仏陀の制定に合致しなければ和合でなく、色身が共同の処所に居住せず東西南北に雑居すれば和合でなく、内部で互いに争い罵倒し攻撃し足を引っ張り是非紛争が絶えなければ和合でなく、面会時に不快で内心に怒り悦びなく隔膜があれば和合でなく、衆生間で利益が均等でなく一方が犠牲と付出のみで報いなく他方が占有と索取のみであれば同様に和合でない。いずれか一条に違反すれば和合僧団を構成できない。
真実の和合僧団は、仏陀に代わり正法を千古に伝え衆生を生死の火宅より救済する。これを破壊することは衆生を生死より解脱させる舟筏を破壊することに等しく、果報として解脱を得ず生死の苦を離れられぬため、極楽往生できず証果も明心もできない。不和合の僧団にはこの過失なく、かえって衆生に煩悩と苦果をもたらし、既存の煩悩を増幅し束縛と枷を加重させ、生死を一層苦しませる。
父母は我に肉身を与え、この色身によって正法に遇い修行する機縁を得て永劫の生死解脱が可能となる。故に父母の恩は山よりも重く、粉骨砕身しても生養の恩に報いることは困難である。衆生が供養せず逆に殺害する時、殺父殺母の罪は比類なく重く、死後無間地獄に堕ち解脱を得られぬため、極楽往生できず証果も明心もできない。
正しい仏法を衆生が依って修行する時、これが解脱の因となり生死を超越できる。もしこれらの法義を誹謗すれば正法を信ぜず、信すら足りぬ状態ではいかに修行できようか。修行できなければいかに解脱を得られようか。法は生死の海を渡る舟筏の如く、これを破壊すれば衆生は何を頼りに生死の海を渡れるのか。正法を誹謗すれば自ら信ぜぬばかりか他者の信受を阻害し、その罪甚大で自ら必ず生死を離れ得ず、故に極楽往生できず証果も明心もできない。
衆生を解脱させる法は小乗の四聖諦・十二因縁を含み、大乗の如来蔵系列の法(般若・方広・唯識、五識・六識・七識・八識の理論)、戒定慧の三無漏学をも含む。四聖諦と十二因縁は衆生に小解脱を得させるが永久的究竟解脱は不可能であり、大乗如来蔵の法は衆生に永久真実の究竟解脱をもたらす。第七識である意根の法は衆生の小解脱を保証し、大解脱から究竟解脱までも保証する。一切の解脱は程度に関わらず全て意根の解脱にあり、意根が解脱しなければ全て仮の解脱であり煩悩断たれず生死を了えず苦海を出でず涅槃の清涼寂静を得られない。
五逆罪を犯す者は極めて稀であるが、正法誹謗はますます増加し至る所に見られ普遍化している。故に大衆に対し自らの禅定智慧が不足し証量が足りない場合は常に謹言慎行し、審判者となる資格なき時は黙して自らを修持すべきと勧める。仮に暫時証果も明心もできず唯識種智がなくとも、世間の智者として自ら災禍を招かず解脱の道に障害を設けぬよう努めるべきである。
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