我見を断つとき、意識はまず意根に十分な証拠とデータを与え、そして意識は思惟を少なくし、功用を少なくし、意根の心理活動のニーズに合わせ、意根に自分で思量し考えさせ、自分でいくつかの事実を証印させる。もし意根が事実がまだ十分でない、証拠がまだ不足している、データがまだ足りないと感じたら、意識は再び思惟して観行し、再びデータを収集して意根に渡し、意根は再び深く思量し考え、このように意識はそばで絶えずいくつかのデータ資料を補充し、意根は絶えず加工し、絶えず思惟を完璧にし、最後にしっかりとした、証拠確かな結論を出し、証果する。もし処理すべきことが比較的多く、意識が必ず出定して六塵を了別しなければならないなら、意根も暗々裏に精進して、行住坐臥とも参究を離れず、夜に夢があろうとなかろうとも精進できる。意根が実際に事が重大だと感じたら、寝食を廃してもよく、眠らず食べずにしてもよく、意根が精進しようとするから、これらの飲食活動は意根の専心な思惟に影響し、日常の些細なことに気を取られてしまうので、五陰の他の活動を減らすことを決定し、自分が気を散らさないように保証する。眠るとき意識の傍らからの助けがなければ、意根には十分なデータと材料がなく、参究に着手できず、そこで意根は眠らないことを決定し、意識が滅びないようにする。
すべての法の参究において、最初は意根が意識の思惟分析に合わせ、意識が各種のデータや資料を収集する。意識が資料を比較的十分に収集し、意根が利用できる十分な量になったとき、意識は意根の熟慮に合わせ、意根の加工と統合の仕事に合わせ、意根の審査・濾過の仕事に合わせ、意根に多くの心を使わせ、意識はあまり活発に思惟せず、参究の仕事はすぐに完了できる。
意識の活発な思惟を少なくし、意根に多く思量させるには、禅定を修めなければならない。禅定の中でこそ意根の専心な参究を保証できる。完全に一つの所に定まることはできなくても、極めて少数の法に定まることができればよい。専心して参究すべき法義以外は、少しだけ了別すればよく、自分の参究に影響しない。それなら観行とは禅定の中で、意識は情によって思い解くことができず、意根の思量性を多く動かし、意根の思量を十分に有効に発揮し、自ら五蘊無我を証得することであり、これが観行と参禅の奥義である。
だから意根が法を証得しなければ、明心して証悟することは不可能であり、同様に我見を断つことも不可能である。禅定の中で参禅して観行すれば、意識の思惟を動かすことは少なく、意根の思量性を動かすことは多い。これが参禅観行の奥義である。
意識の配合と協力がなくても、意根も参究して法義を思量できる。ただ必要な時間が少し長くなるだけで、いつになるかは分からない。ただ前提として意識は思惟した内容とデータを意根に渡し、意根が従うべき思量があってこそ、思量して分かるようになり、証得できる。たとえば夜に一つの問題を考えて、解決しないまま眠ってしまう。一夜眠ってから、翌日目が覚めたら、ひらめきが現れ、突然解決しなかったこの問題が分かる。これはこの一夜、意根がずっと働いて思量していたことを示している。夜寝る前に疑問を意根に残しておけば、朝目が覚めたら答えが得られる。多くの人がこのような似た経験をしている。
またたとえば時々思惟した問題で、当時答えが得られなかったので、他のことに忙しくなり、表面上はこのことを忘れたように見え、意識はもう考えなくなって、そしていつの間にか、頭の中に突然答えが出る。これは意根がずっと背後で黙々と思量して、最後に結果を考え出したのである。修行とは意根を多く使うことで、意根の修行こそが本当の修行で、すべての法を証得し、すべての智慧を得ることができる。
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