衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月26日    月曜日     第6 回の開示 合計186回の開示

悟りは退転するかどうか

悟り後に退転するかどうかについては、二つの問題が関わってくる。一つは、悟りが真の悟りか偽の悟りか、どのように悟ったか、悟りの過程はどうであったかという問題。もう一つは、退転とは何を指すか、どこへ退き、どこへ転じるかという問題である。

第一の問題について、悟りという概念は自心を開き、真の自性である如来蔵を悟ることを指す。自心を開くことは非常に困難である。無始劫以来、我々は五蘊身心を実有的な「我」と見做し、執着を続け、貪愛し続けてきた。このような貪愛執着の心を転換させ、六・七識に五蘊身心を否定させ、未だ会ったこともなく捉え所のない真の心・如来蔵を認めさせることは、極めて難しい。この事業は大丈夫でなければ成し得ず、相当の善根と福徳、勇気と毅力が必要である。自心に固有の誤った知見を徐々に伏せ、無始劫以来の認知習気を否定し続け、旧来の思想的偏見と戦い続け、五蘊身心を完全に否定し、身中に不生不滅の真実心・如来蔵を「我」とする正しい観念を樹立し、心性が調伏され、真の自性に対する柔順忍を得て初めて、如来蔵を証得する因縁が生じるのである。

如来蔵を証得する前に、五蘊身心の虚妄不実性を観行し、五蘊身心を否定し続け、打倒し続け、五蘊身心を「我」とする邪見を断じて初めて、真の自性を認める方法が得られる。つまり、五蘊身心が倒れ死ぬことによってのみ、その死骸の中から活発な自性如来蔵を見出すのである。一つの死があってこそ、生気溢れる真実を証得できる。死んだ者を生者と見做す限り、真の生者を認めることは不可能である。故に悟り前に必ず我見を断じなければならない。たとえ我見断ち後の一時間・一日・数日で如来蔵を見出したとしても、まず我見を断ち五蘊身心を死なせてこそ、真の如来蔵を証得するのである。この我見断ちの過程なくして真の明心悟りはあり得ず、それは偽悟であり、心は開かれていない。

もう一つの問題として、凡夫は無始劫以来一度も悟ったことがないため、最初の悟りには長期間の参究過程が必要である。この過程で七覚分を発起し具足させ、八正道を修め、三十七道品を成就し、菩薩六度の条件を満たし、心性を調柔させ、大乗菩薩の資質と心境を備えて初めて明心悟りし、真の名実相伴う菩薩となる。このような悟りこそ真悟であり、偽悟ではない。真に悟った者は、長期の苦労を経て得た果実を大切にし、如来蔵への退転は起こさない。

第二の退転問題について、退転とは如来蔵から退き、如来蔵を真実の不生不滅の心と認めず、五蘊の機能作用を真実不滅の「我」とする旧来の知見に戻り、妄心である七識へ転じ、妄りを真と認めることである。

この状況が生じる主因は、悟りの不真実性と知見の不確固さにある。一因は我見断ちの過程を経ておらず、五蘊を「我」とする見解が断たれていないこと(五蘊が完全に死んでいないこと)。もう一因は、如来蔵に対する長期参究を経ておらず、如来蔵の無我性・無形無相の運行機制への忍可がなく、霧中看花の如き曖昧な理解に留まり、実際に如来蔵を証得していないことである。五蘊身心における如来蔵の清浄性・無我性・真実性を観察できなければ、その認知は不確かで内心を震撼させず、真の自性を宝愛できず、五蘊機能に再び執着することになる。これが退転の原因である。真に確固たる明心悟りを得た者は五蘊が完全に死に、真実を現前観察し、五蘊機能に執着しないため、いかなる勧誘や誤導も如来蔵への退転を引き起こさない。

——生如法師の開示
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