仏の悲心には二種類がある。一つは先天的に備えている大悲心で、無始劫以来ずっと慈悲をもって物を利し、さらに人を利してきた。この心は主動的に慈悲の感情を生じさせることはなく、衆生が悲愍していて可憐なものであることも知らないが、その行為は無我で衆生に従順しており、その結果は衆生を益し、衆生を関愛している。これは仏の如来藏の無垢識が備えている悲心である。
仏のもう一つの悲心は後天的に修行によって修得したもので、仏の意識心、つまり妙観察智が表現する対衆生の悲愍心である。この心は仏の意識心である妙観察智の出現に伴って出現し、妙観察智の一時的な滅びに伴って現れなくなり、生滅変化するもので、いつまでも存在することはできない。永遠に存在しない心である以上、仏の無垢識が生起して幻惑化されたものであるから、それゆえ虚妄なものである。
仏の二種類の悲心はどちらも動転しない。菩薩の意識の悲心はまだ動転する。凡夫の意識心のたまに現れる悲心は全て境界に従って動転し、いつでもあるわけではなく、恒常的に存在することもできず、究極でもなく、さらに智慧性を備えていない。仏が悲心を生じるとき、境界の流転に従わない、境界を真実と認めない、対象を区別しない。本当に無縁大慈、同体大悲で、あなた、私、他、その他の区別対待がなく、衆生を一律平等に見る。
衆生は人に対する態度が往々にして不平等で、自己を中心として一点一点外側に広がっていく。外側にある人ほど、生じる慈悲心は少なく、あるいはまったく慈悲心が生じない。ある人はたとえ最も親近な人であっても、一縷の慈悲心も生じない。だから、衆生は私心が比較的重く、我心が比較的重く、他人を考えることは少なく、あるいはまったく考えない。他人の立場から問題を考えることができない。仏の無縁大慈とは大きな差がある。
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