我見を断つパターンは、仏が既に整えており、どのパターンも禅定力を離れることはできず、全て禅定の中で思惟と観行を行うものである。仏が法を説く時でさえ、弟子に対して法を聞く時には定めて心をして聞き、かつ思惟できるように要求している。仏は皆「谛听、谛听、善思念之」と言っている。あの時代の人は心思が単純で、皆、異なる程度の禅定を持っており、法を聞きながら思惟でき、皆、思惟観行を行うことができたので、証果はとても容易に見えた。
私たち現代の人は福報があまり良くない。心思が単純でなく、雑念や乱れた思いがあり、禅定がない。環境や条件の制限により、禅定をうまく修めない。そのため、法がとても詳細に説明されても、依然として思惟観行ができず、疑情も起こらない。もし一定の禅定があれば、文字を見て観行を起こすことができ、疑情が現れ、ますます疑問が深まり、道心が強い人は、世俗の事をある程度捨てて、疑情を解決しなければならない。禅定がなければ、観行ができず、意根の奥深くまで入ることができず、意根が力を発揮できず、答えがありありと眼前にあっても、得ることができない。
仏が説いた《大念住経》の中の方法は、禅定と智慧の両方を備えており、定慧が結合しているので、我見を断つのは最も速い。それらの思惟方式は仏がとても明確に、かつ詳細に説明している。ただ、それらの方法に従って努力して修めば、我見を断つことはあまり難しくない。《大念住経》はとても良い修行方法で、全ての人に適応するが、多くの人が努力を惜しむのである。
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