衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月20日    木曜日     第2 回の開示 合計258回の開示

意根と意識の主従関係

すべての法は意根という主人が必要とするものであり、六識は意根という主人のためにサービスするものであり、主人の指令に従わなければならない。もちろん、主人も時には使用人の意見や提案を聴くこともある。例えば、意根が水を飲みたいと思った場合、如来蔵が了別した後、六識が生じて水を飲むという行為を行う。意識はどのようにして水を飲むか、その全体の手順やプロセスは何かを考える役割を担い、その後、身識と眼識と一緒にコップを持って水を注ぐ。意根がどのような水を飲みたいか、意識はそのような水を用意しなければならない。意根がいつ水を飲みたいか、意識はその時に水を飲むように手配する。最後に六つの識が一緒に水を飲み、水を飲むという仕事を完了する。正確には七つの識や八つの識が一緒に水を飲むという仕事を完了する。

もし意根が水を飲みたくなければ、六識は生じて水を飲む行為を行うことはない。意識はいつも意根ほど重要ではない。意識は意根のニーズに応じていつでも生じる法であり、意根によって決定されるものであり、その地位は従属的であり、意根のためにサービスするものである。意識は意根をうまくサービスしなければならない。もし意識が意根をうまくサービスできなければ、意根は不満を持ち、心が落ち着かず、甚だしき場合には機嫌を損ね、うつ病や鬱悶になるか、精神状態が正常でなくなることもある。意識が意根に大きく逆らう場合、長い期間にわたってそうであれば、意根の心に問題が生じる可能性がある。例えば、精神錯乱や精神分裂症になるか、狂人になることもある。

意根が音を聴きたいと思ったら、六識は生じて音を識別しなければならない。意根が指示するところに六識は行って仕事をしなければならない。しかし、仕事をする過程で、意識は臨機応変に意根に提案を提供することができ、要求をすることもできる。意根が承認すれば、その通りに行えばよい。六識はすべて意根の指令に従わなければならない。意根が六塵に対して何か考えがあれば、六識は現れて意根の考えを実現しなければならない。意根が何も考えず、何も行おうとしなければ、六識は現れない。意根という主人は権限が大きく、六識は多くの場合、意識せずに意根に使い回され、あちこちを奔走し、盲目に多くのことを行ってしまい、その理由がわからないままである。意根が六識にどのように行動するように指示すれば、六識はその通りに行動しなければならない。

私たちが仏法を修証する際、意根に力を入れず、ただ意識の心に力を入れると、力を入れた後、意識は滅んでしまい、何の結果も得られない。私たちが果を証得しようとする場合、ただ意識の心で証得したとしても、証得した後に意識は滅んでしまい、やはり何の結果も得られない。後世にはまた生死の輪廻の中にあり、無明に駆り立てられ続けることになる。ただ意識の心で無明を破ることは無駄である。意根の無明こそ根本的な無明である。なぜなら、生死の問題は意根の無明にあり、十二縁起の根本は意根の無明であるからである。だから、私たちが最初に意識に力を入れるのは、意根に影響を与え、意根を薫陶するためである。意識は伝声筒に相当し、言葉を伝える道具であり、意根の分析や思考を助けることもできる。最終的には意根が確認し、それによって意根を変えることができる。これが仏教を学び修行する最も根本的かつ最終的な目的である。

意根が変わったら、意識の薫染の作用も終了する。その後、意根は意識を引きつれて完全に善業を行うことができる。意識は従属的な地位にあり、参謀や伝令兵に相当する。意根はほとんどの場合、意識を使うことができるが、極めて少ない場合には使わないこともある。使わない場合、意識は何ものでもない。例えば、私たちが上司に何かを手伝ってもらおうと思った場合、まず私たちは秘書にそのことをはっきりさせなければならない。秘書は意識に相当する。秘書が上司にそのことをはっきり報告し、上司がそのことを理解してくれたら、私たちを助けるかどうかを決定することができる。そうすれば、そのことはうまくいく。

意識はまるで門番のようなものである。私たちが上司に会いに行きたい場合、必ずこの門番を通らなければならない。しかし、私たちが門番のところに留まっていて、門番のところを通らなければ、永遠に上司に会うことができない。古代から現代まで、多くの仏教を学ぶ人が意識の心のまわりで回っていて、いつまでもその道を見つけることができない。私たちはいつも悟りを求めているが、意識を守って外で回っていて、意根に入り込んで意根を修証しなければ、悟ることはできない。もし門番が上司に会うことを許しても、上司が断るなら、上司に会って問題を解決することはできない。門番が何を言おうとも意味がない。上司が許可しなければ、入って問題を解決することはできない。だから、仏法がどんなにすばらしくても、必ず意根に修証して確認してもらわなければならない。意根に五陰無我を証得させ、如来蔵を証得させなければならない。意根が証得した後は、永遠に六識を率いて正しい道を歩み、善業を行い、善い結果を得ることができる。

——生如法師の開示
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