衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月27日    木曜日     第3 回の開示 合計278回の開示

第六識に倶生の人我執はあるか

第六識は倶生の人我執を持つか。もし第六識が第七識のように五蘊が出生した直後から前世と同様の認識を有するならば、当然前世と同じ執着性を持つことになる。第六識が生来倶生の人我執を有する場合、後天的な教導や薫習を必要とせず、まず五蘊の存在を知り「我」と認識し、十八界の存在を知り「我」と認識しなければならない。第六識は出生直後、教導無しに五蘊の存在を知るのか。第六識は生来、教導や学習無しに十八界の存在を知るのか。五蘊(色受想行識)の機能作用を認識するのか。十八界(六根・六塵・六識)の機能作用を認識するのか。自己と他人の区別を判別できるのか。自己と他人の概念を有するのか。我相・人相・衆生相・寿者相を有するのか。第六識が五蘊十八界の一切の法を認知するなら人我執を有し、これらの法を認知しないなら人我執が無く、執着する心行も無く、仮に執着しようとしても能力を欠く。

法我執の内容は人我執よりも広大であり、その涵義は更に深細で理解困難である。第六識が出生直後は一切の法を認識しないため、執着することができない。例えれば、第六識が財・色・名誉・飲食・睡眠に執着するには、まずこれらの存在と重要性を認識しなければ執着が生起せず、執着能力も無い。財色名食睡が何であるか知らなければ執着の心行も無く、執着の有無を論じ得ない。同様に、権勢・地位や富裕な生活に執着するには、まずそれらの意義・重要性・享受方法を理解して初めて執着が生じ、貪愛の心行が起こる。これらを全く知らなければ執着する能力も無く、執着の有無を論じ得ない。故に出生直後の第六識は法我執が無く、執着を知らず、倶生的・生得的な如何なる執着(人我執・法我執を含む)も有しない。

——生如法師の開示
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経典が理解できなくても法に依れるか

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