衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年10月07日    日曜日     第4 回の開示 合計32回の開示

我見を先に断ってから如来蔵を参究するのが最も省力である

如来蔵を参究するには、定力を十分に修めてから参るのが最善で、そうすれば五陰の様々な活動に対して疑情を起こすことができる。定力が不足していると、五陰の虚妄性を十分に観行しきれず、我見が断たれず、如来蔵の体性を思惟しきれず、疑情が容易に起こりにくい。肝心な点は五陰の虚妄の理が徹底していないことで、心の中で五陰のすべての活動を否定していないと、五陰の様々な活動は当然に存在すべきで、自然にあるものだと考えてしまい、そうすると五陰の動力の源泉を疑うことができず、五陰がどのように現起するかを観行することもできず、それによって五陰と同時に存在する如来蔵を参究して探すこともできない。小乗の土台がしっかりしていて、我見を断っていれば、特に疑情を起こす必要はなく、心を一つの所に制する定力があれば、自然に疑情が起こり、そして如来蔵を参究するのが手に馴染み、容易に契入できる。

我見を断つには、行住坐臥や言談笑いの中で自分の全体の五陰の虚妄性を観察し、色身の虚妄性と意識心の虚妄性を観察しなければならない。知見上、理論上では身体が私ではなく、意識も私ではなく、私は形も相もないことを知っていても、意根はまだ認めていない。意識心は自分が虚妄であることを知っていても、実際的な役割はなく、主導するのはやはり意根で、身口意の行いの造作はやはり意根の言うことが決まり、意根は真理を知らず、内心はやはり意識を私とし、意識の細かい機能作用を真実で滅びないものと認めていると、そうすると参禅は大変な手間がかかる。

本当に我見を断つには、深く禅定に入り、もう一度細かく思惟し、繰り返し意根を薫修して、意根に五陰の自分が確かに虚妄で、真実でないことを知らせなければならない。因縁が熟した時、意根は意識の機能作用が真実ではなく、私ではないことを認め、その時内心に大きな変化が起こる。その後再び禅を参じて真心の如来蔵を探し求めれば、証悟が比較的容易になる。

先に我見を断ってから参禅すれば、参禅が比較的楽で、五陰が完全に死んだ後、疑情が起こり、疑情を持って参禅すれば、証悟が速い。定力が不足していると、疑情が起こりにくく、慧力が不足していても、疑情が起こりにくい。常に自分の修行の方向が正しいかどうか、方法が適切かどうか、六波羅蜜の条件に何が欠けているかをチェックし、そして方法を考えて菩薩の六波羅蜜を円満にし、今後必ず本当の大乗の菩薩になる。

普段は自分の菩薩の六波羅蜜の条件が既にどれだけ具備されているか、まだ何が足りないかを多くチェックし、不足している条件はもう一度努力して補い、これらの条件をなるべく完璧にする。また自分の心性と願力がどうであるか、心の量がどれだけ拡大したか、視野がどれだけ広がったかをチェックする。私たちが修行すべき内容は実に多く、それぞれの内容をしっかりと一歩一歩実際に修行して出さなければならない。そうすれば知らず知らずのうちに段々と向上し、大乗の真実の義の菩薩になることができる。衆生を憐れむことができる人は必ず本当の菩薩であり、本当の菩薩は必ず実義の菩薩である。だから菩薩の目印は、総括して言えば慈悲喜捨であり、これが菩薩の最も根本的な基準である。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

父子合集経選講

次の記事 次の記事

意根が何であれ、自分はそれである

ページのトップへ戻る