如来蔵は決して主宰せず、生まれ変わりを企てることもなく、必ず意根が生まれ変わりを決定した後に如来蔵が意根に協調して胎内に入る。意根が生まれ変わりを決定する時、完全に意根の習気業力に従って生まれ変わるか、あるいは願力に順応して生まれ変わる。この時は業力と願力の大小を看る必要がある。もし意根が我見を断じず三結を断除していなければ、その業力は依然として極めて大きく、三悪道に堕ちるのを免れず、多くは餓鬼道に赴く。なぜなら百パーセントの人間の貪心は軽からず、貪心あれば必ず餓鬼道に赴き、餓鬼道の業を果たした後畜生道に生まれ、畜生道の業縁が終わって再び人間界に戻り人となる。
故に我見を断ち明心見性すること、更にいかなる法を証得することも意識と意根が共に証得するものであり、意根が証得しなければ三悪道の生死の結縛が意根を三悪道に生じさせ、三悪道の五陰身と六識が意根に使用される。このような五陰身と六識は人間の五陰身と六識と大きく異なり、業力の違いによるものである。生まれ変わりに関して意識は完全に無力であり、生まれ変わる時意識は滅して意根に助言できず、意根が完全に自己主導する状態は即ち業力が完全に主導する状態である。ならば意根が我見を断たず明心しなければ、どうして生死の業から解脱できようか?
2
+1