衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月18日    月曜日     第1 回の開示 合計413回の開示

何が有為と無為か

「為」とは、為すべきもの、目的、要求、求めることを指す。

有為とは、求めることがあり、要求があり、造作があり、得るものがあり、求めるものがあり、目的があり、心の行いがあり、造作があり、我があり、四相があることである。無為とはこれらの心の念いがなく、有為と反対である。

求めることのない心は無為であり、得るもののない心は無為である。三界世間に対して心の行いのない心は無為である。生み出されない法は無為である。心の量が広大で際限ない心は無為である。煩悩のない心は無為である。三界世間法を必要としない心は無為である。いかなる条件もなく存在できる心は無為である。造作を欲しない心は無為である。我のない心は無為である。四相のない心は無為である。

如来蔵は無為の中にあって私無く衆生に奉仕し、三界一切の法を運行する中心にあって心は無為である。無為の中に有為があり、有為の中に無為がある。七識がある程度まで修まると、初めて有為性から次第に無為性へ転じ、有為の中心地において無為となり、徐々に如来蔵と相応する。完全に無為となり完全に相応する時、仏となる。

ただ如来蔵というこの無為心のみが一切の法を離れて存在できる。七識心の無為は三界世間法を離れられず、無為の如来蔵を離れられない。如来蔵というこの無為法は三界有為を離れても単独で存在できる。無余涅槃の時、無余涅槃の中において、如来蔵は寂滅無為で一法も造作せず、清浄の極みに至る。故に有為法を離れてもなお無為法たる如来蔵が存在する。祖師は言う:「天地に先立つ有無あり、形無く本より寂寥なり」と。

——生如法師の開示
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