前念が既に断ち、後念が未だ生じていない時、それは七識が断滅しておらず、七識が生じていないことを意味するわけではない。むしろ七識は全て存在し、作動している。その中で第七識は、四果の阿羅漢が無余涅槃に入る時にのみ断滅することができ、他の人々は断滅させる能力がない。凡夫には断滅させる能力がなく、地上の菩薩や諸仏は断滅させる能力はあるが、断滅させようとはしないので、第七識は断たれない。私たちがたまに念頭がなくなる、あるいは念頭が生じる中間状態にある時、意識心や五識心は断滅しておらず、依然として存在して作動している。この時、「知る」ということが存在し、自分がこの時念頭が一時的にないことを知る。この「知る」ことは主に意識による生滅する妄心であり、この心を第八識と見なしてはならない。そうすると誤って悟ることになる。
この状態において、眼識は依然として色を見ることができ、耳識は依然として音を聞くことができ、鼻識は依然として香を嗅ぐことができ、舌識は依然として口中の味を知覚することができ、身識は依然として身体が快適かどうかを知覚することができ、意識は依然として自分に念頭があるかどうかを知ることができる。この時、六つの識は全て存在し、意根も存在し、第八識は必然的に存在する。つまり、念頭がない時でも八つの識は全て存在する。では、前念が既に断ち、後念が生じていない時、その中間は何なのか?これは意識心が法塵に攀縁しない一時的な定で、中には依然として意識が存在し、第八識だけではない。したがって、この時に悟るとしても、必ずしも第八識を悟ることはできない。もし意識が念頭がなく、第八識を知らず、認識しないなら、さらに悟ることはできない。
念頭がない時、あるいは少なくとも第六識、第七識、第八識の三つの識が全て存在している時、第八識を悟ることができる。
しかし、一般の人は第八識を悟る能力がない。なぜなら、悟る条件を備えていないからである。凡夫異生の心性はまだ遥かに降伏されておらず、根本的に勝義菩薩になる資格がない。したがって、この中で第八識を明らかに理解して証悟することはできない。その結果、往々にして念頭がない時の意識心を真心の第八識と認定してしまい、誤って悟ることになる。これは誤りの「誤」である。
真心と妄心は同時に存在する。妄心を見つけるのは容易だが、真心を見つけるのは非常に難しい。これには一定の因縁条件が必要で、因縁条件が備わっていなければ、真心の第八識を証得することはできない。第八識を証得しなければ、第八識から修行を始めることはできない。第八識を見つけてから初めて悟った後に修行を始めることができる。念頭がない意識と第八識は特に混同しやすい。多くの人は意識が念頭がないことが第八識だと思っているが、実際に第八識は、あなたが念頭があるかないかに関わらず、常に存在している。修行してからでなく、最初から存在しているのである。
古代の祖師たちが参禅して悟る時、色を見て悟る者もいれば、音を聞いて悟る者もいれば、棒喝を受けて悟る者もいれば、扉に挟まれて悟る者もいる。悟る方式は多種多様で、非常に柔軟性がある。必ずしも念頭がない時に悟る必要はない。実際に念頭がない時に悟りを開こうとするのは非常に難しい。したがって、祖師たちは弟子たちに念頭がない定を修めることを許さない。念頭がない定を修めても、悟ることはできない。
禅宗の公案を多く読めば分かるように、大多数の祖師の悟りは真の悟りであり、皆得道した人である。現代の人は善根と福德が不足しており、往々にして仏法を誤って伝え、衆生の修行を曲がりくねらせる。私たちの弁別能力はまだ不十分で、正しいか間違っているかを弁別できない。もし念頭がない時が第八識だとすれば、しばらくして念頭が再び現れる時、第八識は消えるのか?そうすると第八識は生滅するものになってしまう。「了了分明」、「了」は「知る」で、「分明」は「はっきりと理解する」で、これも「知る」である。「知る」がある限り妄心であり、真心は知らない、「了了分明」ではない。
「了了分明」の時の心は様々な境界を知ることができるが、知らないわけではない。六塵の境界を知ることができるのは真心ではない。真心は六塵の境界を知らない。自分が現在どんな状態にあるか、真心は知らない。これこそ意識心が知ることができ、了別できることで、これが証悟の鍵である。意識心は時には念頭がない、「霊知」であるが、これも「知る」で、六塵を知る心は真心ではない。皆さんは古代の禅宗の法と多く比較してみるべきで、祖師たちがどのように悟ったか、いつ悟ったか、悟った内容は何かを見てみるべきである。
六祖が悟った時、五つの「何期自性」を知った。もし離念の「霊知心」を悟るなら、どうしても五つの「何期自性」を知ることはできない。『心経』と比較して、真心は生滅せず、永遠に変わらない。この「霊知心」は生滅し、変化し続け、永遠に変わらないことはできない。「霊知心」が真心なのか妄心なのか、心の中ではっきりと理解すべきである。この問題は非常に重要で、必ず注意しなければならない。生死の大事はいい加減にできない。学法は慎重にし、多方面から求証しなければならない。もし学び間違えたら、それは一生一世のことではない。
8
+1