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仏法雑談(第二部)

作者:释生如更新時間:2024年11月15日

第九章  仏法と外道の法篇

一、外道たちはなぜ初めて仏の説法を聞いて直ちに証果し、さらには四果まで達するのか

外道たちは皆四禅八定を修め出し、様々な程度の思惑の煩悶を降伏し、断除しました。ただ四聖諦の理の観行の智慧だけが欠けており、見道の条件は満たされています。つまり、俗に言う「万事俱備、只欠東風」の状態です。この東風とは見道の因縁を指します。一旦因縁が現れると、直ちに見道できます。その見道の因縁は仏陀が四聖諦の理を宣説することです。初果の条件を備えていれば初果を証得し、二果の条件を備えていれば二果を証得し、三果の条件を備えていれば三果を証得し、四果の条件を備えていれば四果を証得します。だから、誰もが仏の説法を聞いて証得する果位は異なり、その違いは見道条件の違いにあります。

見道は例えば七番目のパイを食べることに似ています。外道たちは既に六つのパイを食べ終わり、七八分満腹で、まだ完全に満腹ではありません。仏陀が四聖諦の理を説明するのを見て、七番目のパイを食べると、一気に満腹になります。前の六つのパイは基礎で、胃の中に底をつけ、さらに一つのパイを加えると、胃を満たします。人の最後の結果だけを見るのではなく、人の修道の苦労な過程と辛抱強く努力して流した汗の量を見なければなりませう。もし彼らが莫大な代價を払わなかったり、精勤して修め出した四禅八定がなかったりすると、六つのパイの基礎がなく、もう六つのパイを与えても、おそらく満腹になって見道できないでしょう。ある人は仏と弟子たちの問答の間に、弟子たちが瞬間的に見道したと言います。ただ数分間のことで、とても容易で、それほど苦労や手間がないと思っています。しかし、この数分間の見道の功德は、仏の弟子た们が無数の善根と福德を集積してきたもので、それぞれがどれだけの時間をかけてその六つのパイを食べたのか、どれだけ苦労したのか、前世と今世でどれだけの代價を払ったのか、知っていますか?

多くの人は、スポーツ選手が試合場で一度の試合で金メダルを獲得したことに目をつけて、国際金メダル、国内金メダルなどで、彼らがなぜそれほど幸運なのかと思っています。彼らが何年も何年もの奮闘、どれだけの汗と涙を流し、どれだけの休息時間を捨て、どれだけの体力的な代價を払い、さらには生命と健康の代價を払い、どれだけの不満を抱えて、試合場で一挙に金メダルを奪得したのか、全く見えないです。世間と出世間では、それほど容易なことはありません。証果は白菜を食べるように簡単なことではないです。無量劫の生死の流転、悪業が山のように積み重なり、絡みつき、数分間、数時間で何個の無量劫の生死の業障を破ることができ、三悪道の業を滅除することができるはずがありません。このような良いことは夢でも見えないでしょう。そうでなければ、なぜ無辺無際の生死の衆生がいるのか、無辺無際の仏ではないのか?

二、仏法と世俗法の違い

仏法は衆生の解脱を指導する法で、衆生を生死から解脱させることができます。世俗法には様々な仏道以外の法、儒家や道家の法などが含まれます。これらの法は衆生を解脱の道に導くことができず、衆生を生死から解脱させることができません。ただ仏法の中では世間の幻化空、実相の空を講じており、空を証得することで解脱できます。仏道以外の法は多くは「有」を講じており、空を講じている場合でも、ただ一部の空、浅いレベルの空であり、世間の空も究極的ではなく、さらに出世間の実相空はないです。空であれば解脱でき、有であれば縛り付けられます。仏法は解脱のための无所求の空法で、外道の法は縛り付けられる「有」の法、有所求の法です。

仏法は仏法で、外道の法は外道の法で、思想や観念は異なります。もし同じであれば、外道の法は外道の法ではなく、仏法とも呼ばれることになります。ある人は老子も悟りを開いた聖人であると言います。しかし、もし老子が悟りを開いたとして、彼が伝える法も衆生を解脱させることができるなら、仏は人間界に来る必要がなく、余計なことです。外道の法と仏法の共通点は、禅定と世間の善です。思想や観念、境界は異なります。仏法は世間の虚偽で不実、空を講じており、外道の法は「有」を講じており、「有」の基礎上で禅定と善法を行うので、禅定がどれほど良くても、心地がどれほど善でも、空を証得することができず、五蘊を解脱することができません。

一部の世間法にも本源などの名詞はありますが、それらは皆浅い意味の部分で、世俗的な性質の本源と起源であり、源頭はまだ「有」で、空ではなく、万法の実質的で根本的な生死の源頭に関与していません。世間法は本当の悟りの法ではないです。そうでなければ、世間法は仏法と呼ばれることになります。

三、善法は解脱の法ではない

問:雷峰は我見を断ったか?彼の心の中にまだ「我」はあるか?己を捨てて人を助け、勇敢に義に殉じた人は我見を断ったか?心の中にまだ「我」はあるか?

答:仏法は仏を学ぶ、修行して成仏する法です。世俗法の善法、人間の善法はいずれも仏法ではなく、外道にも善法はあります。ただ解脱の理を明らかにしない限り、善法も衆生を解脱させることはできず、人天の福报を得るだけで、報が尽きるとなお三悪道の生死の流転を免れることはできません。生死の流転を避けたいなら、善法の生死の縛り付けを観行し、善法を空に観想し、心が善法に執着しないようにしなければ、解脱できません。

また、解脱の主体である主人は意根です。意根が五陰身に対する一切の我見、不如実な見解、不如理な見解を全部滅除し、五陰の中のどの法も「我」として、実在として見ないようにしなければ、解脱を得る希望はありません。我見を抱えて善法を行うことは、依然として生死の縛り付けです。本当に解脱したその真心自性は、永遠に善心がなく、善法を行わない。悪心がなく、悪法を行わない。世俗心がなく、世俗法を行わない。それゆえ、これらの一切の法に縛り付けられないので、それこそが解脱した心です。善法や他のどの法にも偏執しては、解脱は得られません。

四、仏法と外道の法の有無論の違い

外道の無論では、目に色法を見ながら、「無」と言います。既に「無」なのに、なぜ言葉があるのですか?外道の有論では、明らかに一切の色法は無常空であるのに、「真実で壞れない」と言います。仏が言う法は、「有」でも「無」でもなく、「非有」「非無」、「既有」「既無」、「非非有」「非非無」です。その中の一つを取り、他のものを論じないことは、外道の見解です。仏法は永遠に円通で、左から言っても右から言っても、通じます。一方、外道の論はいつも自己の言論を首尾一貫させることができず、自己矛盾しています。

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