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仏法雑談(第二部)

作者:释生如更新時間:2024年11月15日

第二章  仏菩薩篇

一、菩薩の金剛怒目と雷霆手段とは何か?

例えば、潔癖な人が豚と一緒に閉じ込められ、豚が自分の藁の巣の中で大小便をしているのを見て、この人が思わず豚を蹴ったとする。これが雷霆手段である。また例えば、心が既に清浄な菩薩が五濁悪世に来て、貪嗔痴の衆生と一緒にいて、衆生が無明が重く、愚痴な業を造作して自覚しないし、教化も受けないのを見て、思わず大声で呵責する。これが金剛怒目である。ある人は、これでは菩薩が慈悲でないと言われるのではないかと問うだろう。実は、慈悲であるかどうかは、決して衆生によって定義されるものではない。菩薩が衆生のために心血を注いでも、衆生が無情で、肝心なところも理解しない。仏菩薩が衆生に罵倒されることは免れない。五濁悪世で衆生に罵倒されないことはあまり正常ではない。さもなければ、菩薩道から退転する人がいるわけがない。

二、菩薩は皆修行の手順を明瞭にすべきである

菩薩は現在修めている法、次に修める法、そしてその次に修める法についてすべて明瞭であり、その知慧によって一劫、幾劫、さらにはもっと長い時間にわたって修めるべき法を知ることができる。菩薩は知慧がある以上、すべての法を明明白白にしなければならず、すべての修行の手順をはっきりと知り、一歩一歩どう行うか、心の中で明確にしなければならない。明確でない場合は、愚痴であり、修行を通じて愚痴を取り除かなければならない。すべての菩薩は自分が現在どの修行レベルにあるのか、どの法が成就し、どの法が成就していないのか、次にどの法を修める必要があるのか、どう修めるのかをはっきりと知ることができる。はっきりと知らない場合は、愚痴であり、現在持つべき知慧を持っていない。

菩薩は修行を始めるとき、足を踏み出すとき、どの方向に向かって歩み始めるべきかを明確に知っている。ぼんやりと勝手に歩くわけではない。勝手に歩いて、邪道に入っても知らないような人は、菩薩ではなく、まだ菩薩になる資格がない。特に、法を弘め、人を案内する菩薩は、心の中ではっきりと衆生をどこに案内するのかを知っている。

三、菩薩の意味

今、学仏者は自己感覚から二種類に分けられる。一つの種類は広く学び、多くの知識を持ち、修学に対して自信満々で、少し慢心があり、人に会うと自分が菩薩であり、しかも普通ではない菩薩であることを明かし、同参が会うと挨拶するときにも某某菩薩と始め、互いに賛嘆し合い、心の中で満足している。もう一つの種類は広く学び、多くの知識を持てなく、知識と見識が豊富でなく、菩薩の意味を知らず、心性が少し卑屈で、菩薩という名を称する勇気がなく、人が菩薩と自称するのを聞くと、罪が重いと思う。

この二種類の人は皆過ちがあり、心性は皆慢に属し、高慢と卑慢は皆愚痴である。第二の種類の人に対して、菩薩とは何かを説明する。例えば、学生という名前を取ると、学校に通って学んでいる人が学生と呼ばれる。様々な内容を学ぶことが含まれ、範囲が非常に明確で、年齢にさえ制限がなく、八十歳でも学生と呼ばれる。学んでいる限りである。また、学生证を持っている人は更に学生と呼ばれる。証とは証明である。

同じように、菩薩の道を歩み、菩薩行を修めている人が菩薩と呼ばれる。菩薩心を起こし、自度し、人を救度するという誓願を立てる人が菩薩と呼ばれる。仏法、菩薩法を学んでいる人が菩薩と呼ばれる。仏、法、僧を信じる人が菩薩と呼ばれる。三宝に帰依する人が菩薩と呼ばれる。菩薩六度を修行する人が菩薩と呼ばれる。特に、菩薩戒を受け、菩薩証を持ち、菩薩の誓願を立て、十方諸仏菩薩に証明され、菩薩戒体を持つ人は更に菩薩と呼ばれる。菩薩には鬼神、畜生、非人、天人などのすべての衆生が含まれる。しかし、定性声聞、大乗に回心しない阿羅漢や辟支佛は含まれない。なぜなら、彼らは成仏、成菩薩する心がなく、衆生を利益し、楽しませる心がなく、涅槃の清浄を求めるだけだからである。

菩薩には凡夫菩薩と聖賢菩薩が含まれ、その階位の順次は以下の通りである。

(一)信位菩薩、初信位から十信位まで、十の階位は皆信位菩薩で、皆凡夫菩薩で、まだ菩薩六度を修めようとする心を起こしておらず、菩薩六度を修める資格と能力もなく、仏法に対する信心を養っている。

(二)住位菩薩、初住位から第六住位まで、大菩提心を起こし、仏道に向かって進み、菩薩六度を修行する。初住位では布施度を修行する心を起こし、修行が円満になると、初住位が終わり、二住位に入る。二住位菩薩は持戒度を修行する心を起こし、修行が円満になると、三住位に入る。三住位菩薩は忍辱度を修行する心を起こし、修行が円満になると、四住位に入る。四住位菩薩は精進度を修行する心を起こし、修行が円満になると、五住位に入る。五住位菩薩は禅定を修行する心を起こし、禅定修行が円満になると、六住位に入る。六住位菩薩は般若度を修行する心を起こし、修行が円満になると、開悟明心し、七住位に入る。七住位は菩薩位が永遠に退転しない菩薩で、実義菩薩と呼ばれ、本当の名実相伴う菩薩で、菩薩の名前だけでなく、菩薩の実際の徳も持っている。

(三)行位菩薩、住位の十の順次が修められて円満になると、行位に入り、行位菩薩に属する。修行には十の順次があり、修行が円満になると回向位に入る。

(四)回向位菩薩、十の階位があり、修行が円満になると初地に入る。

(五)地位菩薩、初地菩薩は唯識相で見道し、識を転じて智に成し、唯識種智を持ち、如来家に入り、仏の真の仏子になる。十地菩薩位まで修め、修行が円満になると、等覚菩薩になり、等覚菩薩の後、弥勒菩薩のように後補仏となり、つまり妙覚菩薩である。

菩薩の等級は、信位の凡夫菩薩から、賢位の住位菩薩、行位菩薩、回向位菩薩、聖位の十地菩薩、等覚菩薡、妙覚菩薡まで、全部で五十二の階位順次である。

各自が自分自身を照らし合わせ、自分が菩薩かどうか、どの階位の菩薩か、どんな法を修めるべきか、どんな法を修めているか、菩薩の発心があるか、菩薩の戒体があるか、これからどう修行すべきかを考える。もし自分が信位の凡夫菩薩でさえないと思うなら、まるで素人で、ここでは全く時間を無駄にしていることになる。もし初住位菩薩の発心さえなく、菩薩六度を修めようとしない、布施行を修めようとしないなら、菩薩の証悟を求める資格は全くなく、ここでも時間を無駄にしていることになる。

四、菩薩の心行

菩薩は皆四摂法を修めなければならない。愛語、同事、利楽同行を行うことで、良い衆生縁を得ることができ、何事を行っても順調にいく。もし衆生と善縁がなければ、菩薩としての役割を果たせず、衆生を救度できない。世俗界で事を行う際にも良い縁が大切であり、仏法においては更に善縁が重視される。善縁が皆を繋ぎ、互いに助け合い、共に進歩し、自利利他を行うことで、より速く菩薩道の修行を完成し、仏道を成就することができる。意識的あるいは無意識的に自ら障害を設けるのは、無智な人であり、自ら足を引っ張り、自ら罠を設け、最後には自ら損をし、思い通りにいかない。

知恵のある人は、言葉を発し、事を行う際に必ず結果を考え、他人の利益や名誉を損なわず、自らを褒めて他人を貶めず、己が欲しないことは人に施さない。これは人としての最低限の道であり、ましてや菩薩になろうとするなら、これより高い法則が必要である。菩薩の心行は皆、良いことを人に与え、悪いことは自ら引き受けることであり、決して逆に行って、良いことをすべて自分に帰し、悪いことをすべて他人に押し付けるようなことは菩薩の行いではない。

菩薩同士で問題があるとき、皆面と向かって話をし、面と向かって問題を解決し、間違っている点があれば改め、間違っていなければそのまま励みにする。陰では言葉を交わして不和を煽るようなことはしない。是非を言う者は容易に誹謗罪を犯し、結果は非常に悪い。事実があり正しいことを言うのは有根誹謗で、事実がなく間違っていることを言うのは无根誹謗で、最も軽いのは四衆過を言うことである。四衆とは在家男女二衆、出家男女二衆で、その中の出家二衆はまた三宝と呼ばれ、三宝はまた凡夫三宝と勝義三宝に分けられる。四衆過を言うことと誹謗という二つの業は軽くなく、果報が重い。すべての菩薩が口業を善く守ることができるよう希望する。問題があれば面と向かってはっきりと話し、相手が直ぐに改めることができるよう、互いに監督し、支え合う。

すべての衆生が最も容易に造る業は口業である。妄語、両舌、綺語、悪口、そして是非をつける、仲を裂く、嫉妬、誹謗、または陥れることである。戒律の中で口業に対する要求は非常に厳しい。なぞなら、口業は最も容易に造られ、造られる回数も多く、また人に気づかれにくいからである。だから、皆が言葉を発するときはよく考えてから言うべきで、思わずに言葉を吐くようなことはしない。その他のことを一切顧みないようなことはしない。

五、仏はなぜ無色界で法を説かないのか

無色界の天人は身体がないが、意識があり、意識があるから識陰がある。意識はあるが、禅定の中にあり、仏法を聞くことができず、ましてや仏法を思惟することはできない。もし衆生が身体がなければ、人間の中の人ではないが、天界の人であり、高級な生命体である。触、作意、受、想、思の五遍行心所法は、八つの識にすべてあり、無色界の天人も意識の五遍行心所法があり、意根の五遍行心所法もあり、第八識の五遍行心所法もある。

仏は無色界天で天人に法を説くことができるが、色界の天人が聞こえないし、人間の人が聞こえないし、鬼神が聞こえない。無色界の天人は少なく、しかも皆外道で、一日中入定しているので、彼らに法を説く必要は全くない。もう一つの面から言えば、二禅定ではもう仏法が聞こえない。ましてや四禅以上の禅定では、更に法を聞いたり、仏法を思惟したりすることはできない。だから、仏は無色界天で法を説かない。仏が華厳経と地蔵経を説いたのは欲界天と色界天で行ったもので、それから人間に伝わった。その他の経典は皆人間で説かれ、こうすることで天人が下りてきて法を聞くことができ、鬼神や畜生も法を聞くことができ、こうして救度する衆生が多くなる。

六、なぜ諸仏は娑婆世界に似た世界で成仏したとき、すべて残って法を説こうとしないのか

三四果を証得し、貪嗔痴の煩悩を断除した後、衆生を見るとき、今の衆生を見る心境とは全く違うものになり、多くの言葉を言う気にもならなくなる。なぜなら、言っても無駄だからである。まるで大学教授が幼稚園児を見るように、教える価値がないと感じる。成仏したとき、多くの衆生を観察すると、貪嗔痴の煩悩が一面に広がり、非常に愚痴であり、そのとき、深い仏法をこのような衆生に説くことは想像もできない。まるで牛に琴を弾くようなものである。衆生と同じレベルにいるときは、全く衆生がどうであるとは感じないが、一旦そのレベルから離れ、上から下を見ると、その心境は皆が理解できないし、想像もできない。だから、言っても無駄である。諸仏菩薩の聖人たちは知音がなく、とても孤独であり、衆生は理解できないし、ましてや聖人の心境を体得することはできない。

七、初地菩薩は欲界を離れたのか

多くの菩薩は一般的に人間で弘法利生を行うが、禅定はそれぞれ異なる。初地以上の菩薩は必ず初禅以上の色界禅定を備えており、人間で衆生と一緒にいる。少数の菩薩は各天界で修学し、衆生を救度する。禅定の証量と煩悩を断除する証量から言えば、初地以上の菩薩は心がすべて欲界を離れており、欲界の煩悩と貪着がない。

八、諸仏菩薩が災難に遭遇したとき、どうするか

釈迦族を滅ぼそうとする瑠璃王の軍隊に遭遇したとき、釈迦牟尼仏はどうしたのか。今回、我々学仏者がウイルス感染という災難に遭遇したとき、医療関係者のように病気を治し、人を救い、ウイルスを殺すことはできなかったが、我々仏教独特の衆生救度の方法、例えば、経を読む、仏を念ずる、法を学ぶことで得た功徳を回向し、これにより疫病が早く終わるように推進し、国家にも応分の貢献をし、一定程度で衆生を救度した。この程度がどれだけ大きいのかは、今は言うのが不便なので、この回向が果たす役割が小さくないとだけ言える。では、諸仏菩薩の功徳は無量であり、天災人災に遭遇したとき、衆生の災難を解決するには、多くの善巧方便があり、殺生をせず、衆生と悪縁を結ぶことなく、すべての災難を解消できるのか。

衆生が福德と智慧が不足しているとき、災難を解決する方法として殺生と敵対しか思いつかず、より良い解決方法が思い浮かばない。福德と智慧が十分であれば、一つの心念で災難を解消できる。だから、衆生は災難に遭遇すると、自然に諸仏菩薩を思い出す。なぜなら、諸仏菩薩は智慧が高く広く、これらの問題を容易に解決できるが、ただ、衆生が福德を受ける資格があるかどうかによる。だから、皆は努力して修行しなければならない。修行こそが不動の真理であり、修行しなければ、悪業を造ることを永遠に避けられず、その後、悪報を受ける。

九、仏陀の寿命

ある劫の中で、仏の寿命と衆生の寿命はともに非常に長く、劫で計算される。一小劫は1680万年で、仏の寿命は十二小劫の時間を示現することができ、またはもっと長くすることもできる。これは仏が菩薩であったときの善業によると同時に、衆生の業力にもよる。しかし、これはただ示現であり、仏の実際の寿命はすべて無量寿で、無限に長く、時間の制限がない。今回、釈迦牟尼仏が娑婆世界での寿命は八十年で、当時の衆生の百岁の寿命に似ており、これは衆生の業力によって決定される。釈迦牟尼仏は娑婆世界で一劫以上住世することができるが、衆生が福がないので、このような殊勝な果報を感召することはできず、仏陀が長く住世しても仏教と衆生に益がないので、仏陀は縁に応じて八十年の寿命を示現する。

十、仏法上の智慧は世間法の智慧から離れることができるか

無明とは、理解しない、明瞭でないという意味で、すべての万法に対して理解しない、明瞭でないことを含む。諸仏はすべての無明を断尽し、出世间のすべての法を明瞭にし、世間のすべての法も明瞭にし、一つの法でも不明瞭でない。世俗法の中の任意の一法を仏陀に尋ねても、仏陀が不明瞭で答えられないことはない。だから、世俗法に通達していない、人としての事をうまくできないのは無明であり、その人の仏法も通達していない。

諸仏、諸地の大菩薩は、仏法に通達するだけでなく、同時に世俗法にも通達し、世間で衆生と付き合い、皆、衆生の心を明瞭にし、世間の事を明瞭にし、行う選択が世俗に違反せず、広く衆生を救度し、衆生に救度されない。

仏法にどの程度通達するかに応じて、世間法にもそれに応じた程度で通達する。仏法と世間法は相輔相成であり、世間法から離れて仏法を成就できるということはない。もしできるとすれば、仏法は世間法と無関係になり、実際には、仏法は世間法から離れることができず、世間法と密接につながっている。仏法は世間法を効果的に指導できる。もし誰かが仏法上の智慧が高いが、世間法では行き詰まることが多いなら、その人は仏法に通達しておらず、本当の仏法上の智慧を持っていない。いわゆる智慧はただ乾慧に過ぎない。

諸地の大菩薩から仏陀まで、皆、世間で宰官、大臣、君主、または転輪聖王、各層天の天主として働くことができる。世間法に必ず通達している。さもなければ、どうして君主、転輪聖王、天主として働き、どうして衆生や世俗界の事務を管理し、支配し、大衆を率いることができるのか。

智慧は相通じており、仏法上の智慧は世間法の智慧から離れて単独で存在することはできず、仏法は世間法で実践されなければならず、世間法で実践が通じなければ、仏法も通じていないことを示し、世間法に応用できない。仏法上の証量は皆、世間法での身口意行を通じて現れる。身口意行が転じて清浄にならず、事を処理しても完璧でなければ、その人の道行はまだ不十分で、定力、福德力、智慧力が不足しており、だから、世間法から離れて現れる仏法はない。

十一、念仏法門の中の他励とは具体的に何を指すか

他励とは、外在の因縁による励ましと激励を指し、仏の加持力と言える。特に、念仏をするとき、念仏すると仮に仏に感応し、仏は感応すると、念仏人の心念と心愿を知り、念仏人に加持の作用を起こし、念仏人の道力を高める。

仏菩薩の加持は一般的に、衆生の五根と五力を成熟させることに現れる。五根には信根、念根、精進根、定根、慧根が含まれ、この五根により五力が生まれる。衆生はこの五種類の力の作用の下で、道業が絶えず進歩し、心が清浄になり、収穫があり、成就が得られる。

十二、なぜ昔の祖師大德たちが法を説くとき、一般的に経典を引用しないのか

昔の祖師大德たちは皆、本当に修行があり、修証があり、德行がある、本当に開悟した菩薩である。だから、法を説くとき、自分自身の智慧と見地だけを述べ、深く追求しなくても、隠蔽もせず、実際どおりに語り、道理に沿って論じる。もし時折経典を引用するとしたら、一つは因縁が熟しておらず、信根と智慧が不足している者のためで、二つ目は法義が深いとき、仏経を用いて補助的な説明をするためである。

もう一つの面から言えば、古代の学道者は善根が比較的に深く、福德、禅定、智慧が比較的に良く、信根が十分で、法を選ぶ目があり、祖師の開示に対して正しい選択力と信受力を持っていた。だから、祖師菩薩たちは安心して自分自身の智慧の証量と知っていることを述べることができ、後顧の憂いがなかった。今の衆生は善根が軽く少なく、福德、禅定、智慧が不足しており、信根が不足し、法を選ぶ目が欠けており、多くの人が騙される言葉を聞き、諌めを聞かない。だから、法を説くとき、多くの経典を引用して信を起こさせる必要がある。もう一つの面で言えば、もし法を説く者が修行の時間が短く、本当の智慧の証量がなく、法義にまだ通達していないなら、経典を引用せざるを得ない。たとえ経典を引用しても、一つは衆生が実際どおりに理解できないこと、二つ目は法を説く者も経典を通じていないことから、やはり誤解や勘違いが免れない。これは衆生の業力によって感じられることで、業が重く福が薄いため、修行の道は曲折し、進んでは退き、いつ終わるのかわからない。

十三、雌雄同体の境界

身心は互いに依存し、互いに影響を及ぼす。もし意識に障害が現れると、勝義根に問題が生じているに違いない。勝義根の問題は、一つは先天的な業種の縁が熟して現行に現れ、業報が現れること、もう一つは後天的な要因により勝義根に障害が生じることである。色身の外から見ると、色身全体は潤滑油を絶えず補充しなければ働けないロボットのようなもので、本当に愛着するに値するものは何もない。高尚で、德行のある魂は、色身よりもはるかに価値が高く、智慧のある魂は、色身よりも計り知れないほど価値が高い。だから、我々は皆、高いレベルの心霊を追求し、心霊の智慧と解脱を追求すべきである。

高いレベルの心霊は必ず識を転じて智にし、定慧が備わり、色身を変えるに足りるもので、色身に相好莊厳を備えさせ、男性の相の長所と女性の相の長所を兼ね備え、外見において男性の特徴と女性の特徴を持ち、男性の相と女性の相を完璧に融合させ、雌雄同体に達する。禅定の修行により雌雄同体を修得でき、色身が無漏となり、異性に依存して自身の不足を補う必要がなくなる。こうすることで人格が独立し、自身がますます完璧になり、将来は蓮花化生することができる。初禅以上の禅定があれば、初步的な雌雄同体がどういうことかがわかるが、初禅の禅定だけでは足りず、長時間の薫修、さらには長劫の薫修が必要である。

これは禅定と色身の角度から論じた雌雄同体で、最も根本的な雌雄同体とは、精神的、心霊的なものを指し、精神、意力、性格、気質、風度、人格、教養、品行などの面において、男性の長所と智慧と女性の長所と智慧を兼ね備え、異性に依存して心志の不足を補う必要がなく、自身が二重性を持ち、既に完璧または完璧に近づいており、世間の人よりも優れている。大菩薩たちは一般的に雌雄同体で、男女両方の性別の長所を備えており、智慧と身体の相貌も含む。仏菩薩は相貌から男女を見分けることができず、智慧に関しては男女とも同じである。だから、大丈夫と呼ばれる。

色界の天人の相貌は男女を分けず、皆、初禅以上の禅定を持っており、極楽世界や多くの仏国土の人も男女を分けず、性別がなく、色身は永遠に若い。これは禅定、福德、智慧によって感召される果報である。性別がないとき、付き合うときが特別に自在で、違和感がなく、是非もなく、煩悶や感情がなく、気持ちが快適で自然である。一方、男女両性が一緒に付き合うとき、面倒なことが多く、多くの精力と心力が浪費される。

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