仏法雑談(第二部)
第四章 懺悔業障篇
一、業障とは何か
誰もが業障を持っている。まず無明があり、心の中に無明があるために、不如法な業行を造り、そして初めて障害が生じる。どんな業行が、何を障害するのか。どのような面での障害が現れるのか。誰が障害を受けるのか。障害の原理は何か。障害をどのように取り除くのか。
いわゆる障害とは、例えば、私が禅定を修めようと思っても、どうしても修められない。毎回禅定を修めるとき、人や物、事による妨害が現れるか、あるいは心の中で縁を求める気持ちが非常に強く、止める方法がない。私が福を修めようと思っても、なかなか修められず、どんな実際的な行動も取れない。毎回決心をして行動しようとするとき、一つの念頭が現れ、「もうやめよう、後でにしよう、こんなことをする必要はない」と思い、そして怠けてしまう。毎回仏法を思惟して観行しようと思うとき、いつも頭の中が混乱して、思いが落ち着かず、手がつけられない。一文の意味も理解できない。さらには、毎回善いことをしようと思うとき、いろいろな妨害があり、なかなかできない。とにかく、すべての計画が実現できず、いつも決心をしても無駄で、少しも何も変えることができない。これらすべての妨害が障害であり、業障である。前世の自分自身の貪嗔痴と無明の業行によって招きつけられた心理的な障害と逆縁である。
前世の悪業が業種となり、どのように今世の修行に影響を及ぼすことができるのか。業障も前因後果とも呼ばれ、因果は関連して繋がっている。甲において悪業を造り、不如法な行動が現れると、甲において果報が現れ、甲のことが成就できない。同様に、乙において不如理な業行を造ると、乙において果報が現れ、乙でのことが成就できない。例えば、前世に三宝を誹謗した場合、今世に仏法僧に出会っても喜びの心が生じず、三宝に近づこうと思っても遮障と抵抗がある。たとえ心からよく修行しようと思っても、黒字白紙の文章も理解できず、仏法が心に入らない。三宝を誹謗した悪業が今世の修行の深刻な妨害となる。
二、業障を消しているマーク
誰もが無始劫以来、極めて多くの悪業を造り、極めて多くの業障が修道を障害している。障道する主要な業障を取り除かなければ、道を見ることは不可能である。修行が比較的に力を入れて、一定の成果を出したときに初めて、業障を一部消すことができ、障道の因縁を取り除くことができる。どうすれば修行が力を入れたと言えるのか。仏法を学ぶことで、善悪の理を明確にした後、自分自身に多くの煩悩があり、多くの悪業を造ってきたこと、多くの業障があることを知り、悔いの心が生じると、業障は少しずつ消えていく。
業障を消すチャネルと方法は多い。例えば、悪報を受け、種々の不順が現れ、身体の病気、人によるいじめと誹謗、人による軽蔑と差別などである。金剛経によれば、金剛経を読誦するため、本来この人は前世の悪業により悪道に堕ちるはずだったが、金剛経を読誦することで業障が消え、今世には人に軽蔑されるだけで、悪業が消滅し、後世に三悪道で報いを受ける必要がなくなる。人に軽蔑されることは、人間の中で苦しむことで、この果報は三悪道の果報よりもはるかに軽い。たとえ命を失っても、三悪道の果報よりもはるかに軽い。だから、学仏人が現世に悪報を受け、人にいじめられ、殴られ、罵られても、幸運であると感じるべきで、相手に報いることはしないで、無駄に苦しむことがないようにする。
修行が力を入れた後、業を消す方法は多いし、業を消しているマークも多い。例えば、ある人が夢の中で多くの汚いものを吐き出す。腐肉のようなもの、黒い血、黄色い膿、九孔から不浄臭秽が流れ出す、トイレの中で身の周りが大小便で埋め尽くされ、足を置く場所や身を向ける場所がない。これらの汚物も心の中の貪嗔痴を表し、貪嗔痴が少しずつ消えている。夢の中では、普段は受け入れられない、とても恥ずかしく、想像もできない現象が現れることもある。これらはすべて業を消している兆候である。これは修行によって業を消す現象で、以前に衆生の肉を食べてきたため、心と身体が不浄であったが、理を明かした後、心が少し清浄になると、業も少し消え、夢の中で業障が消える状況が現れる。
夢の中では、心が少し清浄になる状況も現れる。心の中の染污は、夢の中で物質色法を通じて表現される。汚いものが身体から出ると、染污が出てきたことを表す。現れる汚いものは多種多様で、一人一人の状況には多少の違いがある。身体から悪臭を放つことも、業を消す一つの表現であり、身体に病気が現れること、種々の不順が起こること、家庭や職場で種々の不満足なことが起こり、うるさく騒がしい現象が時々起こることも含まれる。
修行がより猛烈で、より力を得れば、より速く、汚いものや染污の現象がより早く、より多く現れ、心の変化も大きくなる。これらの現象がなければ、自分自身の修行がまだ十分に力を入れていないことを示し、意根に触れておらず、業種にも触れていないことを意味する。心が明確に変化しなければ、業障は消えず、まだ実際の修行段階に達しておらず、ただ理論的に心を使って、理論に興味があるだけで、自分自身をどう変えるかについて反省していない。
ある人が心をこめて念仏をするとき、身体が時々砂撒き機のように、非常に多くの黒い汚物が口や身体の各所から排出される。痰、肉、粉末などである。これは以前に衆生の肉を食べたことが現れる消業の現象である。ある人は夢の中で嘔吐するが、胃の中に砂のようなものがあり、吐き出そうとしても出せず、吐き出すときには内臓が一緒に引き出されるような感じがあり、一瞬にしてとても大きな汚いものが排出される。これらはすべて以前に造った貪嗔痴の悪業、身口意の悪業、悪口誹謗などの染污業である。
これらの現象から、念仏一声で罪が恒沙を滅ぼすことが実際にあることを感じるはずである。理にかなって修行すれば、多くの罪業を滅ぼすことができる。今生に我見を断ち、明心できなくても、ただ業を消すだけでも十分に価値がある。多くの業を消し、業障が軽微になって初めて道を見ることができる。決してもう悪業を造らないようにする。悪業を造ることは非常に価値がなく、得策ではない。修行に努力し、煩悩を消すことは非常に価値があり、得策である。
三、業を消す原理
ある人が言う。業障は壁に描かれた絵のようなもので、壁がなくなれば、その絵もなくなる。五陰身は壁のようなもので、業障は五陰身の上の障害煩悩である。五陰の身心が空になり、意識と意根の心が空になれば、業行は自然に消える。業障は五陰の身心に向かって来て、五陰の身心に付着している。実際には、六七識の心に付着している。六七識の心が空になれば、業障は空になるか。業障に付着するものがなく、五陰の身心が見つからなければ、業障は消えてなくなる、空になる。業を造る主人がなくなれば、誰が業報を受けるのか。誰も報いを受けなければ、報いは終わる。
しかし、五陰の身心が空になる程度を見なければならない。心がどれだけ空になれば、それだけ業障が消える。初果の空と二果の空は違いがあり、二果の空と三果の空は違いがあり、三果の空と四果の空は違いがある。だから、業障が消える程度も違う。しかし、もし業障が重すぎると、心を空にして借金を逃れることはできない。例えば、ある人が百万を借金して、極楽世界に往生したとする。債権者は誰に百万を請求するのか。もしある人が一億を借金して、債権者がいつも彼を見張っているとする。彼は極楽世界に行けるだろうか。彼は遠くに行けない。動こうとすると、債権者が道を塞ぎ、彼を行かせない。借金が比較的軽くなって初めて、債権者は精力を費やしていつも彼を見張ることはしない。
四、衆生の業はどのように消えるのか
衆生は無量劫の修行過程で、その業障は少しずつ消され、業が尽きて初めて仏道を成就する。その業の消滅は、主に自分自身が修行し、無明を滅ぼし、心の意を変えることで行われるが、最初は衆生の無明が重く、心の力が弱いので、大部分の業障は仏菩薩の加持によって消えるか、背負われる。一人一人の衆生の業は、仏菩薩が背負い、消してくれなければ、誰も証道し、仏になることはできない。仏菩薩が衆生のために業を消し、業を解決し、業を背負う方法は非常に多いが、衆生は全て知らず、感じず、時には仏菩薩を誹謗することさえある。衆生が無知のとき、仏菩薩の恩徳がどれほど大きいのかを理解していない。
衆生の因果は六道輪廻の生老病死、憂悲苦悩であるが、一人一人の衆生が仏法に出会うと、生死業と苦しみの受けるものがますます軽くなり、最後には三悪道の業を断ち、六道輪廻の業までも消える。さらに、一人一人の衆生が機縁を得て仏法に出会うことは、全て衆生自身の福德と功徳によるものではなく、全て仏菩薩の恩徳によるものである。仏菩薩は毎日呪願を発し、願力が三悪道の衆生に広がり、三悪道の衆生は知らず知らず、ぼんやりとした状態で恩恵を受け、福德が日に日に増え、最後に仏法に出会い、無量劫の学仏修行を始め、業障が少しずつ消え、最後に仏になるまで、全て仏菩薩の恩徳によるものである。仏にならなければ、誰も仏菩薩の恩徳を報いることはできない。
仏菩薩の加持と呪願は、全て無形で、衆生のために無数の業障を消しても無形で、見えないし、触れることもできず、衆生が無知のときは感じることもできないが、実際には力が無限に大きい。衆生は恩知らずではなく、恩義を全く知らず、また根拠もなく種々の誹謗を行うが、仏菩薩は決して気にしない。誰が無知愚痴の衆生と気にするだろうか。仏菩薩は衆生にどれだけ業を背負っても、どれだけ仏法を説いても、どれだけ深い仏法を説いても、無知の衆生は仏菩薩に凡夫菩薩という名前をつけることを許さない。罪障は深いではないか。
五、罪業はどのように消すのか
造作した罪業は、心性上の罪業と行為上の罪業に分けられる。心性上の罪業を性罪と呼び、行為上の罪業を業罪と呼び、二つを合わせて罪業と呼ぶ。もし行為上の罪業だけがあり、心性上の罪業がなく、故意ではなく造った行為であれば、無心の過ちで、過失と呼ぶ。例えば、過失殺人、過失殺生で、主観的には無心で、客観的には因縁によって成される。このような過失による業の造作は、世間法では罪責が比較的軽く、仏法での果報も比較的軽い。無意に殺し、無心に殺しても地獄に落ちないが、未来世には一度無意に殺されることがある。小さな畜生を殺しても将来殺されることはないが、非常に軽い果報がある。一つ一つの行為は、意図があろうとなかろうと、それぞれ程度の違う善悪の果報がある。
もし悪心で故意に造った罪業であれば、罪業は非常に大きく、果報も非常に重い。もし悪心だけがあり、心性が悪い場合、例えば相手がどうなるかを想像し、心の中で相手を呪うなどして、実際の行動がなければ、この場合、心性上の悪だけで、意業に属し、意業にも種子があり、これも罪業であり、心性も染污で、貪嗔痴が深刻で、後世に悪心に従って報いを受ける。心は万法の主人で、心が動くと業があり、業があれば業報があり、果報は業に影を追うように付随する。
例えば、鶏を殺すということは、自発的な杀生行為で、無心で殺すわけではないので、性罪もあれば業罪もある。性罪には性罪の果報があり、業罪には業罪の果報がある。性罪の業は消しやすい。ただ心から自己の貪嗔痴を懺悔し、これから造らないと願う、心性が本当に変われば、性罪は消える。もし心性が変わらなければ、性罪は残り、後で報いを受ける。しかし、まだ業罪がある。業罪はどうやって消すのか。それは実際の行動を取る必要がある。もし衆生を殺さなかった場合は補償をし、相手が満足するまで行う。
もし衆生が死んでしまった場合は、この実際の行動は本当に難しい。仏法で修行し、証しがあり、功徳福德が比較的大きい場合を除いて、この罪業を解決することができる。例えば、経文を読んだり、念仏したり、呪文を唱えたりして鶏を超度する。本当に鶏を善道に超度できれば、これで済み、将来鶏が逆にあなたに感謝し、恩を報いる。善道とは人間の世界でもよく、猫や犬に超度してもよい。また、自分自身が修行してきた全ての功徳福德を鶏に回向し、鶏に向かって懺悔する。鶏が本当に利益を得れば、業罪は消える。
もし罪業が消えなければ、遮障は非常に深刻で、仏になることは言うまでもなく、学仏が順調に行かなくなり、日常生活にも問題が生じる。罪業が比較的大きい人が、念仏して極楽世界に逃げようとしても、臨終のとき、業障が現れ、仏を信じることができなくなり、念仏などできない。なぜ多くの人が学仏を続けているうちに、ついには脱落するのか。それは業障に遮られ、修行が進まなくなるからである。多くの人が学んでいるうちに、業障が現れ、抵抗できず、後退し、何も学ばなくなる。自分自身の罪業遮障を絶えず消す方法を考えることで、道業が進歩し続ける。そうでなければ、業障が道を遮り、種々の変故が起こり、正常な学仏修行ができなくなる。懺悔と願を発することで業障を消すことができ、業障に対抗することができる。業障が軽くなって初めて進歩できる。そうでなければ、進まなければ後退する。だから、希望を全て臨終に託すことはできず、臨終前に後世の行き先の問題を解決しておく必要がある。
六、大乗法を用いて参禅することで深い罪業を消すことができるか
ある人が言う。衆生の罪業は山のように多いから、誰が罪を受けているのか、誰が業を造っているのかを参究してみれば、このようにして真心を証得できる。真心は業を造らず、罪を受けないから、このように罪業を消すことができる。しかし、このような罪を消す方法は非常に適切でなく、理にかなっていない。一つ目の理由は、業障が深く重いため、修道の遮障も重く、菩薩六度の修行を全く円満に行うことができず、真心を証悟する因縁条件に達することは不可能で、戒定慧が備わっていなければ参禅することもできず、だから深い罪業を消すことは不可能である。二つ目の理由は、このようなやり方は、末法において業障が深い衆生にとって、因果を否定し、悪業を逃れ、自心の染污を反省できず、修行しても修行しても罪業は依然として山のようにあり、おそらく増えることさえある。
初心の学人和業障が深い人にとって、修行の四正勤で悪を断ち、善を修める段階にあり、罪報と苦しみを受ける理由を観察する必要があり、このようにして因を知り、果に達する。因果を恐れ、畏敬することで初めて悪を断ち、善を修め、自心の煩悩を降伏し、最後には生まれ変わり、心を改め、大乗菩薩になることができる。業障が深いとき、大乗の無相懺悔で罪を滅ぼす方法や、大乗参禅の方法で煩悩と罪業を逃れることはできず、実際には逃れられない、避けて通れない。そんなに重い罪業が遮っているので、どうして参禅して第八識を証得し、明心することができるだろうか。どうして無相に達することができるだろうか。
参禅する因縁条件が備わっていないので、第八識を推理や推測に頼るだけで、想像で作り上げた第八識は、七識心にとって、永遠に作用せず、少しも功徳を受けることができず、罪業を少しも消すことができず、三縛結を少しも断つことができない。推理で出た第八識は悪業を造らない、悪業がなければ報いを受けないが、七識の悪業はどれだけ重いかそのままで、消えない。第八識は七識を代えることができない。第八識は本来清浄な自性で、本来仏であるが、七識は無始劫以来ずっと罪業の凡夫であり、第八識は七識に代わって苦しみを少しも受けなかった。七識は第八識の仏光に少しも触れず、罪苦を少しも減らさなかった。
第八識はこれまで貪嗔痴の煩悩を持ったことがないが、七識の貪嗔痴はこれまで絶えたことがない。第八識はこれまで解放されているが、七識はこれまで少しも解放されなかった。第八識は仏であるが、七識はこれまでそれゆえに仏の座に就いたことがなく、仏の待遇を享受したことがない。大部分の時間は三悪道で苦しみ、生死を繰り返して休むことがない。だから、第八識と七識は互いに代えることができない。第八識はすべての場所、すべての界、すべての法、すべての時、すべての地に遍在する。意識が少し賢ければ、誰でも推理できる。至る所に第八識がある。考えてみれば、第八識が大体どのようなものか知ることができる。肝心なのは、このような考えが何の役に立つかということである。凡夫は貪嗔痴で、考えることはたくさんあるが、無始劫以来、どれだけのことが望み通りになっただろうか。
だから、実相懺悔、参禅で罪を滅ぼすことは、初心の学人にとって非常に現実的でない。業障が少し軽く、菩薩六度の修行が大体できている人だけが、このような方法で証悟し、業を消すことができるが、完全に保証できるものではない。仏の側にいる場合、可能性は大きいが、仏から離れると、難しさは確かに小さくない。推理は容易だが、実証は難しい。末法時代になればなるほど、この傾向が強くなる。誰もが幸運を当てにする心理を持ってはならず、本当の修行をしなければならず、手抜きや近道をすることはできない。
なぜ第八識を実証して初めて罪業を消すことができるのか。なぜなら、実証の過程で、五蘊の運作を理にかなって、実際に観行できるからである。五蘊は心の中でますます空になり、ますます実在しなくなり、生滅の現象をますます明確に、深く観察できる。最後には我見を断つ。第八識を証得するとき、五蘊はすべて第八識によって生まれることを再び観察すると、心の中は更に无我になり、空になる。もちろん、五蘊の我に基づいて造られた罪業も空であり、无我无我所になる。
まるで、心経の最初の一句のように。「観自在菩薩は深い般若波羅蜜多を行う時、五蘊を照見して皆空であることを知る。」参禅観行の結果は、五蘊を照見して皆空であることである。これは証悟の功徳であり、五蘊が空で、无我になる。観行の最後の結果は、照見である。この照見は頓悟である。照は心灯が動かないことで、智慧の光が五蘊の影像を映し出す。真心である第八識の影像であり、五蘊がなく、五蘊は五蘊でない。照見する智慧は非常に生じにくい。必ず菩薩の無量の功徳を広く修め、生まれ変わりが近づいたときに初めて、五蘊を照見して皆空であることが可能になる。照は、意識の浅い思惟ではなく、意根の深く細かい智慧の機能作用である。心の光が発せられ、五蘊を透過し、五蘊の真実が現れる。
本当の修行をしない、禅定を修めない、三十七道品を修めない、悪を断ち善を修めない、煩悩を降伏しない、業障が遮っていると、永遠に照の智慧の光を生じることはできず、ただ浅い推理を行い、意解し、研究し、意識だけに力を入れるだけで、意根が入ってこない。そうなると、意根の凡夫の骨は永遠に替えられない。命の終わりになっても凡夫の胎になることは変わらない。なぜなら、胎に入ることは意根が決めることで、意根と業力によって決まるからである。意根は業力を代表する。意根に智慧を生じさせ、意根を変えることで初めて業力を変え、罪障を消すことができる。
七、諸仏菩薩の恩徳
一人の人が最初に仏法に触れる時から、最後に仏になるまで、少なくとも半分の業障、甚だしきに至っては大部分の業障は、諸仏菩薩が背負い、消してくれる。甚だしきに至っては、一人一人の衆生が学仏の因縁を持つことさえ、諸仏菩薩の加持護念の結果である。もし衆生個人だけに任せるなら、そんなに深い業障があると、仏法に出会うこと自体がすでに相当に難しい。ましてや仏法を修行すること、ましてや間違いなく進むこと、ましてや少しの成果を収めること、ましてや解脱を得ることは言うまでもない。等覚妙覚の菩薩でも、諸仏の護念が必要で、初めて順調に仏になることができる。ましてや一人一人の凡夫衆生は、諸仏菩薩の加持護念に頼らずに、一歩一歩進むことが非常に困難で、荊棘が生えており、一歩も進めない、足を置く場所がない。
師の恩は広大で、だから私たちは本当に諸仏菩薩に感謝すべきで、いつも恩を報う心を持ち、仏の言葉を信じ、仏の教えを尊び、仏の戒を守り、諸悪を作らず、諸善を行い、諸仏菩薩を師とし、決して師に背き、教えに叛くことがない。大きな誓願を立て、自利利他を行い、煩悩を消し、自心を清浄にし、修行したすべての善行、善願、善法を、法界のすべての衆生に回向し、これによって諸仏菩薩の救度の恩に報いる。一滴の恩に対しては、湧泉のような恩で返すべきである。しかし、諸仏菩薩の湧泉のような恩に対して、私たちは一滴の恩で返すことができるだろうか。多くの人が諸仏菩薩の恩徳を考えないで、逆に三宝を誹謗し、良師に背く、益友と敵対する。恩義を知らない人は、解脱の大道を絶つことになり、永遠に三途の苦しみを受ける。
八、誰が人のために業障を背負うことができるか
背業ということに関しては、体力も考慮に入れなければならない。例えば、一人の人が転んで、助けて起こされる必要があるとする。もしそれが三歳の子供で、その人を引き起こそうとしても、どうすることもできない。ましてや助けて起こすことや背負うことは言うまでもない。例えば、一人の人が五十斤の重い物を持って、人の助けが必要なとする。弱々しい人はどうすることもできない。心は余りあるが力が足りない。もっと重い物に対しては、大力士でなければならない。業障を背負うことも同じで、自身が業障が重く、重荷を耐えることができないのであれば、他人のために業障を背負うと言うことはできない。業障がどうしてあなたによって背負われることができるのか。普通の人がどんな功徳や能力があって、他人の業障を背負うことができるだろうか。すべて諸大菩薩が衆生の業障を背負っている。
普通の学仏人は、善心善願があり、業障が重い人を助けて、その人の業障を軽減しようと思って、人のために経文を読んだり、念仏をしたり、回向をしたり、諸仏菩薩の加持を祈請し、諸仏菩薩の神力による護佑に頼り、他人の障害の因縁と苦しみを軽減する。しかし、これにも学仏人自身が修行の成果を持ち、諸仏菩薩の暗黙の加持と護佑を感応できる必要がある。もし自身が修行の成果がなければ、諸仏菩薩を感応できず、他人の業障は依然として元の業障のままである。
もし注意深く観察すると、多くの学仏人が三十年間学仏し、人を超える、超度することを求めて三十年間、死ぬまで、業障の関門を突破することができないことがわかる。これは、超える、超度する人が修行の成果がないから、業障を軽減する能力がないからである。修行の成果がない人は、他人を超えることはできず、冤親を度脱する能力がなく、冤親を身の周りに残し、干渉を多くするだけである。だから、他人のために業障を背負うには、大雄大力大慈悲が必要である。例えば、衆生に回向し、衆生を度脱するには、まず自身が功徳と福德を持っていなければならない。功徳が大きく、福德が多ければ、他人が得るものも多くなる。もし自身が何の価値もなければ、何を贈り物として人に与えることができるだろうか。何を他人に回向することができるだろうか。だから、修行こそが不変の真理で、修行がなければ何も語ることはできない。
九、どのようにして懺悔して業障を消すのか
最初に学仏するとき、皆その発願文に従って懺悔と発願をしなければならない。一つは懺悔で、一つは発願で、この二つを多く行い、毎日仏の前で行うことで、悪業を消し、善願、清浄願を起こすことができる。善願に引きつけられて、修行がますます順調になる。発願は重要で、懺悔も重要である。懺悔しなければ、業障が障害となり、非常に苦しむ。毎日懺悔して業を消すと、身心がますます軽安になり、修行がますます順調になる。
朝夕の課本には三皈五戒懺悔文があり、また私が書いた意根懺悔文もある。この二つの懺悔文を照らし合わせて、仏の前で前世に造ったすべての悪業、大小の悪業を懺悔する。以前に造ったことが確定できるかどうかに関係なく、一律に懺悔しなければならない。仏の前で今世に造った業を告白し、二度と造らないと誓う。懺悔と発願は誠実で、心の底から来て、形式にとらわれず、場当たり的でなく、诚心诚意でなければ、業は消えず、心は清浄にならない。心が少し清浄になった後、煩悩の習気を少し変え、そして清浄な大願の引きつけるもとで、修行は自然に正道に沿って進む。
九、懺悔は心性上の煩悩悪業しか消せない
問:私は毎日朝夕に懺悔と発願をしていますが、身口意は以前よりずっと清浄になりました。しかし、個々の場合には、自覚せずにまだ貪業と嗔業を犯してしまいます。このような懺悔は、意根に深く入っていない、不如法で、まだ業を消していないのでしょうか?
答:懺悔した後、必ずしも業障が一度にすべてきれいに消えるわけではありません。残業がまだ残っていることがあり、煩悩障も残ります。なぜなら、一人一人の懺悔が必ずしも徹底的で、適切であるとは限らないからです。また、懺悔で消えるのは一部の性障煩悩業だけで、すべての性障を消すことはあり得ません。さらに、罪障が消せないこともあり、それによって罪報を受けることは避けられないので、時々自覚せずに貪業と嗔業を犯すことがあります。これだけできるのはすでにとても良いことで、理にかなって、法にかなっていますし、多くの業も消しています。
仏世の時、ある居士が四果阿羅漢を誹謗しました。その阿羅漢はすぐに法堂に上がり、鐘を鳴らして大衆を集め、その居士に言いました。「私は阿羅漢果を証得しました。君は早く大衆の前で私に対する誹謗業を懺悔しなさい。そうしないと、地獄の果報を受けます。」その居士はすぐに大衆の前で阿羅漢に向かって懺悔しました。阿羅漢は言いました。「私は君を許します。君の罪業が消えることを願います。」しかし、この居士は命の終わりに地獄に入って報いを受けました。この故事は、懺悔が役に立たない、業を消せないということを意味するのではありません。懺悔は心性上の罪業しか消せないということを意味します。事相上の罪業は既に造作され、事実となってしまっているので、それは消せない。報いを受けることで初めて消えるのです。その居士は懺悔した後、性障はなくなりましたが、罪障はまだ存在していたので、地獄に入って報いを受けました。もし懺悔しなかったら、性業と罪業が重なって、地獄で受ける苦しみはもっと大きく、耐えられないでしょう。だから、私たちは皆、身口意行にできるだけ注意しなければならず、特に三宝に対しては、もっと慎重にして、どんな誹謗業も造らないようにしなければならない。
もし煩悩業障がすべてきれいに消えたら、証果し、仏になるでしょう。実際には、そう簡単に懺悔できれいにすることはできません。煩悩業障は少しずつ軽くなります。軽くなっても、たまに再発することがあります。これはすべて正常な現象です。懺悔が意根に深く入った後でも、どの程度深く入って、どの程度変化したかを見なければならない。確かに程度が足りないのです。もし程度が十分であれば、煩悩はすべて断ち尽くされます。程度が足りなければ、もちろん煩悩業障が残ります。これもすべて正常な現象です。もし君が以前より進歩して、毎日進歩しているなら、これは良い現象です。
十、どのようにして業障を解消するか
学仏して、時には進歩があり、すぐに上がろうとするとき、業障がすぐに前に立ちはだかります。業障というものは目があるようなもので、特に重要な点で君を待ち受け、上昇する交差点で待ち構えています。意志が少しでも強くない人は、引っ掛かります。非常に強くない人は、後退し、甚だしきに至っては元の状態に戻ってしまいます。私は多くの学仏人を見たことがありますが、引っ掛かる人も、後退する人もいます。個々の人は仏を信じなくなります。もし仏を信じなくなるだけであれば、まだ許されるかもしれません。三宝を誹謗し、以前の修行と学習を誹謗することが恐ろしいです。その結果を考えるだけでも、とても恐ろしいです。
無始劫以来、一人一人の衆生が経験してきたことには差異があるので、意根の性体もそれぞれ異なります。牛鼻はありますが、諸仏菩薩は善巧方便で引っ張ります。やわらかい方法でも、厳しい方法でも、勧める方法でも、罰する方法でも、最後には衆生を解脱道に押し上げることができます。その間の過程は確かに曲折しており、道は確かに苦しいです。寒さが骨身にしみるような苦しみを経験して初めて、梅の花の香りが漂うことができます。学仏という道は非常に歩きにくいです。なぜなら、一人一人の業障が重く、無始劫の業が多すぎて、大きすぎるからです。逆水行舟のように、進まなければ後退します。もし仏菩薩と護法神の護持がなければ、私たち一人一人は少しの成果も得ることができません。ただ業障という関門だけで、どうしても通り抜けることができません。業障の力はこれほど大きいので、私たちは皆、身口意に非常に注意しなければならず、悪業を造らないように、自信過剰にならないようにしなければならない。
業障が現れたとき、どう対処するのか。甘んじて受けることは一つの面ですが、積極的に努力して業障を変えることも非常に重要です。業は転化できます。持戒、懺悔、智慧観行を通じて、業障を転化し、軽減することができます。衆生は無始劫以来、数え切れないほどの悪業を造作してきました。ただ受けるだけでは、受けることができないし、受け終わることもできません。ましてや、煩悩を断ち切っていないとき、続けて悪業を造り、新しい業障を形成します。もし地獄の業障が現れたら、どうして受けることができるでしょうか。一生懸命に学仏して数十年、命の終わりに地獄の業が成熟したら、甘んじて地獄で報いを受けますか。塗灰外道は解脱と業障を消すため、自分自身を無限に苦しめます。こうすると業が消え、断ち尽くされ、そして解脱できると思います。仏は言います。無始劫以来の多くの悪業は、苦しむだけで消えることができるでしょうか。全くできません。だから、受動的に受けるだけでは究極の方法ではなく、積極的に智慧を用いて消し、転化する必要があります。
智慧を用いてどのように転化するか。業障は愚痴无明によって造作されたもので、五陰を実在する我と思い、この我のために業障を造りました。今、業障を消すためには、愚痴无明を破り、五陰が无我であることを観照しなければならない。我がなければ、我によって造作された悪業もなく、我見を断つと、業障の三悪道に属する部分が消えます。智慧が大きければ、破る愚痴无明も多く、消す業障も多く、大きくなります。こうすると、无明がますます薄くなり、業障がますます軽微になります。智慧は熱湯のようで、業障は堅氷のようです。熱湯を絶えず注ぎ続ければ、堅氷はいずれ溶けます。最後には、多くの福を修めなければならない。福が大きければ人を圧倒し、福が小さければ圧倒されます。福が大きければ、業障は避けて通り、学仏という道が順調になります。
十一、僧侶がいつも超えや超度を行うのは如法か
いつも超えや超度を行う寺院は皆、非常に混乱しており、出家した人が安心して修行できない。なぜなら、僧侶は一般的に修行の持続が不足し、修行の力が弱く、道の修行がまだ不十分で、衆生を超える力がないからである。超えられるはずの陰界の衆生が全然超えられず、その後、寺院に留まり、トラブルを起こし、出家した人が病気になったり、煩悩の事が多くなったり、互いに矛盾が多くなり、修行する気が失せ、正常な修行ができなくなる。個々の専門的に超えを行う寺院では、超えられないままの陰界の衆生が多すぎるため、寺院が大混乱し、陰界の衆生が皆寺院に留まり、転生できず、ますます集まり、十分な線香の供養もないので、寺院で騒ぎを起こし、最後には寺院が閉鎖されることになる。
主な問題は、これらのことを行うことで、僧侶自身が安心して修行できず、業障にとらわれ、自身の業障も軽くない。修行すること自体が容易ではないのに、また時間と精力を費やして、他人の背負うべきでない業障を背負うことになる。そうなると、どうして修行に必要な心境を持つことができるだろうか。僧侶に対して、自分の冤親債主を超度し、自分のために業障を背負うように要求することは、非常に無理な要求である。たとえ金銭で補償を与えても、その金銭と業障を比較した場合、どれだけの金額であっても、比例しない。生死という大事が重要なのか、それとも少しの金銭を得ることが重要なのか、知恵のある人なら誰でも分かる。だから、居士たちはできるだけ寺院に行って、出家した人に家族の超度をお金を出して祈ることはしないようにする。どれだけの金を出しても少ない。肝心なのは金銭の問題ではなく、これが僧侶の業障を増やし、僧侶の正常な修行を妨げ、生死の苦から出離できなくするからである。仏経に書かれていないこと、仏世に行われていないことは、私た们は無理に行うことはしないようにする。
十二、懺悔による軽安
七十九歳の老人の懺悔の功課:この数日、私は朝五時に起きて観行をしていると、座っているうちに、丹田から強い気流が湧き上がり、私をしっかりと包み、足を縛り、気流は続いて上がり、腰に至り、また頭に至り、呼吸がとても困難になった。私はそこに座って、「私は誰か」という話頭を参究し始めた。すると、突然大声で泣き出し、足を踏み鳴らし、胸を叩いた。私は座席から立ち上がり、仏に向かってお辞儀をし、お辞儀をするほどに泣き続け、心の中で言った。「私は醜くて老いた老婆ではないか。一日中食べて寝る、利己的な者ではないか。種々の惨めなことが私自身で、この臭い皮嚢が本当に嫌いだ。」
続いて、私は仏の前に跪き、懺悔した。「私はただの臭い皮嚢で、私のような人間は地獄に行くだけの価値がある。」そして私は再び座席に戻り、引き続き観行をした。身体がまたしっかりと定まり、知らず知らずのうちに二時間が過ぎた。その時、私は子供に食事を作らなければならないことを思い出し、座を起こそうとしたが、動作が非常に遅く、頭もあまり使えなくなり、機械的にいくつかの動作をし、心に雑念や妄想がなかった。
昨日も座禅をしたときも同じようなことがあった。法師が書いた意根懺悔文を思い出し、私は自分自身に言った。「なぜ懺悔文のどの条にも犯しているのか。」そうして、座禅しながら懺悔を続け、また二時間がすぐに過ぎた。座禅の間、何度も香りがした。座禅を終えるとき、動作が非常に遅かった。今日は座禅を始めると、ずっと快適で、身体も痛くない。心がずっと安定し、まもなく一時間余りが過ぎた。法師に尋ねます。このような修行はよいですか。これは不浄観ですか?
評:この懺悔の初期の効果はとても良い。心が清浄になり、身が軽安になり、禅定が増進する効果が得られた。しかし、懺悔の中で自分が間違っていることを知ったとき、自分自身に地獄や三悪道に行くなどと呪う必要はない。悪い呪いや悪口を使ってはならない。言葉が出ると将来それが実現するからである。善い願いや良い願を立て、改過する心があればいい。悪心や悪行を改めればよく、自分自身をあまり痛恨する必要はない。他の人に対しても同じで、良い祈りを持つべきで、悪い呪いを使わないようにする。
懺悔は宿世の悪業を消すことができる。業障が消えれば、遮障も消え、身心が軽安になり、深い禅定を得ることができ、観行思惟が順調になり、修行が正しい道に沿って進みやすく、進展が速い。座禅中に嗅ぐ香りは、もし自分の身体から出ている場合は、自分自身の心が清浄になり、身体も清浄になったことを示し、香りが出る。時には鼻孔から、時には歯の間から、時には喉から、時には全身から香りが出る。もし香りが外から鼻孔に入る場合は、仏菩薩や護法神が自分を見守っていることを示し、または天人が見学に来ていることを示す。
君の現在の思想と認識から見ると、やはり五蘊を観行して我見を断つことから修行を始めるべきで、あまり早く参禅を始めることはない。先に我見を断ち、その後参禅を始めると、比較的順調に進む。我見を断らなければ、真心自性を証得することはできない。年を取っているので、また多くの清浄な大願を立て、命の終わりに極楽世界に往生できるように保証し、その後、娑婆に戻って衆生を救度する。命の終わりに往生できることは、非常に良い帰る場所である。