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四念処経講記(第二版)(新修正)

作者:释生如更新時間:2025年02月26日

第二章 身念住を観ずる

四念処における第一は身念住を観ずることであり、身の不浄を観ずると称する。第二は受念住を観じ、六識心の諸感受を観ずる。観察の結果、六識心の感受は全て苦であり、生滅無常であるのみならず悉く苦である。第三は心念住を観じ、我々の六識心念の無常性を観ずる。最後に法念住を観じ、一切法の無我性を観ずる。この四念処観を全て観行成就すれば我見を断つことができる。四念処の第一である身念住「身に於いて身を観じて住す」は総じて十部分に分かれる。

第一の身念住観行を修了すれば身見を断つ。身見を断った後は色身を我として認めず、我の所有とせず、これが初果向となり初果に極めて近づく。その後数識心の我見も断ち、識心も我でなく我の所有でないと認め、五受陰が悉く我でないことを了知すれば完全に我見を断つ。我見一断すれば三縛結が直ちに断じられ、以降三悪道業が消滅し未来世永遠に三悪道に堕ちず、人天七返を経て解脱を得る。我見を断った後更に精進修行すれば二果斯陀含に至り、人天一返で解脱を得る。

更に精進修行して初禅定を証得し、貪欲と瞋恚の二結縛を断尽すれば三果阿那含を証得し、天上一回の修行で解脱を得て再び人間界で修行する必要がなくなる。更に継続精進して深細なる我慢と色界・無色界の貪愛を断じ、四果阿羅漢に至れば三界の苦を解脱し無余涅槃に入る。しかし我々が成仏を志すなら無余涅槃に入ることを選ばず、また天道に赴くことを選ばない。天界においては多くの福徳を享受するため福徳消耗が過多となり道業の進展が困難となるためである。我々は再び人中で修行するか、他の仏国土に赴いて修行することを選べば、修証の智慧を急速に高め速やかに成仏できる。

ここでは『観無量寿経』に説かれる往生の品位問題と、どの世界で修行すれば成道が速やかであるかという問題に触れている。我々が明心証果を成就した後、道業の進展に有利な選択を行い、如何に成仏の道を最速で進むか――娑婆世界で修行するのが速いか、他の仏国土で修行するのが速いかを考慮できる。証果と明心を成就すれば随願往生の能力を得、極楽世界や弥勒内院へ往生し、天界に昇り、或いは再び人間界に戻るなど選択肢が大幅に拡大する。これ以前は業力に随って流転し、業力に牽引されるのみで自己の意志による選択が全くできない。

仏経によれば、明心見性を成就した者は命終中陰身の際、十方世界の諸仏国土に随願往生できる。これは明心の功徳と証量を具えるため、中陰身において往生を望む仏国土を念じれば、その仏国土の世尊が迎えに来られ、金剛台の蓮華に乗じて往生することを意味する。蓮華が閉じる必要もなく、色身を蓮華に包む必要もない。もし明心していなければこの優遇条件を得られず、業力に随って六道を流転するのみである。六道中のどの道に流転するかは、過去世の業種子と今世の業行、及び内心の貪瞋痴煩悩の程度によって決まる。

衆生は三縛結を断じていない限り三悪道への転落を免れず、大多数は依然として三悪道へ赴く。その80-90%は餓鬼道に堕ちる。何故これほど多くの者が餓鬼道に赴くのか。衆生は皆貪心と吝嗇心を有し、餓鬼道と相応するため餓鬼道で苦報を受けるからである。貪心は餓鬼報を招き、貪心が重ければ貧窮卑賤の果報を得る。餓鬼道衆生は貧窮かつ卑賤で一物も持たず、貪れば貪るほど福徳を失う。貪りは内に向かう行為であり福徳を流失させ、一元を貪れば福報が百倍・千倍あるいは無量倍減少する。布施は外へ向かう行為であり福徳を増大させる。施した金銭は百倍・千倍あるいは無量倍の福報として返るが、その対象によって異なる。これを「捨得(捨てて得る)」と称し、捨てて初めて得られ、捨てなければ得られない。故に我々が貪りを有する限り福徳を消耗し、無福になれば悪道衆生と相応し悪道で苦を受けることになる。

身念住の第一部において、世尊は我々に四念住の概念と内包を説かれました。第二部では観行の教えが始まりますが、どこから観行を始めるべきか。出息・入息から観行を始めるのです。出息であれ入息であれ、内面において明瞭に覚知し、心を散乱させてはなりません。長い入息であることも知り、長い出息であることも知り、心を散乱させず昏沈にも陥らせません。入息する際の全身の状況を、心で明瞭に知覚しなければならず、出息する際の全身の状況も同様に明瞭に知覚しなければなりません。次に入息する時、身行が完全に止息し静寂に至った際には、自らの心で明瞭に知覚しなければなりません。さらに出息する時、自らの身行が完全に静寂し止息した際にも、心を散乱させず昏沈せず明瞭に知覚しなければなりません。

この定は普通の人なら長期間の修行を要するもので、利根の者なら数日で成就します。ある者は一ヶ月、二ヶ月、あるいは更に長期間を要して自らの定力をこの境地まで高めます。半年から一年を要する者は、平素より心の念が散乱しすぎており、全身を覚知することができず、単一の事象を明瞭に覚知することすら困難で、定力が極めて弱く、心の念を集中統一できない者です。よって仏法を学び修行する進度の速遅は個々人によって異なります。ある者は数時間で成就し、心の念が速やかに静止して全身の内外にわたる状況を明瞭に知覚し、内身と外身の状態を全て把握しますが、大多数の者は長期にわたる不断の訓練を必要とするのです。

身念住の第三部では、歩行坐臥の中において自らの身行の状態を観察する、これが動禅であり、動中の定力を訓練するものです。動中の定力が修まれば、時と場所を選ばず心は寂静となり、時と場所を選ばず心の念は清明となり、心にはただ一つの「知」が存在します。この「知」は一念の清明な了知であり、心の念が濁らず乱れない状態です。心の中のこの「知」は非常に重要で、将来参禅する際にはこの「知」を参究する話頭に置き換え、話頭を一つの念頭とすることができます。もし身念住の観行修行が成就し、心に常時「知」が存在し言語も文字もない状態を作り出せれば、この「知」を以ってそのまま参禅することができます。我々の真実の心である第八識を参究し、話頭「死屍を引きずる者は誰か?」を一つの念頭とし、一つの「知」として、しっかりと心に懸け、脳裏に懸けるのです。

このように懸け続けることで定力が増強され、その後さらに参究を続ければ、念頭は極めて深微なものとなり、もはや内心に話頭を唱える声は存在しません。定がない時に初めて口誦する必要があり、定があれば心で唱える必要はなく、声や文字や形象を現すことなく、ただ一つの「知」が心の奥深くに潜んでいます。やがてこの「知」は疑情に置き換わり、一つの疑団となります。その疑情が内心に深く懸かり続け、一定の時を経れば疑情を打破し、明心して証悟するに至ります。故にこの定の修行方法は、単に小乗の修行に通じるだけでなく大乗の修行にも通じ、真実の仏法は大小乗ともに相通じ、法と法とが相通じるものです。我々は一つの禅定を修得すれば、この禅定を以って別の禅定に入り、別の智慧を開くことができるのです。

禅定は欲界定・色界定・無色界定を含み、欲界定には欲界定の特徴があり、色界定には色界定の状態があり、無色界定には無色界定の相貌があります。我々はある一つの方法で定力を修得すれば、心の念は時と場所を選ばず清浄となり、この定力を以って再び参禅すれば、大小乗の理が貫通します。故に大乗を修する者は小乗の修行法を排斥する必要なく、大小乗は貫通するのです。身念処観というこの法が最終段階まで修まると、心の念を止息させた際に、心の念の中の所謂「我」を排空し否定し、これらが我ではないことを確認し、一つの我も存在せず、色身を我と認めず、内心に身体の観念がなく、心が一物にも住着しない状態になります。しかしながら全てを了知する能力は残り、まだ一つの「知」の心の念が存在し、参禅中のその心の念と同一のものです。

将来参禅する際にこの「知」の心の念を、一つの話頭に換えるか、あるいは禅宗の一つの公案に換えるか、仏法の中で最も肝要な一言に換えて参究すれば、参通することができ、その内包を明らかにできます。定は相通じるものであり、定の中に慧が含蔵されています。その慧とは内心の清明な心の念であり、一切の法に対して心が極めて清明で、清々明々と了知する状態、これが観慧です。観慧が具足すれば道に入ることができ、道を証することができます。これが行住坐臥の中の動禅であり、歩行坐臥の中で清々明々と了知し、内身外身の一切の状態、一切の法相を知ることです。その後内心に身体の観念が現前したら、再びこの観念を排除し空じ、この身が我ではないことを知ります。

心に身体の観念を抱き続けてはならず、他の物の観念も抱いてはなりません。歩行坐臥・内身・外身の状況、どの法が生起しどの法が滅するか、心で全て明瞭に知覚しなければなりません。この程度の定を修めるのは容易ではなく、我々は忍耐強く漸次に修習訓練する必要があります。この方法が成就すれば、他の如何なる定も容易に修得でき、定を修める根本方法を掌握すれば、他の修定法を用いても全て成就でき、しかも極めて速やかに修めることができます。

観身念住の第四の方法は、我々が往来するにせよ何事を行うにせよ、毎朝出かけ夕方戻り、一日に経由した路線や行った事柄全てを正知によって行い、心を散乱させず昏沈もせず、内心が常に清々明々として行った全ての事柄を了知する点にあります。前方を観じ後方を顧みるにせよ、一切の身口意行の造作は全て正知によって行われ、便所に行くことさえ正知によって行われます。内心に清々明々とした了知が存在し、ある知性を備え、修の最終段階には言語文字のない知が現れ、これが未到地定です。この定は比較的深く、その知は更に清明となり、言語文字のない知の状態に到達すれば参禅・話頭参究が可能となります。このような修行方法は心の念を収斂させ外へ放たず、色身の観察に集中させ、雑念のない心で禅定を現前させるものです。

第五の観身念住修法は、色身の不浄を観じることにあります。観究の末に自問します:このように不浄な色身が私なのか?観行が成就し三昧が現前すれば、色身が真実の自己でないことを確認します。この色身は頭から足まで、内から外まで、髪毛・爪歯・皮肉・筋骨、あらゆる固体や液体が極めて穢れて不浄です。これらのものが和合して成る色身が、私なのか?最終的に私でないと確定し、色身が生滅無常であることを明瞭に了知します。私は穢れた存在ではなく、組み合わさって形成されたものでもなく、後天的に形成されたものでもなく、まして生滅するものでもありません。観じ続けることで内心の身体観念が除去され、色身を我とする観念が自己否定され、この時身見が断たれます。内心に色身我がなくなった後も、他の物を再び持つことなく、一空倶空となります。外物の財色名食睡も私のものではなく、これらのものを我が所有と認めず、こうして身我見・我所見が断たれるのです。

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