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四念処経講記(第二版)(新修正)

作者:释生如更新時間:2024年12月02日

第五章   法を観察して住む

二、五取蘊の法を観察して住む

原文:複次。諸比丘。比丘即於五取蘊法觀法而住。然。諸比丘。比丘如何即於五取蘊法觀法而住耶。於此。諸比丘。比丘知如是色。如是色之生起。如是色之滅盡。如是受。如是受之生起。如是受之滅盡。如是想。如是想之生起。如是想之滅盡。如是行。如是行之生起。如是行之滅盡。如是識。如是識之生起。如是識之滅盡。

釈:引き続き話をします。諸比丘よ、比丘は五取蕴(ごしゅううん)法を観行しなければなりません。心は五取蕴法の観行に住ませるべきです。では、諸比丘よ、比丘はどのように五取蕴法を観法しながら住むことができるのでしょうか?それはこうです。諸比丘よ、比丘は色蕴(しきうん)が何であるか、色蕴はどのように生じるのか、またどのように滅尽するのかを知るべきです。受蕴(じゅううん)が何であるか、受蕴はどのように生じるのか、またどのように滅尽するのかを知るべきです。想蕴(そううん)が何であるか、想蕴はどのように生じるのか、ま又どのように滅尽するのかを知るべきです。行蕴(ぎょううん)が何であるか、行蕴はどのように生じるのか、ま又どのように滅尽するのかを知るべきです。识蕴(しきうん)が何であるか、识蕴はどのように生じるのか、ま又どのように滅尽するのかを知るべきです。

これは五蕴(ごうん)の生滅変異の無常性を観察することです。心の中は時々刻々色蕴の状態、生滅変化の状況を了知しなければなりませ。いつでも内心の感受、そしてこれらの感受の生滅変異の無常性を了知しなければなりませ。いつでもの想蕴、そして想蕴の生滅変異の無常性を了知しなければなりませ。いつでもの行蕴、そして行蕴の生滄変異の無常性を了知しなければなりませ。いつでもの识蕴、そして识蕴の生滄変異の無常性を了知しなければなりませ。

原文:如是。或於内法觀法而住。又於外法觀法而住。又於内外法觀法而住。或於法觀生法而住。又於法觀滅法而住。或於法觀生滅法而住。尚又智識所成及憶念所成。皆會有法之思念現前。彼當無所依而住。且不執著世間任何物。諸比丘。比丘如是即於五取蘊法觀法而住。

釈:このように、内の五取蕴法を観法しながら住むこともできます。あるいは外の五取蕴法を観法しながら住むこともできます。または内外の五取蕴法を観法しながら住むこともできます。あるいは五取蕴法において新しく生じる法を観察しながら住むこともできます。あるいは五取蕴法において滅法を観察しながら住むこともできます。あるいは五取蕴法において生滅現象を同時に観察しながら住むこともできます。

このように継続的に観察を続けることにより、識心は智慧を備えることになり、絶えず五取蕴法を思考するようになります。常に五取蕴法を観行することにより、心の中では常に五取蕴法を憶念するようになり、心の中には絶えず五取蕴法に関する心の念が形成されます。この時、これらの心の念を滅びさせ、空にしなければなりませ。五取蕴に依拠して住むべきではないのは、五取蕴は生滅法で、依止することができないからです。心の中で五取蕴法を滅びさせた後、世間のどの物にも執着しないようにし、どの物にも依拠しないようにしなければなりませ。なぜなら、全ての物は無常で生滅するもので、信頼できないからです。諸比丘よ、比丘はこのように五取蕴法を観法しながら住むべきです。

五取蕴を内外に分ける場合、内の色蕴は色身を指します。外の色蕴は色身の外の山河大地などの色法を指し、色声香味触法の六塵境を含みます。内の受蕴は深いレベルの意根の受を指します。外の受は浅いレベルの六識の受を指します。内の想蕴は意根の想を指します。外の想蕴は六識の想を指します。内の行蕴は意根の行を指します。外の行蕴は六識の行を指し、行も思です。内の识蕴は意根の识性を指します。外の识蕴は六識の识性を指します。

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