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四念処経講記(第二版)(新修正)

作者:释生如更新時間:2024年12月02日

五、四聖諦の法を観察して住む

(一)苦諦を観察して住む

原文:複次。諸比丘。比丘即於四聖諦法。觀法而住。然。諸比丘。比丘如何即於四聖諦法觀法而住耶。於此。諸比丘。比丘如實知此是苦。如實知此是苦之集。如實知此是苦之滅。如實知此是到苦滅之道。然。諸比丘。苦諦者何耶。生是苦。老是苦,病是苦。死是苦。憂悲苦惱悶是苦。求不得是苦。約略言之。五取蘊是苦。

釈:引き続き話を進めます。諸比丘よ、比丘は四聖諦の法を観法しながら住むべきです。では、諸比丘よ、比丘はどのように四聖諦の法を観行しながら住むことができるのでしょうか?この問題に関しては、このように解答すべきです。諸比丘よ、比丘は苦が何であるかを如実に了知し、苦の集が何であるかを如実に了知し、苦の滅が何であるかを如実に了知し、苦を滅ずるために修学すべき道が何であるかを如実に了知しなければなりませ。では、諸比丘よ、苦の真実の理は何であるかでしょうか?生まれることは苦であり、老いることは苦であり、病気になることは苦であり、死ぬことは苦であり、憂悲悩閣(うひぼうもん)は皆苦であり、求めても得られないことも苦であり、総じて言えば、五取蘊(ごしゅううん)は皆苦である。

原文:複次。諸比丘。生者何耶。於到處之生類中。有諸衆生之生出産。入胎轉生。諸蘊之顯現。内外諸處之攝受。諸比丘。此名爲生。複次。諸比丘。老者何耶。於到處之生類中。有諸衆生之年老老耄。齒落頭發白。皺紋皮膚。壽命短縮。諸根熟衰。諸比丘。此名爲老。

釈:さらに話を進めます。諸比丘よ、生とは何でしょうか?あらゆる場所の生き物の類の中で、多くの衆生が出生し、出胎し、入胎し、再び出生し、また色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の現れがあり、内六処と外六処の取り入れがあります。これらが生です。再度話を進めます。諸比丘よ、老とは何でしょうか?あらゆる場所の生き物の類の中で、多くの衆生の年齢が大きくなり、老衰し、歯が抜け落ち、髪が白くなり、皮膚にしわができ、寿命がますます短くなり、眼耳鼻舌身の諸根が成熟して衰えます。諸比丘よ、これらを老と言います。

原文:複次。諸比丘。死者何耶。於到處之生類中。有諸衆生之消失散滅。破壞滅亡。消滅死歿。命終諸蘊之破壞。死屍之放棄。諸比丘。此名爲死。複次。諸比丘。憂者何耶。諸比丘。有俱若干不幸。被若干苦法所惱。憂愁感内憂内愴。諸比丘。此名爲憂。複次。諸比丘。悲者何耶。諸比丘。有俱若干不幸。被若干苦法所惱。歎悲歎息悲哀悲歎悲痛。諸比丘。此名爲悲。

釈:引き続き話を進めます。諸比丘よ、死とは何でしょうか?あらゆる場所の生き物の類の中で、多くの衆生が消えて、散逸して、破壊されて、滅亡して、消滅して、寿命が尽きて、死滅し、また命の終わりに五蘊が破壊され、死体が捨てられます。諸比丘よ、これが死です。引き続き話を進めます。諸比丘よ、憂とは何でしょうか?諸比丘よ、三界に法が集まるところにはある程度の不幸があり、いくつかの苦法に悩まされ、憂愁の感じがあり、内心で愁いや悲しみを感じます。諸比丘よ、これが憂です。再度話を進めます。諸比丘よ、悲とは何でしょうか?諸比丘よ、いくつかの不幸なことに遭遇し、いくつかの苦痛に追い詰められ、心の中に嘆き悲しみ、ため息、悲哀、悲嘆、悲痛が生じます。諸比丘よ、これが悲です。

原文:複次。諸比丘。苦者何耶。諸比丘。關於身之苦痛。身之不快。由身觸所生之苦痛。及不快之感受。諸比丘。此名爲苦。複次。諸比丘。惱者何耶。諸比丘。關於心之苦痛。於心不快。由意觸所生之苦痛。及不快之感受。諸比丘。此名爲惱。複次。諸比丘。悶者何耶。諸比丘。有俱若干不幸。被苦法所惱。失望沮喪。氣餒愁悶。諸比丘。此名爲悶。

釈:引き続き話を進めます。諸比丘よ、苦とは何でしょうか?諸比丘よ、苦とは身体に関する苦痛、身体の不愉快な感じ、身体の触によって生じる苦痛及び不愉快な感受です。諸比丘よ、これが苦です。再び話を進めます。諸比丘よ、悩とは何でしょうか?諸比丘よ、悩とは心に関する苦痛、心理的な不愉快、不楽な感じ、意識が法塵に触れることによって生じる苦痛及び不愉快な感受です。諸比丘よ、これが悩です。また話を進めます。諸比丘よ、悶とは何でしょうか?諸比丘よ、いくつかの不幸なことに遭遇し、心がこれらの苦痛なことに追い詰められ、失望、落胆、気をくじかれ、愁悶な感じを持ちます。諸比丘よ、これが悶です。

原文:然。諸比丘。求不得苦者何耶。諸比丘。於生法之衆生。生如是欲求。我等實非於生法之下。我等不願意生來。然。不得此欲求。此爲求不得苦。諸比丘。於老法之衆生。生如是欲求。我等實非於老法之下。我等不願意老來。然。不得此欲求。此爲求不得苦。

釈:それでは、諸比丘よ、何が求めても得られない苦であろうか。諸比丘よ、生きている状態にある衆生にとって、彼らの心の中にこのような欲求が生じるのである。我々は本当に生きることにあってはならない、我々は生まれて生きることを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができないのである。これが求めても得られない苦である。諸比丘よ、老いている状態にある衆生にとって、彼らの心の中にこのような欲求が生じるのである。我々は本当に老いることにあってはならない、我々は老いていくことを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができないのである。これが求めても得られない苦である。

原文:乃至諸比丘。於病法之衆生。生如是欲求。我等實非於病法之下。我等不願意病來。然。不得此欲求。此爲求不得苦。乃至諸比丘。於死法之衆生。生如是欲求。我等實非於死法之下。我等不願意死來。然。不得此欲求。此爲求不得苦。乃至。諸比丘。於憂悲苦惱悶法之衆生。生如是之欲求。我等實非於憂悲惱悶法之下。我等不願意憂悲苦惱悶法之來。然。不得此欲求。此爲求不得苦。

釈:諸比丘よ、病苦にある衆生に至っても、彼らの心の中にこのような欲求が生じるのである。我々は本当に病苦にあることにあってはならない、我々は病気になることを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができないのである。これが求めても得られない苦である。諸比丘よ、死に瀕した状態にある衆生に至っても、彼らの心の中にこのような欲求が生じるのである。我々は本当に死にあることにあってはならない、我々は死ぬことを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができないのである。これが求めても得られない苦である。

諸比丘よ、憂悲苦悶の法にある衆生に至っても、彼らの心の中にこのような欲求が生じるのである。我々は本当に憂悲苦悶にあることにあってはならない、我々はもう憂悲苦悶を持つことを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができないのである。これが求めても得られない苦である。

原文:然。諸比丘。約略而言。五取蘊之苦者何耶。如次之色取蘊。受取蘊。想取蘊。行取蘊。識取蘊。諸比丘。約略而言。此等名爲五取蘊之苦。諸比丘。此亦名爲苦聖諦。

釈:要するに、諸比丘よ、簡略に言えば、五取蘊の苦とは何であろうか。衆生が順次に執着する色蘊、執着する受蘊、執着する想蘊、執着する行蘊、執着する識蘊である。簡略に言えば、執着があれば苦であり、取り着きがあれば苦である。執着できなくて、取り着きできなくて、なおさら苦である。これが五取蘊の苦である。諸比丘よ、これもまた苦の聖諦と呼ばれるのである。

二、苦集諦を観て住む。

原文:然。諸比丘。苦集聖諦者何耶。此愛能引導再生。有俱喜貪。到處爲追求滿足。即欲愛有愛無有愛。複次。諸比丘。彼愛於何處生起。於何處止住耶。凡於世間有可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:それでは、諸比丘よ、苦集の聖諦とはどういう意味であろうか。現世のあらゆる貪愛は再びの出生を引き起こすことができる。この三界に再び出生するとき、何に触れても喜楽と貪愛を伴い、自らの貪愛を満たすためにあちこちを追いかける。つまり、欲界の法を貪愛し、色界の法を貪愛し、無色界の法を貪愛し、追求するすべては自らの貪愛心理を満たすためである。今世の煩悶は業種を集成し、後世の苦果を引き起こす。これが苦集の真理である。

改めて言えば、諸比丘よ、内心の貪愛はどこで生じ、またどこに住み、どこで止まるのであろうか。世間にある愛楽欣喜の事物が存在する限り、この愛楽欣喜心は執持する事物のところで生じ、ここに住み、ここで止まる。どの法を喜楽するかによって、心はその法に止まり、心はその法に縛られ、解脱できない。

原文:何者於世間爲可愛可喜耶。眼於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。耳於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至鼻於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至舌於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。身於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至意於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:世間で愛らしく喜ばしい法とは何であろうか。眼根は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は眼根のところで生じ、眼根のところに止まって動かなくなる。耳根は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は耳根のところで生じ、耳根のところに止まって動かなくなる。鼻根は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は鼻根のところで生じ、鼻根のところに止まって動かなくなる。舌根は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は舌根のところで生じ、舌根のところに止まって動かなくなる。身根は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は身根のところで生じ、身根のところに止まって動かなくなる。さらに意根も世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は意根のところで生じ、意根のところに止まって動かなくなる。

これは六根について述べているのである。衆生は六根を好むのである。なぜなら六根は六塵に触れることができ、自らのために利用できるからである。したがって心は六根に住み、絶えず六根を利用する。六根を利用するのは誰であろうか。意根が六根を好み利用するのであり、意根自身も好み利用し、自らが絶えず作意触受想思を行い、絶えず六塵の境界を取着するようにするのである。

原文:色於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至聲於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至香於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至味於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至觸於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至法於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:色塵は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は色塵のところで生じ、色塵のところに止まって動かなくなる。声塵は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は声塵のところで生じ、声塵のところに止まって動かなくなる。香塵は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は香塵のところで生じ、香塵のところに止まって動かなくなる。味塵は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は味塵のところで生じ、味塵のところに止まって動かなくなる。触塵は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は触塵のところで生じ、触塵のところに止まって動かなくなる。法塵は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は法塵のところで生じ、法塵のところに止まって動かなくなる。

これは六塵が愛らしく喜ばしい法であることを述べているのである。なぜなら六塵は衆生のために利用できるからであり、すべての衆生は六塵を貪愛する。六塵の法を喜ばしく思うのは誰であろうか。意根が六塵の法を喜ばしく思い、貪愛し、絶えず六塵のところで執着するのである。

原文:眼識於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至耳識於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至鼻識於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至舌識於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至身識於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至意識於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:眼識は世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は眼識のところで生じ、眼識のところに止まって動かなくなる。さらに耳識も世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は耳識のところで生じ、耳識のところに止まって動かなくなる。さらに鼻識も世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は鼻識のところで生じ、鼻識のところに止まって動かなくなる。さらに舌識も世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は舌識のところで生じ、舌識のところに止まって動かなくなる。さらに身識も世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は身識のところで生じ、身識のところに止まって動かなくなる。さらに意識も世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は意識のところで生じ、意識のところに止まって動かなくなる。

これは六識が愛らしく喜ばしい法であることを述べているのである。なぜなら六識は六塵を識別し、六塵を取着し、六塵を使用し、六塵を享受することができるからであり、だから衆生は六識を好むのである。六識に貪着する。六識を喜ばしく思うのは誰であろうか。意根が六識を喜ばしく思い、六識を執着し、六識を通じて六塵に絶えず作意触受想思を行わせ、最終的には六識を通じて六塵を執着するのである。六識は意根が六塵を執着するための道具であり、この道具がなければ、意根は何もできないのである。だから意根は六識が滅びることを望まないのであり、だから修定は非常に容易ではないのである。

原文:眼觸於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至耳觸於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至鼻觸於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至舌觸於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至身觸於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至意觸於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:眼触れて色に触れることは世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は眼触れのところで生じ、眼触れのところに止まって動かなくなる。さらに耳触れて声に触れることも世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は耳触れのところで生じ、耳触れのところに止まって動かなくなる。さらに鼻触れて香に触れることも世間で愛らしく喜ばしいの法であり、貪愛は鼻触れのところで生じ、鼻触れのところに止まって動かなくなる。さらに舌触れて味に触れることも世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は舌触れのところで生じ、舌触れのところに止まって動かなくなる。さらに身触れて触に触れることも世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は身触れのところで生じ、身触れのところに止まって動かなくなる。さらに意触れて法に触れることも世間で愛らしく喜ばしい法であり、貪愛は意触れのところで生じ、意触れのところに止まって動かなくなる。

これは十二処が愛らしく喜ばしい法であることを述べているのである。六根が六塵に触れて、その後六識が生じ、六塵の境界を享受することができるので、だから衆生は十二処を貪愛する。もちろん究極的には意根の貪愛と喜ばしさであり、絶えず塵の境界を執着するのである。

原文:眼觸所生之受於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至耳觸所生之受於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至鼻觸所生之受於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至舌觸所生之受於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至身觸所生之受於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至意觸所生之受於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:眼触れた後に生じる受けは世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は眼触れによって生じる受けのところで生じ、眼触れによって生じる受けの蘊のところで止まって動かなくなる。さらに耳触れた後に生じる受けも世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は耳触れによって生じる受けのところで生じ、耳触れによって生じる受けのところで止まって動かなくなる。さらに鼻触れによって生じる受けも世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は鼻触れによって生じる受けの蘊のところで生じ、鼻触れによって生じる受けの蘊のところで止まって動かなくなる。

さらに舌触れによって生じる受けの蘊も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は舌触れによって生じる受けの蘊のところで生じ、舌触れによって生じる受けの蘊のところで止まって動かなくなる。さらに身触れによって生じる受けの蘊も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は身触れによって生じる受けの蘊のところで生じ、身触れによって生じる受けの蘊のところで止まって動かなくなる。さらに意触れによって生じる受けの蘊も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は意触れによって生じる受けのところで生じ、意触れによって生じる受けのところで止まって動かなくなる。

これは六識の受けについて述べているのである。六根が六塵に触れた後、六識の感受が生じる。衆生は皆、受けの感覚や受けの蘊を非常に貪愛し、心は受けの蘊に住み、受けの蘊のために悪業を造ることさえ惜しまない。もちろん、受けの蘊や受けの感覚に貪着する主なものは意根である。意根の貪愛があるからこそ、六識が絶えず触れて受けるのである。

原文:色想於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至聲想於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至香想於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至味想於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至觸想於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至法想於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:色塵に対する取着は世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は取着した色塵のところで生じ、取着した色塵のところで止まって動かなくなる。さらに声塵に対する取着も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は取着した声塵のところで生じ、取着した声塚のところで止まって動かなくなる。さらに香塵に対する取着も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は取着した香塵のところで生じ、取着した香塵のところで止まって動かなくなる。さらに味塵に対する取着も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は取着した味塵のところで生じ、取着した味塵のところで止まって動かなくなる。さらに触塵に対する取着も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は取着した触塵のところで生じ、取着した触塵のところで止まって動かなくなる。さらに法塵に対する取着も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は取着した法塵のところで生じ、取着した法塵のところで止まって動かなくなる。

六根が六塵に触れて受蘊が生じた後、想蘊が生じる。意根が相を取ると、六識は六塵の境界相を執着する。衆生は皆、自分の想蘊を貪愛する。想蘊は六識が塵境を受け取った後、意根が塵境に対する取相行為である。色蘊の相を取着し、受蘊の相を取着し、想蘊の相を取着し、行蘊の相を取着し、識蘊の相を取着し、さらに六塵の境界の相を取着する。

原文:色思於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至聲思於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至香思於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至味思於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至觸思於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至法思於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:色法に対する造作は世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は色法に対する造作のところで生じ、色法に対する造作のところで止まって動かなくなる。さらに声法に対する造作も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は声法に対する造作のところで生じ、声法に対する造作のところで止まって動かなくなる。さらに香法に対する造作も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は香法に対する造作のところで生じ、香法に対する造作のところで止まって動かなくなる。さらに味法に対する造作も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は味法に対する造作のところで生じ、味法に対する造作のところで止まって動かなくなる。さらに触法に対する造作も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は触法に対する造作のところで生じ、触法に対する造作のところで止まって動かなくなる。さらに法塵に対する造作も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は法塵に対する造作のところで生じ、法塵に対する造作のところで止まって動かなくなる。

六根が六塵に触れ、意根が思擇して六塵を執着した後、行蘊が生じ、六識は身口意行を造作することになる。衆生の意根は皆、行蘊を好むのであり、絶えず身口意行を造作することを好む。色声香味触法に対する思いは、六塵の境界に対する執着と造作行為である。これらの行為造作は意根が喜ばしく思うもので、意根が主張して決める結果であり、これ以後の業果はこの業行によって生じることになる。

原文:色愛於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至聲愛於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至香愛於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至味愛於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至觸愛於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至法愛於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:色塵に対する愛好は世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は色塵に対する愛好のところで生じ、色塵に対する愛好のところで止まって動かなくなる。さらに声塵に対する愛好も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は声塵に対する愛好のところで生じ、声塵に対する愛好のところで止まって動かなくなる。さらに香塵に対する愛好も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は香塖に対する愛好のところで生じ、香塵に対する愛好のところで止まって動かなくなる。さらに味塵に対する愛好も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は味塵に対する愛好のところで生じ、味塵に対する愛好のところで止まって動かなくなる。さらに触塵に対する愛好も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は触塵に対する愛好のところで生じ、触塵に対する愛好のところで止まって動かなくなる。さらに法塵に対する愛好も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は法塵に対する愛好のところで生じ、法塵に対する愛好のところで止まって動かなくなる。

六塵の境界に対する貪愛という心行も、衆生が愛して宝くするもので、捨てることを望まないので、だから衆生は皆、六塵に対する貪愛を喜ばしく思うのである。

原文:色尋於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至聲尋於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至香尋於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至味尋於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至觸尋於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至法尋於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。

釈:色法を追尋することは世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は色法を追尋するところで生じ、色法を追尋するところで止まって動かなくなる。さらに声法を追尋することも世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は声法を追尋するところで生じ、声法を追尋するところで止まって動かなくなる。さらに香法を追尋することも世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は香法を追尋するところで生じ、香法を追尋するところで止まって動かなくなる。さらに味法を追尋することも世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は味法を追尋するところで生じ、味法を追尋するところで止まって動かなくなる。追尋する触法も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は触法を追尋するところで生じ、触法を追尋するところで止まって動かなくなる。追尋する法塵も世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は法塵を追尋するところで生じ、法塵を追尋するところで止まって動かなくなる。

衆生は色声香味触法の境界を好むため、自らの貪愛心理を満たすために、絶えず六塵を追い求め、六塵の境界を探し求め、自らの追尋心を捨てることや放棄することを望まないので、だから衆生は生生世世、絶えず六塵の境界を追い求め、探し求めているのである。

原文:色伺於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至聲伺於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至香伺於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至味伺於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至觸伺於世間爲可愛可喜也。此愛即於此處生起。於此處止住。乃至法伺於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處生起。於此處止住。諸比丘。此名爲苦集聖諦。

釈:色法の出現を心が動じないで待つことは、世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は色法を待つところで生じ、色法を待つところで止まって動かなくなる。声法の出現を心が動じないで待つことは、世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は声法を待つところで生じ、声法を待つところで止まって動かなくなる。香法の出現を心が動じないで待つことは、世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は香法を待つところで生じ、香法を待つところで止まって動かなくなる。味法の出現を心が動じないで待つこと是、世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は味法を待つところで生じ、味法を待つところで止まって動かなくなる。触法の出現を心が動じないで待つことは、世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は触法を待つところで生じ、触法を待つところで止まって動かなくなる。法塵の出現を心が動じないで待つことは、世間で愛らしく喜ばしいもので、貪愛は法塵を待つところで生じ、法塖の出現を待つところで止まって動かなくなる。

衆生の六塵の境界に対する貪愛と追求は、最初は比較的に粗い探し求める行為である。ある程度探し求めて、もうすぐ手に入れられると感じるとき、待つことに始めて、細心の待ちと伺察を通じて六塵の境界の出現を待つようになる。衆生はこれらの貪愛の行為によって、生死の業種を集めることになり、後世に生死の苦報を受けることになる。

三、苦滅諦を観て住む

原文:複次。諸比丘。苦滅聖諦者何耶。對彼愛之無餘離欲。滅盡捨離。棄捨解脫。無染是。複次。諸比丘。彼愛於何處捨。於何處止滅耶。於世間有可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:続けて述べます。諸比丘よ、苦滅の聖諦とは何であろうか。先ほど述べたあれらの法に対する貪愛が全く欲望から離れ、貪愛が滅尽し、捨離され、以前の貪愛が今は捨てられ、そこから完全に解脱され、心が染まらなくなった時、苦滅の聖諦が証得されるのである。これは四果の阿羅漢が煩悶を滅尽させた境界で、生死の苦から抜け出す能力を持ち、もう受生することはなくなる。また、諸比丘よ、これらの愛集はどこで捨離でき、どこでこれらの貪愛を止めることができるのであろうか。世間に愛楽でき喜ばしいところがあると、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう貪愛と喜楽がなくなる。

苦滅諦を証得した時、自然に貪愛を捨てることになり、以前に好み貪愛した法は、今ではもう好まなくて貪愛もしない。そうなると、貪愛は好きな法のところで止息し滅去し、五蘊の世間法も好まなくなる。

原文:何者於世間爲可愛可喜耶。眼於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。耳於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至鼻於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至舌於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至身於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至意於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:世間でどの法が貪愛し喜ばしいものであるのか。眼根は世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに耳根も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに鼻根も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに舌根も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに身根も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに意根も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

原文:色於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至聲於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至香於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至味於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至觸於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至法於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:色法は世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに声法も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに香法も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに味法も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに触法も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに法塵も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

原文:眼識於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至耳識於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至鼻識於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至舌識於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至身識於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至意識於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:眼識は世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに耳識も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに鼻識も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに舌識も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに身識も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに意識も世間で貪愛し喜ばしいも的であり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

原文:眼觸於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至耳觸於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至鼻觸於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至舌觸於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至身觸於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至意觸於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:眼触れは世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに耳触れも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに鼻触れも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに舌触れも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに身触れも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに意触れも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

原文:眼觸所生之受於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至耳觸所生之受於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至鼻觸所生之受於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至舌觸所生之受於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至身觸所生之受於世間爲可愛可喜。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至意觸所生之受於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:眼触れによって生じる受けは世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに耳触れによって生じる受けも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに鼻触れによって生じる受けも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、こ品で止滅し、もう生じない。さらに舌触れによって生じる受けも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに身触れによって生じる受けも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに意触れによって生じる受けも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

原文:色想於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至聲想於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至香想於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至味想於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至觸想於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至法想於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:色法に対する取着は世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。声法に対する取着も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滸し、もう生じない。香法に対する取着も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。味法に対する取着も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。触法に対する取着も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。法塵に対する取着も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

原文:色思於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至聲思於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至香思於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至味思於世間爲可愛可喜者此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至觸思於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至法思於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:色法に対する造作は世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに声法に対する造作も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに香法に対する造作も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに味法に対する造作も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに触法に対する造作も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに法塵に対する造作も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

六根が六塵に触れると、その後識蘊、受蘊、想蘊、行蘊が生じる。この時、多くの場合五蘊に対しても貪愛心理が生じる。ですから、貪愛を滅除するには、六根が六塵に触れる時における色声香味触法に関する受想行識の貪愛も滅除しなければならない。例えば、色塵において生じる受蘊、想蘊、行蘊の貪愛は、修行の後に断尽させなければ、解脱を得ることはできない。声塵、香塖、味塵、触塵、法塖における受想行蘊の貪愛も同様に断尽させなければ、解脱を得ることはできない。

原文:色愛於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至聲愛於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至香愛於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至味愛於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至觸愛於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至法愛於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:色法に対する愛は世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに声法に対する愛も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに香法に対する愛も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに味法に対する愛も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに触法に対する愛も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに法塵に対する愛も世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

原文:色尋於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至聲尋於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至香尋於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至味尋於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至觸尋於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至法尋於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。

釈:色法を追尋することは世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに声法を追尋することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに香法を追尋することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに味法を追尋することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに触法を追尋することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに法塵を追尋することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。

原文:色伺於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至聲伺於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至香伺於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至味伺於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至觸伺於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。乃至法伺於世間爲可愛可喜者。此愛即於此處捨棄。於此處止滅。諸比丘。此名爲苦滅聖諦。

釈:色法を静かに伺察することは世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、これ以後はもう生じない。さらに声法を静かに伺察することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに香法を静かに伺察することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに味法を静かに伺察することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。さらに法塵を静かに伺察することも世間で貪愛し喜ばしいものであり、貪愛はここで捨てられ、ここで止滅し、もう生じない。諸比丘よ、これが苦滅の聖諦である。

四、苦滅道諦を観て住む。

原文:複次。諸比丘。苦滅道聖諦者何耶。八支聖道。即正見。正思。正語。正業。正命。正精進。正念。正定也。

然。諸比丘。正見者何耶。諸比丘。如實知苦。知苦之集。知苦之滅。知至苦滅之道。諸比丘。此名爲正見。複次。諸比丘。正思者何耶。無欲之思。無恚之思。無害之思。諸比丘。此名爲正思。複次。諸比丘。正語者何耶。遠離兩舌遠離惡口。遠離妄語。遠離綺語。諸比丘。此等名爲正語。複次。諸比丘。正業者何耶。遠離殺生。遠離不與取。遠離邪婬。諸比丘。此等名爲正業。

釈:続けて述べます。諸比丘よ、苦滅道諦とは何であろうか。八正道は苦を滅ぼすことができる修行の道である。八正道とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。

では、諸比丘よ、正見とは何であろうか。苦が何であるかを如実に知り、苦の集が何であるかを如実に知り、苦の滅が何であるかを如実に知り、苦を滅ぼす修行の方法が何であるかを如実に知ること、これが正見である。では、諸比丘よ、正思とは何であろうか。どのような貪欲の思惟もなく、どのような嗔恚の思惟もなく、どのような悩害の思惟もなく、これが正思惟である。では、諸比丘よ、正語とは何であろうか。両舌を遠ざけ、悪口を遠ざけ、妄語を遠ざけ、綺語を遠ざける、このような言葉が正語である。では、諸比丘よ、正業とは何であろうか。殺生を遠ざけ、不与取を遠ざけ、邪淫を遠ざける、このような業行が正業である。

原文:複次。諸比丘。正命者何耶。諸比丘。於此。聖弟子捨邪命。依正命而營活命。諸比丘。此等名爲正命。複次。諸比丘。正精進者何耶。諸比丘。於此。比丘起堅決心賣力精進。心勤注意。令不生未生之惡不善法。起堅決心賣力精進。心勤注意。遠離已生之惡不善法。起堅決心賣力精進。心勤注意。令生未生之善法。起堅決心賣力精勤。心勤注意。令住已生之善法。令不惑亂。使之增長充滿。修習成就。諸比丘此等名爲正精進。

釈:では、諸比丘よ、正命とは何であろうか。諸比丘よ、世間で生存を維持するに当たり、聖弟子は不正な、他人の利益を損なう生計を立てる方法を捨て、正当で合理合法で、他人の利益を損なわない生計を立てる方法に依拠して生きること、これが正命である。

では、諸比丘よ、正精進とは何であろうか。比丘は修行の過程で、勇猛な心を起こし、非常に力を尽くして、内心で精勤に自心を照観し、拘束し、まだ心の中に生じていない悪法がもう生じないようにし、勇猛精進して力を尽くして一心を専一させ、内心で精勤に自心を照管し、拘束し、既に生じた悪い不善法を遠ざける。

そして勇猛な精進心を起こし、内心で精勤に自心を照管し、拘束し、まだ生じていない善法を生じさせ、勇猛精進心を起こし、内心で精勤に自心を照観し、拘束し、心を既に生じた善法に住ませ、善法が惑乱されないようにし、次第にそれを成長させ、円満させ、修行して成就させる。諸比丘よ、これが正精進である。

原文:複次。諸比丘。正念者何耶。諸比丘。於此。比丘於身觀身而住。精勤正智正念。而捨離世間之欲惱。於受觀受而住。精勤正智正念。而捨離世間之欲惱。乃至於心觀心而住。精勤正智正念而捨離世間之欲惱。乃至於法觀法而住。精勤正智正念。而捨離世間之欲惱。諸比丘。此等名爲正念。

釈:では、諸比丘よ、正念とは何であろうか。諸比丘よ、比丘が正念を修習するとき、身を観て身に住むように修習する際に、精進勤勉で、正智と正念を備え、世間の貪欲と悩害を捨離する。比丘が受を観て受に住むように修習する際に、精進勤勉で、正智と正念を備え、世間の貪欲と悩害を捨離する。比丘が心を観て心に住むように修習する際に、精進勤勉で、正智と正念を備え、世間の貪欲と悩害を捨離する。比丘が法を観て法に住むように修習する際に、精進勤勉で、正智と正念を備え、世間の貪欲と悩害を捨離する。諸比丘よ、これらの貪欲と悩害のない心の念りこそ、正念と呼ばれるのである。

原文:複次。諸比丘。正定者何耶。諸比丘。於此。比丘去欲。離不善法。有尋有伺。由離生喜樂。達初禪而住。滅尋伺。内心安靜。心成專一。無尋無伺。由定生喜樂。達第二禪而住。

釈:続けて述べます。諸比丘よ、正定とは何であろうか。諸比丘よ、比丘が正定を修習するとき、貪欲を取り除き、不善法を遠ざけ、内心には粗い探し求めもあれば細い待ち望みもあり、欲界法を離れることによって喜心と楽心が生じ、色界の初禅定に達し、そこに止まる。探し求める心と待ち望みの心を取り除き、内心が静かで淡泊で、一心を専一させ、探し求める心も待ち望みの心もなく、このような禅定を備えることによって喜心と楽心が生じ、こうして第二禅に到達し、そこに止まる。

原文:更捨離喜而住。正念正智。以身感受樂。唯諸聖者說。捨此而正念樂住。達第三禪而住。其次捨樂離苦。以前所感受之喜憂皆滅故。而不苦不樂。成爲捨念清淨。達第四禪而住。諸比丘。此名爲正定。諸比丘。此等名爲苦滅道聖諦。

釈:さらに進んで喜心を捨てて住み、内心に正智と正念を備え、身体で楽触を感じる。諸聖人だけが言うように、喜心を捨て、正念を楽受に住ませると、第三禅に達し、そこに止まる。その後、楽受を捨て、苦受を離れ、以前の内心で感じた喜楽と憂愁がすべて滅除され、苦も楽もない受けだけが残り、念を捨て心地が清浄な行者となり、四禅に達し、そこに止まる。諸比丘よ、これらの禅定、初禅から四禅まで、これを正定と呼ぶ。初禅より前の定は、すべて正定ではない。諸比丘よ、これらを苦滅道諦と名付ける。

原文:如是。於内法觀法而住。於外法觀法而住。又於内外法。觀法而住。或於法觀生法而住。於法觀滅法而住;又於法觀生滅法而住。尚又智識所成及憶念所成。皆會有法之思念現前。彼當無所依而住。且不執著世間任何物。諸比丘。比丘如是。於四聖諦觀法而住。

釈:このように修行した後、或いは四聖諦法の内法を観て住むか、或いは四聖諦法の外法を観て住むか、または四聖諦法の内外法を同時に観て住む。そしてこれらの法の中で新たに生じる法を観察し、心を新たに生じる法に住ませるように観察し、次にこれらの法の中で滅去する法を観察し、心を滅法を観察することに住ませ、同時にこれらの法の生法と滅法を観察してその中に住む。

最終的には、観行の禅定と智慧が現れ、心は観行する法を忘れないで常に思い出し、これらの四聖諦法を常に思い出している。この時、あなたたちはこれらの念を捨て、心をこれらの法に依拠せず、何もない空の状態に住み、心に依拠するものがなく、また世間のどの事物にも執着しないように住む。これも捨覚支である。各観行の後には必ず心中の思いや念を捨て、捨念に住み、最終的には捨念も除き、これが究極である。諸比丘よ、比丘はこのように四聖諦法に対して観法を修習して住むべきである。

原文:諸比丘。實不管任何人。七年間如是修此四念處者。得二果中之一果。即於現法得究竟智。或有餘者。期待不還來。諸比丘。當建立七年間之念。諸比丘。不管任何人。於六年間……乃至……五年間……乃至……四年間……乃至……三年間……乃至……二年間……乃至……一年間。如果修此四念處者。得二果中之一果。即於現法得究竟智。或有餘者。期待不還來。諸比丘。當建立一年間之念。

釈:諸比丘よ、確かに誰であれ、七年間、このように四念処を修習すれば、必ず二つの果のうちの一つの果を得ることになり、現世で解脱の究極の智慧を証得し、無余涅槃に向かうことができ、あるいは有余涅槃を証得し、もう人間界に来たくないと望むことができる。つまり、三果または四果のうち必ず一つの果を証得することになる。諸比丘よ、あなたたちは七年間で四念処の観を修得する用意をしなければならない。七年間、心の中には常に四念処の観があり、こうすれば必ず三果または四果のうちの一つの果を成就することになる。

諸比丘よ、確かに誰であれ、それぞれ六年間、あるいは五年間、あるいは四年間、あるいは三年間、あるいは二年間、あるいは一年間、このように四念処を修習すれば、二つの果のうちの一つの果を得ることになり、現世で解脱の究極の智慧を証得し、無余涅槃に向かうことができ、あるいは有余涅槃を証得し、もう人間界に来たくないと望むことができる。つまり、三果または四果のうち必ず一つの果を証得することになる。諸比丘よ、あなたたちは六年、五年、四年、三年、二年、一年の時間で四念処の観を修得する用意をしなければならない。これらの時間の中で、心の中には常に四念処の観があり、こうすれば必ず三果または四果のうちの一つの果を成就することになる。諸比丘よ、一年の中で、念念に四念処の観があるように修習しなければならない。

原文:任何人七個月間。如是修此四念處者。得二果中之一果。即於現法得究竟智。或有餘者。期待不還來。諸比丘。當建立七個月間之念。實不管任何人。於六個月……乃至……五個月……乃至……四個月……乃至……三個月……乃至……二個月……乃至……一個月……乃至……半個月。如是修此四念處者。得二果中之一果。即於現法得究竟智。或有餘者。期待不還來。諸比丘。當建立半月間之念。

釈:確かに誰であれ、七ヶ月間、このように精進して四念処の観を修習すれば、必ず二つの果のうちの一つの果を得ることになり、一つは無余涅槃で、現世で解脱の究極の智慧を証得し、もう一つは有余涅槃で、未来世にもう人間界に来て受生することはないと望むことができる。諸比丘よ、あなたたちは七ヶ月間で四念処を修習する用意をしなければならない。心の中には常に四念処があり、こうすれば涅槃を証得することになる。実際には誰であれ、六ヶ月間、五ヶ月間、四ヶ月間、三ヶ月間、二ヶ月間、一ヶ月間、半月間で、このように精進して四念処を修習すれば、必ず二つの果のうちの一つの果を得ることになり、即ち現前で無余涅槃または有余涅槃を証得することになる。諸比丘よ、あなたたちは半月間で四念処を修習する用意をしなければならない。心の中には常に四念処の観があり、こうすれば涅槃を証得することになる。

原文:諸比丘。實不管任何人。於七日間如是修此四念處者。得二果中之一果。即於現法得究竟智。或有餘者。期待不還來。諸比丘。此爲衆生之清淨。爲度憂。爲滅苦惱。爲得真理。爲証涅槃。唯一趣向道。即四念處。爲此而說此經。

世尊如是說已。彼隨喜之諸比丘。歡喜世尊之所說。

釈:諸比丘よ、確かに誰であれ、七日間で、このように精進して四念処の観を修習すれば、必ず二つの果のうちの一つの果を得ることになり、現世で究極の涅槃解脱の智慧を証得するか、あるいは有余涅槃を証得し、もうこの人間界に来て苦しむことはないと望むことができる。諸比丘よ、この四念処の観の修習方法は、特に衆生が清浄な解脱を得るために説かれたもので、衆生の憂悲苦悩を度脱させるため、衆生の生死苦悩を滅除するため、衆生が真理を証得するため、衆生が涅槃を得るための唯一の修行の道向きである四念処であるから、この四念処経を説くのである。

世尊がこの経を説き終えた後、この経を随喜讚嘆するすべての諸比丘たちは、世尊の言うことをとても喜びました。

なぜ仏は七年から七日までの様々な時間において、精進して四念処の観を修習すれば果を証得できると言うのであろうか。これは善根が深く、煩悩が軽微で、遮障が少なく、前世で仏を学ぶ時の劫が長い人たちを指しています。彼らは仏陀の要求通りに精進して修行できれば、数日から数年で果を証得できるのである。一方、無始劫以来仏を学ぶ時間が短く、煩悩が深く、遮障が重い人たちは、七年以上の精進した修行をして初めて果を証得できる。おそらく多くの人は百年でも果を証得できないでしょう。ある人は呼吸を観ることさえうまくできず、どうしても心が静まらないので、果を証得することなど言うまでもありません。

しかし、確かに仏が言う通り、誰であれ、精進して四念処の観を修習し、心の中に常に四念処があり、心の中で常に観行でき、無始劫以来の五陰世間に対する攀縁の習気を変え、努力して煩悩と業障を降伏することができれば、果を証得することは難しくない。難しいのは業障の関門を越えられないこと、自分が決心を下さないで修行に励まないこと、散乱の習気を降伏できないことです。本当に勇猛精進でき、仏経に書かれている通りに修行できれば、果を証得することは保障されています。

この四念処の観の修行方法は非常に殊勝です。皆さん、小乗の修行を嫌がらないでください。実はこれは修行の近道です。仏が言う近道こそが本当の近道で、戒定慧が備えられ、実修実証で、口先の工夫ではなく、思いつきや考え込みではなく、考えてみたり、考えこみたりして果を証得できるようなものではないのです。仏が教えてくれた修行方法から、本当の実修と実証が何であるかを体得し、実修の過程でどのような代價を払う必要があるかを理解しましょう。ある人が想像するように、理解して明白になれば、何の代價も払わなくても、何の戒も守らなくても、何の定も修らなくても、意識的な理解だけの乾慧で果を証得できるようなことではないのです。私たちは仏陀の智慧を深く信じ、仏陀の教えに従うことで、自身の修行に大きな利益をもたらすことができます。

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