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仏法雑談(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年03月02日

第一章 極楽世界篇

一、仏説観無量寿経三輩九品往生において、世尊は観経で衆生に示された。極楽世界往生には上中下の三輩九品がある。上輩往生は大乗を修学し、大菩提の道を歩み、明心見性を願い広く無量の衆生を利する発心ある者。中輩往生は小乗の発心で、ただ個人の生死の苦から解脱を求める者。下輩往生は大悪業を造りながら、臨終に善根が顕現し極楽往生を決する者である。

上品上生は極楽世界に生まれ、蓮華の中に住まず直ちに阿弥陀仏に謁し、仏法を聞く。この者は娑婆世界ですでに明心見性し、無始の無明を断じ我見を除いたため、蓮華宮殿で大乗を熏修する必要がない。仏に謁する時、阿弥陀仏の説く甚深大乗の法を理解し、その場で無生法忍を証得して如来の家に入り、地上の菩薩となり広大甚深の智慧を具え、十方世界に分身して随意に諸仏を供養し、縁に随い十方世界で衆生を度する。

上品中生の者は明心見性していないが、大乗方広の経典を読誦する。極楽世界に到着後、蓮華の中に一宿(娑婆世界の半大劫の時間)住み、七日後に蓮華から出て仏に謁し法を聞き、不退転の菩薩として悟り、一小劫を経て初地の菩薩となり如来の家に入る。極楽世界の一日は娑婆世界の一大劫(1680万年に80を乗じた時間)に相当する。

上品下生は蓮華中に一日一宿(娑婆世界の一大劫)住み、七日後に蓮華から出て仏に謁すが仏像が明瞭に見えず、さらに二十一日を経て法を聞き明心し、三小劫を経て初地の菩薩となる。

中品往生は概ね小乗根性の者で、大乗菩提心を発せず大乗経典を読誦しない。中品上生は極楽で直ちに仏に謁し、法を聞いて三明六通の大阿羅漢(舎利弗・目犍連と同等)となる。中品中生は蓮華中に七日住み、出て初果を証し半劫を経て四果阿羅漢となる。中品下生は蓮華中に二十一日住み、出て初果を証し一小劫を経て四果阿羅漢となり、仏力加持で無余涅槃に入らず大乗仏法を修する。

下品往生は全て大悪業を造った者で、極楽世界の蓮華中に住む時間が極めて長い。

二、世尊は阿弥陀経で、衆生が極楽世界に往生した後、蓮華の中で苦・空・無常・無我の法、苦集滅道の四聖諦法を聞き、花鳥樹木も同時に苦・空・無常・無我を演暢すると説かれた。極楽世界でもなぜ四聖諦法を学ぶ必要があるのか? 娑婆世界の釈迦仏が説いた四聖諦と内容は同じか? もちろん同じである。仏仏の道は同じく、法法は不二であるからだ。四聖諦法は仏法の基礎中の基礎であり入門の法で、すべての学仏者は自我を降伏させ我見我執を断つために修証しなければならない。

極楽世界の蓮華中で苦諦を熏習する際、衆生に五陰自身の苦を感受させるのは容易ではない。極楽世界はすべてが楽であり、あまりに享楽的であるため五陰の苦を体得しにくい。娑婆世界では苦楽半ばするにもかかわらず衆生はまだ苦を体得できず、生死輪廻から離脱する心を起こせない。まして極楽世界で苦諦や苦空無常無我の法を熏習する場合、苦を感じにくく、離脱心を起こしにくい。そのため蓮華中に非常に長い時間住み、徐々に熏習し、暖相が現れ煩悩性障が幾分降伏し、もはや悪業を造らなくなって初めて蓮華から出て、仏や菩薩あるいは化仏化菩薩の説法を聞き、その後で悟りと証果を得るのである。

極楽世界の一日は娑婆世界の一大劫に相当する。中品中生の者は七日間住むが、蓮華の外に出られず自由に諸所を巡り仏や菩薩に会うことができない。なぜ自由に行動できないのか? 娑婆世界の念仏者がまだ性障煩悩を降伏させていないからである。もし極楽世界で随意に行動すれば、たちまち悪業を造り、極楽世界を娑婆世界同様にしてしまう危険がある。よって煩悩を降伏させていない者は自由に活動できず、蓮華宮殿で四聖諦を熏習し、煩悩が降伏して初めて十方世界に出て諸仏を供養できるのである。

煩悩の降伏には極楽世界での七日から二十一日、さらには十二大劫を要する。極楽世界の一日が過ぎれば、娑婆世界はすでに成住壊空の一周期を終える。蓮華を出た後、阿弥陀仏あるいは仏の化身の説法を聞いて初めて小乗の初果から四果を証する。では我々が娑婆世界で四聖諦を学び、精進すれば数年で証果を得、煩悩降伏も速やかに成し遂げられる。もし念仏のみで一切の法を学ばず極楽世界で学ぶ場合、どれほどの時間を要するか? 娑婆で菩薩の六波羅蜜を修し三十年修めて条件を満たせば明心見性し、極楽往生すれば地上の大菩薩となり、極楽を離れず娑婆に還るのである。

諸世界における仏法修学には利と弊がある。楽の世界は劫が長く、苦の世界は劫が短い。娑婆では煩悩を降伏しなければ、油断すれば業を造り三悪道に堕ちる。しかし正しい仏法を修学すれば理を明らかにするのが速く、理を明らかにすれば煩悩降伏が容易となり、煩悩が降伏すれば自由自在となる。因果を信受することが重要で、刻一刻の身口意の行いは第八識に蓄積され、因果の法則が将来実現する。因果を理解し定力を得れば煩悩降伏の修行は速やかに進む。特に明心見性の法を修学すれば因を識り果に達し、もはや悪行を造らなくなる。故に我々は仏法を精進して学び、明心見性すれば十方世界に随意往生できるのである!

三、極楽世界への往生は小乗の初果を証するより難しい場合がある。往生には条件があり、深い信・願・行の三資糧を具足し、福徳が備わり、因縁が整い、三福浄業が成就し、臨終時に心が散乱せず倒錯しないことが必要である。これらを満たすことは実際容易ではない。末法の衆生は福薄く定浅く、煩悩習気と業の汚染が重く、心識が散乱している。現代社会は五欲が熾盛で、衆生の意根が世俗法への攀縁に強く縛られ、いかに念仏しても心は染着から離れられない。平時の念仏すら散乱した心で行うのに、まして臨終時に四大が分解する活亀の甲羅剥がれのような苦痛の中ではなおさらである。仮に予知时至の者がいても、阿弥陀仏が迎えに来る直前に突然一念の娑婆への執着が生じれば、心は娑婆に縛られ極楽往生の機会を失う。

例えばある予知时至の女性居士(五十歳過ぎ)に、仏が某日の正午十二時に迎えに来ると告げた。彼女はこれを知り、寺院で往生して衆生に信心を示そうと僧侶に伝えた。往生当日、多数の居士が見守る中、人々が念仏で送るなか彼女は「表法」に気を取られ雑念が生じ、一心の念仏を失った。結果十二時を過ぎても仏は現れず、長時間念仏を続けても迎えが来ないため、荷物をまとめ自宅に戻り娑婆で修行を続けることになった。これは虚構ではない実話である。

臨終時に一心不乱で世間事を放下することは、三果を証して貪愛を離れていない者には困難である。平時にただ念仏し五陰の虚妄を知らず万法の虚妄を悟らず煩悩を降伏せず、貪愛が熾盛で放下できない事柄が多い者は、臨終時に娑婆の縁を捨て往生を求めることがさらに不可能となる。実際、多くの念仏者が高齢になるほど家族・親族・財物への執着を強め、重病中でも「往生を求めよ」と勧めると「まだ修行が足りない」「用事が済んでから」などと口実を設ける例が多い。このような状態で臨終を迎え、心が娑婆に満ちている者がどうして極楽世界に往生できようか?

一方で娑婆世界で阿含経を学び四聖諦を修め我見を断ち小乗の初果となることは比較的容易である。小乗の阿羅漢果を証するには多くの福徳を必要とせず、未到地定あるいはそれより浅い定力で足り、五戒を守り貪愛を断たずとも、五陰への厭離心を起こし五陰十八界の虚妄・無常無我性を観行すればよい。数年、長くても二十年で初果を証し、極楽往生すれば中品上生となり蓮華宮殿に包まれず直ちに仏に謁し、三明六通の四果大阿羅漢(舎利弗・目健連と同等)となる。その後仏の加持で涅槃に入らず大乗を修学し、十方世界を随意に遊行して諸仏を供養し、諸仏に従い仏法を学ぶ。

我々が仏法を学び修行する際には、仏在世時に何を説かれ具体的に如何なる修行を求めたかを確認し、一個人の見解や一つの経典に偏らず総合的に仏の真意を把握すべきである。世尊が残された三蔵十二部の経典は、娑婆世界の一万二千年にわたる衆生の根基に適応し、努力によって修め得るものである。自らへの信心と三宝への信心を持ち、戒定慧の三無漏学を修行し福徳資糧を積み、四弘誓願に従い精進して誓願に背かず、無量の善法を広く行い自利利他に努めるべきである。修行の殊勝なる功徳と清浄なる大願をもって高品位に極楽往生し、極楽を離れず娑婆に還入し衆生を広く度し、速やかに共に仏道を成就するのである。

四、末法の時期に観無量寿経に基づく観行を修すれば、その成就は速やかで確実である。極楽世界の宝蔵図に関する比較的詳細な観想の導きがあれば、我々は第一観から第十六観まで順に観想できる。第三観を成就すれば極楽世界への往生が必ず保証され、予知时至よりも確実で、かつ禅定は永遠に失わず仏力の加持も永続する。第三観成就時には禅定が極めて良く、三悪道の業は消滅し業障による三悪道堕ちもなくなり、禅定も退失しないため必ず往生する。

第七観に至れば必ず明心を証悟し、仏力加持により解悟ではなく証悟のみが可能となり、極楽世界ではその果報が殊勝無比となる。自力で修めた禅定は業力と無明により縁に遇えば退失するが、仏力加持の禅定は永遠に退失しない。第三観以降はこのようになる。

五、仏国の浄土あるいは極楽世界の生活と仕事の様式はどのようなものか

極楽世界に類似した浄土に日常生活や仕事が存在するならば、それは娑婆世界の在家者の世間的国土と同様であり、もはや浄土ではない。衆生には必ず貪瞋痴の煩悩が生じ、出家者と在家者の二大部分に分かれることになり、娑婆世界と差異がなくなる。

清浄な仏国土では一切が変化によって存在し、労働を必要とせず生活や仕事も不要であるため、人心は清浄無垢で私欲なく男女の区別も家庭も存在せず、無比の清浄さがある。故に出家在家の区別がなく、全てが修行者である。娑婆世界のような男女の区別や家庭の煩わしさ、労働生活の必要性が存在する場合にのみ出家在家の区別が生じる。このため仏は娑婆世界において出家僧を主体とし、大衆を導いて仏法を修行させ、仏教は出家僧によって維持され、仏法は出家僧によって弘通されるよう制定された。仏が涅槃に入られる際、在家の大菩薩たちが仏法蔵を継承し代わって弘法することを求めたが、仏はこれを許さず出家僧団に仏法の弘通と三蔵十二部の護持を命じられた。

清浄な仏国土及び天界では衆生に男女の区別がなく家庭も存在しないため、全てが出家修行者であり改めて出家する必要がない。家庭が存在しない以上、出家の意味もない。浄土の衆生及び諸大菩薩から等覚菩薩に至るまで全て家庭を持たず、現じる相も男女を分たない。故に彼らは出家する必要がなく出家相を現じず、全てが出家僧でありかつ菩薩僧である。そのため彼らは頭を剃る必要もなく、僧衣を着用せず、出家戒を受持する必要もない。

六、平時の心が降伏せず貪念が絶えず瞋念が続く者が、臨終に一切を捨て去り一片の染着もなく清浄無垢に極楽世界へ往生することは可能か?

率直に申し上げる:極楽世界への往生は我見を断つよりも難しい。臨終の一念が娑婆に留まり、一片の未練、一片の忍びなさ、一片の瞋りがあれば、一生涯の修行は単に善根を植えるのみで極楽往生は叶わず、娑婆世界で生死流転を続けることになる。人間としての流転さえ困難である。非想非非想天の天人でさえ心が清浄であっても臨終に悪業の縁が熟せば地獄に堕ちる。まして欲界の人間は悪縁が多く、臨終は業縁・業力に支配され平時の主観的願望では決まらない。予知时至の者ですら衆生のため表法のために娑婆に留まる。ましてや他の場合、冤親債主が様々な方法で絡みつき善悪の縁が現れる中、誰が脱出できるか?

極楽往生の困難さを説くと不満を抱く者もいる。現代人が如何に念仏し、如何なる心で念仏し、如何なる願力を持ち、如何なる目的で極楽を求めるかを見れば、現在の念仏者が命終に極楽へ行けるか理解できる。浄土聖賢録を開き古人の念仏と比較すれば、現代人の往生可能性が自ずと明らかになる。極楽を求める者の根器が劣るというなかれ。参禅で明心開悟を求める者ですらどのような根器か。五戒を守ることさえ困難で素食さえ叶わぬ現状では、他のことは論じる余地もない。

全て阿弥陀仏の接引に頼れば事は極めて簡単に思える。一仏が全ての衆生を度尽くし十方諸仏が不要となる。そんな都合の良いことがあるか? 一句の念仏で極楽へ行き成仏を待ち、命終に片手で阿弥陀仏を引き寄せ片手で娑婆の冤親債主を引き連れて成仏するなど不可能である。

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