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仏法雑談(第一部)

作者:释生如更新時間:2024年11月09日

第三章 阿罗汉篇

一、衆生界は増減せず、阿罗汉が涅槃に入っても断滅しない

仏は、阿罗汉は煩悩の現行を断つだけで、習気は断たないと言う。習気は初地の菩薩から断ち始め、七地満心までに断ち尽くされる。八地の菩薩はもう煩悩の習気がないが、塵沙無明がまだ断ち尽くされておらず、断ち尽くすと仏となる。大迦葉は倶解脱の大阿罗汉で、音楽を聞くとまだ踊る。これは習気で、煩悩の現行ではない。難陀比丘は大阿罗汉で、法を説くとき、目でまず女性を見、その後男性を見る。これは習気で、煩悩の現行ではない。また、ある阿罗汉は恒河の女神を「小俾」と呼んだ。これは慢習で、我慢の現行ではない。これらの習気は阿罗汉たちがまだ断ち除く能力がないが、それでも涅槃に入ることができるが、仏にはなれない。

彼らは無始無明と塵沙無明を破らないので、法界実相を証得しておらず、つまり愚痴がまだあり、法界の理を知らないことがまだ多い。世尊は慈悲深く、彼らが涅槃に入る前に、わざわざ彼らの心に大乗の種子を植える。この種子があると、縁が熟すと、種子が発芽し、阿頼耶識から六根が生じ、いくつかの識心が生まれ、五蘊十八界がそろう。生まれた後、大乗の種子の作用で、彼らは明心見性を求め、悟りを開いて実相を証得する。だから阿罗汉は仏と同じではなく、仏世尊よりはるかに劣る。一つの法を知らなければ仏ではない。仏の名は一切種智で、阿罗汉は一切智で、「種」という字がないのは、阿頼耶識の種子の機能と作用をまだ知らないことを意味し、仏道を成就するにはまだずっと長い時間がかかる。涅槃に入らず、大乗道に回心すれば、もう少し早くなる。

涅槃は五蘊十八界の一切法を滅尽するが、仏はなぜ彼らに種子を植えるのか。この種子が七つの識心に植えられると、七つの識心はすべて滅びるので、種子を植える意味があるのか。当然、涅槃の中には滅びないものがあり、仏はその苦心によってこうする。もちろん、阿罗汉の第八識は滅びない。種子をそこに植えると、いつか芽を出して実を結び、阿罗汉は涅槃から出て、色身を持って修行を続ける。

仏は、衆生界は増減しないと言う。もし阿罗汉が涅槃した後、何もなくなり、第八識心もなくなれば、この衆生は永遠に消えてしまい、衆生界は減少する。そうすると、一人が涅槃に入ると、法界は一人の衆生が少なくなり、無数の人が涅槃に入ると、法界は無数の人が少なくなる。もし皆が阿罗汉法を学んで涅槃に入れば、法界の衆生は存在しなくなり、世界は空無になる。そうなることはあり得るのか。これは仏の言葉に逆らう。法界は永遠に増減しない。衆生の数は減少しないし、増加しない。阿罗汉が涅槃に入っても、何もないわけではなく、断滅法ではない。

仏の声聞弟子たちが仏に随って学ぶとき、皆、まず法住を知り、その後涅槃を証得する。一つの法が常住不滅であることを知り、そして涅槃は五蘊十八界の自分自身を滅ぼすことを知り、すべて滅ぼしても断滅空ではないので、四果の罗汉は自分自身を滅ぼすことを恐れず、敢えて自分自身を滅ぼす。これには一定の道理がある。誰も死んで一切が終わり、何も残らないことを望まない。衆生は皆、法界から永遠に消えることを望まない。

二、三明六通の倶解脱大阿罗汉。三明:漏尽明、天眼明、宿命明。漏尽明は、貪嗔痴慢疑悪見の煩悩の現行が全部断ち尽くされ、見惑と思惑がなくなること。天眼明は、天眼通を発起し、天上地下の大千世界を観察できること。宿命明は、自他の前後各八万大劫の事を知ること。六通:神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通。外道は前五通しか得られず、漏尽通は得られない。倶解脱は慧解脱と定解脱を兼ね備える。慧解脱は、禅定が初禅定に達し、解脱生死の智慧があり、智慧によって三界を出離する。定解脱は、四禅八定と神通があり、解脱智がなく、寿命が尽きると禅定によって三界を出離し、解脱する。倶解脱は慧解脱と定解脱の二つの功徳を持つ、三明六通の大阿罗汉である。

三、阿罗汉の修行の結果は、我見を断ち、我執を断ち、阿罗汉果を証する。修行四聖諦法により、五陰十八界の虚妄を観行し、五陰十八界が確かに我ではないことを証得し、五陰が我であるという誤解を断ち、初果を証する。貪嗔痴が非常に薄くなると二果となり、初禅定を修出し、貪愛と嗔恚を断ち、三果となる。我慢を断ち、色界及び無色界に対する貪愛を断ち、五陰の執着を断ち尽くすと、慧解脱の阿罗汉となる。

菩薩たちの修行の結果は、明心見性し、真心自性を証得する。それにより、一方で五陰十八界の虚妄を証得し、一方で第八識が五陰身中での働きを知り、智慧が開かれ、根本無分別智を得る。悟りを開いたばかりの果位は一般的に住位菩薩で、その後、如幻観、陽炎観、如夢観を証得し、十住位、十行位、十回向位となり、更に一分の無生法忍慧を証得すると、初地に入り、如来家に入り、聖人となる。それ以前は賢人である。もし前世に何世も悟ったことがあれば、今世に再び悟ったとき、必ずしも第七住位ではなく、もしかするともっと高い位になる。だから、悟るとき、各人の悟りの深さは異なり、悟りが深ければ深いほど、果位は高い。

明心開悟し、大乘菩薩になりたければ、菩薩六度を修行する。六度は一度ずつ修行してもよいし、一斉に修行してもよい。各時期に修行の重点は異なるはずで、最も基礎的な部分と比較的弱い部分を重点的に修行すべきである。もし布施と持戒が比較的弱いなら、この二つを重点的に修行し、後ろの部分も同時に修行すべきである。もし定力が弱いなら、禅定を練習し、定力を強化すべきである。持戒に関しては、五戒と菩薩戒をできるだけ受持する。まず帰依して五戒を受け、守りきったら、菩薩戒を受ける。最後の般若度に関しては、般若の薰修は修行の全過程に貫通すべきである。

四、仏になりたければ、出離だけを考えてはならない。そうすると、将来阿罗汉のように三界を離れ、仏になれないし、衆生を救うこともできない。決心を固め、自分自身にすべてを捨てるように命令することは、阿罗汉が自利だけを知る思想である。すべてを捨てると、五蘊が世間に残って修行を続けることができず、仏道を成就することもできない。仏になりたければ、少しの出離心で十分である。もし強い出離心が生じると、それは小乗の道を行き、将来必ず涅槃に入り、すべての法を滅ぼし、何も要らなくなり、仏になれない。世界も要らない、思想も要らないというのは、五蘊の世間がなく、修行の道具と環境がないことを意味する。自分自身のこの心と外物をすべて捨てることは、修道の道具を捨てることで、仏になれない。

五、仏教の果位は、証得した智慧の境界によって区分される。なぜなら、智慧によって解脱し、智慧によって仏になるからである。例えば、小乗の四聖諦法を修行し、我見を断ち、人無我の智慧を得ると初果となり、解脱の一切智の智慧を得ると四果罗汉となる。中乗の縁覚は十二因縁法を修行し、同じく人無我の智慧を証得するが、この無我の智慧は阿罗汉よりも高い。縁覚辟支佛は因縁法を修行し、衆生の生老病死の根源と由来を思惟推測できる。根源は無明で、由来は第八識である。この智慧は四聖諦法を修行する罗汉よりもはるかに高く、独覚佛は仏と法が世に住んでいない状況でも、独りで自覚できるので、智慧は更に深い。

彼らは皆、解脱を得て、生死を出離するが、智慧の境界には大きな差がある。だから、中乗辟支佛の果位は小乗阿罗汉の果位よりも高い。また、もっと高いのが大乘菩薩の果位である。大乘菩薩が明心すると、人无我智を証得するだけでなく、縁覚と同じように衆生の由来が第八識であることを知り、第八識という自性清浄涅槃を証得する。この智慧は更に深く、声聞縁覚がとても追いつけない。

大乘菩薩は、声聞縁覚と同じように人无我を証得するだけでなく、法无我も証得し、声聞縁覚と同じように煩悩を断ちるだけでなく、煩悩の習気も断ちる。同じように解脱を得ているが、智慧の境界は比べ物にならない。大乘菩薩は、声聞縁覚と同じように分段生死を断ち、有余涅槃と無余涅槃を得るだけでなく、変易生死も断ち、最終的に無生死の大涅槃 - 仏地の無住处涅槃に到達する。つまり、菩薩は四種の涅槃を得ることができるが、声聞縁覚は二種の涅槃しか得られない。菩薩の智慧は深く広く果てしがないので、大菩提果を得る。声聞縁覚の智慧は有限で、中菩提果と小菩提果を得る。智慧はすべての力の源泉である。

六、阿罗汉が涅槃した後、世俗の法は一つも残らない。意根が滅びると、万法を連れ去り、存在しなくなる。残る第八識は、何の相もなく、仏眼でも見えない。第八識如来藏以外のものは、不牢固で、不久住で、いずれは滅びる。私たちがそれに執着する必要はなく、縁に任せて日々を過ごすのが良い。

七、四果阿罗汉が世俗界に戻ると、四果から三果に退転する。再び出家して世俗から離れると、再び四果阿罗汉となる。四果阿罗汉が退転できるので、三果ももちろん退転できる。禅定も消えるし、心行も退転する。二果も初果に戻ることができる。四果阿罗汉は執着を断ちても、まだ戻ることがあり、執着が生じる。ましてや三果ではなおさらである。

仏経には具体的な事例が証拠としてある。その果位を証得していなければ、そのことを体験できない。低い地位にいる者は、高い地位を理解できず、評価できない。事実の真相を把握するには、自ら体験するしかない。今の多くの人が、凡夫の段階にいながら、仏地の境界について論争し、赤面して争うが、これはすべて机上の空論で、意味がない。

八、供養の意味は広い。奉持することは供養であり、与えることは供養であり、教えに従って行動することは供養であり、尊重することは供養であり、信受することは供養であり、礼拝することは供養であり、読誦することは供養であり、憶念することは供養であり、讃嘆することは供養である。

阿罗汉は煩悩と我執を断ち尽くし、その心は欲界、色界、無色界を超越し、世間第一であるから、世間の人天大众に供養される価値がある。菩薩は煩悩を断ち、惑を留めて衆生を潤す、自利利他、自己を捨てて衆生のために尽くすから、更に人天大众に供養される価値がある。すべての衆生は、供養する能力があり、供養の意味を理解している限り、仏菩薩と阿罗汉を供養すべきである。犬でも仏菩薩と阿罗汉を供養できる。ライオンやトラも供養できる。仏菩薩阿罗汉の警備員や従者となり、尊重して礼拝し、教えに従うことはすべて供養であり、無量の福を得る。細菌が仏菩薩の食べ物を発酵させることも一種の供養であるが、細菌は無知で無心であるから、得る福は非常に少ない。鬼神も三宝を供養し、三宝の畑に福を植え、三宝の加持力に乗って悪道から脱却し、解脱果を得ることができる。

九、境界に対して貪がないとき、その人は三果で、既に貪と嗔の煩悩の現行を断ち除いている。境界に対して執着がないとき、その人は四果阿罗汉で、意根の我執と三界に対する貪愛を断ち除いている。三果以前では、心がどんなに清浄でも、煩悩を抑えるだけで、煩悩を断つわけではない。煩悩は心の中に隠れており、あまり現れないが、重大なことが起こると、必ず隠せなくなり、煩悩を現行させる。自分自身の煩悩を本当に全面的に検出できる人は少ないので、多くの場合、自分自身に煩悩がないと思ったり、自分自身が二果であると思うが、実際は二果からはずれている。

十、阿罗汉は三界世間の生死業種を滅除し、三界に留まることを望まない。命が終わるとき、五陰身を滅ぼすだけでなく、意根の思心所も続けることを決定しない。如来藏は意根の識种子を生じさせない。そうすると、意根が滅び、如来藏だけが残り、無余涅槃の状況となる。

もし阿罗汉が涅槃する前に大乘仏法を薰修し、仏陀が説いた大乘経を聞いたとすると、一回耳に入れば永遠に道種となり、大乘法の種子が植えられ、如来藏に存在する。阿罗汉の如来藏は異熟识と呼ばれ、異熟识の中の大乘種子はいずれ成熟し、根を下ろして芽を出す。無余涅槃の中で、異熟识が大乘種子の縁が熟したことを了知すると、異熟识は縁に応じて意根の識种子を生じさせ、意根が生まれる。そうすると、意根は色身を依拠として欲する。そこで、異熟识は中陰身を生じさせる。中陰身の中で、意根はまた本当の色身を依拠したいと思う。そこで、業種と縁に応じて胎に入り、三界に生まれる。成長した後、大乘法の縁が熟すと、大乘法の修行に身を投じ、生生世世菩薩として修行し、最後には仏道を成就する。

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