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仏法雑談(第一部)

作者:释生如更新時間:2024年11月09日

第十四章 仏法雑談篇

一、私たちの視野は限られており、地球を見ることができない。地球が見えなくても、私たち自身が地球の上に立って、地球で暮らし、地球の支えと養育によって生きていることは知っている。この知は現量の直接的な認識なのか、理上の認識なのか。間違いなく理上の認識で、この理を明かすことで、私たちが地球の上にいると判断できる。仏が説いた多くの道理も同じで、現下では証得が難しいが、累世の善根によって、選択法眼を修めると、理にかなった思惟判断を通じて、仏法が正しく、それに依拠すると解脱でき、仏道を成就できることがわかる。

例えば、阿羅漢たちはまだ涅槃に入っていないが、学法して思惟することで、我執を断ち、三界の貪愛を断尽すると解脱できることを知り、この方法で涅槃に入ることができると心の中で確信する。まだ入っていなくても、涅槃に入る時になって初めてこの修行方法が涅槃に入れることがわかるわけではない。これが仏が説いた理に基づいて思惟判断し、正しい結論を得ることである。多くのことは、私たち自身が経験しなくても、有無や正誤がわかる。智慧的な認識があれば、多くの道理が明らかになる。智慧がなければ、自身が経験しても、その理由がわからない。諸道友に忠告する。自分自身が知らない事理に対して、安易に「違う」「正しくない」「ない」「誤り」と言わないで欲しい。常に自分自身の智慧がどの程度に達しているのかを考え、正しい思惟推理判断ができるかどうかを考えること。あなたが得る結論は必ずしも正しくない。特に仏が説いた法に対して、誤った判断をすると、誹謗に当たり、仏と法を誹謗すると、結果は非常に深刻である。

二、法を説くには、衆生の根機に合わせるだけでなく、衆生の根機を超越し、衆生の根機を引き立て、向上させる必要がある。なぜなら、衆生の根機は千差万別で、浅いレベルの法だけを説くことはできず、深い法や更に深い法も説くべきである。説しても、必ずしも目の前の衆生のために説くわけではなく、後世の衆生、大根器者のためにも説く。根器が不足している者は、聞いてもそれで終わり、理解できなければ疑問を抱いても、安易に決定的な判断を下すべきではない。

私が法を説くとき、まず下地を作り、三六九等の衆生すべてを配慮し、今世と後世も配慮する。更に主に仏教全体の発展を考慮する。だから、各々の衆生の具体的な状況を完全に配慮することはできず、もちろん一部の人や多くの人がそれに応じないことは正常な現象で、仏が在世の時でも、説いた法がすべての衆生の根機に合致するわけではない。すべてのことは仏が自ら安排している。釈迦仏は娑婆世界の仏法に全体的な安排をしており、背後で督導していることは私たちが知らないが、安住すればよく、暫くは自分自身に応じる法を吸収し、深い法は一時的に置いておく。

世尊は娑婆世界で成道したばかりの時、大心菩薩衆生に華厳経を説いた。無量の諸天大众及び人間の弟子、特に声聞弟子は、耳が聞こえず、口がきけないように感じたが、世尊は知っており、華厳経を説く必要があった。娑婆世界全体の仏法の下地を作り、成仏の道を明確にし、弟子たちが仏法修行の次第を明確にし、心中で分かるようにするためである。華厳経を説いた後、世尊は初めて弟子たちに最も浅い仏法を教え、大衆を導いて四阿含経を修行させ、我見を断ちて初果を証することから始めた。

三、自分自身に目盛りがないか、または定規が短すぎると、他の人や物を測ることができるか

世間法において審判官になるには、審判する内容に精通し、知識が必要である。例えば、大学教授の教えるレベルを評価するには、自分自身の学識がその大学教授以上、または少なくとも同等でなければならない。大学生の論文のレベルを評価するには、大学教師でなければならない。仏法の修証において、人が悟ったかどうか、見性したかどうかを判断するには、自分自身がまず明心見性した人でなければならない。その道を歩いて、その道に精通して初めて、他の人が歩む道が正しいかどうかを知り、他の人がどこまで進んでいるかを知ることができる。

仏法に対する判断における最低要件は、選択法眼を持つことで、最善は主な仏法に対してあまり疑問がないこと、更に最善はその法を証得して初めて、比較的正確な判断を下すことができる。この程度まで修める人は非常に少ない。他人が証果したかどうかを判断するには、まず自分自身が証果しなければならない。初果を証することで疑念を断ち、自分自身が証果したかどうか、師が証果したかどうか、法が衆生に我見と我執を断つことができるかどうかに対する疑念を持たない。そうでなければ、他人を判断できず、自分自身に目盛りがないとき、他の物を測ることはできない。

四、いつまで修めると、分別をしなくなるのか

衆生の七つの識の存在は、分別の作用をするためで、分別しないには、識心を滅ぼすときには分別できなくなる。入定した後、分別は軽微になり、知性があり、知る対象と結果がある限り、分別は完了する。一般人が言う分別しないとは、善悪、自分や他人、男性や女性に対して、分別しないで同じように扱うことで、平等に扱うことである。平等に扱うことも分別で、そうでなければ平等に扱うことができない。心の中で皆が平等であると感じるからこそ、平等に扱うことができる。有覚有視は、正に分別で、平等に扱うことは分別の結果であり、過程でもある。

仏の平等性智は、すべての衆生を平等に扱い、善悪を分けないことで、縁が成熟すると、教え、救度する。仏陀は「私は善人だけを救度し、悪人は救度しない」とは言わない。善人だけを憐れみ、悪人を憐れまないことはない。むしろ逆で、仏陀は悪人を更に憐れみるかもしれない。彼らが更に多くの苦しみを受けることを恐れるから、更に心を砕いて悪人を救度し、彼らが救度される縁がいつ成熟するかを観察する。これは仏陀の大悲心と平等性智による。仏陀は私たちと違って、善人や良い人だけを心配し、同情し、憐れみ、悪人や悪い人を憎むことはない。仏陀にはこの分別心がなく、仏陀は衆生をすべて平等に扱う。しかも、多くの場合、衆生の佛性だけを見る。衆生の佛性は平等であるから、仏陀は衆生を一律に平等に見る。

五、仏が在世の時、仏法について尋ねられた際、仏が答えなかった理由

一部の質問に対して、衆生の智慧が不足しているとき、世尊がどんなに説明しても、衆生が理解できない場合、世尊は説かない。説いても無意味で、むしろ衆生の迷いを増やすだけだからである。例えば、外道が世尊に質問したとき、世尊が彼の根機を観察し、この質問の答えを理解できないと判断した場合、「汝の問は無記である」と言って、答えない。また、弟子が世間の最初の興起、最初の仏がどのように修行して成仏したのか、最後の仏が救度する衆生がないとき、どうやって成仏するのかなどの質問をしたとき、世尊はこれらの質問に対しても答えない。

仏法は広大で無限で、世尊は娑婆世界でほんの少しだけ説いた。その他のものはこの世界の衆生が修行し、学ぶのに適していない。衆生の受け入れる能力は本当に限られており、理解できないとき、誹謗することになる。だから、無量無数の仏法があるが、世尊が説したがらないのではなく、衆生自身の業障が重すぎ、福德が薄く、智慧が浅いからである。私たちは自らの業障をよく懺悔し、暫く理解できない道理に対しては、コメントや断言をしないようにし、誹謗の業行を造らないようにし、未来世に悪果報を受けないようにする。

六、甘露が有毒なカップに注がれると、すぐに毒に変わる。器が清浄でないからである。仏法の甘露が衆生の心の中に入ると、衆生が邪解を生じる。智が清浄でないからである。邪見の種子が衆生の八識田中にあり、縁に遭遇するとすぐに邪解を生じ、甘露法相が衆生の識心によって歪められ、変化した内相分はもう甘露ではなく、識心が歪められた内相分に触れると、邪見が生じる。邪見の種子が再び八識田中に植えられ、将来はやはり邪見の花を咲かせ、邪見の果を結ぶ。哀れなことではないか!意根の染汚性を取り除くことが、仏を学ぶ人の最も急がなければならないことである。そのためには、意識心が常に正しい法理を正しく思惟し、常に意根を薫染し、いつか意根の邪見を変えると、修行が正しい道に入ることができる。

七、心が境に随って変化し、外の境界が内心に影響を与え、波紋を起こす。その原因の一つは定力が不足しており、もう一つは智慧が不足しており、直面する境界を正しく、理にかなって認識し、分析できないからである。人は最も好きなことは、自らの心に順応することで、この心が善であろうと悪であろうと、自分に順応すると嬉しく、逆らうと苦しいと感じる。一人の人が内心の感覚を重視しすぎると、人や事物に対する判断が正しくないことが多い。同じ人が、時には良いと感じ、時には悪いと感じる。これは完全に自心の感覚から出発しており、客観的で公正な角度からではない。これは私たちの心識の虚妄性、境界の虚妄性を示しており、それらは常に変化し続ける状態にあり、永遠に変わらないものではない。それは不真実な法、信頼できない法で、私たちはこれらのものに完全に依存することはできず、それらが消滅したとき、どうしようもない感じになる。

八、四大不調にはどのような症状があるか

四大不調で、百病が生じる。すべての色身の疾病は、四大不調によって引き起こされる。四大不調の原因の一つは業障によるもので、もう一つは後天的な環境によるものである。四大不調とは、四大種子の成分が変化し、身体もそれに伴って変化し、様々な疾病が現れることである。単一の大が不調でも、それに応じた疾病を引き起こす。例えば、水大不調で、身体の中の水が多すぎるか少なすぎる。水の成分が多い場合も少ない場合も、疾病を引き起こす。例えば、むくみ、皮膚が乾燥する、腎臓病、湿疹、皮膚炎、血液が粘稠する、心脳血管病など、水に関係する疾病である。

風大不調で、風に関係する疾病を引き起こす。例えば、呼吸器系の疾病、風疹、風湿などである。火大不調で、火に関係する疾病を引き起こす。例えば、身体の寒熱病、寒涼病、高熱、低熱などである。地大不調で、地の硬さと支持性に関係する疾病を引き起こす。例えば、カルシウム不足、四肢が力がない、体が弱い、背中が曲がる、全身が痛むなどである。一つの大が不調でも、百病が生じる。ましてや、四大がすべて不調であれば、更に病障が重なる。総じて言えば、これらはすべて衆生が無始劫以来造業して招き受ける果報で、極めて少数の場合、たまたま外界の環境が変化し、身体が一時的に適応できないことによるもので、多くは業障病である。

業障病であろうと、たまたまの環境不適応によるものであろうと、その変化はすべて如来藏によるもので、四大種子が如来藏から送り出され、その中の比例成分が変化すると、物質的な色身もそれに応じて変化する。四大種子成分の変化は、如来藏が主導して決定する。如来藏は何に基づいて主導して四大種子の出力を変化させるのか。一つは業種に基づく。如来藏は業種を了別でき、その運行は必ず業種に従って行われる。もう一つは色身が触れる環境に基づく。如来藏は身根と器世間の環境を了別できるから、それに基づいて、環境と身根に順応して、四大種子の構造を変化させる。こうして、身体は常に様々な変化にある。各々の衆生の色身は、このように刹那刹那と変化しており、変化しないものはなく、すべて自分自身の如来藏によるものである。

九、仏法に執着するのは果たして良いのか

執着に関して言えば、自我の五陰に対する執着は、四果阿羅漢以前は誰もが持っている。仏法に対する執着は、大乗の無学位にまで修めない菩薩は皆持っている。法執を滅ぼすと仏に成るが、八地菩薩が修行して無心無為に達しても、仏法の修証においてはまだ多くの法を修行する必要があり、法執を完全に断つことはできない。

仏法は霊丹妙薬で、衆生が苦海を離れるための道標で、摩尼珠で、大宝聚で、生死の海の中の船舶で、救命の藁で、良い言葉はすべて仏法に用いることができる。各仏経には既に多くの良い、明確な説明があり、非常に多くの譬喩もある。仏法は渡河の船で、岸に着いて初めて船を捨てることができる。衆生が生死の海を漂流しているとき、船をしっかりと掴まないと、海に落ちて溺れてしまう。道を得ていない凡夫の衆生は更に仏法を掴まなければならず、自分自身の命を救い、苦しみから離れ楽しみを得るためである。

凡夫人の大多数は仏法に執着していない。仏法に執着する人は少なく、とても少ない。もし仏法に執着できるなら、自我や世俗法に執着することはなく、生死の輪廻を絶えず続けることはない。仏法に執着することは良いことで、すべてを学んで通暁し、貫通した後、法執を完全に断つことができれば、彼岸に辿り着くことができる。もしまだ生死の凡夫で、仏法に執着しないなら、きっと世俗法に執着することになり、仏法の修行において懈怠する。身体も心も懈怠している人は、確実に仏法に執着していない。修行するかどうかはどうでもよく、何を修行するかはどうでもよく、どう修行するかはどうでもよく、疑う余地はない。

最初に仏を学び修行するとき、仏法に執着することには多くの利益がある。仏法に対する貪欲は善い貪欲で、利益を得ることができ、自我や世俗に対する執着を仏法に移し、五陰自我や世俗の五欲六塵に対する貪欲を変え、仏法に執着し、仏法に対する貪欲を持つことで、心地が解脱できる。仏法を通暁し、貫通した後、段階的に仏法に対する貪欲と執着を捨て、そうして初めて仏道を成就できる。

十、世界は虚空中に建立され、虚空は如来藏の中にあり、片雲が泰清に点在するようなものである。娑婆と極楽世界は最も近いが、まだ十万の仏国土を隔てており、大千沙界はどんなに広大なことか。自心を征服することが、宇宙を征服し、十方世界を征服し、一真法界を征服することである。心を取り出し、その中の法をすべて理解すると、無量の世界が君のものになる。実際に世界を征服することは自心を征服することで、心の外には本来法はない。

私たちは毎日、小さな世俗法に執着し、小さなことによって心が動き、念が起こる。それはとても小さなことに思える。宇宙の虚空の中で観察すると、世間のどんなことが問題と言えるだろうか。いつ自分自身の心量を如来藏と同じように拡大するか、いつ十方世界海を持つことができるか。仏は言う、譬如く、澄清した百千の大海を棄て、唯一の浮漚体を認め、それを全潮と目し、瀛渤を尽くす。汝等は迷中の倍人である。仏のこの言葉を聞いて、私たちは本当に早く目を覚まさなければならない。迷いと執着を続けてはならない。

十一、小乗の修行はやはり仏が説いた阿含経、特に雑阿含経を基準とし、他の人の論著には多かれ少なかれ正しくない部分があり、その詳細は仏の言葉と一致しない。四果阿羅漢が書いた論著でも仏の言葉と食い違いがあり、すべてを信じ受けることはできない。

小乗の那些論著における誤りと論争は、古代の唯識の論争よりも多い。そんなに簡単な法でも、争い続け、意見が一致しない。これから仏法の修行が容易でないことがわかる。小乗解脱道の修行レベルが比較的低いため、書物を著し、論を書く人が多く、内容も比較的雑乱で、各々が異なる言葉を使う人も少なくない。これらはすべて娑婆世界の衆生の業によって招き受けるもので、他の世界ではこのような状況はない。

仏経によれば、初果以降、初禅定を修めて初めて、順次に貪嗔痴などの煩悩を断つことができ、その後、慧解脱の阿羅漢になることができる。しかし、那些小乗論著には、慧解脱の阿羅漢は初禅を持つ必要がなく、未到地定も必要ないと書かれている。禅定を全く修さなくても、煩悩を断ち、四果になるというのは、天方夜譚である。

私たちが今世、精進して修行せず、基礎を固めず、何の成果も得ない場合、後世の仏法は更に混乱し、是非の判断ができなくなり、容易に魔王が設けた落とし穴に落ちて出られなくなる。魔王の手口は非常に多く、防ぎきれない。だから、私たちは願を発して三宝に帰依し、仏力に依拠して救護を受け、解脱の正しい道を歩む。この世間は至る所に魔障があり、福德が少しでも悪ければ、障害に阻まれ、自分自身が知らないうちに、知っても無力で解脱できない。福德を多く修め、定力を強化し、業障を降伏することが最も重要である。その時、業障が現れても、突破できる能力がある。

十二、中国の漢字の意味について、私たちは多く思惟分析研究を加えることで、その中の真実の意味を理解できる。文字に対して障害がない人だけが、容易に正しく仏法を理解し、智慧が絶えず生じることができる。文字障がある人は、文章を読んでも、その本質的な意味を本当に理解できず、往々にして誤解し、智慧が向上しない。衆生同士の交際の中で、言葉や文字に対して障害があり、互いに理解し、コミュニケーションできない場合、交際することが苦しく、無力である。人の気持ちをよく理解する人は、言葉や文字に対する障害が少なく、他人の心理をよく見抜き、人とのコミュニケーションが得意で、人との交際における障害が少ない。

各人の文字に対する理解の程度には大きな差がある。なぜ一部の人が文字を理解する程度が非常に低いのか。心が粗くて細やかでない、定力が不足している、智慧がなく、福德が欠けている。これが主な問題の所在である。文字には明らかにその意味がないのに、一部の人が理解するときにその意味があると思う。自分自身を振り返り、反省しようとしない。多くの人は他人だけを照らし、自分自身を照らそうとしない。それが我が重い現れである。そして、自分自身が理解したことが正しいと思い、迷わずに他人を否定し、他人と論争する。この衝動性は、禅定が不足している現れで、智慧がなく、自分自身を反观できず、自分自身と他人を正しく評価できない結果である。賢い人は、心が非常に細やかな人で、他人を如実に観察できるだけでなく、自分自身も本当に反观できる。観察力と反观力がないということは、定力が悪く、智慧が不足していることを示す。

十三、阿含経の起世因縁経によれば、一大劫は四つの中劫があり、一つの中劫は二十の小劫があり、一つの小劫は1680万年である。地球の成住壊空の一周期は80×1680万年で、これが極楽世界の一日で、極楽世界の一大劫は他の世界の一日に等しい。他の世界の一日はまた別の世界の一日に等しく、このように続き、各仏国土の時間はすべて異なる。

顕無辺浄土功德経によれば、十方世界の諸仏国土で、娑婆世界の劫は最も短く、この国土で修行することが最も速い。娑婆世界の成住壊空の一周期が一大劫で、極楽世界では一日に過ぎない。一日と一劫の時間を比べると、後者で修行する内容は極めて多く、道業の進歩は他の世界と比べて非常に速い。各世界で修行することには利点と欠点があり、苦しい世界では劫が短く、修行が速い。楽しい世界では非常に快適だが、劫が長く、修行が相対的に遅い。

十四、各々の仏を学ぶ修行者は、必ず様々な苦難を経験する。これは必然である。無始劫以来の業力と対抗することは、非常に容易ではない。菩薩が再び現れても同じで、逆縁が多すぎる。修行は逆水行舟のようで、大風大浪の中で闘う勇気と粘り強い根性が必要で、菩薩の大願が必要で、そうでなければ、風浪に圧されてしまう。

道高一尺魔高一丈で、向上する心がある限り、必ず苦難を受ける。修行において明らかな進歩があると、業障が必ず現れる。自分自身の道心と勇猛精進心は不思議で、仏力も不思議である。長期にわたる精進心を発する限り、必ず仏力に護持され、魔障に対して私たちは対策がある。これを信じることで、萬難を克服できる。人は遠慮がなければ必ず近憂がある。私たちは目先を遠くに向け、未来に目を向けるだけで、足元の道が出やすく、目の前の難関が克服しやすくなる。

十五、本当の正信には、現量観察の智慧が必要で、そうでなければ、信は偏信や盲信に流れがちである。仏経でさえ、本当に智慧のある人でも疑問を抱き、実際に証拠を得る方法を考えるべきで、ましてや仏が言わなかったものに対してはなおさらである。

インターネット上には、多くの人が六祖が仏の再来で、言った法が仏の証量を持ち、六祖は既に仏に成ったと言う。私は本当にこれらの人が何に基づいて六祖にこのような決定的な判断を下すのか知らない。一人の人が大学教授のレベルであると認定するには、この大学教授よりも高いレベルでなければならず、少なくとも同等のレベルでなければ、相手に認証を与えることができない。今、末法の衆生は皆既に仏に成ったようで、そして仏の智慧で六祖が既に成仏し、仏の智慧と証量を持つと認定する。六祖壇経は薄い一冊の書物で、これらの人が一人も理解できていないと思う。そうでなければ、誰もこのような決定的な判断を下す勇気はない。

十六、衆生の業はやはり衆生自身が了する必要がある。主には心を了することで、心が了せば業が了せる。心を了するには、単に仏力の加持だけではだめで、自分自身が自発的に協力し、自心を変え、無明を破る必要がある。そうでなければ、どんな業を了することができるだろうか。殺人の業がある場合、仏菩薩が代わりに了しても、君がまだ殺人の心があれば、将来また悪業を造る。貧しさの業は、誰が代わりに了することができるだろうか。福德は個人が修めるもので、他人が代わりに修めることはできない。禅定は自分自身が修めるもので、他人が代わりに修めることはできない。戒律は自分自身が守るもので、他人が代わりに君が戒律を守ることはできない。明心は自分自身が明るみに出すもので、他人が代わりに君が明心見性することはできない。仏は自分自身が修めるもので、他人が代わりに君が仏に成ることはできない。

十七、どんな人が縁に随うことができるのか

凡夫が縁に随うと、毎日、毎年、毎生、毎世、どんな縁が多いかによって、縁に随ってどこに行くことができるだろうか。縁に随っても変わらず、変わらずに縁に随うことは、第八識だけが完全にできる。地前菩薩ではできない。変わらないことは不可能である。地後菩薩で八地菩薩以前でも完全にできない。六、七識の心がまだ薫染を受ける限り、変わらずに縁に随うことはできない。仏はどんな縁に随っても、心が変わらない。なぜなら、六、七識が薫染を受けなくなっているからである。

外道の禅定は非常に良く、八万大劫入定し、煩悩がすべて降伏される。しかし、煩悩を断ち切っていないため、後世、欲界に生まれ、やはり縁に随って貪嗔痴の煩悩業を造り、再び悪業と苦悩の中を流転する。阿羅漢は三界世俗の縁に薫染されることを恐れ、三界を避けて、無余涅槃に入る。凡夫の心は、縁に随うと、必ず変わり、非常に信頼できない。誰もが凡夫にすべての希望を依拠すると、必ず後悔する。

十八、諸仏の解脱身

阿羅漢が解脱し、三界を出離した後、五陰身が滅びて再び現れない。解脱しても身がない。仏は究極の大解脱を得ているが、依然として色身五蘊を保ち、これを通じて無量の衆生に利益と楽しみを与える。だから、仏の五蘊身は解脱色と呼ばれる。仏が証得したのは無住处涅槃で、永遠に灰身泯智することはなく、衆生を捨てて独りで楽しむことはない。仏は無量の世界で縁に随って普遍的に救度し、心中に一法も住まない。この世界での縁が尽きると、他の仏国土でまた色身を現し、再び広く衆生に利益を与える。だから、無住处涅槃と呼ばれる。

仏はどの世界でも応化色身を現す。その色身は利他のために現れるので、他受用身と呼ばれる。仏の五蘊身は大解脱大自在を得ており、どんな執着や束縛もない。だから、解脱身とも呼ばれる。衆生が仏に成ると、すべて無量の分身と化身を持ち、随意に無量の諸仏国土を建立できる。釈迦仏の分身仏は無量無辺に多く、名前もすべて異なる。仏の報身は一つだけで、応身仏と化身仏は無量無辺に多い。応身仏は必ず人間界に降臨して八相成道を行い、母胎から生まれ、世間人と同じように示す。化身仏は形式に拘泥せず、随意に化現し、八相成道を行わなくても、凡人と同じように示すことができる。仏経によれば、釈迦仏は百の分身を持ち、百の仏国土で応身仏を作る。阿弥陀佛はその中の一つの仏で、実際にはこれよりも多いかもしれない。釈迦仏の化身は無数に多く、十方世界に散在して無量の衆生を広く救度する。

十九、諸仏がすべて涅槃に入った後、世界はあるのか。世界はない。何もない。空さえもない。世界は人によって存在し、人の業によって存在し、人の縁によって存在し、人の願力によって存在する。人がいなければ、業もなく、縁もなく、願力もない。世界はどうやって単独で存在できるだろうか。衆生の五陰十八界は、五陰がなければ十八界もない。世界がないとき、空々寂寂で、空々寂寂さえもない。なぜなら、空は世間を代表し、寂は状態を代表し、世界がないとき、空間と状態もない。

衆生が仏に成った後、救度する衆生がない場合、諸仏は国土世界で何をするのか。何もすることがなく、心も用いることがない。入定するだけで、長期間入定することはむしろ涅槃に入ることと同じで、結果は同じで、違いはない。阿羅漢たちは世俗の事業を行わない。仏は何をすることができるのか。一日中入定しているが、入定しても何の役にも立つのか。諸仏が何をしても役に立たず、何もしなくても役に立たない。入定と涅槃には違いがない。衆生が一緒にいると、互いに争うことができるが、仏に成った後、心は絶対的に平穏で、何もすることがない。

仏に成った後、衆生を救度することだけができる。救度する衆生がなければ、何もない。仏に成った後、すべてが余分である。では、私たちが今、こんなに多くのことをするのは何のためなのか。同じように無意味で、今、一緒に集まって、互いに争うことが何の意味があるのか。何が争う価値があるのか。何も役に立たない。私たちは今から自らを制約し、悪法はできるだけ一つも行わない。善法を行うことができるが、最後には善法を行うことも余分で、善法も行わない。こうして、心がますます無為になり、仏に成る速度が速くなる。

二十、なぜ仏はそんなに慈悲で、天上で悠々自適に娑婆世界の衆生が様々な苦悩を受けているのを見ることができるのか。仏は我慢できるのか。

私が母親が亡くなったとき、ちょうど陽炎関を過ぎようとしていた。その前の何年も前から、母親の死にどう対応するかを準備していた。いつも母親は何から構成されているのか、本当に母親という人が存在するのかを考えていた。母親の葬式の手続きを行う中で、各人の六、七識の心を観察し、すべての人の心理状態を観察した。そうして、陽炎観を証得した。すべての人が私の心の中ではそんなに空幻で、私は行屍走肉のようにすべてに対応していた。心の中ではやはりとても悲しかった。

では、仏の無量の智慧で衆生を見ると、衆生は何なのか。宇宙世界、人事物理は何なのか。衆生の色身は四大の微粒子で、識心は識種子である。仏が衆生を見ると、衆生も、その事その理もない。これが一つ目で、二つ目は、衆生には苦しむ業縁と業力があり、縁が熟しない限り、救うことも役に立たず、衆生が生死の海を漂流し、浮き沈みするのを見るしかない。縁が熟したとき、初めて手を出して救うことができる。

二十一、衆生は救済し尽くせるのか

一つの如来藏が一つの衆生に対応し、一つの衆生を生み出す。だから、如来藏はまた衆生界とも呼ばれる。心経によれば、如来藏は不生不滅で、衆生界は不増不減である。不増不減とは変異しないことで、不生不滅とは永遠に生まれることがなく、滅びることがないことで、だから、如来藏の数は永遠に固定され、不変で、しかも無限に多い。衆生が多すぎ、如来藏が多すぎるため、数えることができない。だから、無量数と言われる。

こんなに多い数の如来藏がこんなに多い衆生に対応しているが、衆生は救済し尽くせるのか。衆生界がもはや増えなくなり、仏菩薩がますます多くなれば、衆生は遅かれ早かれ救済し尽くされる。どんなに多くても、救済し尽くすその日がある。ただ、時間は不定で、無限に長く、不可説不可説の無限の長さである。衆生が皆仏に成ると、救済する衆生がなくなり、諸仏が世に住む必要も意味もなくなり、おそらく皆涅槃に入るだろう。諸仏が無駄なことをする必要はなく、十方世界も存在する必要はない。最後に仏に成る那些衆生は、修行が非常に楽になる。一つの仏が一つの衆生を護持し、修行はロケットに乗るようなものになる。最後の一批の衆生は、もはや悪業を造る機会がなく、無明業種が非常に速く消え、衆生を救済することなく仏に成る。なぜなら、無明がなくなれば仏に成るからである。

二十二、所謂の衆生を救済するとは、煩悩や業障が深い衆生を一度に聖人に救済することでなく、衆生の修行の程度を相応に一定の程度まで高め、以前と比べて大幅に高めることができればよい。一度に聖人になることはできない。苗を引っ張って伸ばそうとすると、結果的には衆生を死に至らしめ、三悪道に落とし、仏教が滅びる。聖人になる縁が成熟していないとき、長期間にわたって薫習するしかなく、聖人に近い品格になるまで、それを超えるように救済することができる。近道を求めるような救済は、人の首だけを切り落とし、心は依然として凡夫で、首と手が分離する。

二十三、菩薩性はどのように現れるのか

衆生が七八識だけで五蘊身がないとき、どの衆生が菩薩性を持つのか。菩薩性がなければ仏に成ることができない。十方世界の那些仏と菩薩はどこから来たのか。意根は無始劫以前に先天性の菩薩性を持っていないが、五蘊身を持つようになってから、後天的な環境の薫染を受け、自分自身と衆生の苦しみを見ると、菩薩性を生じ、最終的には仏に成ることができる。菩薩性を起こすことができるこの行為が最も貴重で、衆生の苦しみを見て、憐れみの心を生じることが最も貴重で、これが菩薩種性である。

二十四、仏の悲心も虚妄であるのか

仏の悲心には二種類がある。一つは先天的に持っている大悲心で、無始劫以来、慈悲をもって物を利し、更に人を利してきた。この心は慈悲の感情を自発的に生じなくても、衆生が憐れむべきで、可哀想なものであることを知らなくても、その行為は無我で衆生に随順し、その結果は衆生に利益を与え、衆生を愛している。これは仏の如来藏無垢識が持つ悲心である。

仏のもう一つの悲心は、後天的に修行して修得したもので、仏の意識心、つまり妙观察智が表現する衆生に対する憐れみの心で、この心は仏の意識心妙观察智が現れるときに現れ、妙观察智が一時的に滅びると現れなくなる。生滅変化するもので、永遠に存在することができない。永遠に存在しない心で、仏の無垢識が生み出し、幻であるから、虚妄である。

仏の二種類の悲心はいずれも動かない。菩薩の意識心の悲心はまだ動く。凡夫の意識心のたまに現れる悲心はすべて境に随って変化し、いつでもあるわけではなく、常に存在することができず、究極でもなく、智慧性も持たない。仏が悲心を生じるとき、境に流されず、境を真実と認めず、対象を分けない。本当に無縁大慈、同体大悲で、君や私、彼やそれという分別対待がなく、衆生を一律に平等に見る。

衆生は人に対して往々にして平等ではなく、自我を中心として、外に向かって広がり、外側の人ほど、慈悲心が少なく、または全く慈悲心がない。ある人は、自分自身の最も親しい人でも、慈悲心を一筋も生じない。だから、衆生は私心が重く、我心が重く、他人をめったに考えない、または全く考えない。他人の立場に立って問題を考えることができない。仏の無縁大慈とは大きく隔たっている。

二十五、即身成仏に関する問題について、即身成仏であれ、即生成仏であれ、いずれも最後身の菩薩である妙覚菩薩のことで、凡夫には関係がない。即身成仏は、弥勒菩薩のような妙覚菩薩だけが即身成仏できるが、それも時節の縁によって選択しなければならず、それ以外にはもう即身成仏する者はいない。

衆生の修行にはすべて次第があり、非常に高いレベルを飛び越えることはできず、凡夫から一躍して仏になることはできない。既に仏に成った者が法を表して示現する場合を除いては。しかし、仏が住んでいる仏国土で示現することもない。一つの国土に二つの仏はいないからである。凡夫の衆生はまず阿含解脱の理を修め、解脱果を証し、その後、大乗の般若と唯識の理を修学し、順序よく進めるべきで、一生で明心見性できれば、すでに非常に良い根機である。一般の衆生が我見を断ち、初果を証することさえ、難しくて難しくて手がかりがない。即身成仏のことは考えない方がよい。一般の衆生は如来藏法を学んでも、理解できない。一生で如来藏の中のすべての種子の機能と作用を証して一切種智になることはできない。一般の衆生は四禅八定の前の未到地定さえ修めることができず、ましてや四禅八定と滅尽定を修め、無量の神通力と道力、無量無数の分身を得ることは、根本的に不可能である。

一般の衆生は自分自身を救済することさえ難しく、ましてや無量無辺の衆生を救済することはできない。自分自身の仏国土の中の弟子となることは更に不可能である。衆生を救済できなければ、無量数の弟子を持つことができず、弟子がなければ、一人では仏国土を成就できない。王になるにも大臣や大軍が助け、国家を建設し、維持する。仏になるには更に多くの大菩薩が助けて弘法度衆する必要がある。衆生を救済していなければ、大菩薩の弟子が左右の腕のように助けて自分自身が弘法することはできない。だから、娑婆世界の衆生は着実に一歩一歩修行するべきで、高望みをして自分自身の道業を遅らせないようにする。

二十六、修行はただ今を生きることだけではなく、今だけを気にすることではなく、最も重要なのは未来を考えることである。未来が輪廻の苦しみを受けなくなり、迷いや無知でなくなり、無明でなくなるようにすることである。ただ今を生きるだけで、心中に未来がなければ、前方がはっきり見えず、道を誤ることが容易である。しかも、この今は念念生滅しており、今と言うとき、すでに過去になっている。どこに今があるのか。過去の無数の今は既に消えており、この今は消滅しつつあり、後の今はまだ来ていない。どの今が欲しいのか。過去の識心は既に滅しており、現在の識心は念念滅んでおり、未来の識心はまだ来ていない。どの心が欲しいのか。三心は得られない。得られないのは識心で、無常で虚妄な心で、生滅するものはどうやって得られるだろうか。どうやって捉えることができるだろうか。

しかし、一つの心があり、後天的に得るものではなく、先天的に持っている。君がそれを欲しなくても、それは君を捨てない。君が天に上がっても、それは君と共に行き、地獄に落ちても、それは君と共に行く。君がどこに行っても、それはついて行く。君が苦しみ、悪報を受けても、それは嫌がらない。無始劫以来、君から離れたことがない。この心はなんと素晴らしいことか。修行とはこの心を証し、この心を明瞭にし、その中の奥義を探究することで、大きな智慧を開発し、大きな智慧があれば、仏や祖になることができる。

二十七、所謂の世界は、ただ一種の感覚に過ぎない。異なる心境には異なる感覚があり、異なる人には異なる感覚がある。では、これらの感覚は何なのか。何もない。幻である。では、どうすればよいか。実際や理に合わない感覚を、実際や理に合う感覚に変えることで、真実に帰り、覚性に帰り、一真に帰り、涅槃に帰り、寂静に帰る。

二十八、実修する人に対しては、意根について特に言う必要はなく、彼らは自ら証することができる。実修しない人に対しては、必ず解悟と証悟の違いを教え、皆に解に満足しないようにし、必ず実証するようにさせなければならない。これは末法時代の浮ついた衆生に対する特別な対応で、衆生の心は非常に浮ついており、苦労して努力しようとせず、戒律を守ろうとせず、定を修もうとせず、仮に戒律を守り、定を修もうとしても、環境の要因によって、できない場合がある。だから、観行できず、実証できない。ただ毎日、本を読んで、意識で理解するだけで、一定の程度まで理解すると、外に向かって自分自身が証悟したと言う。だから、この特別な時期には特別な法を説く必要がある。特別な衆生に対しては特別に法を説くことが、衆生の根機に応じ、衆生の実際的かつ根本的な問題を解決することである。

二十九、誰でも仏経や仏意を誤解する可能性があるが、自分自身の見解を肯定的に表現しなければ、大きな過失はなく、必ずしも他人を誤解させることもない。仏を学ぶ過程で、間違いを重ねることは確実で、誰でも免れない。重要なのは、自分自身の見解に対してどんな態度を持つか、どの程度まで自分自身の見解が正しいと自信を持てるか、これをきちんと把握することである。間違いがないのは、仏だけで、弥勒菩薩が法を説いても、仏は百パーセント肯定しない。

悟った菩薩が法を説しても間違いがあり、悟らないときに法を説すと、間違いが更に多くなる。一般的な間違いは問題ではない。重要なのは、最も重要な点で間違いがないことで、重要な点は随学する衆生が証悟できるかどうかという大きな問題に関係しており、これは衆生の生命の転機点で、この転機点では、必ず間違いがないようにしなければならない。目標や方向に問題がなければ、その他のことは小さな問題で、訂正し、転換することができる。私たちが仏を学ぶのは、努力して勤めて証悟を求めることで、証悟した後、学んだ法に随って学ぶと、学ぶたびに得ることができ、往々にして半分の努力で倍の成果を得ることができる。

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