阿含経十二因縁釋
第七節 縁起法は法界常住法
(二九九)縁起法は法界常住法
原文:時有異比丘來詣佛所。稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。謂緣起法。爲世尊作。爲餘人作耶。
佛告比丘。緣起法者。非我所作。亦非餘人作。然彼如來。出世及未出世。法界常住。彼如來自覺此法。成等正覺。爲諸衆生分別演說。開發顯示。所謂此有故彼有。此起故彼起。謂緣無明行。乃至純大苦聚集。無明滅故行滅。乃至純大苦聚滅。
釈:この時、他の部落から来た比丘が世尊に会いに来て、頭を下げて合掌して礼拝し、そして退いて世尊の側に座って、世尊に言いました。「世尊、縁起法は世尊が作られたものですか、それとも他の人が作ったものですか。」
佛はこの比丘に告げました。「縁起法は私が作ったものではなく、他の人が作ったものでもない。しかし如来が出世しても出世しなくても、法界は常住している。それらの如来は自らこの法を悟り、等正覚を成就し、すべての衆生に対して分別して演説し、開発して縁起法の真実の意味を示した。つまり、この有故彼有、此起故彼起。つまり無明に縁して行があり、最後に生に縁して老病死、純大苦が集まるまで。そして無明が滅べば行も滅び、行が滅べば六識も滅び、六識が滅べば名色も滅び、名色が滅べば六入も滅び、六入が滅べば触も滅び、触が滅べば受も滅び、受が滅べば愛も滅び、愛が滅べば取も滅び、取が滅べば有も滅び、有が滅べば生も滅び、生が滅べば老病死や憂悲苦悩、純大苦聚も滅ぶ。」
(三0一)有も無も取らないことを正見という
原文:爾時。尊者[跳-兆+散]陀迦旃延詣佛所。稽首佛足。退住一面。白佛言。世尊。如世尊說正見。雲何正見。雲何世尊施設正見。佛告[跳-兆+散]陀迦旃延。世間有二種依。若有若無。爲取所觸。取所觸故。或依有。或依無。
釈:[跳-兆+散]陀迦旃延尊者は佛に言いました。「世尊、世尊がおっしゃる正見とは何ですか。世尊はどのように正見を施設されますか。」佛は[跳-兆+散]陀迦旃延に告げました。「世間には二種類の依り所があります。一つは有、もう一つは無です。取に触れられます。取に触れられるため、世間の人々の知見はあるいは有に依り、世間は有であると考えるか、あるいは無に依り、世間は無であると考えます。世間が有であると考えるか無であると考えるかはいずれも正見ではありません。凡そ取るものはすべて間違っており、中道ではありません。」
原文:若無此取者。心境系著使不取。不住不計我。苦生而生。苦滅而滅。於彼不疑不惑。不由於他而自知。是名正見。是名如來所施設正見。
釈:もしこの取ることがなければ、心は中道に住み、境に対して有も取らず無も取らず、我に住まず、我を計着せず、苦が生じれば生じるままに、苦が滅べば滅ぶままにします。それに対して疑いも惑いもなく、他人から教えられるのではなく自ら知ります。これを正見といいます。これも如来が施設した正見といいます。
佛は、「いわゆる正見とは、他人から教えられるのではなく自ら知ることです」と言いました。この言葉は非常に重要です。自ら知るとは自証の意味で、他人の啓発によって知るのではなく、聞くことによって知るのでもなく、自分自身の努力と参究を通じて最後に実証して知るのです。他人からの外縁によって知るのは意識の知であり、自ら知るものではなく、正見でもありません。真実に参究した意根の証だけが自ら知るものです。だから耳から入る法は、結局自分のものではなく、信頼できない、頼りにならない法です。この言葉は非常に重要です。
原文:所以者何。世間集如實正知見。若世間無者不有。世間滅如實正知見。若世間有者無有。是名離於二邊說於中道。所謂此有故彼有。此起故彼起。謂緣無明行。乃至純大苦聚集。
釈:なぜこう言うのでしょうか。世間の集に対して如実に正しく知見することができれば、もし世間が本当に無いものならば有とは考えず、世間の滅に対して如実に正しく知見することができれば、もし世間が現象上で有るものであっても有とは考えません。これが有無の二つの端から離れて中道を説くということです。つまり、この有故彼有、此起故彼起。つまり無明に縁して行があり、最後に生に縁して老病死や憂悲苦悩、純大苦が集まるまで。
原文:無明滅故行滅。乃至純大苦聚滅。佛說此經已。尊者[跳-兆+散]陀迦旃延聞佛所說。不起諸漏。心得解脫。成阿羅漢。
釈:無明が滅べば行も滅び、行が滅べば六識の業種も滅び、六識の業種が滅べば名色も滅び、名色が滅べば六入も滅び、六入が滅べば触も滅び、触が滅べば受も滅び、受が滅べば愛も滅び、愛が滅べば取も滅び、取が滅べば有も滅び、有が滅べば生も滅び、生が滅べば老病死や憂悲苦悩も滅び、乃至于純大苦聚も滅ぶ。佛がこの経を説き終えた後、尊者[跳-兆+散]陀迦旃延は佛の説法を聞いて、もう一切の諸漏を起こさず、心が解脱し、阿羅漢になりました。
(三0二)苦の根源
原文:阿支羅迦葉白佛言。雲何瞿曇。苦自作耶。佛告迦葉。苦自作者。此是無記。迦葉複問。雲何瞿曇。苦他作耶。佛告迦葉。苦他作者。此亦無記。迦葉複問。苦自他作耶。佛告迦葉。苦自他作。此亦無記。迦葉複問。雲何瞿曇。苦非自非他。無因作耶。佛告迦葉。苦非自非他。此亦無記。
釈:阿支羅迦葉は佛に言いました。「瞿曇、どういうことですか。苦は自分で作り出されるのですか。」佛は迦葉に告げました。「苦は自分で作り出されるというのは、これは無記で、答えない。」迦葉はまた尋ねました。「では、苦は他の因によって作り出されるのですか。」佛は答えました。「苦は他の因によって作り出されるというのも、これも無記です。」迦葉はまた尋ねました。「苦は自分と他の因によって作り出されるのですか。」佛は答えました。「苦は自分と他の因によって作り出されるというのも、これも無記です。」迦葉はまた尋ねました。「苦は自分でもなく他でもなく、無因によって作り出されるのですか。」佛は迦葉に告げました。「苦は自分でもなく他でもなく、無因によって作り出されるというのも、これも無記です。」
原文:迦葉複問。雲何無因作者。瞿曇。所問苦自作耶。答言無記。他作耶。自他作耶。非自非他無因作耶。答言無記。今無此苦耶。佛告迦葉。非無此苦。然有此苦。迦葉白佛言。善哉。瞿曇。說有此苦。爲我說法。令我知苦見苦。
釈:迦葉はまた尋ねました。「何を無因の作者というのですか。瞿曇、先ほど私が尋ねた苦は自分で作り出されるのですか、という問いに対して無記と答えられました。他によって作り出されるのですか、自分と他によって作り出されるのですか、自分でもなく他でもなく無因によって作り出されるのですか、という問いに対しても無記と答えられました。では、今苦はないのですか。」佛は迦葉に告げました。「苦がないわけではない。むしろ苦はある。」迦葉は佛に言いました。「よし。瞿曇、苦があると言ってくださいました。法を説いてください。私に苦を知らせ、苦諦を見せてください。」
原文:佛告迦葉。若受即自受者。我應說苦自作。若他受他即受者。是則他作。若受自受他受。複與苦者。如是者自他作。我亦不說。若不因自他。無因而生苦者。我亦不說。離此諸邊。說其中道。如來說法。此有故彼有。此起故彼起。謂緣無明行。乃至純大苦聚集。無明滅則行滅。乃至純大苦聚滅。
釈:佛は迦葉に告げました。「もし受けることがすぐに自分が受けることならば、私は苦は自分で作り出されると言うべきです。もし他が受けて、他がすぐに受ける者ならば、それは他によって作り出されることになります。もし受け、自分が受け、他が受け、そしてまた苦を与えるならば、このような場合は自分と他によって作り出されるということになりますが、私はこうは言いません。もし自分と他によらず、無因に苦が生じるならば、私もこうは言いません。これらの両端を離れて、中道を説きます。如來が説法するのは、この有故に彼が有り、この起き故に彼が起きます。つまり、無明に縁して行があり、乃至純大苦が集まります。無明が滅べば行も滅び、乃至純大苦聚も滅びます。」
原文:佛說此經已。阿支羅迦葉遠塵離垢。得法眼淨。時阿支羅迦葉見法得法。知法入法。度諸狐疑。不由他知。不因他度。於正法律。心得無畏。合掌白佛言。世尊。我今已度。我從今日。歸依佛。歸依法。歸依僧。盡壽作優婆塞。証知我。
釈:佛がこの経を説き終えると、阿支羅迦葉は五陰の塵世間の煩悩や汚れから遠ざかり、法眼を得て清浄になりました。この時、阿支羅迦葉は十二因縁法を見て法を得て、十二因縁法を知り、十二因縁法に入りました。十二因縁法に対する一切の疑いを滅ぼしました。他の因によらず知法し、他の因によらず度化されました。正しい法と律儀に対して、心に畏れがなくなりました。于是、迦葉は合掌して佛に言いました。「世尊、私は今度化されました。私は今日から、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依します。一生を通じて優婆塞となります。私を証明してください。」