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阿含経十二因縁釋

作者:释生如更新時間:2024年11月10日

第六章 中阿含大縁経(抜粋)

原文:阿難。要如何觀察我耶。阿難。對於受。或以受是我之我。或以受實非我之我。不得感受者。即是我之我。阿難。如是觀察我。或以受實非我之我。又不得感受者。亦非我之我。我應依我之領納。即受之法。始是我之我。阿難。如是觀察我。

釈:仏は言う。阿難、私をどのように観察すべきか。阿難、受に対する観察は三種類に分けられる。一つは、ある人は受が五陰の我の中の我だと考える。もう一つは、ある人は受が確かに五陰の我の中の我ではなく、何の感じもないものこそが、言われる五陰の我の中の我だと考える。阿難、ある人々はこのように私を観察する。三つ目は、ある人は受が確かに五陰の我の中の我ではなく、何の感じもないものも五陰の我の中の我ではなく、私は私の領納の機能作用、つまり受法に依ってこそ言われる五陰の我の中の我だと考える。阿難、ある人々はこのように私を観察する。

この抜粋の内容は受が我であるか否かの角度から十二因縁法を説いている。仏は最初に三種類の人々の三種類の観察法と三つの結論を述べたが、結果はすべて間違っている。次に仏はどうして間違っているかを弁証する。仏が挙げる論拠は十分で、反論できない。

原文:阿難。此中對於言受是我之我者。不得不如是言。友。此受有三。是樂受苦受。不苦不樂受。此等三受之中。汝見何爲我耶。阿難。若於某時。領納樂受。其同時不領納苦受。又不領納不苦不樂受。其時應唯領納樂受。

釈:阿難、受が五陰の我の中の我だと言う最初の人に対して、こう言わざるを得ない。善友、この受には三種類がある。楽受、苦受、不苦不楽受である。これら三つの受の中で、あなたはどれを我と見なすか。阿難、もしある時、楽受を領納しているならば、その同時に苦受を領納せず、また不苦不楽受も領納しない。その時は唯だ楽受を領納すべきである。

原文:阿難。若又於某時。領納苦受。其同時不領納樂受。又不領納不苦不樂受。其時應唯領納苦受。阿難。若又於某時。領納不苦不樂受。其同時不領納樂受。又不領苦受。其時應唯領納不苦不樂受。

釈:阿難、もしまたある時、苦受を領納しているならば、その同時に楽受を領納せず、また不苦不楽受も領納しない。その時は唯だ苦受を領納すべきである。阿難、もしまたある時、不苦不楽受を領納しているならば、その同時に楽受を領納せず、また苦受も領納しない。その時は唯だ不苦不楽受を領納すべきである。

仏陀のこの説明により、私はより観察しやすくなる。もし受を我と見なすならば、受には三種類があるので、私も三種類になる。しかし同じ時間には、一つの受しかありえないので、その受だけが我であり、他の二つの受は我ではない。これにより矛盾が生じ、明らかに受を我と見なすのは間違っている。これは受が我ではないことを示している。もし受が我ならば、三種類の受は同時にすべて我であるべきだが、三種類の受は同時に存在できない。受は互いに対立しており、受を我と見なすのは誤りである。

ある人は受がもちろん第八識であるこの我ではないと言うかもしれないが、これらの文字と観察の内容は第八識と関連づけられるだろうか?明らかにできない。なぜなら声聞人は全員第八識を現前に観察できず、受が第八識であるか否かを証明することはできない。たとえ受が第八識でないことを証明できても、それでもまだ受が非我であることを証得していない。なぜならこの我は第八識を指すのではなく、主宰できる五陰の我を指すからである。特に我見を断っていない凡夫の声聞人は第八識を悟り実証することができず、それゆえ受が非第八識であるという結論を出すことはできない。もし観行の順序が逆転していれば、実証は不可能である。なぜなら誰も第八識を想像して現前に観察することはできず、想像したものは推測や妄想と呼ばれ、何の役にも立たないからである。

原文:阿難。樂受實是無常有爲。緣起之法。滅盡之法。敗壞之法。離欲之法。滅法也。阿難。苦受亦實是無常有爲。緣起之法。滅盡之法。敗壞之法。離欲之法。滅法也。阿難。不苦不樂受。亦實是無常有爲。緣起之法。滅盡之法。敗壞之法。離欲之法。滅法也。

釈:阿難、楽受は確かに無常の有為法であり、種々の因縁によって生じる法であり、滅び尽くす法であり、敗壊する法であり、この受への貪欲を離れる法であり、滅びる法である。阿難、苦受も確かに無常の有為法であり、種々の因縁によって生じる法であり、滅び尽くす法であり、敗壊する法であり、離欲の法であり、滅びる法である。阿難、不苦不楽受も確かに無常の有為法であり、種々の因縁によって生じる法であり、滅び尽くす法であり、敗壊する法であり、この受への貪欲を離れる法であり、滅びる法である。

原文:若領納樂受。還是思惟。此是我之我者。彼又依於樂受之滅。實應不得思惟。我之我滅。若領納苦受。還是思惟。此是我之我者。彼又依於苦受之滅。實應不得思惟。我之我滅。若領納不苦不樂受。還是思惟。此是我之我者,彼又依於不苦不樂受之滅。實應不得思惟。我之我滅。

釈:もし楽受を領納している時、まだこれが我の我だと考えるならば、その人は楽受が滅びた時に、確かに我の我が滅んだと考えるべきではない。もし苦受を領納している時、まだこれが我の我だと考えるならば、その人は苦受が滅びた時に、確かに我の我が滅んだと考えるべきではない。もし不苦不楽受を領納している時、まだこれが我の我だと考えるならば、その人は不苦不楽受が滅びた時に、確かに我の我が滅んだと考えるべきではない。

原文:對如是言。受是我之我者。要於現見之法。觀察我是無常。樂苦皆歸於消滅之生滅法。阿難。是故依此。不可能觀察。受是我之我。

釈:第一種の人々について、受が五陰の我の中の我だという説法に対して、現前に接触できる法の中で、この我は無常であることを観察すべきで、楽受も苦受も消滅できる生滅の法に帰する。阿難、したがって受が無常で生滅する現象に基づいて、受が五陰の我の中の我であることを観察することは不可能である。

原文:阿難。此中又言。受實非我之我。不得感受者。即是我之我。對彼應如是言。友。無一切所受之處。於其處。還得思惟有我耶。世尊。實不然。阿難。是故依此。不可能觀察。受實非我之我。不得感受者,即是我之我。

釈:阿難、第二種の人々はまた言う。受は確かに五陰の我の中の我ではなく、受を得ない想行識こそが五陰の我の中の我だ。このような不正な観点を持つ人に対して、こう尋ねるべきである。善友、すべての受がないところ、つまり色、想、行、識のところで、あなたはまだ色想行識に我があると考えるか。阿難は答えて言う。実際には色想行識が我であると考えるべきではない。仏は言う。阿難、したがってこのような説に基づいて、受が確かに五陰の我の中の我ではなく、受を得ない色想行識こそが我であることを観察することは不可能である。

原文:阿難。此中又言。受實非我之我。我之我亦非不得感受者。我應依我之領納。即我之我是受法。對彼應如是言。友。一切感受完全消滅時。即無一切受。由此受之滅。還得有思惟。於此有我之我耶。世尊。實不然。是故阿難。依此不可能觀察。受實非我之我。不得感受者。亦非我之我。我應我之領納。即我是受法。

釈:阿難、第三種の人々はまた言う。受は確かに五陰の我の中の我ではなく、我も受を得ないものではない。私は私の領納性に依るべきで、つまり五陰の我の中の我は受法だ。このような観念を持つ人に対して、こう言うべきである。善友、すべての受が完全に消滅した時、すべての受がなくなる。受が消滅したからといって、あなたはまだ領納できる受法が五陰の我の中の我だと考えるか。阿難は答えて言う。受は確かに我ではない。仏は言う。阿難、したがって、領納できる受に依って、受が確かに我ではなく、受を離れた色想行識も我ではなく、私は私の領納性を受け入れ、つまり領納が私であり、私は領納できる受法だと観察することは不可能である。

衆生が考える我には五種類がある。第一に色我、色陰を我とし、我は色陰で、色陰は我である。第二に受我、受を我とし、我は受で、受は我である。第三に想我、想を我とし、我は想で、想は我である。第四に行我、行を我とし、我は行で、行は我である。第五に識我、識を我とし、我は識で、識は我である。衆生が受を我と考えるとき、心中に受我という我の思想観念がある。衆生が我見を断っていないとき、五種類の我のいずれか一つを我とし、残りを我所とし、または五受陰をすべて我とする。これは我見の範囲である。

原文:阿難。是故比丘。不觀察受是我。亦不觀察。不得感受者是我。又不觀察。我應依我之領納。即我之我是受法。不觀如是之我者。彼於世間之任何者。皆不執著。不執著故。無有恐怖。無有恐怖故。唯獨般涅槃。自知生已盡。梵行已立。所作已作。更無後有。

釈:阿難、したがって比丘たちは受を我と観察すべきではなく、色想行識を我と観察すべきでもなく、また私の領納性に依るべきでもなく、私は受法だという観念を持つべきではない。これらの法を我としない人は、いかなる法に直面しても執着せず、内心に恐怖がない。恐怖がないからこそ、ただ涅槃に入り、自分で生死が既に尽きたことを知り、清浄な梵行が既に立てられ、一生に修めるべき解脱が既に修められ、もう後世の有法はない。

原文:阿難。如是。心解脫之比丘。不問如來。死後有耶。若彼執著是言者。彼則非正。不問如來。死後無耶。若彼執著是言者。彼則非正。

釈:阿難、このように、心が解脱した比丘は如来に、私が死んだ後に後世の有があるかどうかを尋ねない。もし比丘が死んだ後に三界の有があると執着して考えるならば、彼はまだ正知見を具えておらず、阿羅漢の正位に入っておらず、心が解脱した阿羅漢ではない。心が解脱した比丘も如来に、私が死んだ後に一切の法が存在しなくなるかどうかを尋ねない。もし比丘が死んだ後に一切の法が滅びると執着して考えるならば、彼はまだ正知見を具えておらず、阿羅漢の正位に入っておらず、心が解脱した阿羅漢ではない。

原文:不問如來。死後亦有亦無耶。若彼執著是言者。彼則非正。不問如來。死後亦非有。亦非無耶。若彼執著是言者。彼則非正。

釈:心が解脱した比丘も如来に、私が死んだ後にも後世の有があり、もないかどうかを尋ねない。もし彼が死んだ後にも有り、もないと執着して考えるならば、彼は正知見を具えておらず、阿羅漢の正位に入っておらず、心が解脱した阿羅漢ではない。心が解脱した比丘も如来に、私が死んだ後にも非有り、も非ないかどうかを尋ねない。もし彼が死んだ後に非有り、も非ないと執着して考えるならば、彼はまだ正知見を具えておらず、阿羅漢の正位に入っておらず、心が解脱した阿羅漢ではない。

正位に入った四果の阿羅漢は、心が解脱し、すべてが解脱し、知見も解脱し、死んだ後に有ると考えたり、無いと考えたり、も有り、も無いと考えたり、非有り、非無いと考えたりしない。心中に一切の不正知見がなくなり、もう死後は有るか無いかに執着しない。自分が死んだ後に有ると執着しても無いと執着しても、非有り非無いと執着しても、一切の想念執着が消滅してこそ解脱を得て、命終えると無余涅槃に入る。

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