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阿含経十二因縁釋

作者:释生如更新時間:2024年11月10日

第四節 四食と十二因縁の関係

(三七一)四種の食の集まり

原文:爾時。世尊告諸比丘。有四食資益衆生。令得住世。攝受長養。何等爲四。謂一粗摶食。二細觸食。三意思食。四識食。

釈:世尊は諸比丘に告げます。四種の食があって、衆生を資益し、世に住ませ、摂受して長養させます。どの四種の食でしょうか。第一の粗抟食は比較的粗い四大からなる飲食で、色身を養い、生命を維持します。第二の細触食は比較的微細な触食で、六根が六塵に触れることや六根六識と六塵の三者が和合して触れることを食とし、五受陰を養い、生命を維持します。第三の意思食は意識と意根の思量を食とし、五蘊身を養い、生命を維持します。第四の識食は識心の持身を食とし、五蘊身の運行を維持し、生命を維持します。

第一の粗抟食は欲界の人間や畜生が食べる食物で、咀嚼して胃腸に入り、身体に吸収されて色身を養い、生命を世に住ませます。人間や畜生の色身は四大からなる粗重な色身なので、粗い飲食が必要で、微細な色身は微細な飲食が必要で、あるいは禅定によって維持されます。四大の色身がなければ四大からなる飲食は必要なく、禅定だけで生命を維持できます。欲界の天人も四大からなる飲食を食べますが、飲食は非常に微細で、咀嚼せずに鼻で嗅いだだけで満腹になります。

第二の細触食は、根塵の触れ合いを食とします。四大の色身を持つ衆生も触食が必要で、四大の色身がない衆生も触食が必要です。なぜなら、無色界の衆生は四大の色身がないが、意根があり、意根が法塵に触れ合うことで、無色界の衆生の生命を維持できるからです。なぜ衆生は触食が必要なのでしょうか。衆生には色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊があり、六根、六塵、六識があり、根塵が触れ合って六識が生じてこそ、五蘊が運行し、六塵の境界を了別し、六塵の境界を持つことができます。これは生命にとって必要なことです。触食がなければ、衆生は必ず涅槃に入り、生命が消えます。

第三の意思食は、主に意根の法に対する思量を食とします。意根は常に審査して思量し、少しも止まりません。意識の断続的な思量を補助的な食とします。思量があってこそ五蘊が運行し、塵境を吸収します。これは三界の無明の衆生にとって必要なことです。思食がなければ、衆生は必ず涅槃に入り、生命が消えます。

第四の識食は、八つの識を食として生命の運行を維持します。八つの識はすべて持身の作用があり、第八識は絶対的な持身識で、第一の持身識です。七識は相対的な持身識で、第七識は第二の持身識で、意識は第三の持身識で、五識は第四の持身識です。第八識と第七識の二つの識が共同して持身すれば、五蘊の生命体は世に住むことができますが、五蘊の機能作用は不完全で、ほとんどの衆生は意識の持身作用と五識の持身作用を離れることができません。五蘊の機能が円満に運行し、生命が相続して集まることができます。諸根が互いに作用できる八地以上の菩薩は除きます。第八識は絶対的な持身作用があり、すべての食の根源と基礎で、根本の食ですが、ここの識食はやはり六七識の食を主とします。

衆生が必要とする四種の食は、すべて識食から離れられません。識食を根本の食として五蘊身を摂受し、これを基礎にして触食と思食が必要になります。甚深な禅定がなければ、地水火風の四大の種子からなる抟食が色身の栄養素として必要です。禅定が比較的深ければ、抟食を断ち切ることができ、識食と思食を主として色身を養うことができ、軽微な触食があってもよく、一部の触食を断ち切ることもできます。衆生がこれら四種の食に越えて依存すればするほど、生死は流転し、苦しみは増えます。禅定が深ければ深いほど、これら四種の食への依存は少なくなり、生命はより自在になりますが、第八識への依存は永遠に断ち切ることはできません。第八識を執着しなければよいのです。

原文:此四食何因何集。何生何觸。謂此諸食。愛因愛集。愛生愛觸。此愛何因何集。何生何觸。謂愛受因受集。受生受觸。此受何因何集。何生何觸。謂受觸因觸集。觸生觸觸。

釈:これら四種の食は何を因として現れますか。何によって集まりますか。何が生じて引き起こしますか。何が触れて引き起こしますか。これら四種の食は愛を因として現れ、愛の集まりによって引き起こされ、愛が生じて引き起こされ、愛が触れて引き起こされます。では、この愛は何を因として現れますか。何によって集まり引き起こされますか。何が生じて引き起こされますか。何が触れて引き起こされますか。この愛は受を因として現れ、受の集まりによって引き起こされ、受が生じて引き起こされ、受が触れて引き起こされます。この受は何を因として現れますか。何によって集まり引き起こされますか。何が生じて引き起こされますか。何が触れて引き起こされますか。この受は六根が六塵に触れることを因として現れ、触の集まりによって引き起こされ、触が生じて引き起こされ、六根が六塵に触れることによって引き起こされます。

愛がなければ、愛が滅尽すれば、識食は生じず、触食もなくなり、触食がなければ思食も抟食もなくなり、四種の食は滅尽して生じません。だから貪愛は苦であり、貪愛は生死流転の苦の原因です。

原文:此觸何因何集。何生何觸。謂觸六入處因。六入處集。六入處生。六入處觸。六入處集是觸集。觸集是受集。受集是愛集。愛集是食集。食集故未來世生老病死。憂悲惱苦集。如是純大苦聚集。

如是六入處滅則觸滅。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則食滅。食滅故。於未來世生老病死。憂悲惱苦滅。如是純大苦聚滅。

釈:この触は何を因として現れますか。何によって集まって現れますか。何が生じて引き起こしますか。何が触れて引き起こしますか。触は六入処を因として現れ、六入処の集まりによって引き起こされ、六入処が生じて引き起こされ、六入処が触れてその結果として現れます。六入処の集まりは触の集まりで、触の集まりは受の集まりで、受の集まりは愛の集まりで、愛の集まりは四種の食の集まりです。食の集まりがあるため、未来世の生老病死、憂悲苦悩が集まり、純大苦聚が集まります。

これらの法の関係によって言えば、六入処が滅べば触も滅び、触が滅べば受も滅び、受が滅べば愛も滅び、愛が滅べば四種の食も滅び、四種の食が滅べば、未来世の生老病死、憂悲苦悩、純大苦聚も滅びます。

(三七二)四食と十二因縁の関係

原文:爾時。世尊告諸比丘。有四食資益衆生。令得住世攝受長養。何等爲四。一粗摶食。二細觸食。三意思食。四識食。

釈:世尊は諸比丘に告げます。四種の食があって、衆生を資益し、世に住ませ、摂受して長養させます。どの四種の食でしょうか。第一は粗い飲食。第二は微細な触食。第三は意識と意根の思食。第四は識心の了別食。

原文:時有比丘名曰頗求那。住佛後扇佛。白佛言。世尊。誰食此識。佛告頗求那。我不言有食識者。我若言有食識者。汝應作是問。我說識是食。汝應問言。何因緣故有識食。我則答言。能招未來有。令相續生。

釈:この時、比丘の名前が頗求那という者が、仏の後ろに立って仏に扇ぎながら、仏に言います。世尊、誰がこの識を食べますか。仏は頗求那に告げます。私は識を食べる者があると言っていません。私が識を食べる者があると言ったら、あなたはこう尋ねるべきです。私は識が食であると言います。あなたはこう尋ねるべきです。何の原因で識食がありますか。私はこう答えます。識食は未来世の三界の有を招き、相続して生じさせます。

仏はなぜ七識八識を食べる者がないと言うのでしょうか。仏はなぜ七識八識を食べる者がないと言うのでしょうか。識食を必要とするのは五蘊の衆生で、五蘊の衆生は和合の体で、主宰がなく、識は主宰のない和合の体の中で最も主要な要素で、識は自ら食べることがなく、主宰がなければ食べる者もないからです。なぜ識食があるのでしょうか。仏は識食があるからこそ未来世の三界の有を招くと言います。この言葉から、小乗と中乗の識食は六識の食を指し、六識の食があれば後世の名色があることがわかります。大乗の識食は七八二識を含み、七八二識を主とし、六識を補助とします。

原文:有有故有六入處。六入處緣觸。頗求那複問。爲誰觸。佛告頗求那。我不言有觸者。我若言有觸者。汝應作是問爲誰觸。汝應如是問。何因緣故生觸。我應如是答。六入處緣觸。

釈:有三界の有があるから六入処があり、六入処を縁として触が生じます。頗求那はまた仏に尋ねます。誰が触りますか。仏は頗求那に告げます。私は触る者があると言っていません。私が触る者があると言ったら、あなたはこう尋ねるべきです。誰が触りますか。あなたはこう尋ねるべきです。何の原因で触が生じますか。私はこう答えます。六入処を縁として触が生じます。

なぜ仏は触る者がないと言うのでしょうか。なぜ受ける者、愛する者、取る者、有する者、生まれる者、老いる者、死ぬ者がないのでしょうか。触は根塵が触れ合うことで、内六入と外六入の触で、根塵、内外六入は自性がなく、主宰がなく、主人がないので、触る者も触られる者もなく、触る者がないのです。同じように、受ける者もなく、愛する者もなく、取る者もなく、有する者もなく、生まれる者もなく、老いる者も死ぬ者もないのです。

原文:觸緣受。複問。爲誰受。佛告頗求那。我不說有受者。我若言有受者。汝應問爲誰受。汝應問言。何因緣故有受。我應如是答。觸緣故有受。

受緣愛。複問。世尊。爲誰愛。佛告頗求那。我不說有愛者。我若說言有愛者。汝應作是問爲誰愛。汝應問言。何緣故有愛。我應如是答。緣受故有愛。

釈:触の故に受が生じます。頗求那はまた尋ねます。誰が受けますか。仏は頗求那に告げます。私は受ける者があると言っていません。私が受ける者があると言ったら、あなたはこう尋ねるべきです。誰が受けますか。あなたはこう尋ねるべきです。何の原因で受がありますか。私はこう答えます。触の故に受が生じます。

受の故に愛が生じます。頗求那はまた尋ねます。世尊、誰が貪愛していますか。仏は頗求那に告げます。私は貪愛する者があると言っていません。私が貪愛する者があると言ったら、あなたはこう尋ねるべきです。誰が貪愛していますか。あなたはこう尋ねるべきです。何の原因で貪愛が生じますか。私はこう答えます。受の故に貪愛があります。

原文:愛緣取。複問。世尊爲誰取。佛告頗求那。我不說言有取者。我若說言有取者。汝應問言爲誰取。汝應問言。何緣故有取。我應答言。愛緣故有取。

釈:貪愛に縁して取る行為が生じます。頗求那はまた尋ねます。世尊、誰が取りますか。仏は頗求那に告げます。私は取る者があると言っていません。私が取る者があると言ったら、あなたはこう尋ねるべきです。誰が取りますか。あなたはこう尋ねるべきです。何の因縁で取が生じますか。私はこう答えます。貪愛の故に取が生じます。

原文:取緣有。複問。世尊爲誰有。佛告頗求那。我不說有有者。我若說有有者。汝應問言爲誰有。汝今應問。何緣故有有。我應答言。緣取故有有。能招當來有。觸生是名有。

釈:取に縁して三界の有が生じます。頗求那はまた尋ねます。世尊、誰が有していますか。仏は頗求那に告げます。私は有する者があると言っていません。私が有する者があると言ったら、あなたはこう尋ねるべきです。誰が有していますか。あなたは今こう尋ねるべきです。何の因縁で三界の有が現れますか。私はこう答えます。取る心行があるので、三界の有があります。取ることが未来世の有を招きます。触が生じたとき、これを有と名づけます。

原文:有六入處。六入處緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老病死憂悲惱苦。如是純大苦聚集。謂六入處滅則觸滅。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老病死憂悲惱苦滅。如是純大苦聚集滅。

釈:六入処があるから触があり、六入処の因縁で触が生じ、触の因縁で受が生じ、受に縁して愛があり、愛に縁して取があり、取に縁して有があり、有に縁して生があり、生があるから老病死憂悲苦悩があり、このように純大苦が集まります。六入処が滅べば触も滅び、触が滅べば受も滅び、受が滅べば愛も滅び、愛が滅べば取も滅び、取が滅べば有も滅び、有が滅べば生も滅び、生が滅べば老病死憂悲苦悩も滅び、純大苦聚も滅びます。

十二因縁法の中で、識を食べる者はいません。触る者、受ける者、愛する者、取る者、有する者、生まれる者、老いる者、死ぬ者もいません。なぜなら、これらのすべての法は因縁によって生じるもので、因縁によって生じる法は主宰がなく、主ではありません。それでは、誰が識を食べますか。また誰が触り、受け、愛し、取り、有し、生まれ、老いて病気になり、死ぬのでしょうか。能者はいません。これらのすべてはただ雲のような仮象にすぎず、通り過ぎて残らず、絶えず移り変わり、生滅変異し、得ることはできません。時が過ぎ境が変われば、もはや触れません。たとえ触れても、当時のような受けはなく、さらに愛もなく、取着もありません。しかし、やはり後世の有が免れません。なぜなら、別の触れ、別の受け、愛、取りがあるからです。これが変異です。

主があれば、これらの法は変異しません。常に一つの触れ、常に一つの受け、常に一つの愛、常に一つの取り、常に一つの有、生老病死がありません。主がなければ必ず生滅変異して無常で、一定しないので、必ず識を食べる者、触る者、受ける者、愛する者、取る者、有する者、生まれる者、老いて病気になり、死ぬ者はいません。

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