阿含経十二因縁釋
第二章 雑阿含経第十三巻
第一節 先に法住を知り後に涅槃を知る
(三四七)先に法住を知り後に涅槃を知るの意味
原文:時彼須深默然受請。詣王捨城迦蘭陀竹園。時衆多比丘。出房捨外。露地經行。爾時須深。詣衆多比丘。而作是言。諸尊。我今可得。於正法中。出家受具足。修梵行不。
時衆多比丘。將彼須深。詣世尊所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。今此外道須深。欲求於正法中。出家受具足。修梵行。爾時。世尊知外道須深。心之所念。告諸比丘。汝等當度。彼外道須深。令得出家。時諸比丘願度須深。
釈:外道の須深は黙って外道たちの請いを受け入れ、王舎城の迦蘭陀竹園に行こうとして出家したいと思っています。この時、多くの比丘が房舎の外に出て空き地で経行しています。須深は比丘たちのところに行って言います。「諸尊、私は今、正法の中で出家して具足戒を受け、梵行を修むことができますか。」それから多くの比丘は須深を連れて世尊の住処に行き、頭を下げて礼拝し、退いて側に立って、佛に言います。「世尊、今、外道の須深がいます。正法の中で出家して具足戒を受け、梵行を修むことを望んでいます。」この時、世尊は外道須深の心の中の考えを知り、諸比丘に告げます。「あなたたちはこの外道須深を度して、出家させなさい。」それから諸比丘は須深を度すことを願います。
原文:出家已經半月。有一比丘語須深言。須深當知。我等生死已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。時彼須深語比丘言。尊者。雲何學離欲。惡不善法。有覺有觀。離生喜樂。具足初禪。不起諸漏。心善解脫耶。比丘答言。不也須深。
釈:須深が出家して半月が経ちました。一つの比丘が須深に言います。「須深よ、あなたは知るべきです。私たちこれらの比丘は生死を既に尽くし、清浄な梵行を既に立て、やるべきことを既にやりました。自ら後世に生まれることはないことを知っています。」須深は諸比丘に言います。「尊者、どうやって欲を離れ、悪不善法を離れ、有覚有観して、欲界を離れ、心に喜楽を生じ、初禅定を具足し、そして一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱するのですか。」比丘たちは答えて言います。「そうではない、須深。」
外道たちは誤って、四禅八定を具足してこそ解脱できると考えていますが、仏法はそうではありません。仏法における解脱は定慧を具足した解脱で、初禅以上の禅定だけでなく、解脱の智慧も必要で、無我の解脱の理を証得し、四諦の見地を通達して初めて解脱できます。我見を断じる智慧がなければ、たとえ四禅八定を具足しても、依然として生死を解脱しない凡夫です。外道たちはこの理を知らないので、須深は欲を離れる悪不善法を離れるには、初禅定を修めればよいと思っています。だから比丘たちは須深の初禅定についての問いを否定しました。
原文:複問。雲何離有覺有觀。内淨一心。無覺無觀。定生喜樂。具足第二禪。不起諸漏。心善解脫耶。比丘答言。不也須深。複問。雲何尊者離喜捨心。住正念正智。身心受樂。聖說及捨。具足第三禪。不起諸漏。心善解脫耶。答言。不也須深。
釈:須深はまた尋ねます。「どうやって有覚有観の境界を離れ、内心を浄めて一心になり、無覚無観になり、禅定によって喜楽を生じ、色界第二禅を具足し、そして一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱するのですか。」比丘は答えて言います。「そうではない、須深。」須深はまた尋ねます。「尊者、どうやって喜を離れて心を捨て、正念正智に住し、身心に楽を受け、捨てる喜を得て楽を得て、第三禅を具足し、一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱するのですか。」比丘は答えて言います。「そうではない。」
須深は比丘たちが初禅では解脱できないと言うのを聞いて、第二、第三禅が必要だと思い、比丘たちにどうやって第二、第三禅を修めるか尋ねましたが、結果比丘たちはまた否定し、第二、第三禅を修めても解脱できないと言いました。
原文:複問。雲何尊者。離苦息樂。憂喜先斷。不苦不樂捨。淨念一心。具足第四禪。不起諸漏。心善解脫耶。答言。不也須深。複問。若複寂靜。解脫色無色。身作証具足住。不起諸漏。心善解脫耶。答言。不也須深。
釈:須深はまた尋ねます。「尊者、どうやって苦受を離れ、楽受を滅ぼし、憂喜の心をすべて断ち、不苦不楽の捨心に住み、心が清浄で、一心になり、第四禅を具足し、一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱するのですか。」比丘は答えて言います。「解脱はそうではない。」須深はまた尋ねます。「どうやって心を寂静にし、色界と無色界の縛りを解脱し、身をもって証し、完全に解脱に住み、一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱するのですか。」比丘は答えて言います。「解脱はそうではない。」
原文:須深複問。雲何尊者。所說不同。前後相違。雲何不得禪定。而複記說。比丘答言。我是慧解脫也。作是說已。衆多比丘。各從座起而去。
釈:須深はまた尋ねます。「なぜ尊者は説くことが解脱の実証と異なり、前後が矛盾していますか。なぜ禅定を得られないのに、また記説して、自分は後世がないと証明できると言うのですか。」比丘は答えて言います。「私は智慧によって解脱したのです。」こう言ってから、多くの比丘はそれぞれ座から起きて去りました。
須深は証果して解脱するには四禅八定を修めることでしかできないと思っており、解脱の智慧見地が必要で、智慧で解脱法を知り、解脱法を証明することが必要なことを知らないので、誤解が生じ、それらの阿羅漢が言う自証の境界が解脱の境界と一致しないと思っています。阿羅漢には慧解脱のものもあれば、定解脱のものもあり、俱解脱のものもあります。
慧解脱は初禅定を有していればよく、解脱智慧は必ず具足しなければならず、寿命が尽きたときに解脱智慧に頼って無余涅槃に入ることができます。定解脱の阿羅漢は四禅八定を有しなければならず、同時に解脱の智慧も有し、主に禅定に頼って解脱し、無余涅槃に入り、寿命は自分で掌握でき、長くも短くもできます。俱解脱の阿羅漢は四禅八定だけでなく、滅尽定も有し、解脱の智慧も具足しなければならず、滅尽定の中でいつでもどこでも無余涅槃に入ることができ、寿命が尽きるのを待つ必要はありません。
原文:爾時。須深知衆多比丘去已。作是思惟。此諸尊者。所說不同。前後相違。言不得正受。而複記說。自知作証。作是思惟已。往詣佛所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。彼衆多比丘。於我面前記說。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。
釈:この時、須深は多くの比丘が去ったことを知って、こう思惟します。これらの尊者たちは、説くことが解脱と異なり、前後が一致しない。正受を得られないと言いながら、また記説しています。自分は証明できると言います。こう思惟した後、須深は佛の住む所に行きます。頭を下げて礼拝し、退いて側に立って、佛に言います。「世尊、先ほど多くの比丘が私の前で言いました。私は生を尽くし、梵行を立て、所作をなし、自ら後世がないことを知っています。」
原文:我即問彼尊者。得離欲惡不善法。乃至身作証。不起諸漏。心善解脫耶。彼答我言。不也須深。我即問言。所說不同。前後相違。言不入正受。而複記說。自知作証。彼答我言。得慧解脫。作此說已。各從座起而去。我今問世尊。雲何彼所說不同。前後相違。不得正受。而複說言。自知作証。
釈:私はすぐにそれらの尊者たちに尋ねました。「欲を離れ、悪不善法を離れ、乃至身をもって証し、一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱したのですか。」彼らは私に答えて言います。「いや、須深。」私はすぐに尋ねました。「あなたたちの説くことが解脱と異なり、前後が矛盾しています。正受を得られないと言いながら、また記説して、自分は証明できると言います。」彼らは私に答えて言います。「慧解脱を得たのです。」こう言ってから、それぞれ座から起きて去りました。私は今世尊に尋ねます。なぜ彼らの説くことが実際の解脱の状況と異なり、前後が矛盾しているのに、また自分は証明できると言うのですか。
原文:佛告須深。彼先知法住。後知涅槃。彼諸善男子。獨一靜處。專精思惟。不放逸住。離於我見。不起諸漏。心善解脫。須深白佛。我今不知。先知法住。後知涅槃。彼諸善男子。獨一靜處。專精思惟。不放逸住。離於我見。不起諸漏。心善解脫。
釈:佛は須深に告げます。「彼らは先に法住を知り、それから涅槃を知ります。それらの善男子たちは、独りで静かなところにいて、専心して思惟し、放逸せずに住み、我見を離れるので、一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱します。」須深は佛に言います。「私は今、先に法住を知り、後に涅槃を知ることがわかりません。それらの善男子たちは、独りで静かなところにいて、専心して思惟し、放逸せずに住み、我見を離れ、一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱することがわかりません。」
原文:佛告須深。不問汝知不知。且自先知法住。後知涅槃。彼諸善男子獨一靜處。專精思惟。不放逸住。離於我見。心善解脫。須深白佛。唯願世尊爲我說法。令我得知法住智。得見法住智。
釈:佛は須深に告げます。「私はあなたに尋ねません。あなたが今知っているかどうかではなく、あなた自身が先に法住を知り、そして涅槃を知りなさい。それらの善男子たちは独りで静かなところにいて、解脱法を専心して思惟し、心が放逸せずに修行し、我見を離れ、心善く解脱します。」須深は佛に言います。「唯、世尊のお説法を願います。私に法住智を知らせ、法住智を見せてください。」
先に法住を知るとは、どんな法がどんな法に住むことを知るのでしょうか?それは十二因縁法を知り、十二因縁法に住むことができ、心が他のことを考えないことです。ある人は、先に法住を知るとは先に第八識如来蔵を知ると言いますが、この説法は間違っています。ここの法は十二因縁法を指し、第八識如来蔵ではありません。先に十二因縁を理解し、定中で十二因縁法を思惟してこそ、涅槃を証得し、解脱を得ることができます。法住智は十二因縁を証得する智慧であり、第八識を証得する智慧ではありません。もしこの法理を明確に理解しなければ、十二因縁法を実証して解脱を得ることはできません。
後に涅槃を知るとは、どうやって解脱を得るかを知り、そして涅槃を証得することです。心善く解脱する人は、必ず初禅定を有し、我見を断じて初果を証得した後、この定中でこの禅定によって貪嗔痴の煩悩の結縛を断ち、三果の人や四果の阿羅漢となり、心が解脱し、有余涅槃と無余涅槃を証得します。
原文:佛告須深。我今問汝。隨意答我。須深。於意雲何。有生故有老死。不離生有老死耶。須深答曰。如是。世尊。有生故有老死。不離生有老死。
釈:佛は須深に告げます。「私は今あなたに尋ねます。気軽に答えてください。須深、あなたはどう思いますか。生があるから老病死があり、生から離れて老病死があることはないでしょうか。」須深は答えます。「はい、世尊。生があるから老病死があり、生から離れて老病死があることはありません。」
原文:佛又問。如是生有。取愛受觸。六入處名色。識行無明。有無明故有行。不離無明。而有行耶。須深白佛。如是。世尊。有無明故有行。不離無明而有行。
釈:佛はまた尋ねます。「このように、有があるから生があり、有から離れて生があることはない。取があるから有があり、取から離れて有があることはない。愛があるから取があり、愛から離れて取があることはない。受があるから愛があり、受から離れて愛があることはない。触があるから六入があり、触から離れて六入があることはない。名色があるから六入があり、名色から離れて六入があることはない。識があるから名色があり、識から離れて名色があることはない。行があるから識があり、行から離れて識があることはない。無明があるから行があり、無明から離れて行があることはないでしょうか。」須深は佛に言います。「はい、世尊。無明があるから行があり、無明から離れて行があることはありません。」
原文:佛告須深。無生故無老死。不離生滅而老死滅耶。須深白佛言。如是。世尊。無生故無老死。不離生滅而老死滅。佛告須深。如是。乃至無無明故無行。不離無明滅而行滅耶。須深白佛。如是。世尊。無無明故無行。不離無明滅而行滅。
釈:佛は須深に告げます。「無生だから無老病死で、生の滅から離れて老病死の滅があることはないでしょうか。」須深は佛に言います。「はい、世尊。無生だから無老病死で、生の滅から離れて老病死の滅があります。」佛は須深に告げます。「このように、乃至于無無明だから無行で、無明の滅から離れて行の滅があることはないでしょうか。」須深は佛に言います。「はい、世尊。無無明だから無行で、無明の滅から離れて行の滅があります。」
原文:佛告須深。作如是知。如是見者。爲有離欲。惡不善法。乃至身作証。具足住不。須深白佛。不也。世尊。佛告須深。是名先知法住。後知涅槃。彼諸善男子獨一靜處。專精思惟。不放逸住。離於我見。不起諸漏。心善解脫。佛說此經已。尊者須深。遠塵離垢。得法眼淨。
釈:佛は須深に告げます。「このように知り、このように見る人は、欲を離れ、悪不善法を離れ、乃至身をもって証し、完全に住むことができますか。」須深は答えます。「いいえ、世尊。」佛は須深に告げます。「これが先に法住を知り、後に涅槃を知るということです。それらの善男子たちは独りで静かなところにいて、専心して思惟し、放逸せずに住み、我見を離れ、一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱します。」佛がこの経を説き終えると、尊者須深は五陰の塵世間から遠ざかり、汚れから離れ、法眼を得て清浄になりました。
この段落で、佛は須深に十二因縁法の理を説きました。ただこれらの知見があれば身をもって証して解脱できるでしょうか?明らかにそうではありません。これらの知見を理解しただけでは解に過ぎず、後に静かなところで禅定して思惟しなければならず、それから完全に住むことができ、身心が完全に十二因縁法に住み、最後に我見を断ち切り、初禅定を具足し、煩悩漏を断ち切り、心が解脱し、智慧も解脱します。須深は佛が十二因縁法を説いたのを聞いて、心も五陰世間の塵境から離れ、煩悩の汚れから離れ、法を見る心眼が清浄になり、もはや五陰世間を見ず、むしろ縁起法を見て、縁起法に住みます。
ある人は須深が法を聞いてすぐに証果したと見て、証果はとても簡単だと思うかもしれません。禅定がなくても、法を聞いたときに思惟して、理解すれば証果したと思うかもしれません。実際はそんなに簡単ではありません。前提条件があります。つまり、この人は必ず禅定を有していなければならず、証法の因縁が具足していなければなりません。当時、佛力の加持の下で、証法に必要な因縁条件を満たすことができます。法を聞くと同時に、未到地定が具足し、一心に法を聞いて観行し、少しの雑念もなく、非常に専一で、法義が意根の中に深く入り、完全に情思意解を超えて、速度が速くて意識の情思意解の機会さえないほどです。これは普段禅定の訓練があるため、意根は専心して思量することに慣れており、性障煩悩が軽微で、法に出会うとすぐに思量し、遮障がないからです。だから証果は速いです。
もし佛の側にいなければ、佛の磁場と加持力がなければ、速やかに証果することはできず、証果の因縁を速やかに完備することもできません。どんな善知識も遠く佛の摂受力ほど大きくなく、佛ほど強力な磁場と加持力もありません。一人が修行して非常によければ、磁場の影響力は非常に大きく、心が清浄な人は強い染め上げ力と感染力があり、周りの人の心を清浄にさせ、禅定を生じさせ、一心になり、禅定の中にいて、続いて智慧を生じさせ、智慧を高めます。だから佛の側で法を聞く人は、一定の得法の因縁を有していれば、佛陀の威徳力が彼に得法の因縁条件を加持して、証法はとても容易になります。
(三五二)如実に因縁法を知らなければ道を証得できない
原文:爾時。世尊告諸比丘。若諸沙門婆羅門。於法不如實知。法集法滅。法滅道跡不如實知。彼非沙門沙門數。非婆羅門婆羅門數。彼亦非沙門義。婆羅門義。見法自知作証。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。
釈:世尊は諸比丘に告げます。もし沙門や婆羅門が法を如実に知らなければ、法の集起と滅去、法滅の道跡を如実に知らなければ、彼らは沙門ではなく、沙門の数に入らず、婆羅門でもなく、婆羅門の数に入らない。彼らも真の沙門ではなく、真の婆羅門でもなく、法を見ても自分で証明できず、「我生已尽、梵行已立、所作已作、自知不受後有」とは言えない。
原文:雲何法不如實知。雲何法集不如實知。雲何法滅不如實知。雲何法滅道跡。不如實知。謂於老死法。不如實知。老死集老死滅。老死滅道跡。不如實知。如是生有。取愛受觸。六入處不如實知。六入處集。六入處滅。六入處滅道跡。不如實知。如是諸法。不如實知。法集法滅。法滅道跡。不如實知。
釈:何が法を如実に知らないということか。何が法の集起を如実に知らないということか。何が法の滅を如実に知らないということか。何が法滅の道跡を如実に知らないということか。つまり老死法を如実に知らないということは、老死法の集起と滅去、老死法滅の道跡を如実に知らないことである。同じように生、有、取、愛、受、触、六入処の法を如実に知らないということは、生、有、取、愛、受、触、六入処の法の集起、滅去、滅の道跡を如実に知らないことである。同様に諸法を如実に知らないということは、諸法の集起、滅去、滅の道跡を如実に知らないことである。
原文:若諸沙門婆羅門。於法如實知。法集法滅。法滅道跡。如實知。當知是沙門婆羅門。沙門之沙門數。婆羅門之婆羅門數。彼以沙門義。婆羅門義。見法自知作証。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。
釈:もし諸沙門や婆羅門が法を如実に知り、法の集起と滅去、法滅の道跡を如実に知れば、これらの沙門や婆羅門こそ真の沙門や婆羅門であり、沙門の数にも入り、婆羅門の数にも入る。これらの沙門や婆羅門は沙門や婆羅門の名にふさわしく、因縁法を見て自分で証明でき、「我生已尽、梵行已立、所作已作、自知不受後有」と言える。
原文:何等法如實知。何等法集法滅。法滅道跡如實知。謂老死法如實知。老死集老死滅。老死滅道跡如實知。如是生有。取愛受觸。六入處如實知。六入處集。六入處滅。六入處滅道跡如實知。如是諸法如實知。法集法滅。法滅道跡如實知。
釈:何が法を如実に知ることか。何が法の集起、法の滅、法滅の道跡を如実に知ることか。つまり老死法を如実に知ることは、老死法の集起、滅去、滅の道跡を如実に知ることである。同じように生、有、取、愛、受、触、六入処の法を如実に知ることは、生、有、取、愛、受、触、六入処の法の集起、滅去、滅の道跡を如実に知ることである。同様に諸法を如実に知ることは、諸法の集起、滅去、滅の道跡を如実に知ることである。
(三五四)六入処を如実に知らなければ後の支分を如実に知ることはできない
原文:爾時。世尊告諸比丘。若諸沙門婆羅門。於六入處。不如實知。而欲超度觸者。無有是處。觸集觸滅。觸滅道跡超度者。無有是處。如是超度受愛取有。生老死者。無有是處。超度老死集老死滅。老死滅道跡者。無有是處。
釈:世尊は諸比丘に告げます。もし沙門や婆羅門が六入処を如実に知らなければ、触を超越しようとすることはありえません。触の集起と滅去、触滅の道跡を超越しようとすることはありえません。同じように、もし沙門や婆羅門が触を如実に知らず、触の集起と滅去、滅の道跡を如実に知らなければ、受、愛、取、有、生、老病死を超越しようとすることはありえません。生、老病死の集起と滅去、滅の道跡を超越しようとすることはありえません。
原文:若沙門婆羅門。於六入處如實知。六入處集。六入處滅。六入處滅道跡如實知。而超度觸者。斯有是處。如是超度。受愛取有。生老死者。斯有是處。乃至超度老死滅道跡者。斯有是處。
釈:もし沙門や婆羅門が六入処を如実に知り、六入処の集起と滅去、滅の道跡を如実に知れば、触を超越することが可能です。同じように、触、触の集起と滅去、滅の道跡を如実に知った後、受、愛、取、有、生、老病死を超越することが可能です。さらに、生、老病死の集起と滅去、滅の道跡を超越することも可能です。
十二因縁法を修行する際、前の因縁を如実に知り、如実に証得できなければ、後の因縁やそれ以降のすべての因縁を超越して如実に知り、如実に証得することはできません。なぜなら、前の因縁は後の因縁の因と縁であり、前が通じなければ、自然に後の因縁やそれ以降の因縁も通じないからです。だから修行は順番に一つ一つの法を観行しなければなりません。忍耐が必要で、焦りや飛び越えることはできません。そうでなければ、どの法も証得できず、如実に知ることはできません。
(三五五)如何に緣起法の各支を覚知するか
原文:爾時。世尊告諸比丘。當覺知老死。覺知老死集老死滅。老死滅道跡。如是。乃至當覺知行。行集行滅。行滅道跡。
釈:世尊は諸比丘に告げます。あなたたちは老病死を覚知すべきです。老病死の集起、老病死の滅去、老病死滅の道跡を覚知しなさい。このように、生を覚知し、生の集起、生の滅去、生滅の道跡を覚知しなさい。有を覚知し、有的集起、有的滅去、有滅の道跡を覚知しなさい。取を覚知し、取の集起、取の滅去、取滅の道跡を覚知しなさい。愛を覚知し、愛の集起、愛の滅去、愛滅の道跡を覚知しなさい。受を覚知し、受の集起、受の滅去、受滅の道跡を覚知しなさい。触を覚知し、触の集起、触の滅去、触滅の道跡を覚知しなさい。六入処を覚知し、六入処の集起、六入処の滅去、六入処滅の道跡を覚知しなさい。名色を覚知し、名色の集起、名色の滅去、名色滅の道跡を覚知しなさい。六識を覚知し、六識の集起、六識の滅去、六識滅の道跡を覚知しなさい。行を覚知し、行の集起、行の滅去、行滅の道跡を覚知しなさい。
原文:雲何當覺知老死。覺知緣生。故有老死。如是老死覺知。雲何老死集。生集是老死集。如是老死集覺知。雲何老死滅覺知。謂生滅是老死滅。如是老死滅覺知。雲何老死滅道跡覺知。謂八聖道是老死滅道跡。如是老死滅道跡覺知。
釈:どうやって老病死を覚知すべきでしょうか。生に縁して老病死があることを覚知すべきです。このように老病死を覚知します。老病死がどのように集まるかを覚知するには、生が集まれば老病死が集まることを知るべきです。このように老病死の集起を覚知します。老病死がどのように滅ぶかを覚知するには、生が滅べば老病死が滅ぶことを知るべきです。このように老病死の滅を覚知します。老病死滅の道跡を覚知するには、八正道が老病死滅の道跡であることを知るべきです。このように老病死滅の道跡を覚知します。
原文:乃至雲何行覺知。謂三行。身行口行意行。如是行覺知。雲何行集覺知。謂無明集是行集。如是行集覺知。雲何行滅覺知。無明滅是行滅。如是行滅覺知。雲何行滅道跡覺知。謂八聖道是行滅道跡。如是行滅道跡覺知。
釈:老病死滅の道跡を覚知するように、さらに最後に行をどのように覚知するか。身行、口行、意行(実際には意根の行で、身口意行は六識の後にはありえないので、六識の前に現れるべきです。)を知ることで行を覚知します。行がどのように集まるかを覚知するには、无明が集まれば行が集まることを知るべきです。このように行集を覚知します。行がどのように滅ぶかを覚知するには、无明が滅べば行が滅ぶことを知るべきです。このように行滅を覚知します。行滅の道跡を覚知するには、八正道が行滅の道跡であることを知るべきです。このように行滅道跡を覚知します。
八正道は我見を断じ、法眼を得る前に必修の内容です。四諦法を修行するにしても十二因縁法を修行するにしても、八正道を修行し、八正道を具足しなければ、見道の因縁を具足できず、小乗や中乗の見道はできません。八正道を修行することは心を修めるためで、心が正しくなければ道に入ることはできず、聖賢人になることはできません。