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阿含経十二因縁釋

作者:释生如更新時間:2024年11月10日

第三章  長阿含経の十二因縁法

第一節  長阿含大縁方便経第九

原文:爾時。佛告阿難。緣生有老死。此爲何義。若使一切衆生。無有生者。寧有老死不。阿難答曰。無也。是故阿難。以此緣。知老死由生。緣生有老死。我所說者。義在於此。

釈:仏は阿難に告げて、縁によって生があり、老と死があるというのは、どういう意味でしょうか。もしすべての衆生に生がなければ、老と死はありません。阿難は「ない」と答えました。仏は「だから、阿難、この縁によって、老と死は生によってあることを知る。縁によって生があり、老と死がある。私が言ったのは、この意味がある」と言いました。

原文:又告阿難。緣有有生。此爲何義。若使一切衆生。無有欲有。色無色有者。寧有生不。答曰。無也。 阿難。我以此緣。知生由有。緣有有生。我所說者。義在於此。

釈:仏はまた阿難に告げて、縁によって有があり、生があるというのは、どういう意味でしょうか。もしすべての衆生に欲界の有、色界の有、無色界の有がなければ、生はありません。阿難は「ない」と答えました。仏は「阿難、私はこの縁によって、生は有によってあることを知る。縁によって有があり、生がある。私が言ったのは、この意味がある」と言いました。

原文:又告阿難。緣取有有。此爲何義。若使一切衆生。無有欲取。見取戒取。我取者。寧有有不。答曰。無也。阿難。我以此緣。知有由取。緣取有有。我所說者。義在於此。

釈:仏はまた阿難に告げて、縁によって取があり、有があるというのは、どういう意味でしょうか。もしすべての衆生に貪欲取、我見を先頭とする種々の邪見の取、解脱できない非戒を解脱できる戒としての戒取、自我の五陰に対する我取がなければ、有はありません。阿難は「ない」と答えました。仏は「阿難、私はこの縁によって、有は取によってあることを知る。縁によって取があり、有がある。私が言ったのは、この意味がある」と言いました。

原文:又告阿難。緣愛有取。此爲何義。若使一切衆生。無有欲愛。有愛無有愛者。寧有取不。答曰。無有。阿難。我以此緣。知取由愛。緣愛有取。我所說者。義在於此。

釈:仏はまた阿難に告げて、縁によって愛があり、取があるというのは、どういう意味でしょうか。もしすべての衆生に欲界への貪愛、色界への貪愛、無色界への貪愛がなければ、取はありません。阿難は「ない」と答えました。仏は「阿難、私はこの縁によって、取は愛によってあることを知る。縁によって愛があり、取がある。私が言ったのは、この意味がある」と言いました。

原文:又告阿難。緣受有愛。此爲何義。若使一切衆生。無有樂受苦受。不苦不樂受者。寧有愛不。答曰。無也。阿難。我以此緣。知愛由受。緣受有愛。我所說者。義在於此。

釈:仏はまた阿難に告げて、縁によって受があり、愛があるというのは、どういう意味でしょうか。もしすべての衆生に楽受、苦受、不苦不楽受がなければ、愛はありません。阿難は「ない」と答えました。仏は「阿難、私はこの縁によって、愛は受によってあることを知る。縁によって受があり、愛がある。私が言ったのは、この意味がある」と言いました。

原文:阿難。當知因愛有求。因求有利。因利有用。因用有欲。因欲有著。因著有嫉。因嫉有守。因守有護。阿難。由有護故。有刀杖諍訟。作無數惡。我所說者。義在於此。

釈:阿難、あなたは知るべきです。貪愛によって求めがあり、求めによって利益があり、利益によって用いがあり、用いによって欲望があり、欲望によって執着があり、執着によって嫉妬があり、嫉妬によって守りがあり、守りによって護りがあります。阿難、護りがあるために、刀杖の争いと訴訟があり、無数の悪を作ります。私が言ったのは、この意味があります。

原文:阿難。此爲何義。若使一切衆生。無有護者。當有刀杖諍訟。起無數惡不。答曰。無也。是故。阿難。以此因緣。知刀杖諍訟。由護而起。緣護有刀杖諍訟。阿難。我所說者。義在於此。

釈:阿難、これはどういう意味でしょうか。もしすべての衆生に財色名食睡などの利益を守る心がなければ、刀杖の争いと訴訟が起こり、無数の悪はありません。阿難は「ない」と答えました。仏は「だから、阿難、この因縁によって、刀杖の争いと訴訟は護る心によって起こることを知る。縁によって護りがあり、刀杖の争いと訴訟がある。阿難。私が言ったのは、この意味がある」と言いました。

原文:又告阿難。因守有護。此爲何義。若使一切衆生無有守者。寧有護不。答曰。無也。阿難。我以此緣。知護由守。因守有護。我所說者。義在於此。

釈:仏はまた阿難に告げた。財色名食睡などの自身の利益を守る心があるから、庇護の行為がある。これはどういう意味か。もし衆生に守る心がなければ、庇護の行為があるだろうか。阿難は答えて言った。守る心がなければ庇護もない。仏は言った。阿難、この故に、私は庇護の行為が守る心によってあることを知る。守る心によって庇護がある。私が言ったのは、この意味がある。

原文:阿難。因嫉有守。此爲何義。若使一切衆生無有嫉者。寧有守不。答曰。無也。阿難。我以此緣。知守由嫉。因嫉有守。我所說者。義在於此。

釈:阿難、嫉妬があるから守る心がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に嫉妬心がなければ、守る心があるだろうか。阿難は答えて言った。嫉妬がなければ守る心もない。仏は言った。阿難、この縁によって、私は守る心が嫉妬によってあることを知る。嫉妬によって守る心がある。私が言ったのは、この意味がある。

原文:阿難。因著有嫉。此爲何義。若使一切衆生無有著者。寧有嫉不。答曰。無也。阿難。我以此緣。知嫉由著。因著有嫉。我所說者。義在於此。

釈:阿難、執着があるから嫉妬がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に執着がなければ、嫉妬があるだろうか。阿難は答えて言った。執着がなければ嫉妬もない。仏は言った。阿難、この縁によって、私は嫉妬が執着によってあることを知る。執着によって嫉妬がある。私が言ったのは、この意味がある。

原文:阿難。因欲有著。此爲何義。若使一切衆生無有欲者。寧有著不。答曰。無也。阿難。我以此緣。知著由欲。因欲有著。我所說者。義在於此。

釈:阿難、欲があるから執着がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に欲がなければ、執着があるだろうか。阿難は答えて言った。欲がなければ執着もない。仏は言った。阿難、この縁によって、私は執着が欲によってあることを知る。欲によって執着がある。私が言ったのは、この意味がある。

原文:阿難。因用有欲。此爲何義。若使一切衆生無有用者。寧有欲不。答曰。無也。阿難。我以此義。知欲由用。因用有欲。我所說者。義在於此。

釈:阿難、用があるから欲がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に用がなければ、欲があるだろうか。阿難は答えて言った。用がなければ欲もない。仏は言った。阿難、この道理によって、私は欲が用によってあることを知る。用によって欲がある。私が言ったのは、この意味がある。

原文:阿難。因利有用。此爲何義。若使一切衆生無有利者。寧有用不。答曰。無也。阿難。我以此義。知用由利。因利有用。我所說者。義在於此。

阿難。因求有利。此爲何義。若使一切衆生無有求者。寧有利不。 答曰。無也。阿難。我以此緣。知利由求。因求有利。我所說者。義在於此。

釈:阿難、利があるから用がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に利がなければ、用をしようとする心があるだろうか。阿難は答えて言った。利がなければ用もない。仏は言った。阿難、私はこの道理によって、用が利によってあることを知る。利があるから用をしようとする。私が言ったのは、この意味がある。

阿難、求めがあるから利があるという説は、これはどういう意味か。もし一切の衆生に貪欲な求めがなければ、何の利益があるだろうか。阿難は答えて言った。求めがなければ利益の説もない。仏は言った。阿難、私はこの故に、利益が求めによってあることを知る。求めがあるから利益がある。私が言ったのは、この意味がある。

原文:阿難。因愛有求。此爲何義。若使一切衆生無有愛者。寧有求不。 答曰。無也。阿難。我以此緣。知求由愛。因愛有求。我所說者。義在於此。又告阿難。因愛有求。至於守護。受亦如是。因受有求。至於守護。

釈:阿難、愛があるから求めがある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に愛がなければ、求めがあるだろうか。阿難は答えて言った。愛がなければ求めもない。仏は言った。阿難、この縁によって、私は求めが愛によってあることを知る。愛によって求めがある。仏はまた阿難に告げた。愛によって求めがあり、守護に至る。受も同じで、受によって求めがあり、守護に至る。

原文:佛告阿難。緣觸有受。此爲何義。阿難。若使無眼無色。無眼識者。寧有觸不。 答曰。無也。若無耳聲耳識。鼻香鼻識。舌味舌識。身觸身識。意法意識者。寧有觸不。答曰。無也。

阿難。若使一切衆生無有觸者。寧有受不。答曰。無也。阿難。我以是義。知受由觸。緣觸有受。我所說者。義在於此。

釈:仏は阿難に告げた。触によって受がある。これはどういう意味か。阿難、もし眼根と色塵がなく、眼識もなければ、触があるだろうか。阿難は答えて言った。根塵識がなければ触もない。仏は言った。もし耳根、声塵、耳識がなく、鼻根、香塵、鼻識がなく、舌根、味塵、舌識がなく、身根、触塵、身識がなく、意根、法塵、意識がなければ、触があるだろうか。阿難は答えて言った。根塵識がなければ触もない。

仏は言った。阿難、もし一切の衆生に触がなければ、受があるだろうか。阿難は答えて言った。触がなければ受もない。仏は言った。阿難、この道理によって、私は受が触によってあることを知る。触によって受がある。私が言ったのは、この意味がある。

原文:阿難。緣名色有觸。此爲何義。若使一切衆生無有名色者。寧有心觸不。 答曰。無也。 若使一切衆生無形色相貌者。寧有身觸不。答曰。無也。阿難。若無名色。寧有觸不。答曰。無也。阿難。我以是緣。知觸由名色。緣名色有觸。我所說者。義在於此。 

釈:阿難、名色によって触がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に名色がなければ、触する心があるだろうか。阿難は答えて言った。名色がなければ触もない。仏は言った。もし一切の衆生に有形の色体と相貌がなければ、身触があるだろうか。阿難は答えて言った。形色がなければ身触もない。仏は言った。阿難、もし名色がなければ、触があるだろうか。阿難は答えて言った。名色がなければ触もない。仏は言った。阿難、この故に、私は触が名色によってあることを知る。名色によって触がある。私が言ったのは、この意味がある。

原文:阿難。緣識有名色。此爲何義。若識不入母胎者。有名色不。答曰。無也。若識入胎不出者。有名色不。答曰。無也。若識出胎。嬰孩壞敗。名色得增長不。答曰。無也。阿難。若無識者。有名色不。答曰。無也。阿難。我以是緣。知名色由識。緣識有名色。我所說者。義在於此。

釈:阿難、識(阿頼耶識)によって名色がある。これはどういう意味か。もし阿頼耶識が母胎に入らなければ、名色があるだろうか。阿難は答えて言った。識が入胎しなければ名色はない。仏は言った。もし阿頼耶識が入胎して母胎から出なければ、名色があるだろうか。阿難は言った。出胎しなければ名色はない。仏は言った。もし阿頼耶識が母胎から出て、嬰児の色身が壊死したら、名色は増長できるだろうか。阿難は言った。名色は増長できない。仏は言った。阿難、もし阿頼耶識がなければ、名色があるだろうか。阿難は言った。阿頼耶識がなければ名色はない。阿難、私はこの故に、名色が阿頼耶識によって生まれることを知る。阿頼耶識によって名色がある。私が言ったのは、この意味がある。

これは十因縁法の意味で、名色が生まれる最も直接的な因縁は阿頼耶識であることを明らかにしている。六識はただ名色が生まれる助縁に過ぎず、六識が清浄になって、もう業行を作らなくなれば、阿頼耶識は名色を生まれさせることができず、生死は終わる。阿頼耶識は入胎から出胎まで、生命のあらゆる段階で名色に伴っており、名色を絶えず増長させ、変異させる。一旦名色の縁がなくなれば、阿頼耶識はもう名色を増長させたり、名色に伴ったりすることができない。

ある人は十因縁の識を六識だと誤解するが、入胎するとき六識は消えてしまう。六識は入胎して後世についていくことができない。入胎してから長い間六識は生まれることができず、甚だしきに至っては眼識は出胎してからしか生まれない。だから入胎して住胎するのは六識ではなく、阿頼耶識である。仏は十因縁の中で直接に名色が生まれる根本的な因が阿頼耶識であることを指摘しており、阿頼耶識は名色の依り所であり、源である。

原文:阿難。緣名色有識。此爲何義。若識不住名色。則識無住處。若無住處。寧有生老病死。憂悲苦惱不。答曰。無也。阿難。若無名色。寧有識不。答曰。無也。 阿難。我以此緣。知識由名色。緣名色有識。我所說者。義在於此。

釈:阿難、名色によって阿頼耶識があり、つまり阿頼耶識が現れて、阿頼耶識が見える。これはどういう意味か。もし阿頼耶識が名色に住まなければ、阿頼耶識には住処がなくなる。もし阿頼耶識に住処がなければ、衆生の生老病死、憂悲苦悩があるだろうか。阿難は言った。阿頼耶識に住処がなければ、生老病死はない。仏は言った。阿難、もし名色がなければ、阿頼耶識が見えて、阿頼耶識の現れがあるだろうか。阿難は言った。名色がなければ、阿頼耶識は現れない。仏は言った。阿難、この故に、私は阿頼耶識が名色によって住処があり、名色によって阿頼耶識が現れることを知る。私が言ったのは、この意味がある。

「名色によって識がある」の「ある」という字は、生まれるという意味ではなく、現れると見えるという意味である。阿頼耶識は不生不滅で、名色によって生まれず、名色も何の法も生み出せず、更に阿頼耶識を生み出すことはできない。もし名色がなければ、阿頼耶識は依りどころがなく、阿頼耶識は名色に依り、名色に住まなければ、何の作用も現れない。仏は後にも説明している。もし阿頼耶識が名色に住まなければ、住処がなくなる。住処がなければ名色がなく、名色がなければ生老病死はない。十因縁法の意味は甚だ深く、理解しにくいが、正しく解釈すべきである。

原文:阿難。是故名色緣識。識緣名色。名色緣六入。六入緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老死憂苦悲惱。大苦隂集。阿難。齊是爲語。齊是爲應。齊是爲限。齊此爲演說。齊是爲智觀。齊是爲衆生。阿難。諸比丘於此法中。如實正觀。無漏心解脫。阿難。此比丘當名爲慧解脫。

釈:阿難、この故に名色は阿頼耶識によってあり、阿頼耶識は名色によって住処と功用があると言える。名色があれば六入が生じ、六入があれば触が生じ、触があれば受が生じ、受があれば愛が生じ、愛があれば取が生じ、取があれば三界の有が生じ、有があれば生があり、生があれば老病死、憂悲苦悩、純大苦陰の集まりがある。阿難、これこそ正しい言葉と論義であり、これこそ最も修習すべき法義であり、これこそ最も究極の法門であり、これこそ真の仏法の宣演であり、これこそ智慧ある観察であり、これこそ衆生を度する法寶である。阿難、諸比丘はこの法の中で、如実にして正しく観察し、煩悩漏心を断じて解脱を得る。阿難、このように正しく観察する比丘を慧解脱の阿羅漢という。

慧解脱の阿羅漢はその解脱の智慧が禅定の修行より勝っており、その禅定は初禅に至るだけで、二禅または四禅以上の甚深な禅定を具えていない。命終の時に主に解脱の智慧によって三界を捨てて涅槃に入る。解脱の智慧とは完全に五蘊の苦空無常無我を証得し、我執など一切の貪瞋痴の煩悩を断じ尽くし、一念無明が滅尽し、五蘊が即座に滅ぶことである。慧解脱とは智慧だけがあって禅定がないというわけではなく、禅定があまり深くなく、解脱が禅定を主とせず、禅定によって解脱を得るのではなく、解脱の智慧によって三界の法を滅尽させるということである。慧解脱の阿羅漢は最も基本的に初禅定を有していなければならず、初禅定がなければ、煩悩を断じ尽くすことは不可能であり、心は無漏になれず、煩悩を断じ尽くせなければ解脱できない。

原文:如是解脫比丘。如來終亦知。如來不終亦知。如來終不終亦知。如來非終非不終亦知。何以故。阿難。齊是爲語。齊是爲應。齊是爲限。齊是爲演說。齊是爲智觀。齊是爲衆生。如是盡知已。無漏。心解脫。比丘不知不見。如是知見。

釈:このように解脱した比丘は、如来が涅槃することも知り、如来が涅槃しないことも知り、如来が涅槃するか涅槃しないかも知り、如来が非涅槃で非不涅槃であることも知る。なぜこう言うのか。阿難、このように言うからこそ正しい言葉であり、このように言うからこそ最も適切であり、このように言うからこそ最も究極であり、このように言うからこそ法を演説していることになり、このように言うからこそ智慧ある観察であり、このように言うからこと衆生を度すことになる。心解脱した比丘はこのように如来の涅槃・不涅槃を完全に知った後、煩悩漏が尽き、心が解脱するが、他の比丘はこのような知見を知らず、見えない。

原文:阿難。夫計我者。齊幾名我見。名色與受。俱計以爲我。有人言受非我。我是受。或有言受非我。我非受。受法是我。或有言受非我。我非受。受法非我。但愛是我。

釈:阿難、我を計着する人には、どのようなものが我見と呼ばれるのか。名色五陰と受ける感覚を全部我として捉えること、これが我見である。ある人は受ける感覚は我ではないが、我は受けるものであると言う。またある人は受ける感覚は我ではなく、我も受けるものではないが、受けることができる法こそが我であると言う。またある人は受ける感覚は我ではなく、我も受けるものではないし、受けることができるものと受けられるものという法も我ではないが、愛こそが我であると言う。

原文:阿難。彼見我者。言受是我。當語彼言。如來說三受。樂受苦受。不苦不樂受。當有樂受時。無有苦受。不苦不樂受。有苦受時。無有樂受。不苦不樂受。有不苦不樂受時。無有苦受樂受。

釈:阿難、どの見法の中に我があるのか。受ける感覚が我であると言う人に対して、次のように告げるべきである。如来は受けるものに三種類があると言っている。楽受、苦受、不苦不楽受である。楽受があるとき、苦受と不苦不楽受はない。苦受があるとき、楽受と不苦不楽受はない。不苦不楽受があるとき、楽受と苦受はない。

我を計着するという意味は、凡夫の心の中では常に五蘊十八界を誤って永続的で、主宰のある法と考えていることである。この法とは世俗法の我を指し、非世俗の第八識如来蔵を指すものではない。なぜなら、衆生は無始以来、第八識があることを知らず、甚だしきに至っては七識も知らず、真偽の識も知らないからである。だから、文中の「我」を第八識だと言うのは全て誤った説であり、事理と事実に背く。凡夫は決して名色五陰を第八識と考えたこともなく、受けるものを第八識と考えたこともない。五陰や受けるものが第八識であろうとなかろうと、いずれもそうである。また、第八識には名色もなく、受けるものもない。なぜ受けるものが第八識だとか、受けるものが第八識でないと言えるのか。いずれも正しい理に背く。

原文:所以然者。阿難。樂觸緣生樂受。若樂觸滅受亦滅。阿難。苦觸緣生苦受。若苦觸滅受亦滅。不苦不樂觸緣。生不苦不樂受。若不苦不樂觸滅受亦滅。

釈:このように言う理由は、阿難、楽触の故に楽受が生じ、もし楽触が滅びれば楽受も滅ぶ。阿難、苦触の故に苦受が生じ、もし苦触が滅びれば苦受も滅ぶ。不苦不楽触の故に不苦不楽受が生じ、もし不苦不楽触の縁が滅びれば不苦不楽受も滅ぶからである。

原文:阿難。如兩木相儹。則有火生。各置異處。則無有火。此亦如是。因樂觸緣。故生樂受。若樂觸滅。受亦俱滅。因苦觸緣。故生苦受。若苦觸滅。受亦俱滅。因不苦不樂觸緣。生不苦不樂受。若不苦不樂觸滅。受亦俱滅。阿難。此三受有爲無常。從因緣生。盡法滅法。爲朽壞法。彼非我有。我非彼有。當以正智如實觀之。

釈:阿難、たとえば二本の木が互いに擦れ合うと、火がその中から生じる。二本の木を分ければ、火は生じない。受けるものも同じで、楽触の故に楽受が生じ、もし楽触が滅べば、楽受もそれに伴って滅ぶ。苦触の故に苦受が生じ、もし苦触が滅べば、苦受もそれに伴って滅ぶ。不苦不楽触の故に不苦不楽受が生じ、もし不苦不楽触が滅べば、不苦不楽受もそれに伴って滅ぶ。阿難、この三種の受けるものは有為の無常の法で、因縁の中から生じ、滅び尽くす法で、腐敗し、衰える法である。したがって、これらの法はすべて我ではなく、我もこれらの法ではない。あなたたちはこのような正しく如実な智慧で観察すべきである。

原文:阿難。彼見我者。以受爲我。彼則爲非。阿難。彼見我者。言受非我。我是受者。當語彼言。如來說三受。苦受樂受。不苦不樂受。若樂受是我者。樂受滅時。則有二我。此則爲過。若苦受是我者。苦受滅時。則有二我。此則爲過。若不苦不樂受是我者。不苦不樂受滅時。則有二我。此則爲過。

釈:阿難、我があると考えて、受けるものを我とする人々の見解は正しくない。阿難、我があると考えて、受けるものは我ではないが、我は受けるものだと言う人々を救うために、彼らにこう言うべきである。如来は三種類の受けるものがあると言っている。苦受、楽受、不苦不楽受である。もし楽受が我であれば、楽受が滅ぶとき、二種類の我があることになる。苦受の我と不苦不楽受の我であり、もちろんこれは正しくない。もし苦受が我であれば、苦受が滅ぶとき、二種類の我があることになる。楽受の我と不苦不楽受の我であり、これは正しくない。もし不苦不楽受が我であれば、不苦不楽受が滅ぶとき、二種類の我があることになる。苦受の我と楽受の我であり、これは誤りである。

原文:阿難。彼見我者。言受非我。我是受。彼則爲非。阿難。彼計我者。作此說。受非我。我非受。受法是我。當語彼言。一切無受。汝雲何言有受法。汝是受法耶。對曰非是。是故阿難。彼計我者。言受非我。我非受。受法是我。彼則爲非。

釈:阿難、我があると考えて、受けるものは我ではないが、我は受けるものだという知見は誤りである。阿難、我を計着する人々はこう言う。受けるものは我ではなく、我も受けるものではないが、受ける法こそが我である。このような人に対して、次のように言うべきである。一切の法に受けるものはない。なぜ受ける法があると言うのか。あなたは受ける法なのか。その人は答えて言う。私は受ける法ではない。したがって阿難、我を計着する人々が、受けるものは我ではなく、我も受けるものではないが、受ける法が我であるという、彼らの見解は誤っている。

原文:阿難。彼計我者。作是言。受非我。我非受。受法非我。但愛是我者。當語彼言。一切無受。雲何有愛。汝是愛耶。對曰非也。是故阿難。彼計我者。言受非我。我非受。受法非我。愛是我者。彼則爲非。阿難。齊是爲語。齊是爲應。齊是爲限。齊是爲演說。齊是爲智觀。齊是爲衆生。

釈:阿難、我を計着する人々はこう言う。受けるものは我ではなく、我も受けるものではないし、受ける法も我ではないが、愛こそが我である。このような人々に対して、次のように言うべきである。一切の法に受けるものはないのだから、どうして愛があると言えるのか。あなたは愛なのか。相手は答えて言う。私は愛ではない。したがって、阿難、我を計着して、受けるものは我ではなく、我も受けるものではないし、受ける法も我ではないが、愛こそが我であると言う人々の見解は誤っている。阿難、このように言うことこそ正しい言葉であり、このように言うことこそ法に相応しく、このように言うことこそ最も究極であり、このように言うことこそ正しい法を演説することであり、このように言うことこそ智慧的な観察であり、このように言うことこそ衆生を度すことである。

原文:阿難。諸比丘於此法中如實正觀。於無漏心解脫。阿難。此比丘當名爲慧解脫。如是解脫心比丘。有我亦知。無我亦知。有我無我亦知。非有我非無我亦知。何以故。阿難。齊是爲語。齊是爲應。齊是爲限。齊是爲演說。齊是爲智觀。齊是爲衆生。如是盡知已。無漏。心解脫。比丘不知不見如是知見。

釈:阿難、諸比丘がこれらの法の中で如実に正しく観察すれば、無漏に達し、心が解脱する。阿難、心が無漏の比丘は慧解脱阿羅漢と呼ばれるべきである。このように心が解脱して無漏の比丘は、我がある法も知り、我がない法も知り、我があり我がない法も知り、非我非无我の法も知る。なぜこう言うのか。阿難、このように言うからこそ正しい言葉であり、このように言うからこそ法に相応しく、このように言うからこそ最も究極であり、このように言うからこそ正しい法を演説することであり、このように言うからこそ智慧的な観察であり、このように言うからこそ衆生を度すことができる。このように心が解脱した比丘は非我の法を全て証知した後、煩悩漏が尽き、心が解脱する。他の比丘は非我の知見について知らず見えない。

原文:佛語阿難。彼計我者。齊已爲定。彼計我者。或言少色是我。或言多色是我。或言少無色是我。或言多無色是我。阿難。彼言少色是我者。定少色是我。我所見是。餘者爲非。

釈:仏は阿難に言った。我を計度する人々は、既に我の境界を定めている。我を計度する人々は、あるいは少しの色が我であると言い、あるいは多くの色が我であると言い、あるいは少しの無色が我であると言い、あるいは多くの無色が我であると言う。阿難、少しの色が我であると言う人々は、固く少しの色が我であると信じ、自分が見たものは正しく、他の自分が見ていないものは正しくないと考える。

原文:多色是我者。定多色是我。我所見是。餘者爲非。少無色是我者。定言少無色是我。我所見是。餘者爲非。多無色是我者。定多無色是我。我所見是。餘者爲非。

釈:多くの色が我であると言う人々は、固く多くの色が我であると信じ、自分が見たものは正しく、他の自分が見ていないものは正しくない。少しの無色が我であると言う人々は、固く少しの無色が我であると信じ、それが正しいと考え、他の自分が見ていないものは正しくない。多くの無色が我であると言う人々は、固く多くの無色が我であると信じ、それが正しいと考え、他の自分が見ていないものは正しくない。

原文:佛告阿難。七識住。二入處。諸有沙門婆羅門言。此處安隱。爲救爲護。爲捨爲燈。爲明爲歸。爲不虛妄。爲不煩惱。

釈:仏は阿難に告げた。七つの識の住処と二つの入り処がある。あなたたちはこれを知るべきである。諸々の沙門や婆羅門はこの七つの識の住処と二つの入り処を安穏な処、救護のある処、房舎や明かり、光明や帰依の処、真実で虚妄でない処、煩悩のない処だと言う。

原文:雲何爲七。或有衆生。若干種身。若干種想。天及人。此是初識住處。諸沙門婆羅門言。此處安隱。爲救爲護。爲捨爲燈。爲明爲歸。爲不虛妄。爲不煩惱。

阿難。若比丘知初識住。知集知滅。知味知過。知出要。如實知者。阿難。彼比丘言。彼非我。我非彼。如實知見。

釈:七つの識の住処とはどういうものか。第一の識の住処は欲界の人間と天人の中で、欲界の人間と天人の色身を持つ衆生で、身の種類が異なり、心の思いが異なる。諸沙門と婆羅門は人間と天人の住処を安穏で、救護を受けられる、住むことができる房舎、照らすことができる明かり、光明、依止の処、虚妄でなく真実に存在する処、煩悩のない処だと言う。

阿難、もし比丘たちが第一の識の住処を知り、識の住処の集起と滅去を知り、識の住処の貪味、粘りを知り、識の住処の過患を知り、識の住処からの出離の方法を知り、この識の住処に関して如実に知るならば、比丘たちは言うであろう。識の住処は我ではなく、我は識の住処ではない。私はこの理を如実に知り見ることができる。

原文:或有衆生。若干種身而一想。梵光音天是。或有衆生。一身若干種想。光音天是。或有衆生一身一想。遍淨天是。或有衆生。住空處。或有衆生。住識處。或有衆生。住不用處。是爲七識住處。

釈:第二の識の住処は色界初禅天の梵光音天の天人の中で、天人の色身はいくつかの種類があるが、一種類の想しかない。第三の識の住処は二禅天の光音天の天人で、天人の色身は一種類しかなく、いくつかの想がある。第四の識の住処は三禅天の遍浄天の天人の中で、天人の色身は一種類しかなく、想も一種類しかない。第五の識の住処は無色界天の空無辺処天の天人の中で、彼らには色身がなく、非常に微細な想だけがある。第六の識の住処は識無辺処天の天人の中で、彼らも同様に色身がなく、もっと微細な想だけがある。第七の識の住処は無所有処天の天人の中で、彼らには色身がなく、その想は更に微細で知り難い。これが七つの識の住処である。

原文:或有沙門婆羅門言。此處安隱。爲救爲護。爲捨爲燈。爲明爲歸。爲不虛妄。爲不煩惱。阿難。若比丘知七識住。知集知滅。知味知過。知出要。如實知見。彼比丘言。彼非我。我非彼。如實知見。是爲七識住。

釈:一部の沙門や婆羅門はこれらの住処が安穏で、救護があり、房舎であり、明かりであり、光明であり、依止し、帰依できる処で、虚妄でなく、煩悩のない処だと言う。阿難、もし比丘たちが七つの識の住処を知り、七つの識の住処の集起と滅尽を知り、七つの識の住処の貪味と過患を知り、七つの識の住処から出離する要道を知り、これらの住処について如実に知見できれば、比丘たちは言うであろう。七つの識の住処は我ではなく、我は七つの識の住処ではない。この七つの識の住処について如実に知見できることが、七つの識住である。

七つの識の住処は、それぞれ欲界の人間と天人、および色界と無色界を指し、これは三善道の衆生の住処を指し、三悪道の衆生の住処ではない。三善道は衆生の安穏な処で、三悪道は衆生が不安定で苦しむ処である。七つの識の住処はすべて安穏な処である。この「識」とはどの識を指すのか。もし阿頼耶識を指すなら、間違いないが、二乗は主に阿頼耶識を説かず、主に六識を説き、第七識については非常に少なく説く。だから七つの識の住処は主に六識の住処を指し、第七識の住処もある。なぜなら、無想天の住処には六識がなく、七八二識だけがあるからである。

原文:雲何二入處。無想入。非想非無想入是爲。阿難。此二入處。或有沙門婆羅門言。此處安隱。爲救爲護。爲捨爲燈。爲明爲歸。爲不虛妄。爲不煩惱。阿難。若比丘知二入處。知集知滅。知味知過。知出要。如實知見。彼比丘言。彼非我。我非彼。如實知見。是爲二入。

釈:二つの入り処とはどういうものか。無想天の入り処と非想非非想天の入り処が二つの入り処である。阿難、この二つの入り処について、一部の沙門や婆羅門は安穏な処、救護のある処、房舎、明かりのある処、光明のある処、帰依の処、虚妄でない処、煩悩のない処だと言う。阿難、もし比丘たちがこの二つの入り処を知り、二つの入り処の集起と滅尽を知り、二つの入り処の貪味と過患を知り、二つの入り処から出離する要道を知り、二つの入り処を如実に知見できれば、比丘たちは言うであろう。二つの入り処は我ではなく、我は二つの入り処ではない。この理を如実に知見することが、二つの入り処である。

無想とは無想定または無想天の処を指す。この定の中では意識がなく、意識の想もないので、無想定と呼ばれる。この定の中では意識がないが、意根は依然として色蘊を我として執っており、依然として束縛があり、我見を断じていない。無想定の中の色身と意根が我ではないことを認識してこそ、無想の入り処となり、無想定と無想天を超越する。同じ道理で、非想非非想の入り処もこの理に当てはまり、非想非非想定と非想非非想天も究極ではなく、意識の少しの功用と意根の功用が我ではないことを認識しなければ、解脱できない。

原文:阿難。複有八解脫。雲何八。色觀色。初解脫。内無色想。觀外色。二解脫。淨解脫。三解脫。度色想。滅有對想。不念襍想。住空處。四解脫。度空處。住識處。五解脫。度識處。住不用處。六解脫。度不用處。住有想無想處。七解脫。滅盡定。八解脫。阿難。諸比丘於此八解脫。逆順遊行。入出自在。如是比丘得俱解脫。

釈:阿難、また八種の解脱がある。八種の解脱とはどういうものか。第一の解脱は、心に色の想いと色の貪欲がありながら、色を不浄と觀察し、色の不浄を証得した時、心が解脱する。第二の解脱は、心に色の想いがなく、外の色を不浄と觀察し、色の不浄を証得した時、心が解脱する。第三の解脱は、身心共に清浄で解脱する。第四の解脱は、色の想いを超越し、色に対する想いを滅ぼし、色を想わなくても他の雑念もなく、空無辺処定に住み、心が解脱する。第五の解脱は、空無辺処を越え、識無辺処定に住み、心が解脱する。第六の解脱は、識無辺処を越え、無所有処定に住み、心が解脱する。第七の解脱は、無所有処を超越し、非想非非想定に住み、心が解脱する。第八の解脱は、滅尽定に住み、心が解脱する。

阿難、諸比丘はこの八種の解脱に対して、順番に次々に入る場合も、逆の順番で入る場合も、入定と出定がとても自在である。このような比丘は八種の解脱をすべて証得し、俱解脱の阿羅漢と呼ばれ、解脱の智慧と四禅八定をすべて具えている。

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