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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 分類: 総合 更新時間: 2024-11-15 閲覧回数: 3306

第五章  因縁果報篇

一、因果は空でも空でない

因果には空でも空でないという二面性があり、どの角度から見るかによる。空でないという意味は、世俗諦の角度から見ると、因があれば必ず果があり、因果は共に世俗相である。例えば、善業が因である場合、この因があれば必ず善果がある。悪業も同様で、悪業が因であると、この因があれば必ず悪果がある。不善不惡業が因である場合、この世俗法相の因があれば、必ず世俗法相の不善不悪の果がある。因があれば必ず果があり、世俗法相がはっきりと存在する。これが因果が空でないという意味である。

一方、聖義諦の諸法実相と諸法空相という角度から見ると、善悪業因と不善不悪の業因は、共に如来藏によって変現され、執持されるもので、生滅変異するもので、本質的には空である。善悪の果報と不善不悪の果報も、共に如来藏によって変現され、執持されるもので、生滅変異するもので、本質的にも空である。もし業因が空でなければ、永遠に業因が残り、衆生はいつ解脱することができるだろうか。もし業果が空でなければ、衆生は永遠に業果報を受け続けることになり、果報はいつ終わるだろうか。衆生の果報が終わらなければ、いつ解脱して仏になることができるだろうか。生滅変異するものは空であり、生滅しない、変異しないものは空でない。世俗法相はすべて生滅変異するので、すべて空である。

もし生滅しない、変異しないものが空でないということが因果が空でない理由であるなら、この生滅しない、変異しない法は本心如来藏である。如来藏以外に、生滅しない、変異しない法があるとしても、この法が何であれ、空でない。そして、如来藏以外に、本当に生滅しない、変異しない法は見つけられない。見つけられるものはすべて如来藏本体に関連する如来藏の体性である。生滅しない、変異しない如来藏は、世俗諦の因を現起させることができ、世俗諦の果も現起させることができる。如来藏が空でなければ、因果が必ず存在する。だから、如来藏が因果の因であり、如来藏が空でなければ、因果が空でなく、如来藏が空であれば、因果も空である。

甚深な唯識の角度から見ると、世俗諦の因は、如来藏の七大種子によって変現されたもので、本質的には如来藏の属性である。世俗諦の果も同様に、如来藏の七大種子によって変現されたもので、本質的には如来藏の属性である。だから、世俗諦全体は如来藏の属性で、如来藏に帰属する。世俗諦からは如来藏の姿が見えるはずである。

二、因縁果報もまた幻で実在しない

衆生の因縁果報はどこから現れるのか。五陰身から現れるのであり、色受想行識から現れるのであり、十八界から現れるのである。五陰身は幻であり、十八界は幻であり、宇宙器世界は幻であり、一切の人事物理はすべて幻である。因縁果報が依存する体がすべて幻である以上、それ自体も幻で実在しないもので、因縁が生じ、因縁が滅びる。種子は五陰身の造作によって落謝したもので、五陰身が虚妄で無常であるから、因縁果報も虚妄で無常である。

だから、一切の因果もまた幻である。如来藏以外の一切は幻によって生まれたもので、如来藏が業種と種々の因縁に従って幻によって生み出したもので、実法ではない。例えば、衆生が造作した善悪業と受けた善悪報は、共にこれらの世間虚妄法において造作と受報が行われる。五陰世間が虚妄である以上、これらの業行と果報も当然虚妄である。

例えば、今世、この世間で国王になったり、天上で天主になったりする場合、国王と天主の五陰身は幻であり、宫殿と宝座椅は幻であり、生存する宇宙器世间は幻であり、錦衣玉食は幻であり、すべての宰官大臣、身近な侍从も幻である。国王と天主の一切は幻である。また、例えば、殺人や殺されるという果報は、共に五陰によって造作と受けるものである。これらの悪報はどこから来るのか。如来藏が業種と因縁に従って幻によって生み出したもので、すべて五陰身に現れる。善悪業報を受け、苦楽などの受け取りを生じるが、これらの受け取りも如来藏によって幻によって生み出されたもので、生滅変異で無常である。こうして、一切の因縁果報は私ではなく、私が所有するものでもない。これが無我無一切法と呼ばれるものである。

一切の法が幻で実在しないことを知ると、縁を求めることを減らし、造作を減らし、心を使うことを減らし、できるだけ心を空にすべきである。なぜなら、どんなに造作しても空で、無意味で、生滅法であり、得るものも失うものもないからである。どうして心を休め、省みることができないのか。ある人は、すべてが空であるから、どうして多く造作しないのか、悪業を造っても空であるから、悪業を造ることを恐れる必要がないと言う。しかし、もし悪業を造ると、心は空になれなくなり、心が空でない状態で悪報を受けるとき、非常に苦しむことになり、そのとき苦しみを受けることも空にできなくなり、生きるよりも死んだ方がましという苦しみを味わうことになり、誰もこのような状態を望まない。だから、心が空であれば悪業を造らない。すべての造作を減らすことで心が徐々に清浄になり、徐々に空になり、これによって苦しみを解消し、解脱することができる。

三、衆生の多くは不善業を造ることに慣れている

多くの人が毎日精進して法義を学んでおり、勤勉に取り組んでいると言えるが、たまに仏、法、僧の三宝を誹謗する言論に出会うと、それに賛歎することがある。この一つの賛歎が、自身の修行の大部分の福德と功徳を台無しにし、どんなに精進しても、成果が大きくない。無明は修道を深刻に遮障する。もし自分自身の無明を懺悔する方法を考えなければ、最後には善業が大きいのか、悪業が大きいのか、わからない。なぜこんなに多くの人が自分自身の無明が重いことを知らないのか。なぜ自分自身が無智であることを知らず、仏法の重要な部分で、自分自身の無知無智な見解を述べなければならないのか。このような修行の最後の結果は何か、どうして考えないのか。どんなことが悪業と呼ばれるのか。三宝を誹謗することは悪中の悪で、これよりも悪いことがあるだろうか。むしろ杀生の悪業を造る方が、果報は少し小さい。

悪業を造ることは非常に容易で、一言で悪業が成就する。さらには、一文字で大きな悪業が成就し、さらには、一つの表情、一つの記号でも悪業が造られる。多くの人がこれが何の不適切なことで、何の悪果があるのかを感じない。悪報を受けるときにも、まったくそれがどんな理由でこのような果報を受けたのかを思いつかず、悪果の由来を考え分析することもなく、造った不善な身口意行を懺悔することもない。さらに、多くの人がどんな身口意行が善で、どんな身口意行が悪かを知らない。一般的には、皆自分自身の内心の無明煩悩に順応し、自分自身の不善な心所に逆らうことは決してなく、自分自身の煩悩習気を現れさせ、放つ。

大多数の人の覚悟性は非常に悪く、自分自身の心行について自覚せず、無知で、反省能力がなく、また反省しようともしない。ただ一方的に順応し、欠点を庇うだけである。このような順応の結果は何か。結果は、一人一人が苦悩と苦痛を持ち、障害があり、思い通りにいかない。命の終わりには三悪道に行って、大きな苦しみを受ける。三悶苦から出てもまだ覚悟しない。それによって悪循環が続き、六道輪転が止まらない。

善業を造ることも実は非常に容易で、一言で善業が成就する。さらには、一文字で善業が成就し、さらには、一つの表情、一つの記号でも善業が成就する。しかし、多くの人がこのような善業をすることを軽んじ、そのような習慣がない。毎日、不善な心所が善心所よりも大きく、多く現行する。だから、一人一人が悪業が善業よりも大きく、多い。それゆえ、多くの人が仏を信じ、仏を学んでいるにもかかわらず、命の終わりには三悪道に行って苦しみを受け、人身を保証できない。三悪道に行く比率は九十パーセント以上、さらにはもっと多い。

四、鬼道の衆生になる根本因

鬼の特徴は貪吝である。だから、貪吝心のある人は、命の終わりに必ず鬼道に生まれる。何を貪吝するかに関係ない。貪の範囲は広すぎる。衆生は金銭や財物だけでなく、五陰世間でどんな法に対しても貪ることが貪である。大衆が普通だと思う身口意行も貪であり、鬼になる因である。

餓鬼と悪鬼は共に鬼道の衆生に属する。餓鬼の心性は非常に貪欲で吝嗇なので、何も持たず、非常に貧困で、食べ物を食べられず、水を飲めず、水に近づくと、水が火に変わり、非常に苦悩する。悪鬼の心性は悪で、よく他の衆生、人間も含めて、害を与える。鬼道の衆生の大多数は鬼と呼ばれ、普通の鬼で、餓鬼や悪鬼とは区別される。

ある老婆が生前、庭で三人の老人とよく麻雀をしていた。三人の老人が次々と死んだ後、最後に老婆も死んだ。彼女は鬼道に転生してしばらくした後、娘に麻雀のセットを夢に見せ、娘は紙で作った麻雀を焼いてやった。その後、娘に夢に現れて、自分がまだ死んだ三人の老人と麻雀をしていると言った。彼らは比較的福のある鬼で、生前に大きな悪業を造ったことがなく、ただ遊び好きだったので、死後も鬼道で遊んでいる。生前に音楽、美術、芸術に携わっていた人も、死後、鬼になり、その後仏を信じると、信仏している人に憑依して寺院に行き、福を修め、功徳を作る。芸術に携わる人も貪で、芸術に執着し、感情を持ち、貪着して捨てられず、死後に鬼になる。琴棋書画などが好きなこともすべて貪である。昔の文人墨客、詩人、作家、散文家なども、大多数が死後、鬼になる。皆、貪の習性を持っている。何が好きであれ、それに縛られ、解脱できない。

もう一つの深刻な貪は、色に貪る、愛に貪る、感情に貪ることで、死後、多情鬼や色鬼になる。多くの人が情を、人に当然備わっているものと思い、他の人に対して情を抱くことを誇りに思い、多情な人を賛歎し、愛情や感情の類を賛歎する。実は、情は最も深刻な貪であり、生死輪廻の主因である。仏陀は楞嚴経で私たちに教えている。情が重いと必ず三悪道に堕ちる。情が九分、想が一分では水輪の下に沈み、地獄である。情が七分、想が三分では鬼道に生まれる。情と想が均等では、人間に生まれる。情が少なく、想が多いと、心が高く飛び昇り、天上に生まれる。想は理性を表し、心が軽ければ、高く飛び昇り、善道に生まれる。情は重く濁っており、心が重いと、必ず三悪道に堕ちる。

情は、人間の法律と道徳の角度から見て、合理であろうと不合理であろうと、結果や因果の角度から見ると、不合理で、持つべきではない。情は貪愛であり、貪があれば水があり、水は必ず下に流れる。多くの人が感情を抱くと、詩を詠んだり、絵を描いたりして自分自身の感情を表現し、それを美しく、真摯で、ロマンチックだと思う。多情が善であると思う。実際には、多情は善ではなく、人を害し、自分自身も害し、共に三途に堕ち、輪廻の苦しみを受け、多情の苦しみを受ける。多くの苦しみは、情執があるからこそ引き付けられる。情がなければ執着がなく、苦しみを受けることもない。

正当な感情でも悪報と苦報がある。それなら、不正当な感情、起こすべきでない感情、他人の利益を損なう感情、不道徳な感情、他人に反感を与える感情は、更に悪報と苦報がある。正当とは、法律が許可し、保護することで、道徳規範も許可することである。不正当とは、その反対で、法律が許可しない、保護しないことで、道徳規範も非難し、許可しないことである。

私たちは仏を学んだ後、自分自身の心をよく管理しなければならない。降伏できる貪愛と情執はできるだけ降伏し、抑制できるものはできるだけ抑制する。なぜなら、貪愛は善法ではなく、悪法で、煩悩に属するからである。多くの人が、人と多く縁を結べば、後世で度すことができると思い、異性と無闇に付き合い、不正当な感情が生じても抑制せず、それが発展するのを任せ、これが善縁を結ぶと思い、互いに度脱できると思う。実際には、自分自身が一大劫の間、必ずしも異性を度す能力がなく、感情の葛藤が自他を悪道に堕とし、多劫間苦しみを受ける。何劫も悪道から出ても、まだ異性を度す能力がない。なぜなら、貪愛の煩悩を断ち切っていないから、必ず貪愛によって悪道に堕ちる。衆生を度す心は善であるが、また理を明かし、法を理解しなければならない。そうでなければ、善が悪に変わり、衆生を度すことができず、逆に衆生に度され、損をするだけである。それを言い訳にする人は、より一層、危機を察知して止まるべきである。因果は誰にも赦さない。

要するに、娑婆世界では、どんな法、どんな境界に対しても貪愛を抱き、心が喜び、歓喜し、執着し、捨てようとしない場合、すべて貪に属する。だから、一般的には、貪によって鬼道に堕ち、業果を償う。因果は虚ではない。因があれば必ず果がある。

五、獄卒と閻羅王には果報があるか

問:万事には因縁果報があるとすれば、地獄の中で毎日刑罰を執行する鬼卒はどんな果報を得るのか。森羅殿で裁判し、刑罰を司る閻羅王はどんな果報を得るのか。

答:地獄の中の獄卒や閻羅などは、すべて衆生の悪業によって感召されたもので、自分自身の悪心によって現れる幻影である。地獄業のない人は地獄に入っても獄卒を見えないし、獄卒による罰を受けることはない。悪業のない人も閻羅王による自分自身への裁判に遭遇しない。一部の衆生が獄卒や閻羅などになるのも、彼ら自身の業力によるものである。これは正業ではない。因果と正義を伸張しているとはいえ、一定の意味はあるが、悪を行う衆生にとっては好ましくないので、縁は善ではない。もし衆生が罪業を悔い、心を改めることを誓うことができるとき、初めて衆生と少しの善縁を結ぶことができる。だから、多くの表面的な善と悪は、実質的には必ずしもそうではない。

また、例えば、人間の刑務所の看守が犯人を管理することは罪であるか。ヨガ師地論によれば、看守は正業ではない。このような問題は、数言では説明できない。因果の問題は非常に複雑な問題で、一人の人がどんな仕事をするかも、業力によって決定される。衆生と関わる仕事の中で、どんなものにも善業と悪業が存在し、完全に当人がどう正しく対処するかによる。教師という職業は非常に良い。これも衆生を度すことであるが、多くの人が悪業を造る。経を講じ、法を説くことは衆生を度す事業であるが、多くの説法する人が地獄業を造る。医者が病人を治し、救うことは、この職業は良いか。これも必ずしもそうではない。病人がなぜ病気になるのか。ほとんどが業果の償いで、果報に過ぎない。この果報は受けるべきもので、実際には、以前に傷つけた衆生が追討し、借金を取り立てに来ることもある。しかし、医者が因果の償いを遮断し、債主が望み通りに得ることができないので、医者は一定の因果を背負うことになる。

出家僧衆が居士に対して超えや超度を行うことも同じで、善悪は必ずしも決まっていない。例えば、前世、甲が乙を殺し、今世、乙が借金を取り立てに来て、甲を殺そうとする。そして、甲を救うと、乙は借金を取り立てられず、仇討もできない。これは乙にとって公平ではない。乙は逆に報復するかもしれない。もし超度するとき、乙も一緒に超度できるとしても、乙が超度を望まない場合、甲が悪報を受けることを望んでいる場合、超えや超度は因果を干渉することになる。例えば、甲が乙に一千万円を借金しており、乙が甲に借金を取り立てようとするとき、君が中間で干渉し、乙が借金を取り立てられない場合、乙の一千万円と利息はどうなるのか。乙は君に取り立てようとしないだろうか。もし自分自身の父母親族を超える、超度することは、自分自身の本分で、恩を報う行為である。自分自身の父母親族のために業障を背負うことは当然のことである。自分に恩を与えた人のために業障を背負うことも当然のことである。

表面的な善は、実際には善であるか、善果があるか、一般の人は目を開けて証明することができない。仏経に記載されている超えや超度の事例は一つだけである。それは、仏陀がすべての出家人の力を合わせて、大目犍連の地獄にいる生身の母親を超度したことである。二例目はない。仏経には、諸仏菩薩や阿羅漢、辟支佛が衆生を超える、超度するようなことが記載されていない。出家僧衆が衆生を超える、超度するようなことも記載されていない。過去の僧団にはこのようなことは決してなかった。過去の寺院では、出家人が非常に多いが、決して集まって、打楽器を鳴らし、歌い、経を唱えて居士を超える、超度するようなことはなかった。仏の戒律もこれを許さない。当時の出家衆は皆、個人の修行を主とし、弘法の能力がある人は法を講じることができ、それ以外のことはできない。特に金銭などの世俗利益に関係することは、更に許されない。

六、臨命終時の覚受

楞嚴経によれば、一切の世間では生死が相続し、生は順習し、死は変流する。臨命終時、暖触を未だ捨てておらず、一生の善悪が同時に一斉に現れ、死は逆で生は順で、二つの習が交わる。ここで臨命終時に暖触を未だ捨てていないと言うのは、臨は近づいているがまだ過ぎていないという意味で、すなわちまだ死んでいないという意味である。既に死んでいない以上、少なくとも意識と意根が存在する。そして、仏が暖触を未だ捨てていないと言うのであれば、暖触があるということで、暖触の覚受があり、身識も存在する。このとき、四大がまだ分解しておらず、あるいは分解が始まったばかりで、色身の一切の覚受が存在し、感知でき、六識がまだ消滅していない。このときはどんな感覚なのか。仏は、衆生の四大が分解するときを生きた亀の殻を剥がすようなものだと比喩している。それはどれほどの苦痛と疼痛があるだろうか。

既にこのとき感知があり、意識が消滅していないので、独頭意識も現前することができる。独頭意識はこのとき何をするのか。如来藏から発せられる情報を専門的に受け取る。如来藏は、この一生で造作した一切の善悪業行を全部放送し、映画を放映するように、しかも高速で放映し、極めて速いショットで、瞬間に放映を終える。如来藏が導出する速度は極めて速い。意識にとっては、高速な回想のようで、独頭意識が何を考える暇もなく、受け取るだけで、その後、意識はすぐに理解し、自分自身がこれらの業行に従ってどこに行くのかを知る。しかし、もう身近の人に知らせることはできない。

臨命終時、意識は多少ぼんやりしているが、如来藏から押し付けられる映像内容に対して、依然として非常にはっきりと弁別することができ、はっきりとしており、しかも、自分自身がどの道に行って報いを受けるのかを判断することができる。誰に因果応報の理を説明してもらう必要がなく、全く必要がない。

臨命終時、意識と意根は後世の果報を受けざるを得ない。これが業力であり、一生の業行の力である。意識が反抗することも、意根が反抗することも許されず、両者とも業力の配置と呼びかけに従わざるを得ない。文句はない。たとえ中陰身で閻王様による裁判を受けても、弁明も、苦情を訴えることも、冤罪を叫ぶこともない。なぜなら、事実がそこにあり、皆がはっきりと見ることができるからである。閻王様が調査し、証拠を収集する必要はない。事実の前で、何を言うことができるだろうか。素直に閻王様の配置に従い、運命の配置に従う。運命はどのように形成されるのか。命は私が造る。自分自身が造った業は、もちろん自分自身が受けるべきで、そうでなければどうするのか。誰が代わりに受けるのか。親父、親母、息子でも代わりに受けることはできない。各人の業は各人が受ける。誰も代わりにできない。

人に知られないようにするには、自分自身がしないことが肝心である。自分自身の一生の中で行った大小の業行は、如来藏が細大漏らさず記録しており、他の如来藏も知っており、意根が如来藏に依拠しても知る。他の人の意識が神通を持つとき、他の人は自分自身が行ったこと、思ったこと、考えたことを完全に知ることができる。誰にも隠すことができない。悪を行うことは全く見逃されない。果報のことは自然に起こる。誰にも怨むことができない。地獄や三悪道も自分自身の如来藏が自分自身の悪業によって変造するもので、他の人とは関係がない。他の人が自分自身に対して地獄を作り出すことはできない。だから、自分自身の運命は完全に自分自身が責任を持つ。他の人が代わりに受けることはない。人が利己的であるなら、自分自身に対して責任を持つべきで、できるだけ自分自身に良いことをし、自分自身のために少しの悪業も造作しないようにする。このような利己主義は、仏も賛成する。これは智者の利己主義である。

悪報による苦しみを避けるため、自分自身の身口意行を厳しく管理するべきである。身行に関しては、誰にも害を与えず、侵害しないようにする。口行に関しては、耳障りな言葉、言うべきでない言葉、人を傷つける言葉、他人の利益を侵害する言葉、特に三宝を誹謗する言葉は言わないようにする。言うと表面的には人を傷つけるが、実際には自分自身を傷つける。何千倍、何万倍、無数倍の果報があり、そのときには非常に受けることが難しい。一言でも地獄に入って、無量劫間苦しむことができる。果報はこのようなものである。意行に関しては、貪、嗔、痴を持たないように、思想を純粋で単純にする。これらの因果法則は、仏が制定し、創造したものではなく、菩薩や護法神が制定し、創造したものでもなく、自分自身の冤親債主や敵が制定し、創造したものでもない。すべて自分自身の如来藏が行うものである。もし文句を言うなら、如来藏に向かって言ってみるが、如来藏が君の文句を聞くだろうか。

悪業を造る勇気のある人、悪業を造ることを気にしない人、容易に悪業を造る人は、すべて無智の愚痴人である。愚痴が甚だしいほど、大胆になる。愚痴な人は結果を考えず、結果を知らず、果報を恐れず、それほど多くのことを考えることができない。ただ自分自身の無明煩悩に従うことで、心が快適になる。悪業を造るのは、自分自身が一時的に快適で気持ちが良くなるためである。その後がどれほど不快で、気持ちが悪くなっても、知力が不足し、定力が不足して、これらを管理することができない。発作して気持ちが良ければいい。因果を説明すると、煩悩が重い人は聞きたがらず、それは作り話で、人を脅すためのものだと言う。仏経に記載されているすべての本当の因果事件を信じようとしない。しかし、信じなくても、果報はやはり現れる。君が信じるかどうかに関係ない。

七、重罪軽報の原理

後世の罪業を今世で受けることは、すべて重罪軽報に属する。修行がよければよいほど、罪業が早く受けられ、業の利息が少なく、とても得策である。今世、交通事故に遭ったら、こう思うべきだ。「よかった。後世、地獄に行って報いを受ける必要がなくなった。あるいは、突然若死したり、短命になることがなくなった。」もし誰かに意地悪をされたり、無実の罪を着せられたり、殴られたり、罵られたりしたら、こう思うべきだ。「この人は私に本当に良いことをしてくれた。これで、これから癌などの大病になることがなく、交通事故などの事故に遭うことがなく、それらの罪業がこうして消える。なんと得策なんだ。」

修行によって招感される小さな挫折は、後世の大きな挫折を避けることができる。今世、修行によって招感される大きな挫折は、後世のより大きな挫折や危難、病苦、死亡、三悪道の報いなどを避けることができる。とても得策である。だから、どんなことがあっても、引き続き努力して修行に励むように。

八、花報と果報

花は未成熟の果で、結果する前の状態で、もちろん果よりも栄養価値がない。果は花の昇華と結晶で、栄養価値が花よりも高い。仏教では、往々に花と果を用いて善悪業報を比喩し、区分する。善悪業報は花報と果報に分けられる。花報とは、現世で受ける報いを指し、果報とは、未来世で業縁が成熟して受ける報いを指す。ある業行に花報があれば、果報もあり、花報がなくても果報はある。花報が大きければ果報は小さく、花報がなければ果報が最大になる。

報いは醸造する酒のように、時間が経つほど芳醇になり、銀行の預金のように、時間が経つほど利息が高く、報いが豊かになる。善業に対して言えば、善業を造る人が貧しい場合、できるだけ早く花報を得たいと願う。できるだけ早く、目の前で享受できるように。福德が不足しているから、報いを急ぎたい。ある人は無知で、あるいは善業をするときに、何かを求める心を持っており、目の前の利益を得たいと思うから、花報だけを求める。そうすると、花報を得た後、未来世の果報があるかもしれないが、非常に小さい可能性がある。

悪業を造る人に対しては、花報が早ければ早いほど大きく、果報は遅ければ遅いほど小さい。もしこの人が良心を持ち、理を明かすなら、花報を甘んじて受け、できるだけ早く悪業の影響を消し、後世の果報の苦しみを避ける。因果を信じない無知な人だけが、あらゆる手段を使って花報を避け、幸運を当てにして悪業を隠す。もちろん、善業が非常に大きければ、自然に花報が現れるように招感され、人が求めなくても、後世の果報も大きい。悪業が非常に大きければ、同様に花報が現れるように招感され、避けることもできない。善悪は共に自然に報いがあり、ただ時節と因縁がそろえばいい。

九、どのようにして果報を得るのが最も得策なのか

問:甲が乙に対して良いことを一つし、乙が甲の助けを受けた。甲は乙からの報いと返済を欲している。甲は、今乙から報いを得るのが得策なのか、後世乙から報いを得るのが得策なのか、因果の自然な報いを得るのが得策なのか。

答:求める心を持たず、因果が自然に返済するのが最も得策である。甲が良いことをしたが、報いを考えたことがない。これは報いを求めない心で事をすることである。甲が報いを求めなくても、因果法則によって自然に報いが生じる。このときの果報が最大である。無為の心で善を行えば、善報が最大になる。有為の心で悪を行えば、悪報が最大になる。

無為の心で善を行えば、善報が最大になる。心が大きければ、報いが大きい。如来藏がなぜこのようなルールを持つのかはわからない。善事の果報を最大にしたい人は、この隙間を利用することができる。隙間を利用しようと思う心があると、やはり心がある。心があれば心は小さく、心がなければ心は最大である。報いを求め、目的を持って善を行うと、心がある。心があれば心は小さく、報いを求めず、善を行うときに個人の目的がなく、私心がなければ、心が大きく、心が大きければ果報が大きい。三宝のために善を行えば、果報が最大になる。もしその中に私心があり、金銭、名利、地位、権力などのためであれば、大幅に割引される。もし強い私心を持って善を行い、三宝を商売に利用し、三宝から利益を図るなら、悪事に変わるかもしれず、悪報を受ける。

もし煩悩が重すぎて、三宝から利益を図り、目的が達成できず、嗔怨を抱くと、地獄の果報になる可能性がある。一切の罪業は、煩悩から起こる。一切の煩悩は、その「我」から来る。だから、我見を断つことができて初めて、煩悩が軽くなり、甚だしきに至っては煩悩を滅ぼし、煩悩を永遠に尽きさせ、解脱することができる。世間で行き交うところ、大きくは国と国の間、中くらいは団体と団体の間、小さくは個人と個人の間で、衆生の貪、嗔、痴の煩悩が見られる。煩悩が熾盛し、氾濫しており、救い難い。末世はやはり末世で、衆生の業が重く、障が深く、福が薄い。罪業は善業よりもはるかに大きく、悪報は善報よりもはるかに大きい。だから、後世には非常に多くの人が三悶苦に行って報いを受ける。これは避けられない。死亡や病苦は小さなことになる。

十、人のために業を背負うことにも因果がある

問:家の年寄りが足が痛いので、私は毎日彼の足をマッサージして治療しています。三ヶ月余り後、年寄りの足は治りましたが、私は自分の腕に年寄りの足と同じ症状が現れたことに気づきました。時々同僚の治療をして、同僚が治ると、自分の体に似た症状が現れます。なぜこんなことになるのでしょうか?

答:これは他人の業障を、あなたが引き受けてきたからです。業障は無闇に消えるものではなく、果報を受けて初めて消えるのです。彼が受けないなら、あなたが受けなければなりません。仏を学ぶ人がいつも人の業障を背負っていると、修行できなくなります。最後には誰も成就できず、皆、生死輪廻の中にいます。

医者が病気を治療することも、当然一定の因果を背負いますが、それは職業なので、人の業を消し、業障を背負おうという意図はありません。医者はそうする必要があるのです。一方、意図的に人の業を消すことは、もちろん怨家が借金を取り立てられないため、心の中で嗔恨や不満を抱きます。例えば、あなたの家族が借金をして、債主が借金を取り立てにきますが、あなたが家族を守って、債主が借金を取り立てられないと、どうなるでしょうか?

因果法則では、業種が成熟しなければ、果報を受けることはできません。ある怨親債主は体に憑依して、すぐに報復します。あるものは臨終に報復します。背負う業障が大きい場合、怨親債主が体に憑依しなくても、因果は早くやってきます。ここには多くの場合があり、とても複雑で、数言でははっきり説明できません。ある病人が病気になっているのは業障でない場合もあります。業種がなければ、環境によるものであるか、不注意によるものであり、彼の病気を治療しても報復を受けず、業障もなく、悪報もなく、善報があります。

十一、愚痴煩悩業の果報

貪、嗔、痴の煩悩の果報は、貪心が生じると悪鬼道になり、嗔心が生じると地獄道になり、愚痴が生じると畜生道になります。臨命終時に貪嗔痴の悪業の相が現れると、必ず三悪道に行って果報を受けることになり、逃げられません。煩悩業を消すためには、普段から自分の心行を多く反省し、努力して仏法の理によってそれを降伏し、戒律を守り、禅定を修めなければ、煩悩を比較的早く降伏することができません。罪業を造った後、消すには懺悔が必要です。造った罪業が比較的重大な場合、仏の前で懺悔して、瑞相が現れるようなことが必要です。例えば、夢の中や禅定の中で蓮花が現れたり、仏が頭をなでて慰めるなどのことです。一般的にあまり重くない罪業は、大衆の前で誠実に懺悔することで消すことができます。

貪心が非常に重い場合、悪鬼道で苦しむ時間が非常に長くなります。三宝に対して深刻な貪心を抱くと、その罪過はとても重いです。嗔恨心が比較的深刻な場合、地獄道で果報を受ける時間が非常に長くなります。三宝に対して嗔恨心を抱くと、その罪業はもっと大変です。愚痴が深刻な場合、大きな悪業を造ります。それはもう畜生道の問題ではなく、まず地獄で果報を受け、その後悪鬼、そして最後に畜生道になります。一切の煩悩は全部愚痴によって引き起こされます。愚痴は煩悩の根源です。愚痴でなければ、貪心や嗔恚心は生じず、煩悩業を造ることはないでしょう。将来、煩悩を断つとき、貪心や嗔恚心が先に断ち、愚痴は最後に断ちます。なぜなら、愚痴はとても厄介なので、愚痴の煩悩は最後に断ちます。

以前、ある居士が阿羅漢を誹謗しました。阿羅漢はその居士に言いました。「私はすでに阿羅漢果を証得しました。あなたは大衆の前で私に対して懺悔しなければなりません。そうでなければ、必ず地獄に落ちます。」そして阿羅漢は鐘を鳴らして大衆を集め、講堂に上がりました。居士は大衆の前で、阿羅漢に謝罪し、懺悔しました。しかし、その居士は命の終わりになお地獄に落ちました。なぜでしょうか?なぜなら、阿羅漢を誹謗する罪業はとても大きく、重すぎるので、懺悔しても完全に消えないからです。懺悔しない場合、罪業は更に重く、地獄で果報を受ける時間がより長くなります。地獄から一分でも早く出られることは、幸運で、喜ぶべきことです。罪の軽重によって、感じる地獄も異なり、受ける苦痛も異なります。初果、二果、三果の人を誹謗する罪業もとても重いです。この世間の人は、煩悩が一般的に重いので、相手の身分や証量に関係なく、煩悩が起こると、皆誹謗します。結果を考えず、自分の心の中の感情を発散することが一番重要なのです。

仏を学ぶ人が自分の煩悩を降伏しようと思わない場合、仮に八地菩薩の理論を学んでも、煩悩業を造った後、三悪道に落ちると、八地菩薩の法も自分を救うことはできません。普段は自分の煩悩性情に順応し、結果を考えず、自分の気持ちに任せ、自分の意志を通し、他人がどうなろうと気にしません。自分の気持ちが良ければいいと考えています。しかし、果報が来るとき、それは百万倍も気分が悪くなります。気分が良いことと悪いことは比例しますか?全く比例しません。そのとき、自分が当初なぜこんなことをしたのかと思い、とても得策でないことに気づきます。悪報だけを受け、何も得ることができません。

十二、畜生の殺業は人間よりも重いのか

悪業や殺業を造ることは、意根が主となり、六識が造作する。しかし、意根自身の単独の心理活動もまた業行で、意業と呼ばれ、種子も保存され、果報もあり、それが生死輪廻の苦である。

身、口、意の三種類の業行の中で、意業が主で、最も重い。なぜなら、身行と口行は直接、意根の意行によって指揮と制御されるからである。意根が貪、嗔、痴を起こして造作する身業と口業を「故作」と呼び、意根が貪、嗔、痴を起こさないで造作する業行を「無意に作る」と呼ぶ。故意に悪業を造ると、罪業が大きく、深い。性罪、性業がある。無意に造作する悪業は、罪業が軽微で、性罪、性業がない。

畜生たちが互いに食べ合うことは、有意と無意の間にあり、単に飢餓のためだけで、殺心や嗔恨心がないので、業を造ることが比較的小さく、悪業が軽微で、性罪や性業がない。借金をした場合は、将来返せばよい。畜生の一期の悪業が終わると、人間に転生することができる。人間が再び悪業を造ると、再び三悪道に行って果報を受ける。衆生はこのように六道で生死輪廻する。人間の身の業行が最も主要な決定要素である。どんな業行も果報がないものはないので、一人一人が言葉を吐き、行動を起こすとき、千万にも注意深く、慎み深くなければならず、勝手気ままに妄為してはならず、口を開けばでたらめを言ってはならない。特に仏法に対しては、自分が思う通りにできると思ってはならない。仏は、阿羅漢果を証得しない限り、己意を信じてはならないと言っている。仏法に関して悪業を造ると、無間地獄の苦は、人間の無量倍で、耐えることができない。

十三、因果は心によらない

心中に深刻な「我」がある場合、心で思うことが必ずしも実現するとは限らず、思わないことが必ずしも避けられるとは限らない。人間が行うことは、多くの場合、自分自身が望むこととは正反対である。例えば、人間は皆、長寿、健康、快楽を望んでいるが、造作することは皆、自分自身を長寿、健康、快楽にしないことである。例えば、殺生して肉を食べることは、どうして健康、長寿、快楽になれるだろうか。人間は皆、自由自在に解脱したいと思っているが、必死に「我」を握り締めて放さないので、どうして自由自在に解脱できるだろうか。

人間は皆、自分自身が富貴で発達することを望んでいるが、いつも有意無意に盗みや強盗を行うので、どうして富貴で発達できるだろうか。人間はいつも自分自身が人に尊重され、重視されることを望んでいるが、いつも傲慢で他人を見下し、他人を尊重しないので、どうして他人からの尊重を得ることができるだろうか。人間はいつも至高無上の権利を持ちたいと思っているが、いつも他人の権利を奪うので、自分自身がどうして権利を持つことができるだろうか。

十四、悪取空の果報

世間には二種類の断滅空、あるいは悪取空があり、衆生を大きく害し、直接、衆生を堕落させ、三途に落ち、六道で輪廻する。一つは外道の無所有空で、前世や後世がないと思い、死んでしまえば何事もなくなり、因果がなく、善悪業報がなく、何をしても構わない、自由自在に思う存分楽しめばいいと考える。

もう一つの悪取空は、大乗如来藏法を修学する人たちで、因果業報があること、前世や後世があること、身の中に如来藏が滅びないことを認めながら、五欲の享楽を貪る一方、苦しい修行や実際の修行をしようとせず、戒律を守り、禅定を修もうとしない。そこで、五陰や十八界の一切の虚妄な機能と作用を否定し、一切を如来藏に押し付け、如来藏で五陰の一切の機能を代わりにし、五陰を何もしないようにし、仏を学んで仏になる必要もなく、如来藏は本来仏であるとする。あるいは、五陰を勝手に暴れ回らせ、五陰が何をしても如来藏がしたことだと言い、如来藏がしたことなら、五陰身には因果がなく、業報がないとする。そのため、五陰身は縁に順応して自由自在で、戒律を守る必要もなく、禅定を修める必要もなく、如来藏は本来、犯戒しないし、本来、禅定があるとする。これら二種類の断滅空、悪取空の論は、性質は異なるが、結果は似ており、因果を否定し、放浪形骸し、悪を断つことも、善を修めることもできない。

如来藏を「我」として執取することにより、無相を執取することにもなり、有相のものはすべて捨てる。まるで自分自身が有相を超越して無相に達したかのように思う。実際には、無相のものは如来藏で、五陰身はまだすべて有相中にあり、現在のところ、根本的に超脱できない。なぜなら、戒律を守っておらず、禅定もなく、般若智慧が深刻に不足し、心の中がいつも相にとらわれているからである。もしこれらの相を隠そうとすれば、悪取空になるだけで、果報が来るとき、直面しなければならず、悪報の相をもはや避けることができない。

しかし、すでに有相を超越し、無相に達したと言う人たちが、なぜ肉を食べることを選び、肉を食べる相にとらわれないと言いながら、菜食を選ばず、残り物を縁に順応して食べるのか。既に無相であるなら、一切を縁に順応して簡素に、生きながら修行できればいいはずである。なぜそんなにこだわり、护身や养生に気を使うのか。有相の戒律を守らず、専門的に无相の戒律を守る。食べ物、着るもの、住む場所、使うもの、行動の選択が相ではないのか。なぜ享楽の相を選び、苦しみの相を選ばないのか。これから見ると、无相は偽りで、有相が本当である。大乗を学ぶことは非常に良いが、よく学ばないと、大乗法も毒薬になり、捨てられないまま食べ続けると、必ず死ぬ。良薬が毒薬に変わるのは、誰のせいなのか。

十五、衆生の業縁はどんなものがあるか

業縁は文字通り、身口意の業行によって生じる縁で、五陰身が善悪の業報を受ける縁でもある。これらの業縁があって初めて、五陰身は一切の法の中で生活し、業を造り、報いを受けることができる。一切の法には、周囲のすべての人、事、物、理が含まれ、他の五陰身や生存環境、宇宙の器世間のすべての自然現象も含まれる。衆生はこれらを通じて業を造り、報いを受ける。生存方式、生存条件、生存資具が業縁であり、家族親族、友人同僚も業縁である。これらの縁があって初めて、善悪の果報を受けることができる。

その中で、色身は正報の業果で、命の終わり前の色身や後世の色身の業因、業縁にもなり得る。環境は依報の業果で、業因、業縁にもなり得る。一つの法は因でも、縁でも、果でもあり得る。法は不確定で、果も不確定である。

十六、相貌の秘密

人の声は、その人の性格、気性、秉性、教養を反映することができる。また、その人の心性が単純率真なのか、虚偽狡猾なのか、光明なのか、陰暗なのかも反映することができる。人の五官の相貌も、その人の修行、性格、気性、秉性、学識、風度などを反映することができる。さらに、骨格、顎、筋肉、体形、皮膚などすべてが、その人の性格、気性、秉性を反映することができる。精進しているのか、怠惰なのか、厳謹で厳粛なのか、緩慢で懈怠散漫なのか、陽光的なのか、陰鬱なのかなどを反映する。

一人一人は自分自身の相貌に対して責任を持つべきである。外見の相貌に関する業は因果の一部に属し、業行の正報であり、皆、自分自身が生生世世修行してきた結果である。これは、内心の善悪の品質を反映している。相貌が思い通りでないとき、父母や天に文句を言うのではなく、自分自身を責めるべきである。前世がそんなに傲慢だったので、今世は背が低く、筋肉が弛緩している人は、その人はたぶん懈怠し、散漫で、思想が厳密でなく、日々を無為に過ごすタイプである。体の形が歪んで正しくない人は、多くの場合、心も正しくない。正直な人は、心も正しく、体も正しく、五官も正しく、皮膚が締まっており、表情が厳粛である。さらに、目つきも正しく、横目を使わず、心が明るい。面相からも、その人が前世どの道から来たのかを見分けることができる。若いうちほど見るのが正確で、後世どこの道に生まれるのかも、年を取るほど見るのが正確である。

十七、丹霞禅師が木彫の仏像を燃やした理由

丹霞禅師が悟りを開き、自性仏を証得した後、心中では四相、つまり我相、人相、衆生相、寿者相だけでなく、仏相も破り、真の仏だけを認め、偽の仏は認めなくなった。木彫や石造の仏像はもちろん、更に真の仏ではないので、燃やしても何の問題もないのではないか。しかし、真の仏を証得していない人は決して真似してはならない。なぜなら、真を証得していない限り、偽の相がまだ残っているからである。偽の相を燃やすことは、真の相を燃やすのと同じで、大きな罪過になる。仏像を破壊し、侮辱することの果報は非常に悪い。古代には、ある凡夫の比丘が悟りを開いた比丘をまねて、仏菩薩の名前を下着に書いたところ、一日や二日の内に吐血した。死んだかどうかは覚えていない。また、現代には、ある人が観音菩薩の像を川に捨てたところ、家に帰ってから何年も全身が湿気が多く冷たく、罪業を悔い、いくつかの補救措置を取って初めて大病が治った。

丹霞禅師は宿世の善根が深く、悟りを開いた後、道行が高く、心が空で無相であった。よく橋の上で寝転んで、のんびりして何もしない。人々はよく不思議に思った。悟りを得た人には、もう何もない。五蘊の世間はすべて空で、無相、無願、無求で、人生は食べると寝るだけである。よく両足を伸ばして寝るのは当たり前で、そんなに多くのことがあるはずがない。一日中、あちこちを求め、奔走し、忙しく動き回るのは、何を企んでいるのか。心が完全に空になり、一切の法が自然に任運し、仏陀が自然に来て、成仏を授記するまで、一つの法が空でなく、一つの事柄が求めるものが残っているなら、仏になろうと、祖になろうと、仏陀が授記してくれるはずがない。衆生を度すという名目で、自分自身の私利を図り、仏教を混乱させる人は、恐らく仏陀の授記を得ることはできず、因果によって懲らしめられるだろう。因果は恐ろしい。

ある人は言うだろう。「私も木彫や石造の仏像は真の仏ではないと思う。私が燃やしても大丈夫だろう。」そんな人は、燃やしてみるがいい。五臓が燃えるような苦しみを感じるかどうかを見てみるがいい。自分自身が思うことは役に立たない。意識が思うことは役に立たない。意根が認めない限り、因果は間違いない。自ら果を証得したと思う人、自ら心を明かし、悟りを開いたと思う人は、仏菩薩の名前をズボンの上に書いてみるがいい。木彫の仏像を燃やし、石造の仏像を破壊してみるがいい。もし何もなければ、破相の真の悟りと見なすことができる。誰が丹霞禅師のようにこれをやる勇気があるだろうか。

ある人は言うだろう。「私を印証した人はとても道行がある。私は信じる。」しかし、私は仏こそ最も道行があると思う。仏が印証したことが事実と一致しない場合、如来藏が認めなければ、因果は更に認めない。もちろん、これは仮定である。仏陀が印証したことは当然、事実に完全に合致し、如来藏に合致する。一部の人は非常に頑固で、何を言っても聞かない。自分自身の感覚だけを信じる。しかし、如来藏は更に頑固で、事実だけを重視する。因果は特に頑固で、すべての人に対抗し、事実に直面しても屈しない人に対して、因果は彼と対抗する。

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