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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年02月25日

第五節 五蘊皆空は全て如来蔵性である

一、何故大智慧が五蘊の塵労煩悩を打破できると言えるか

我々が般若真如本来有の大智慧を証得した時、識心は同時に般若智慧を生起する。真心が本来不生不滅であり、真心が万法を具え、真心が一切法を出生し、真心が五蘊身を生起し、真心が身口意の一切行を現起させることを明らかに知る。真心有れば一切法の存在有り。同時に、五蘊が真心より生じた生滅法であり、その機能作用は全て真心が縁に依って生じた非真実有の生生滅滅する虚妄法であることを了知する。

かくして五蘊非我の理を知り、我見を断除し、五蘊を我とする見惑煩悩を打破する。以後、知見上の迷惑倒錯想は消滅し、生生世世における三界五欲六塵中の煩悩惑業は漸次消失する。即ち後続の修行を通じて思惑煩悩(思想上・心理上の煩悩である貪瞋痴慢等の五蘊煩悩)を断ずる。以後一切の塵労煩悩が消失滅尽する。これらの塵労煩悩の打破滅尽は、般若の大智慧を証得したことによって得られる。故に大智慧を具足して初めて五蘊の塵労煩悩を打破し、生死解脱を得るのである。

二、如何にして五蘊皆空を証得できるか

五蘊皆空を観行し了知できる心は妄心七転識である。七転識は貪瞋痴の煩悩と無明を有する。第六・第七識が禅定において五蘊無我性を観行思惟し、五蘊皆空を証得することで無明を打破し我見を断ずる。禅定中に第八識を参究し、参究突破の時、本心第八識を証得すると同時に五蘊皆空を照見する。更に初禅定の定水を修得すれば貪愛と瞋恚を断除でき、貪愛瞋恚が断たれ心は解脱し、貪愛に繋縛されず五欲六塵に束縛されなくなる。四果を修得すれば三界世間への貪愛執着を断尽し、三界世間の生老病死の繋縛から解脱し出離できる。煩悩を断除し心が解脱すれば、身口意行は清浄となり、貪瞋痴の染汚業行を造作せず、心は清浄自在となる。

無明有れば貪染有り、身口意行は清浄ならず、業行を造作すれば業縁成熟して業報を受け、苦悩に満ち生死無窮となる。阿含経を学び我見を観行断除し、五蘊が虚妄生滅無我であることを知れば、五蘊仮我を中心に悪業を造作せず、三界世間が虚妄であることを知れば世俗法に貪染せず世俗法に繋縛されず、心は解脱を得る。更に大乗法を修し明心見性し如来蔵を証悟し、如来蔵の清浄無我性を観察し彼に学び倣えば、将来は心に掛礙無く、倒錯夢想無く恐怖無く、心は解脱を得る。

三、何故五蘊は空なのか?

観自在菩薩が深甚なる般若波羅蜜多を行じた時、五蘊皆空を照見し一切の苦厄を度した。何故五蘊は空なのか?人形劇の操り人形を譬えとする。人形の四肢と頭は糸で繋がれ、後方で人が糸を操ることで人形は劇を演じる。人形が劇を演じる事実を無いとは言えないが、その劇事に実質性がなく真実でなく自在性・自主性を欠く故に空幻である。相は有るが自らの実質がなく、故に相は不真実である。

我々の五蘊もまた然り。五蘊が無いとは言えず存在しないとも言えないが、この存在は虚妄で実質性の無い五蘊であり、五蘊は自在性も自主性もない故に不実である。低血圧者が眩暈を起こし目の前に金の花や黒点が現れる如く、これらの黒点は彼にとって存在しないとは言えないが、その有り方は虚妄不実で完全なる幻相であり他者には見えない。我々は黒点に恐怖や嫌悪を抱く必要もなく、黒点を追い払おうと心を動かす必要もない。眩暈の病を治せば黒点は消失する。同理、無明の病を治癒すれば虚妄の仮相は心中から消え、一切法を実相として観る。

五蘊はこれらの黒点の如く虚妄不実であり、人形劇の如く虚妄である。これらの理を真に理解するには、深甚なる般若波羅蜜多を行じて微細な観行・思惟・参究を重ね、波羅蜜を証得せねばならない。一切の相は有るが、その有り方は仮有・虚妄・幻化であり不自在である。故に五蘊は我でない。然るに我と称する存在は幻化せず、彼は無相ながら確かに実相であり真実に存在する相である。

般若智慧の観行は、菩薩の六波羅蜜を第六波羅蜜まで修した時に初めて悟前の観行智が生じる。観行智が生じた時、般若智慧を観行成就できる。観行成就し、本来より自在なる心を証得すれば、この心が無所得の心であることを発見する。世間の一切法に対し彼は何も得ず、何も必要とせず一切を具足し、些かも欠けるところがない。この心を我々は仏と呼んでも、衆生と呼んでも、如何なる名称でも良く、何も呼ばなくても良い。彼は無関心なる心であり、如何でも良く、有っても無くても良い。如何に扱おうと、認識しようとしまいと、彼は無関心である。彼は自在だからだ!我々は自在でなく、必ずこうでなければならず、さもなければ駄目であり、全く自在でない。

深く観行し因縁成熟すれば、五蘊の虚妄を証得し、五蘊非我・五蘊無常・五蘊空なることを明らかにする。五蘊は本来空であるが、無明故にこの理を知らず、観行を通じて理を証知する。深甚なる般若波羅蜜多を行じ真心如来蔵を証得した時、一切法が如来蔵の起用であり、五蘊も如来蔵の起用、苦厄も如来蔵の起用であることを知る。全体が如来蔵の妙用である。元来五蘊無く苦厄無く、これらの仮相は全て如来蔵が現起したもので、幻化の如し。

即ち五蘊は空であり、苦厄は空であり、一切法は仮相で全て如来蔵の顕現である。如来蔵の化現あれば、他一切法は泡沫の影に過ぎず、如来蔵には一切の苦無し。彼が現ずれば全ての苦厄は如来蔵の性質となり、苦厄は悉く消滅する。故に観自在菩薩が深甚なる般若波羅蜜多を行じた時、五蘊皆空を照見し一切の苦厄を度し得たのである。我々もこの如く観行し、五蘊が悉く空であり如来蔵であることを照見すれば、以て五蘊の塵労煩悩を打破し得る。

四、一切法は全て虚妄不実である

一切法が生じる時、それは如来蔵から生じる。ならば一切法が滅する時、何処へ滅するのか?物質色法が生じる時は四大種子が形成され、滅する時は四大種子が散じる。生じる時は如来蔵から来て、滅する時は如来蔵に戻る。故に我々が一切の物質色法が消失するのを見る時、最終的には蹤跡なく消え失せ、滅する処所無し。

後脳の勝義根中の六塵色法もまた同様である。生じる時は四大種子が形成され如来蔵から来て、滅する時は四大種子が如来蔵に戻り、蹤跡なく消滅する。我々は後脳勝義根中の六塵物質色法が如何に出生し如何に滅するかを観察・感覚できないが、これらは確かに来る蹤無く去る影無く、実は全て如来蔵中で生滅している。生滅するものも全て影像であり、刹那刹那に代謝し、捉えられず触れられない。感覚は極めて真実の如く思えるが、実は幻覚であり自他を欺くに過ぎない。

我々が毎日部屋中に物が溢れ混雑していると感じる時でさえ、部屋全体と物は全て影像であり真実ではない。混雑感さえも虚妄が創り出したもので、極めて不実である。冷蔵庫を見る時、冷蔵庫の影像が勝義根に取り込まれ、刹那生滅して消滅する。テレビを見る時、テレビの影像が勝義根中に生成され滅する。次にソファや机椅子等に替わり、次々と影像が生じては滅する。来る蹤無く去る影無く、刹那に生滅変異し、極めて虚妄不実である。

音声を聴く時、全ての音声の影像は勝義根中に同時或いは順次生成され、滅する時も同時或いは順次消滅する。来る蹤無く去る影無く、実は全て如来蔵から来て如来蔵に戻る。来ると去るは、実質的な色法が如来蔵から来て戻るのではなく、四大種子が如来蔵から来て戻るのである。形相無く、実際には元来如来蔵を出入りしたことはない。色身の出生と滅去もまた同様に虚妄・虚妄・不実であり、刹那生・刹那滅し、来る蹤無く去る影無く、何ら実質的な色法は存在せず、人の耳目を欺くのみである。

五識心の識種子が如来蔵より生じ出されると、見・聞・嗅・嘗・触が存在するかの如くなる。実は虚妄不実であり、滅する時は識種子が如来蔵に戻り、五識は消失して蹤跡無く、来る蹤無く去る影無く、幻化人を誑かすに過ぎない。第六識・第七識の識種子は如来蔵より出生し、連続不断なる了知性分別性が形成されたかの如くなる。刹那に生じ刹那に滅す。生に来処無く、滅に去処無く、形相無く、来る蹤無く去る影無く、蜃気楼の如く虚妄で、人心識を誑かすのみ。実事無く実法無く、全て如来蔵の戯れである。

猿が湖面の月影に向かい種々の情思妄想を巡らし、掬い取らんと妄執する。痴犬が鏡中の映像に向かい牙を剥き爪を立て、追い払わんと妄動する。各衆生の生生世世を適切に表現すれば、徒労無益である。仏と成っても夢中の事に過ぎぬ。衆生たるは悪夢一場、仏と成るは美夢一片。

五、五蘊と万物には如来蔵の執持作用が存在する

如来蔵は各種の五塵境界と混合せず、五塵境界は物質色法であり如来蔵は心法であるため、両者は相互混淆できず、如来蔵が景物の背後にあることも景物と共にあることも不可能である。物質色法は全て如来蔵を離れて存在し得ない。如来蔵の証得は物質色法の背後で得られるのではなく、五蘊活動の中で証得される。我々が五蘊十八界の虚妄を観行し明確な効果を得た時、内心に触発が生じ、外界の境界が全て共業衆生の如来蔵によって執持されたもので真実でないことを感知する。この程度まで観行できれば我所見を断つのは早く、自らが所有する物質色法を真実と見做さず、自らの物質色法を空と見做し、内心の感受が空に近づけば定力が急速に向上する。

五蘊と万物には明らかな差異がある。万物には識心・霊性・受想行識がなく、単に四大で構成されるが、如来蔵の執持作用を有する。五蘊上には八識の活動があり、霊性を有し受想行識を有し、行為造作を有する。故に一切法の背後には如来蔵が維持顕現しており、一切法は全て生滅虚妄で如来蔵の功徳作用である。

六、真妄心の区別

五蘊の一切の虚妄法上には、真心と妄心の共同運行が存在する。両心共に無形無相で内外中間に存在せず、しかし両心の体性は全く異なる。妄心は生滅有り、動転有り、分別有り、染汚有り、習気有る。真心如来蔵にはこれらが無い。我々が世間の一切の現象に接触する時、常に仔細に分析思惟し、これらの現象の不実性・虚妄性・不自主性・変異性を観じ、漸次に内心が攀縁せず貪恋せず、煩悩が軽微となり、観行による我見断絶が速やかとなる。

更にこれらの現象の背後に、何が現象界の存在と運行を維持しているかを観察し、何故一切の現象がこの如く虚妄でありながら出生存在し得るかを疑情を起こせば、漸次に万物の主を見出し、万法を生起する如来蔵を証得する。常に一切法の無我無人性、一切法の空性を観察すれば、証果のみならず明心証悟も得られ、後に如幻観・陽焔観・如梦観等の各種観行を相続獲得する。

七、虚相仮相には虚仮の用有り

真空とは如来蔵を指す。真実にして性空であり、心体には一法も無いが、一切法を顕現し得る。妙有とは、五蘊十八界法相が存在するが実質は無く、全て微妙なる如来蔵の顕現した虚妄法である。虚妄法を不存在とは言えない。衆生が刹那毎にこれらの仮相を用い、五蘊で飲食衣装歩行し、五蘊で生活し、虚妄の十八界に生き、見るは仮色、聴くは仮声、嗅ぐは仮香、嘗めるは仮味、覚えるは仮触、識するは仮法である。

見聴嗅嘗触識は全て五蘊の機能作用である。故に五蘊の表面的存在現象を否定できず、五蘊は真実の存在ではないが虚妄的存在方式を有する。日々五蘊を用いながら五蘊の不存在を説く。内心が真に五蘊の虚妄性を認可した時、即ち我見を断じた状態となる。衆生皆この境地に至らんことを願う。しかし五蘊の虚相の不存在を否定すれば観行できず、我見断絶も不可能である。

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