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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年02月25日

第二章 二種の我見   

第一節 論中における我見の定義

一、『瑜伽師地論』に説かれる我見

原文:薩迦耶見者。於五取蘊。心執増益。見我我所。名薩迦耶見。此復二種。一者倶生。二者分別起。

釈:瑜伽師地論において我見を定義するに、我見とは五取蘊に対し心に執着を生じ、自我への執取を増長させ、五取蘊を我及び我所と見做すことを指す。我見には二種あり、一つは倶生(生まれながらのもの)、二つは分別起(分別によって生じるもの)である。倶生我見とは生命の全過程に伴うもので、生命の最初から存在し、外界の影響や意識による誤った教導を必要とせず、意根の我見を指す。意根は無量劫にわたり生命体に随伴し、我見は深重で断じ難く、我我所を執着して捨てがたい。分別起我見とは六塵の境界を分別することによって生起するもので、意識の我見を指し、五取蘊を我及び我所と見做す。この種の我見は断じ易く、苦集滅道の四聖諦の理を聞き、思惟してその意味を明らかにすれば、分別我見は断たれる。

しかしながら意識は五蘊身に対して主導権を持たず、主宰識である意根の調制に従わねばならない。意根が五蘊を執取し業行を造作しようとする時、意識はやむなくこれに随従して執取する。意識が強力な時は意根の我を抑えてその氾濫を防ぐが、意識が微弱な時は意根が意識からの情報と制御を得られず、我性が氾濫し、阻害なく悪業を造作し、悪業に漂流することは免れ難い。故に意根の我見を断たねば、仏道を学んでも究竟の成就を得られず、依然として五蘊を我及び我所として執取することになる。

二、『大乗広百論釈論』に説かれる我見

巻二原文:又諸我見。略有二種。一者俱生。二者分別。俱生我見。由無始來。内因力故。恒與身俱。不待邪教。及邪分別。任運而起。故名俱生。

釈:我見は大略二種あり、一つは倶生我見、もう一つは分別我見である。倶生我見とは、無始劫以来、意根自身の無明力の故に、生生世世にわたって五蘊身に随逐し離れず、意識の邪な教導を必要とせず、また意識の邪分別による熏染を受けずとも、意根自らが縁に随って我見を生起し、五蘊身を我及び我所と認取するため、倶生我見と称される。これは五蘊身が生まれながらに意根に備わる我見であり、母胎内においてすら胚胎を我及び我所と見做す我見を有する。

原文:此複二種。一常相續。在第七識。緣第八識起自心相。即執爲我。名爲我見。二有間斷。在第六識緣五取蘊。或總或別起自心相。即執爲我。名爲我見。如是二種俱生我見。微細難斷。數數修習勝無我觀。方能除滅。

釈:倶生我見はさらに二種に分かれる。一つは生生世世を通じて相続し、断絶することなく未来永劫続くもので、真に我見を断じた後に初めて倶生我見がなくなる第七識の我見である。第七識は第八識の見分を縁とし、第八識の見る一切法を自らが見たものと執着し、見る一切法を我及び我所と執することを我見と呼ぶ。

第二種は断絶のあるもので、第六識が五取蘊を縁とする際、第七識が第六識の縁ずる総体の五取蘊相を我及び我所と見做すか、あるいは第六識の縁ずる個別の五取蘊相を我及び我所と見做し、第六識の機能作用を我及び我所として執取する我見である。このような二種の倶生我見は極めて微細で断じ難く、長期にわたり途切れなく殊勝なる無我観行を修習することによってのみ滅除し得る。

この我見は、意根が無始劫より無明を有し、第八識が出生させ執持する一切法を我及び我の所有と見做すことにより、一切法への執着を生起させるもので、遍計所執識と称される。意根は法界の実相を知らず、一切法が第八識に由来し第八識の所有であることを認識しないため、これを倒見・錯執と呼ぶ。意根の我見は総じて法我見とされ、一切法を自己のものと見做すが、中でも第八識が出生・執持する五蘊を我及び我の所有と見做すことは倒錯した邪見・誤見であり、五蘊我見と呼ばれる。我見がある故に我執が生じる。この種の我見は苦集滅道の四聖諦を修学することによってのみ断除でき、断じた後は意根の五蘊身への執着が次第に軽減消滅し、我執が尽きれば三界を脱して解脱を得る。

意根の我見に何故断続があるのか。意識が断続的であるため、意識が断滅した状況下では、意根は意識の見分を我見として執取できず、意識の見を自己の見と見做せないため、意根のこの部分の我見は断たれる。しかし意識が再び出生して五蘊を縁する時、意根のこの部分の我見は再び現れる。

原文:分別我見。由現在世外緣力故。非與身俱。要待邪教及邪分別。然後方起。故名分別。此亦二種。一緣邪教所說蘊相。起自心相。分別爲我。名爲我見。二緣邪教所說我相。起自心相。分別爲我。名爲我見。如是二種分別我見。

釈:第二種の我見は意識の分別我見であり、この我見は出生後に生活環境の熏染によって生じるもので、五蘊身と共に生まれるものではなく、五蘊身に伴って存在するものではない。他人の邪教導や邪染を受けた後に不正な分別を生起させるため、意識の分別我見と称される。意識の我見がさらに意根を熏染すると、意根の我見及び我執を増長させる。

分別我見も二種に分かれる。一つは他者が五蘊に対して行う不正な教導、これが色蘊、これが受蘊・想蘊・行蘊・識蘊であるとの説を縁として、自らの五蘊相を生起させ、分別によって五蘊を我と見做す意識の我見である。第二種は邪教導・邪染によって説かれる我相を縁とし、自らの我相、これが私の色身相・受覚相・認知相、これが私の思想観念、これが私の決定、これが私の言行であると生起させ、意識がこれらの相を分別して我と見做す意識の我見である。これが意識の二種の分別我見である。

三、阿含経に説かれる我見

六識の機能作用を自己の機能作用と見做すことが我見である。六識の見を自己の見と執することが我見である。六識が六つの窓口で得る情報を私が了別したものと見做すことが我見である。六識が六入処で受ける感受を自己の受と見做すことが我見である。六識が六塵に対してもつ思想観念を自己のものと見做すことが我見である。六識の身口意行による造作を私が造作したと見做すことが我見である。この私とは誰か。ただ意根のみである。

仏が阿含経で説く我見とは意根の見であり、我見を断つとは意根に我見を断たせることである。では仏は阿含経で意根について説いているか。当然至る所で意根を指している。意根の我見の実質は法我見であり、一切法を我及び我所と見做し、全てが第八識のものであることを知らない。その中に意根の五蘊我見があり、五蘊を我及び我所と見做すのである。

意根には人我執と法我執があり、それに対応して人我見と法我見が存在する。実際には法我見は五蘊我見を含み、意根は法我見のみを持ち、一切法を我及び我所と見做す。従って意根の法我執は人我執を含み、意根は法我執のみを有し、一切法が我及び我所であると執着する。法我見・法我執が尽きれば無明も尽き、仏となる。修行はこの一点に尽きるが、三大阿僧祇劫にもわたる苦行を経る。もし断固たる決意で断ずべきものを残さず、斬るべきものを一切残さねば、三大阿僧祇劫を要せず、苦受も遥かに軽減される。

意根が我見を持つのは自心の無明による。仏道修行とはこの意根の無明を破り、一切法が己のものではなく第八識に属すること、五蘊十八界を含むすべてがそうであることを悟らせ、意根が徐々に人我執・法我執を断じ、無明を尽くして仏道を成就させることである。

衆生の無明は全て意根の無明に起因し、六識の無明は意根の無明から生起し、意根の無明に熏染される。意根に無明がなくなれば我見・我執も法我見・法我執も消滅する。小さな妄我である意根と、大いなる真我である第八識が和合し、世間の一切法を顕現する。一方は我執に縛られ、他方は無我に随順する。修行とは意根を調えることに尽き、修すべき他は存在せず、一切法は意根のために機能する。この理を悟れば世間一切法の因果が明らかとなり、仏道修行の目的と方法が透徹し、心に曇りなく障りなくなる。

もし断固たる決意を持つ者がいれば、敢死隊を結成し相互に監視し協力し合い、一切の我を死滅させよ。我など何の益か。生死の根源たる我あれば大自在も大解脱も得られぬ。仏法の修証過程は看破と放下の過程に他ならず、看破さえ極めて難しく、放下は更に難渋を極める。一切を放下すれば即ち仏となる。

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