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書籍
作品

五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年02月25日

真摯に理法に従って実修しようとする者への戒告

仏法を学び修行するにあたり、我見を断除し我執を破砕することが第一である。一切の煩悩は我より生じ、一切の罪悪は我より起き、一切の生死は我により存在し、六道輪廻は我によって顕現する。我は生死の根源、苦悩の元凶、三悪道の淵源、解脱を阻む枷である。我あるが故に苦悩あり、我あるが故に生死あり、我あるが故に罪悪あり、我あるが故に解脱を得ず。然らば我見を断除すれば三悪道の枷を脱し、我見を断除すれば生死の見惑を断ち、我見を断尽すれば罪悪を断じ、我見を断尽すれば生死輪廻を出離し、我見を断尽すれば解脱を得る。

我あるは即ち生死、無我なるは即ち仏なり。仏法修行は我を漸次に無我へ導き、徹底的な無我が究竟の成仏である。故に仏法修行においてはまずこの禍根たる我を抜き去り、生死を招かぬようにせねばならない。我見を断除し棘を抜き、我執を破尽し、更に法執を断ち、無我利他して仏道を円満せしむ。仏法修行者は日々自らを内観し、我貪・我瞋・我痴・我慢・我愛・我見という無量の煩悩を降伏し断除せねばならない。日々自心を三省し、利剣をもって煩悩の賊を断ち切り、心火を断じて清涼を得、故郷に安坐し太平の城を築くべし。

仏法は成仏の法であり、「成」は成就を意味する。仏法を学んで成就せんとすれば、必ず実修実証に力を注がねばならない。「実」とは実際・確実・真実を指し、「修」とは具体的な修行法を実践すること、「証」とは一定の方法を通じて仏法を体験検証し、理に適った結論を得ることを指す。この結論の獲得は修行者の智慧の成就を表し、仏法が自らの修得によるものであり、単なる言葉の学びに非ざることを示す。志ある者は必ずこの道を辿り、真に自己を変革し解脱自在を得ねばならない。

仏法を修証する方法は、広く学び多聞する基礎の上に、深く禅定に入り、理に従って思惟観行することである。相応の禅定がなければ、学んだ法を理に適って思惟観行できず、仏法を実証することは不可能である。その場合、学んだ仏法は単なる仏教知識の蓄積に過ぎず、他人の宝を数えるようなもので、自らには一文の価値もない。

現在多くの仏法学習者の中には、精進して日夜書籍やネットに没頭し、広く学び求める者がいる。しかし得られる結果は胸中に堆積した大量の仏教知識のみで、流暢に語る内容は全て他人の言葉をなぞり、独創性なく、実証体験は微塵もない。慢心を増長させるのみである。中には著書を発表する者もいるが、内容は各種名相の羅列や仏教知識の転載が多く、実証体験に基づかない。食について論じても空腹は満たされず、消化せぬ食物は病を生むが如し。故に勤学する者には、深く禅定に入り禅観を起こし、定中において理に従い思惟観修し、学んだ法を検証するよう勧める。定中で理に沿って深く思惟した後、法の所以然を知り得る者こそ真の実証者であり、他人の宝を数える者に非ず。このような人物こそが衆中の龍象となり、いずれ大衆を率いて仏道を共に成就するであろう。

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