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作品

五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年02月25日

第三節 五蘊の総合的観行方法

一、我見を断ずる重要性  

我見を断ずるには、色身我見と識心の我見を断ずる。色身我見を断ずるには、色身が小から大への生滅変化を観行し、色身が生滅変異・無常・苦・空であることを確認する。心中に「苦なるものは私でなく、私は苦でない」との観念を確立する。これが永恒的真理である。この観念を確立すれば色身の無常苦を観行できる。色身は因縁所生であり、因縁有れば色身生じ、因縁滅すれば色身滅す。生滅変異無常苦なる故、私に非ず。これにより色身我見を断除できる。  

識心我見を断ずるには、識心の生滅無常性を思惟する。識種が刹那生滅して識を形成する様は、水滴が水流を形成する如し。水滴が循環流注して連続不斷の水流を形成するが、真実の水流が存在すると考えるのは錯覚であり、水流の仮相に欺かれた状態である。識種子が次々と高速流注して識を形成し、連続的識心分別が存在すると考えるのも同様の錯覚である。この理を深く思惟すれば識心を我とする邪見を断じ得る。識種の流出は因縁有り、因縁和合すれば識は出生し、因縁散滅すれば識種は出生せず識心は滅する。三昧中にこの理を深く認可すれば識心を我とする邪見を断除できる。  

小乗の四阿含を修め、先ず我見を断じて後明心すれば、我見は容易に徹底断除され煩悩性障は速やかに降伏される。直接参禅して明心する場合、無我の修行基盤が無く定力不足ならば解悟の要素が多く、我見は徹底的に断じ難く、或いは全く断じ得ず、この所謂「我」が常に出現して悪行を造り道業を阻害する。我性重き者は斯くの如く到る所で問題を引き起こす。故に我性を降伏することは修行と自他利益にとって極めて重要である。一旦自我を降伏すれば生生世世に亘り無尽の利益を受け、心に苦悩を生ぜず。

二、能所としての五蘊の不実性を観行する  

五蘊の無我を観行するには、五蘊を二部分に分けて観行できる。一部分は色身、一部分は識心であり、識心が色身に作用して五蘊を形成する。身心を静め禅定に入り深く観行・感知し、色身の無常性・生滅性を領受する。色身の生・住・異・滅を思惟し、色身の無常と空幻を確実に了知した後、色身の苦を感受する。定慧等持の三昧が現前すれば色身の無我性を証得できる。前世の色身・後世の色身を観行し、如何なる種類の色身も生滅・変異・苦・空・無常・無我であることを知る。次に識心の生滅変異性を観行する。如何なる識も、一切法を覚知する機能作用を持つ識心は全て生滅・空・苦・不真実である。  

五蘊を能所二部分に分けて観行する方法もやや簡便である。能とは六識の能見性、所とは六識の見る六塵を指す。眼が色を見る時、能見の眼識と所見の色塵を分離し、両者の生滅変異性を深細に観行する。耳が声を聴く時も所聴の音声と能聴の耳識に分け、両者の生滅変異性を観察する。鼻が香を嗅ぐ時、所嗅の香塵と能嗅の識心を分別し、両者の生滅変異無常性を思惟観察する。舌が味を嘗め、身が触を覚え、意識が法を思う時も、全て能所二部分に分けて観察思惟する。  

思惟観行を経て内心が真に透徹すれば、心に震動が生じ自我への知見が覆される。一切時に於いて六根が何に触れ六識が何を分別しようと、五蘊全体が心から色身まで空の殻の如く感じられ、自らが空・無常・不実無我であることを切実に感知する。観行成就時、内心の覚受は天地が覆る変化を遂げ、空々たる覚受が生起し行住坐臥一切時に亘り自我身心の虚妄不実を深く知覚する。  

このような断我見は真実の断我見であり、口先や理論上の断我見ではない。以降の修行は大小乗を問わず着実迅速に進歩し、煩悩は日に雪の如く消え身心軽安を得、今生後世に大いに利益を受ける。故に衆人に勧む。此の法は如何に難行であれ必ず行じ、我の生死見を断除すべし。

三、五陰の和合相は真実の相ではない  

五陰十八界の我は七つの識と色身が和合して形成され、五受陰が組み合わさり、六根・六塵・六識が結合した虚妄の仮法であり真実ではない。単一の受陰は私でなく、和合したものは更に私でない。単一の界は私でなく、和合したものは更に私でない。真実の私は和合によって生じるものではなく、本来存在し独立自主性を有し、外縁に左右されない。  

現に見られる如く、衆生の五陰は独立存在できず、各種因縁が聚合して形成される。五つの受陰は組み合わされ、十八の界は結合されたもので、全て独立自主性・実在性を持たない。故に我性無く空であり、仮名に過ぎない。因縁が滅する時、結合した各部分は散じ仮体は消滅する。集団が多数の人間で構成される如く、単独の人間は集団でなく、結合したものも真実の集団でない。自主性無く、因縁消失時には各人が散り集団は存在せず、存在しても仮名に過ぎない。故に集団は集団に非ず。

三、五陰の和合相は真実の相ではない  

家庭の如く、父母子女で構成される。単独の個人は家庭でなく、結合しても真実の家庭ではない。現象上存在するように見えても実質は無であり、実質的なものは真実永遠不変で外縁に左右されない。家庭という仮相は多数の因縁要素で形成され、因縁が消滅すれば要素も消滅し、家庭の仮相も滅する。故に家庭は家庭に非ず。  

家屋が煉瓦・木材・セメントの和合で成り立つ如く、一つの材料を除去すれば家屋は崩壊し、家屋の仮相は存在しなくなる。故に家屋は家屋に非ず。机椅子が木材と釘等の材料で構成される如く、一つの材料を除去すれば机椅子の相は不具足か分解し、木材と釘と呼ぶべきで机椅子の仮相は消滅する。故に机椅子は机椅子に非ず。五陰の我は我に非ず、意根の我は我に非ず、意識の我は我に非ず。  

世間の一切の相は諸要素の和合によって存在する。各要素に自性無く、和合したものに更に自性無し。因縁が散れば一切滅する。故に世間は世間に非ず。因縁が形成する法は永住せず不永存の法である。故に貪着すべきでなく、貪も執も無益である。如何に執着しても最終的には離散する。執せず早く貪心を捨て、煩悩を断じ束縛を解脱し、本性に回帰し自由自在となるべし。

四、六識の分別は何故錯覚か  

法は色法と心法を含み、五蘊は全て法であり、六根・六塵・六識も法である。法無我を観ずるとは、五蘊十二処十八界が和合して生じた一切の法の中に私が存在せず、全て私でないことを観ずる。六つの識は刹那生滅し、全て第八識から出生した虚妄・変異・無常・苦・空の法であり、私ではない。七つの識は刹那刹那に生滅変化し続け、一弾指の間に八万一千の種子が生滅を繰り返す。極めて速く、我々は識種子の生滅現象を感知できず、識心が連続不斷に運行しているかの錯覚を抱く。実際には識心は連続でなく断続的であり、生滅が極めて速いだけである。  

あまりにも速すぎるため、覚知心は刹那の断続現象を弁別できず、心が連続不斷に運行しているとの錯覚を生じる。松明を高速で回転させる時、火の輪が見える如く実在感を覚えるが、実際には火の輪は存在せず、単なる松明に過ぎない。眼識は無始劫以来ずっと仮相に欺かれ真実の現象を見極められず、幻覚を生じて仮相を真実相と見做す。映画やテレビの人物活動の如く、全ての動きは一コマ一コマのフィルムが連続して再生されるため、速過ぎる再生速度により連続的に感じられ、真実と錯覚する。  

所謂連続性を持つ事物を全て一点一点に分割すれば、それらが真実でないことを悟り、内心は虚妄を覚える。禅定はこの作用を起こし、心を安定・清澄させ、徐々に真理を認識し一切法の真相を見極められるようになる。

四、六識の分別は何故錯覚か  

衆生の六識は全て錯覚を有し、六識が分別する一切の法が断続的で連続不斷でないことを知らない。六識には覚知の残存作用があり、直前に消滅した現象を識心が依然として原位置に存在すると錯覚する。例えば眼識が色を見る時、色塵は即座に過ぎ去るが、視覚に残像効果があるため継続的に色を見ていると感じ、直前の色相を見ていると錯覚する。実際には直前の色相は既に滅しており、過去の刹那の色相を見ることはできない。一つの色相から次の色相へと刹那に移行し、相互に連続しないにも関わらず、意識は色相が動き続け存在し続けると誤認する。これが幻覚と錯覚である。  

眼識の錯覚作用により、我々は完全且つ連続的な色相を見ていると感じるが、実際には点と点が繋がったものであり、前後の色相は同一でなく断続的に変化する。眼識は刹那生滅し、意識も刹那生滅し、色塵も法塵も刹那生滅する。一つの法も次の刹那まで持続できず、衆生は全ての法が連続的で真実であり元の法であると誤認する。元の法など存在せず、全て変異した法である。  

世尊は『金剛経』において三心不可得を説かれた。過去の六識心は滅して不可得、現在の六識心は刹那生滅し同様に不可得、未来の六識心は未だ出生せず不可得である。六塵境界も過去・現在・未来の三際に亘り不可得である。我々は無量劫より自らの識心に欺かれ、見えるものが全て真実だと錯覚し、その虚妄不実を知らない。故に一切の法は生滅変異し真実の我でなく、色法も心法も無常の法であり、第八識が刹那に出生させた空幻の法である。

五、如何に五蘊十八界の虚妄を観行し証明するか  

色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を観行する際、次のように観察すべきである:色受想行識は本来より存在する法ではなく、先天に存在する法でもない。したがって五蘊は真実の我ではなく、本来の我でもない。われわれの見聞・思量・識別・有所得心・希求心・反観する心、およびこれらの法を証知しうる心も、すべて本来より存在するものではなく、自然に存在するものでもなく、本来の我でも真実の我でもない。これらの法はすべて生滅無常の法であり、永久不変の法ではない。ゆえにすべて我ではない。五蘊の生滅無常なる変異性と非我性を観行した後、さらに識心の種々の境界がすべて生滅・無常・虚妄であり、我でもなく我の所有でもないことを観察しなければならない。われわれが現在感じている一切の自我存在感とは、五蘊の仮の我である識蘊に他ならず、それは生滅・無常・苦・空の性質を具えている。

世尊は『阿含経』において、凡夫が感知し得る一切が虚妄で真実の法無きことを明示された。真実の如来蔵は現時点では感知できず、感知可能となる時即ち如来蔵を証得する時である。その時禅宗の公案が幾分理解でき、大乗経典も部分的に解読可能となり、他者の説法の正誤も弁別可能となる。智慧は漸次増長する。  

観行五蘊とは、一つは観行の現象であり、もう一つは観行の実質である。この二点を突破し、現象と実質の関係を明らかにし、現象と実質を融合させて観行することで、我見を断ち初果を証し、明心証悟を得るのは容易である。五蘊は目に星が見えるときの星のようである。観行を行って、その星は有か無か、空であるか非空であるか、または両者を兼ね備えているかを究明せよ。空と有の両者を反復して観行し、その関係を明らかにすることは簡単なことではない。だから、学仏者の中で初果を証したものは極めて少なく、ほとんど存在しない。

人は自ら無始劫以来の誤った知見を覆すのは非常に難しく、繰り返し熏習し、繰り返し観行思惟し、自らの習慣的な認識と不断に対決し、深く禅定観行に入る必要がある。そうでなければ少しも悟入することは難しい。不断の観行思惟を経て、定慧等持の三昧が生じた時に初めて、仏が説いた各真理を真に証得できる。五蘊皆空は仏が示した最終結論であり、中間の修証過程は各人が自らで完結させなければならず、他人が代わることはできない。五蘊の虚妄無我は言うまでもなく、目に星が見える時の星が有か無かを考えることさえも、自らが深く思惟して正しい結論を出す必要がある。表面は単純に見えるが、実修で証明するには決して単純なことではない。

結論を理解するだけでは足りず、必ず実際に観行を行い、すべての証拠を集めて確凿なものとしなければならない。修行は幾何学の問題を証明するようなものである。幾何学の問題は結論そのものであり、その中間の証明過程は自らで行う必要がある。仏法も同じで、仏が示した真理は結論であり、修行者はそれを自らの力で証明し、意根が自らその結論を証明することで、仏法を自らのものとするのである。

六、五蘊十八界の虚妄をより効果的に観行する方法

五蘊十八界の虚妄非我を観行するには、まず五蘊を分離して観察するのが最善である。五蘊が活動している現在において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊のそれぞれを区別し、一つずつ分離して観察すべきである。分離した後に、各蘊の虚妄性を容易に識別し、その虚妄なる所以を明らかにすることができる。十八界も同様である。身口意の一切の行為造作の当下において、十八界を一つずつ分離して観察し、分離した後に観行を行えば、各界の虚妄性を明確に見極めることができる。

衆生が無始劫以来、自らの生活の世間を実在と見なす理由は二つある。一つは衆生が無始劫以来無明に浸っており、無明が極めて深く、仮を真と認めてしまうため。もう一つは世間が立体的で多様に富んでいるため、その実在性を信じて依存するようになるためである。立体的であるということは、目が色を見、耳が声を聞き、鼻が香りを嗅ぎ、五蘊が和合し、十八界の機能がすべて調和して作用し、複雑で体系的なプログラムが存在し、現れる一切の法が極めて逼真で現実的に見えることを意味する。大きな善根と福德がなければ、五蘊の実質を反観し、正しく認識する能力を持たない。

五蘊の活動は複雑であるが、非常に条理があり規則性があるため、衆生は五蘊を非常に実在的だと感じ、その存在を当然のものとして受け入れる。それらが当然であるかどうか、理屈があるかどうかを考えず、順次に受け入れてしまう。この順次受け入れが、無始劫以来の無明そのものである。五蘊の活動の中では、真法と妄法が和合し、互いに区別されず、衆生は五蘊を実在だと信じてしまう。五蘊が実在だと信じることで、裏側にある真実の如来藏が覆い隠されてしまう。

私たちはこの和合した立体化された五蘊の世間を分離して、徐々に平面に引き伸ばし、パーツに分解できます。例えば自動車や建物を分解してパーツにするように、五蘊を分解すれば、その虚妄さが明らかになります。パーツが組み合わされて一つの整体になると、人は自然と五蘊を実在のものと見なしますが、分解すればその虚妄性を観行しやすくなります。自動車をパーツに分解すれば、実際には自動車というものは存在せず、一般人はパーツを自動車とは見なしません。

五蘊十八界も全て分離しなければなりません。七識八識をすべて分離し、各蘊ごとに、各界ごとに、六根触六塵ごとに、七識の機能作用ごとに虚妄性を観行します。五蘊の全体をパーツに分割し、できるだけ細かく分解すれば、最終的に五蘊がいかに虚妄で不実であるかがわかります。これにより我見を断ち、解脱を得ることができます。これらの法がすべて虚妄であることを知った後、残る一つの法に対して疑問が生じます。すべてが虚妄なのに、どうして五蘊の機能作用があるのかという疑問が心に浮かび、それによって如来藏を証得するのが容易になります。

七、観行は五陰の内涵を明らかにしなければならない

永嘉禅師の奢摩他頌は、正しい禅定修行を行い智慧解脱を得る方法を説いている。その中で定中の观想において、歴々分明としているのが識陰であり、領納する心が受陰であり、この理に心を寄せるのが想陰であり、この理を行うのが行陰であり、真性を埋没するのが色陰である。

观想思惟するとき、明らかに了知される状態が識陰の境界であり、所观想の内容と感受を領納するのが受陰の境界であり、所观想の内容に心を繋ぐのが想陰の境界であり、心念が念々と流れるのが行陰の境界である。この四陰は絶えず生じ、絶えず流転し、絶えず変異し、絶えず消滅する。無常であり、空虚なり虚偽なり、その変異が止まらない故に苦受が生じる。変異を欲しない、特に急速な変化や消滅を欲しないのが苦受である。苦は我ではない、空も我ではない、無常も我ではない、変異も我ではない。なぜなら、これらは言葉にできない、自らが定中で体悟することであり、思想は互いに代わることができないからである。

無常の生滅変異は比較的観察しやすく体験できるが、そのような法が「我」ではないという認識を得るのは困難である。なぜならこれは観念の転換に関わるため、他人が飯を炊いてもらい、食べさせてもらっても、咀嚼し咽下し消化するのは自分自身のことであり、決して代わることができないからである。

八、五陰十八界を細かく観行する方法

五陰十八界の虚妄を観行するには、五陰十八界を一つずつ観行して空と見なす必要がある。まず五陰を空と見なし、最終的に定中観行を通じて、十分な論拠をもって五陰十八界が空であることを真に確認しなければならない。単に空と見なすだけでなく、五陰十八界が本当に空であることを証知しなければならない。どのように五陰十八界が空であるかを観行するか?五陰の概念と内包する範囲、機能作用を観行して明確にした後、どのように虚妄であるか、どのように非我であるかを知ることができる。第六識のすべての体性も空であり、無我である。離念灵知心、禅定中の意識心、受を持つ意識、想を起こす意識、行相を持つ意識、区別思惟推理する意識など、すべての意識の側面を観行し、その虚妄性を確認しなければならない。

元々は意識心が「我」と考えていたが、思惟観行した結果、意識心は根本的に「我」ではなく、単なる工具であることが分かった。心の中に「知」がある場合、それは意識心の知であり、次にその意識心の生滅性、無常性、変異性、把握不可能性、空幻性を思惟する。この意識心の知は「我」ではなく、ただの工具であり、自分が使うものである。まず意識を否定し、生滅无常性を観行し、最終的に意識の虚妄性を確認する。

五陰は多くの場合、同時に現れる。色陰は必ず参加し、識陰も必ず参加する。識があれば行があり、想があり、受がある。六識がなければ、行もなく、想もなく、受もない。各法の運行において、五陰がすべて存在する可能性がある。例えば目が色を見る場合、身根が関与し、眼根が関与し、眼識が関与し、意識が関与し、意根が関与する。これにより色陰、識陰、受陰、想陰、行陰がすべて含まれる。

受陰と想陰、行陰の活動は六識が運行していることが前提である。睡眠の際には受陰と想陰は滅じるが、一部の行陰は残存する。無夢睡眠の時、第七識の意根が存在し身根を調御するため、身行が生じる。呼吸、血液循環、胃腸の蠕動、翻身、新陳代謝などの身体の活動がある限り、行陰は存在する。夢を見るときは意識心が夢の中で活動し、受想行識の四陰が存在する。

眼耳鼻舌身意の六識はそれぞれ受、想、行を有している。例えば眼識の受、想、行、耳識の受、想、行などを一つずつ観行してその虚妄性を明らかにし、さらに六識の了別性についても虚妄性、生滅性、変異性、無自性、不自在性、空性を観行する必要がある。最終的に五陰の色受想行識が「非我」でありながら「不異我」であることを完全に証得できる。ただし、受は領受と感受に分かれ、感受は苦受、楽受、不苦不楽受の三種類ある。想は執取、取相、了知であり、行は運動、転運、運行、作用、寂しないことを意味し、了別は分別である。これらの部分についても生滅変異の無常性を一つずつ観行する必要がある。

九、十八界を具体的にどのように観行するか

まず眼根、耳根、鼻根、舌根、身根の五根を観行する。この五根がなぜ无常で虚妄で空で苦で「我」ではないのか、どのように生じたのか、どのように滅したのか、どのように変異したのかを、坐禅の中で細かく正確に観行する必要がある。そうすることで意根が五根の無我性を徐々に確認していく。もし坐禅の中で深く観行しない場合、意識が理屈で五根が生滅虚妄であると単純に認めても、それでは意味がない。なぜなら意根はその理を受け入れず、内心深くから五根を否定することができず、無我を確認できないからだ。意根の邪見を転換するためには、深く細かく観行し、意根の現量智を引き出さなければならない。そうすれば意根自体が「確かにそうだ」と認め、確認ボタンを押すことになり、その事実が定着する。

五根の観行が終わったら、次に意根本身の生滅、虚妄、无常、非我性を観行する。その際には、「意根がなぜ『我』ではないのか、その理由は何か」ということを明確に思い究めて理解し、意根に「自分も実は虚假である」と悟らせる必要がある。そして、最終的に意根が確認ボタンを押すようになれば、そこで終了する。

次に六塵の無我性を観行する。色塵、声塵、香塵、味塵、触塵、法塵の六塵がなぜ生滅であるか、无常であるか、変異であるか、苦であるか、空であるか、どのようにして生じたのか、どのようにして滅したのか、なぜ「我」ではないのかを、より深く細かく観行する。最終的に意根が認可すれば、確かに六塵は「我」ではなく、「我所有」でもないことになる。そうすると意根は六塵を重視しなくなり、実在の法と見なして貪執しなくなる。

続いて六識を観行する。六識が生じる場所と根源を思い究め、六識がいつ生じ、いつ滅するか、どのように无常であるか、どのように変異するか、どのように苦であるか、どのように空であるか、どのように「我」ではないかを観行する。最後に意根が智慧を生み出し、六識が速く生滅変化し、捕捉できないことを確認すれば、「我」とは思わず、また「我所有」とも見なさなくなる。

次に五蘊の無我性を観行する。五蘊は複雑であり、各機能体性について心を澄ませて観行する必要がある。五蘊の概念を明確にした後、各蘊ごとに観行思惟を行う。色蘊は身根五根であり、既に思い究めているが、ここではさらに身根五根の機能作用がどのように生滅无常で変異し、苦で空であるか、無我であるかを追加で思い究める。

十、五蘊十八界を分離して観行する方法

五蘊を観行する際は、五蘊を可能な限り分離して一つずつ観行し、十八界も同様に分離して一つずつ観行する必要がある。我々の一切の活動の当下では、単一の蘊だけが作用しているわけではなく、単一の界だけが作用しているわけでもない。また、ある蘊が別の蘊へ飛び越えて作用したり、ある界が別の界と順番に切り替わって作用したりすることもない。多くの場合、五蘊が同時に現起し、十八界も同時に現起している。

例えばここで話をしているとき、目は窗外の景色や前の壁を見ている。耳は同時に音を聞き、鼻は花香を嗅ぎ、六根が同時に作用し、六識が同時に別別に作用し、六塵が同時に現れる。十八界はすべて同時に作用している。五蘊について言えば、色蘊は身体が造作し、受蘊は六識が絶えず感受し、想蘊は六識が絶えず執取・了知し、行蘊は六識の身口意行が絶えず現起している。

部屋の中を歩きながら問題を考える場合、その時の五蘊の動きを見つけて明確にする。色蘊は何をしているか、受蘊はどこにあり、どのような状態か?想蘊はどのようなもので、何を想っているか?行蘊はどのように機能し、どこに行蘊があるか?識蘊の六識はそれぞれどのような相分境界を別別に了知しているか?禅定の中で徐々に深く観行し、その生滅変異の無常性を思い究め、苦性を了知し、無我性を確認する。

このようにして、各根・各塵・各識がどのように現起するか、何に縁づいて現起し、現起後どのような作用を行い、十八界がどのように協同して統合されるか、最終的にどのように散っていくかを観行する。次に別の法がどのように生じるか、どのように滅するかを観行する。その後、各蘊がどのように現起し、何に縁づいて生まれ、どのように変化し、どのように徐々に消滅するかを観行し、次に注意を移して別の法を観行し、各蘊がどのように生じて滅するかを見る。

必ずゆっくりと深く細かく思惟して観行する。観行を続けることで心念が深く細かくなり、雑念が極めて少なくなり、意念が集中し、呼吸が深くなり、心拍が減り、気血が流通し、身心が安らぎ、周囲の雑乱なものが感知できなくなる。深く思い続ける法だけが心の中で長く渦巻き、思惟が非常に遅く、深く、細かく動くようになった時、それは意根に深く入り込むことができる。意根はその深い思いを追いかけ、短時間で通じない場合でも、選択心が生まれ、意識の思惟内容を明らかにしたいと欲し、他の世俗の法に対しては執着しなくなり、少なくなる。そうすると、観行内容を完成させようという念頭が強くなり、意識の定慧が増強され、観行が少しずつ深まっていく。やがて、意識と意根が五蘊の無我性を証得できる日が来る。

十一、五蘊活動における細分化観行

五蘊活動の当下において、各蘊の機能体性を可能な限り分離して観察する。これにより観察が透徹しやすくなる。例えば我々がここに座って話している時、色蘊が活動し運行している。受蘊も運行しており、六根上の感受が存在する可能性がある。想蘊も運行し、六識が六塵上で執取・了知している可能性がある。六根六識の造作が存在し、身体中の行と心識の行も持続している。五蘊は全て活動運転しており、六識の識蘊も絶えず分別作用を起こしている。このように各蘊を分離した後、具体的に各蘊が如何に生起・変化・滅していくかを観行し、その生滅変異性を細心に体得する。

例えば目を閉じて過去の事柄を回想する際、どの蘊が関与し、どの界が関与しているかを観行し、明確に区別する必要がある。各界が何であり、如何に顕現するか、各蘊が如何に運行するかを観察する。回想中は色身の運行を観察し、意識心の運行を観察する。眼識以外の識心が感知している可能性があり、これら全てを観察する必要がある。回想中には色蘊等の五蘊が存在し、身識と意識は共に覚知と感受を有している。これら全てを観行し、明確に思惟する必要がある。

すべての覚受は意識心を主とし、意識の生起と滅去を観行し、受蘊・想蘊・行蘊の変異を観行し、その無常性・空性・苦性・無我性を思惟する。あらゆる活動の当下において、五蘊を分離して観行し、十八界も分離して観行する必要がある。その後総合的に身心内外の生滅無常性を観行する。さらに前世・後世、前半生・後半生、善悪美醜を有する全ての五蘊十八界の生滅無常性をも観行する。

欲界の衆生は五蘊が同時に存在し運行している。深定に入り六識を滅した場合のみ、受蘊・想蘊・識蘊を滅することができる。無色界の衆生は色身を持たないため色蘊は存在しないが、受想行識の四蘊がある。欲界の衆生は通常五蘊が同時に現起し、六識も同時に出現し、同時に運作する。一つの識の作用から他識へ転移するのではなく、六識が同時に存在し、各々の識種子が流注し、各々の出生処を持ち、相互に転移せず干渉しない。

例えば目で色を見る時、眼識が色塵を分別し、同時に耳識が音声を聞く。この時意識心は何をしているか?意識心は眼識・耳識・鼻識・身識と共に色声香味触法を分別する。話す時、舌識は口腔内の味を感知し、鼻識は周囲の匂いを嗅ぎ、六識が運行し、第七識・第八識も運行する。八識は各々の事業を行い、相互に調和して乱れない。

十二、着衣食事の活動における観行

毎日食事という法がどのように生滅変異無常であるか、どのように苦であるか、どのように空であるか、どのように無我性・無主宰性であるかを観行する必要がある。毎日着衣という法がどのように生滅変異無常であるか、どのように空であるか、どのように苦であるか、どのように無我性・無主宰性であるかを観行する必要がある。

着衣食事における受覚がどのように生滅変異無常であるか、どのように空であるか、どのように苦であるか、どのように無我・無主宰性であるかを観行する。着衣食事における想蘊の了知性がどのように生滅変異無常であるか、どのように空・苦であるか、どのように無我・無主宰性であるかを観行する。着衣食事における身体と心識の行為造作がどのように生滅変異無常であるか、どのように空・苦であるか、どのように無我・無主宰性であるかを観行する。着衣食事における識性がどのように生滅変異無常であるか、どのように空・苦であるか、どのように無我・無主宰性であるかを観行する。

十三、逆境発生時における無我観行

身体が逆境に遭遇した時、次のように観行すべきである:色身とは何か?色身は四大が組み合わさった肉体であり、細胞が積み重なって形成された筋肉・骨格・血液等が結合した木偶のような身体である。この身体は生滅変異し、組み立てられたものであり、無常で空であり、「我」ではない。もしこの身体が「我」であるならば、身体が滅びた時「我」も滅びるのか?実際には「我」は滅びず、来世も無量世も存在する。故にこの身体は「我」ではない。色身が「我」でないことを観行するには深い禅定が必要で、この色身が機械のように自動化され、生住異滅が「我」の制御下にないことを観行する。これが総原則であり、細部は自ら逐一観行し、各認識を自ら検証確認する必要がある。

次に受蘊を観行する。境が心に合わず怒りが生じた時、この怒りの感受は真実か?感受は如何にして生じるか?感受は意識心の受であり、痛みは身識の受である。全ての受は六識の受であり、六識の受は「我」か?真実か?受は識種子から生じたもので刹那刹那に生滅変異し、虚妄で空・幻化し、瞬時に消滅する。故に受は「我」ではない。現在打たれ罵られて感受が悪くとも、やがて富を得れば感受は良くなり楽になる。この生滅変異が常に転化し固定せず永続しないものは根本的に真実でなく、「我」ではない。それなら何故執着する必要があるか?

更に想蘊を観行する。逆境を了知する心は想蘊である。この想蘊は如何にして生じるか?識種子が生じて識陰を形成し、識陰が作用すれば了知性が生じる。この了知性は生滅変異し、不常存・幻化・空である。故に想陰も「我」ではない。永劫不変で本来的に存在せず、後天的に生起した法は全て「我」ではない。この想蘊は睡眠中には何も知覚せず、他人に罵られても気付かない。故に生滅虚妄で不常存・不変であり、「我」ではない。

十三、逆縁が現れた時に無我を観行する

身体に逆縁が生じた時は次のように観想すべきである。色身とは何か?色身は四大が組み合わさってできた肉体であり、細胞が積み重なって形成された筋肉・骨格・血液などの集合体である。この身体は生滅変化するものであり、組み立てられ造作された無常・空なる存在であって、我ではない。もしこの身体が我であるならば、身体が滅すれば我も滅するのか?実際には我は滅せず、次の世も無量の世も存在し続ける。故にこの身体は我ではない。色身が我でないことを観行するには深い禅定が必要であり、この色身が機械化されたロボットの如く、生住異滅が自己の制御を超えていることを観じなければならない。これが総原則であり、詳細は自ら逐一観行し、各種の認識を自ら実証確認する必要がある。

次に受蘊を観想する。境遇が心に合わず怒りが生じた時、この怒りは我の感受である。この感受は真実か?如何にして生じたのか?感受は意識心の受であり、痛覚は身識の受である。全ての受は六識の受に帰するが、六識の受は我か?真実か?この受は識の種子が生じて発生したものであり、刹那刹那に生滅変化する虚妄・空・幻化の存在で、瞬時に消滅する。故に受は我ではない。今罵倒されて不快な感受があっても、やがて富を得れば感受は快楽に転じる。このように生滅変化して固定せず、永遠不変でない存在は根本的に真実ではなく我ではない。何故これに執着する必要があろうか?

さらに想蘊を観行する。逆縁を知覚する心は想蘊である。この想蘊は如何にして生じたか?識の種子が生じて識陰を形成し、識陰が活動することで了知性が生じる。この了知性は生滅変化し、不変不滅でなく幻化・空なる存在である。故に想陰も我ではない。永遠不変でなく、本来存在せず後天的に生起した法は全て我ではない。想蘊は睡眠中には何も知覚せず、他人の罵声も認識できない。従って生滅虚妄であり不変不滅でない故、我ではない。

行蘊について述べるならば、六識の行為造作であり、身行・口行・意行を含む。心中の全ての念頭思想・了別性・感受性、刹那に生滅変化するものは全て行蘊に属する。行蘊たる識心の運転もまた生滅変化するものであり、不変不滅で永劫存続するものではない。故にこれも我ではない。

六識の識蘊において、識そのものの運営作用(心所法を含む)は全て生滅変化する。要するに五陰を総括すれば、不変不滅の法は一つも存在せず、全てが生滅変化・無常なる存在である。一時的に存在し消滅し、形態を変え続けるこれらは全て生成された法であり、真実ではない。

怒りは一種の覚受であるが、この法は真実か?真実ではない!瞬時にして消滅し、常に変化する。故に全ての心識の作用は虚妄であり、真実の法など存在しない!もし死後に色身から識心の活動が失われれば、他人があなたの色身を殴打しても痛みを感じるか?感じない。怒りは生じるか?全く生じない。故に識心が色身を離れれば、色身は木材同然で全く我ではない。仮に色身に宿る識心でさえ我ではないのだから、まして色身自体は言うまでもなく我ではない。既に我が存在しないなら、誰が怒り誰が怒らないのか?

十四、我見を断つ着力点は「我」に置くべき

問:見分は何を見るのか?見そのものは作用であるが、核心は所見が何であるかにある。性境・帯質境・独影境を問わず、所見は全て相分である。相分はまた全て第八識が変現したもので、実体あるものは一つもない。従って相分こそ我見を断つ着力点とすべきでは?

答:我見を断つ着力点は「我」に置くべきである。我の見を断除して初めて我見を断つことができる。この「我」とは何か?誰が我見を有し断除を必要とするのか?六七識が我見を有し断除を必要とする。つまり六七識の我見を断つのである。六七識は何を以て我とするか?見聞覚知の機能作用を以て我とし、即ち見分を我とする。また見聞覚知される法を以て我所とし、即ち相分を我所とする。我と我所の真実不滅性を破砕して初めて我見を断ち得る。六七識がこれらの法を我・我所と認めなくなれば、我見は消滅する。

能見は前七識であり、見分である。これらは第八識から生じたものであるから、能見は生滅虚妄である。所見は一切法であり相分である。七識自身と第八識を含むが、第八識を除く全ての相分は第八識が生じたものであり、全て生滅虚妄である。従って能見と所見のいずれも、その虚妄無我性を証得し、断除すべきであり執着してはならない。

我見を断つには自らの五蘊十八界に着力すべきである。五蘊の各機能作用、十八界の機能作用に着手する。色蘊の虚妄と生滅の様相を観行し、受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の生滅・虚妄・変異性を観行する。六根の生滅変異不実性を観じ、続いて六塵六識の生滅変異不実性を観行する。

我見を断つ作業を相分に用いる場合、この相分には第八識が現起した全ての相分(七識心を含む)が含まれる。この場合、第八識を除く全ては虚妄であり、我も五蘊も七識も存在しない。七識という見分が最も重要であり、七識の無我性を徹底的に思惟しなければならない。七識もまた第八識が変現した相分であり、その後見分として第八識が現起した他の相分を分別する。見分と相分の双方が虚妄不実である。

十五、修行の難しさは思想観念の転換にある

常に色受想行識の機能作用を思惟し、来る所なく去る所なく幻化定まらぬことを観じる(実は全て如来蔵から発現し、如来蔵が出生させ賦与したものである)。次第に、自我で制御不能の法は不自在であり真実性を持ち得ないことを深く認識できるようになる。真実性がなければ所謂我性なる実体も存在せず、不自在の法に我性はなく、我たり得ない。

これらの観念を徐々に形成し、一定の水準に至れば我見を断じ、更に我執煩悩をも断除し、身心共に自在解脱を得る。我々が我見を断ち難いのは、過去無量劫にわたる非理なる観念が深く心中に根付き、容易に転換できないためである。観念が転換しなければ我見は断たれない。観念の転換こそが修行の最重要課題であり、旧い思想観念が一旦転換すれば、従前の邪見妄想を容易に覆し、正しい知見を樹立して大智慧を獲得し、五蘊身心の解脱を実現できる。

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