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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年02月25日

第二節 傅大士が声聞初果と真妄心について述べたもの

一、傅大士の偈に曰く:捨凡初入聖。煩惱漸輕微。斷除人我執。創始証無爲。緣塵及身見。今者乃知非。七返人天後。趣寂不知歸。

釈:衆生が苦集滅道の四聖諦を修し人我空を証得した後、凡夫の身分を捨て初果聖道の流に入る。これを基に更に修行を進め、貪瞋痴の煩悩が漸次淡薄となり二果を証得する。更に初禅定を修得し貪欲心を断じ、瞋恚心を断じて三果を証得し、心解脱する。更に進修し、自我への執着が漸次微細化し遂に完全断除、深細なる我慢を滅し、欲界・色界・無色界の一切法への貪愛を滅して四果阿羅漢を証得する。以後三界に心無く、ただ縁に随って衆生を度化する。命終すれば灰身滅智し、五蘊を滅し十八界の仮我を滅し、不生不滅の阿頼耶識心体のみ残り、寂静無為の状態に住する。

衆生が我見を断除し初果を証得した時、自らの生生世世六塵境界に攀縁し、色身を自己と見做し、色身に具わる見聞覚知性を自己と見做し、この幻化空身のために種々の業行を造作し、不断に六道を流転したことを回想し、今や遂に自身の虚妄・身口意行の虚妄・万法の虚妄を知る。然るに更なる精進修行せず現状に満足し、命終えて欲界天に生じ、再び人間に戻り、七度往復して四果阿羅漢を証得し、命終して無余涅槃を取得する。無余涅槃に入れば、ただ阿頼耶識のみ残り、一無所有・一無所為の空々たる境界、無境界の境界となる。所謂阿羅漢なる存在も無く、再び人間に戻り大乗法を修学し成仏を早めることも知らず、かくの如く去るは真に惜しむべし!

二、傅大士の偈に曰く:菩提離言說。從來無得人。須依二空理。當証法王身。有心俱是妄。無執乃名真。若悟非非法。逍遙出六塵。

釈:此処の菩提と非非法は、共に真如の本性を指す。真如の本性は言説無きも、言説する時彼無くしてはならず。真心本性を悟ると否とに関わらず、菩提を得た者無し。一には菩提が本来具足し外より得ざるが故(仮に悟っても自家の珍宝を発見したに過ぎず)、二には菩提を得ると否とに関わらず人は皆空なるが故である。

仏地の法王身を証得せんとするなら、人我空と法我空の理に依って修証し、最終的に仏地の法身無垢識を成就せねばならぬ。一切世間法において、心の分別性有り、心の貪執性有るは必ず妄心なり。此の如き妄心を真実不壊の法や不生不滅の自我と錯認すべからず。三界世間法に対し心無く執無く分別せぬ心こそが不生不滅の真心である。三界世間法の相貌無き心を悟り、七識の心とは全く異なる心こそが六塵を出で生死を了得し得る。

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