背景画像 戻る

書籍
作品

五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年02月25日

第四章 五蘊観行の第二部

第一節 五蘊非我の理

一、『成唯識論述記』に説かれる五蘊非我の理

原文:内識所變。至實我法性。述曰。此顯依他。我法名假。先顯其體。實非我法。内識所變。似我似法。雖體依他。緣起是有。而非是彼。妄情所執。實我法性。此緣起法。無主宰故。無作用故。

釈:内識とは内六塵を了別する七識を指す。内六塵は七識の参与によって変現され、三種の能変識(第八識・第七識・前六識)が共同で内六塵と五蘊を変現する。六識と五蘊は依他起性に属し、種々の縁に依って第八識から生じる。仮我たる五蘊七識を変似し、宇宙器世間を変似するが、実はこれらの法は真実有ではなく、真実に存在する我ではない。五蘊は我に非ず実に非ず、七識は我に非ず実に非ず、六塵は我に非ず実に非ず、一切法皆我に非ず実に非ず。内識によって顕現された仮我仮法は、現象的には有る如く見えるが、本質的には無であり、幻化したものは即ち空である。

五蘊六塵六識は単なる仮名に過ぎず、種々の縁によって生成されたものである。縁起法は表相的に有と見做されるが、実は衆生の情識が虚妄に計度して我と実体と為すに過ぎない。我が存在し種々の法が有るかの如く見えるが、実際には存在せず、幻化して真実でない。夢中の物の如し。これらの縁起法は因縁所生であり、自主性無く、主宰性無く、真実の作用も無い。

我とは主宰の義である。五蘊に自主性無く主宰性無ければ、五蘊は我に非ず、単なる名詞概念であり仮有真実に非ず。五蘊に真実の作用無く、表面的な機能作用に主宰性無ければ、これらは全て五蘊の所為では無く、其の背後に別に存在する主宰者が真の主人であり真の我である。その我こそ真の作用を有し、真実の作用を有し、自主性を有し、一切法の生住異滅を主宰する。

真実の五蘊無く、真実の五蘊作用無く、五蘊の真実作用も無い。衆生が五蘊に作用有りと覚えるのは妄知妄覚であり、心錯乱の故、心迷惑の故である。実は迷惑顛倒の心も無く、皆空中の花・夢中の境の如し。地に入れば、五蘊に真実作用有りと感ずること無く、一切法に真実作用有りと認めず、全て仮相であり真実作用無く、唯第八識のみ真実の作用を有する。木偶人形に真実の作用無き如く、木偶人形に真実作用有りと認むる者は、皆仮相に惑わされた顛倒衆生であり、真偽を識別せず主人公を錯認する者である。

二、何故五蘊は五蘊に非ざるか

所謂五蘊は、即ち五蘊に非ず、是れ五蘊と名づく。これは公式であり、応用可能である。例:所謂某某は即ち某某に非ず、是れ某某と名づく。某某という名は単なる符牒であり、本人ではない。然るにこの名は本人を引き出し得、名もまた本人を離れない。本人無くして名無く、但し本人は名無くても存在し得る。本人は名に依って顕現し、某某の名を呼べば本人は現出する。

同様に、所謂万法は即ち万法に非ず、是れ万法と名づく。万法を某某の名に譬えれば、名の背後に人が存在する如く、万法の背後には如来蔵が存在する。人に依って名有り、如来蔵に依って万法有り。人は名無くても存在し得、如来蔵も万法無くても存在し得る。一切法は皆名に過ぎず、相は有るが実質無く、如来蔵は相無きも実有であり、実体を有し真実の機能作用を具える。

三、六根が虚妄無我なることを如何に理解すべきか

六根は全て生滅性を有する。内、五根は第八識が業種・父母縁及び意根の執取に依って生成したもので、縁散じれば即ち滅し、自在ならず自主性無し。意根は第八識が識の種子を輸送して生じたものであり、刹那生滅が連続して形成した識の仮相である。無余涅槃に入れば滅し得る故、これも虚妄不自在にして幻化我に非ず。観行に当たっては徐々に思惟を深め、極めて微細に思惟を重ね、内心に触発を生じて初めて六根及び五蘊が真実でなく真の我でないことを真に認可し得る。禅定を修得し、定力と共に思惟観行し、一法の思惟を完成して次法を思惟すべし。思惟した内容を脳裏に深く懸け、深く・緩やかに・細やかに、心を浮つかせず、思惟の法を深く懸けて内心殆ど動かず、実は極めて緩慢深細に動く。此の如き観行こそ正真の観行方法である。

四、四相無きこと

我相無く、人相無く、衆生相無く、寿者相無し。五蘊十八界というこの仮我は、第八識が種々の縁に依って変生したものであり、虚妄・変異・無常・空・苦性である。故に無我である。この結論を得るには深刻且つ緻密な観行が必要であり、内心において五蘊が真に我でないことを確信し得る。我が虚妄である以上、同理により他人も虚妄であり、全ての衆生は虚妄非我である。従って衆生の五蘊に依存して存在する寿者相は当然真実でなく、これも虚妄である。定力を修得し、これらの理を良く観行することが重要である。此の中には多くの法を修する必要があり、八正道及び三十七道品を修め尽くして初めて、これらの法が空であることを証得し得る。口先で空を説くは無益であり、単なる口頭禅に過ぎない。

五、我所有の法も了不可得

我見を断除した後、五蘊が我でないことを証得する。既に我すら存在しない以上、私が所有する法も存在し得ない。表面的には六塵の境界が私に属する如く見え、真実の如く思われるが、これらの法は生滅変異し自主性・自在性無く、全て幻化である。故に一切が所有不可能であり、更に主体的我も存在せず所有する者も無い。

所有と使用は単なる虚妄の仮相に過ぎず、実質無し。所有とは七つの識心の占有であるが、識心は形相無く如何にして占有するか?例え衣服を挙げれば、七識は如何にして衣服を所有するか?金銭を、七識は如何にして金銭を所有するか?人を所有するに、七識は如何にして人を所有するか?自己の五蘊身すら所有不可能なのに、況んや他人の五蘊身を所有し、名誉利養を所有するなど、七識に如何にしてそれが可能か?全く不可能である。故に仏は「一切法は虚妄で了不可得」と説かれた。幻化の物を如何にして得るか?指折り数えてみよ。無始劫以来、究竟何を得たか?只今此処で、我々は究竟何を得たか?自心の虚妄なる覚受のみ。実法など存在しない。全ての者は無始劫以来、ひたすら自らの虚妄なる覚受に執着し、それを追求し満足するのみで、何かを得たり失ったりしたことなど無い。

今、天上の雷鳴と耳元の蚊の羽音を同時に聴いている。然るに雷鳴は既に何秒前の出来事か?どれ程の距離を経て聴覚に到達したか?聴いた瞬間、雷鳴は既に消滅し、天上では既に雷は鳴り止んでいる。雷鳴と蚊の音が同時に聴こえるということは、音声が耳根に到達する時点では前後を分たない。一つの音声が数秒か、或いは数分かけて耳根に伝わる間、その音声の本質境は存在するか?最早存在せず、音声を聴いた時、外界の真実の音声は既に消滅している。では他人が私を罵る声を聴いた時、その罵声は尚存在するか?存在しない。聴いた本質境の音声の幻化相は、恰も谷間の反響の如し。では聴いた罵声の虚妄性は如何ほどか?極めて虚偽不実である。六識が接触する法は全て此の如し。

六、五蘊の集・味・患・離・滅

色は地水火風の四大種子によって形成された有相の物質であり、衆生の十八界に摂持される世間法である。衆生の色身と宇宙器世間を含む。これらの色は全て生滅・変化・無常・虚妄・空・不永住のものであり、これが世間の生住異滅の運行法則である。本来善悪も過患も無い。もしこれらの色を我あるいは我が所有と執取し、色に滋味が有り永劫不変と認めれば、色に執着と貪愛を生じ、一切の過患が顕現する。色を貪愛し執取するが故に心は三界に縛られ、生死輪回を脱せず、未来永劫苦悩が続く。

五蘊には全て集・味・患・離・滅が存在する。色蘊の集とは色蘊を出生させる業縁及び業種子の累積である。色蘊の出生には縁と因が有る。如何なる縁因が色蘊を生じさせるか?貪愛の集積が即ち色集である。貪愛の業行が有る故に未来世の色蘊が出生する。色滅とは、衆生が修行を通じて色への貪愛を滅却できることを指す。貪愛を滅すれば生死の過患は無くなる。

色味とは、我々が色蘊に滋味が有り楽しみが有り極めて愛すべきものと認め、色蘊に貪着することを指す。貪愛が有れば生死煩悩を断除できず、未来世の五蘊出生を招く。色患とは、色蘊が無常・苦・空・変異なるが故に、無限の生死過患を有し、色蘊存在により苦悩が生じることを指す。色離とは、衆生が修行を通じて色への貪愛を離脱でき、貪愛を離れれば生死を解脱し大自在を得ることを指す。もし貪愛を離脱し初禅定を現起すれば、煩悩を断除し心解脱を得ることができる。

受蘊の集とは、触集が即ち受集である。六根は常に六塵に触れ、触れた後は六識を出生させる。六識の受蘊が存在すれば、絶え間なく苦受・楽受・不苦不楽受を生じる。故に生死の苦受が断絶せず、苦悩が続く。受味とは、覚受が生じた後、衆生が覚受に滋味が有ると認め、心に喜楽を生じて貪愛心を起こし、受を愛楽し喜楽することを指す。心が束縛されるため、未来世の五蘊出生を免れ得ない。受患とは、六識のこれらの覚受が全て過患を有し、無常・生滅・苦・変異・不永住の煩悩法であることを指す。故に一切を断除する必要がある。

受離とは、衆生が修行を通じて覚受への貪愛を離脱し、受に滋味が有り愛楽すべきものと認めなくなることを指す。受滅とは、八正道を修めた後、真に受への貪愛と喜楽心を滅却し、心が寂止と清凉を得て解脱の真実受用を獲得することを指す。触が離れれば受も離れ、触が滅すれば受も滅す。六根が六塵に触れることを極力減らせば受も減少し、受が無ければ受の過患も無い。

触集は想集であり、触が滅すれば想も滅す。六根が六塵に触れて想を生じ、六根が六塵に触れなければ想は出生しない。触集は行集であり、触が滅すれば行も滅す。六根が六塵に触れれば身口意行が生じ、六根が六塵に触れなければ身口意行は滅す。名色集は識集であり、名色が滅すれば識も滅す。名色五蘊が出生すれば六識も出生し、名色五蘊が滅すれば六識も滅す。

七、我と我所は共に我見に属する

我見は断ち難く、根深く固着しているためである。我所見もまた根深く固着している故に極めて断ち難い。意根は五蘊の一部の機能作用を我とし、他の機能作用を我所とする。根深く我及び我が所有と執着するこの習性的認知は転換し難い。意根の非理なる知見を断除するには長期的な観行が必要であり、絶えず自らの五蘊に対する各種の観点を見直し、定中において理に適った思惟を継続しなければならない。

我と我所は非一であり、異なる別物である。例えば受蘊を我と認めれば、色蘊は我の所有となる。我と我所は異なり、色蘊を我の我見は断ったかの如く見えるが、色蘊を我所とする知見もまた根深い邪見である。我と我所は共に我見であり、共に断ち難いが、共に断除すべきである。我見を断った後、知見が矯正されれば、我と我所は非異と認め、受蘊は我でなく色蘊も我所でないことを悟る。両者共に我ではない。

我見を断つ前は、受蘊を我とし色蘊を我所とし、受蘊は色蘊の中に存在し、色蘊は受蘊の中に存在すると考える。両者は相互に存在し、その体を遍くする。我見を断った後、知見が矯正されれば、受蘊は我でなく色蘊も我所でないと認め、受蘊は色蘊の中に存在せず、色蘊も受蘊の中に存在しないと悟る。両者は相互に存在せず、色受想行識の五蘊は我に非ざるが故である。

この問題は思議し難く、禅定中に問題を脳裏に懸け、意根に懸け続ける必要がある。ある日突然開悟し、その義理を通達する時が来る。この結び目が解ければ、我見を断つ障害が排除され、観行の抵抗は減少する。

八、我見と我所見は共に断除すべし

観行によって我見を断ずるには、色受想行識の五蘊を我と見做さず、また我所とも見做してはならない。「色蘊は我ではないが私が所有使用できる」とか「受想行識蘊は我ではないが私が所有使用できる」などと言うことはできない。色受想行識が即ち我であるという見解は誤った知見であり、「私が色受想行識を所有できる」という考えも同様に誤った知見である。これらの知見は全て滅却し、心中から掘り出さねばならない。

我所が存在すれば我が存在し、我見が断たれていない証左である。色受想行識の機能作用を我所と見做すのは誰か?勿論意根である。意根は無始劫以来これらの機能作用を利用し続け、自らがこれらの機能を有すると認識する。これらの機能有るが故に我慢と我執が生じ、生死煩悩が断絶しない。

意根がこれらの機能を欲する時、第八識は惜しみなく意根のために色身と六識を出生させ、これらの機能を現起させる。意根はこれらを我と我所と見做し、全てが第八識の所産であることを知らない。故に生死流転が止まない。生死流転の苦悩から脱するには、意根にこれらの考えと知見を断除させ、もはやこれらの機能を我や私のものと認識させない必要がある。これにより意根は無我となり、次第にこれらの機能を利用して煩悩業を造作することを止め、機能への執着と貪着が薄れ、生死業は消滅する。

無始劫以来、意根は何故五蘊十八界に執着するのか?これらの法を我及び私の所有と認めるからである。もし意根がこれらの法を我や私の所有と認めなければ、執着は生じない。執着が無益であり、貪着が無益であり、五蘊十八界が空・苦・幻化不実で把捉不可能であることを知るからである。意根が一旦この理を証得すれば、次第に執着が減退し、益々自在解脱する。初果において五蘊無我を証得すれば法眼浄を得、心の眼が清浄を始め、見が清浄になれば行も清浄となる。煩悩が断尽した時、行は最清浄となる。

九、五蘊の機能作用

タイピング時、手と目は色蘊である。画面を視認し字体と画面を了別するのは識蘊、思考構築は識蘊、画面状況の受容は受蘊、覚受の生起は受蘊、画面状況と字体サイズの了別は想蘊、心中の念頭の了別は想蘊、指先のタイピングは行蘊、継続的な構築は行蘊、呼吸等の身根の運動は行蘊である。全ての五蘊作用は識蘊と行蘊に帰する。

会話時・食事時・歩行時・観想時の五蘊作用を区別し、六根が六塵に触れる際に色受想行識の機能作用を弁別せよ。その後観行思惟し、各機能作用が如何に生起し、如何に運行し、如何に変化し、最終的に如何に滅し、如何に転移するかを考察する。更に如何にして無常か、如何にして空か、如何にして苦か、そしてこのような機能作用が我たり得るかを思惟する。我はかくの如く生滅を繰り返す存在か?このように絶えず変異し止まぬ存在か?智者は決してこのような作用を以て我と認めない。

十、小乗が我見を断つには四聖諦の法を修すべき理由

四聖諦とは苦・集・滅・道である。世間の一切法が苦であることを了知して初めて出離心が生起する。出離心の有無が修行の前提と基盤であり、出離心無ければ修行は懈怠し精進できず、貪愛を断つことは更に困難となり、道業は進展し難い。常に自らを反観し、苦を識り苦を知っているか、出離心があるかを見極めよ。この要件を満たさなければ、後の修行は精進できない。

我見を断ち人無我を証得するには、次の点を明確にせねばならない:人とは何か?人の概念は?我とは何か?我の概念は?無我とは何を指すか?空とは何か?空の概念は?空には幾種あるか?無常とは?生滅とは?何故無常は真実でないのか?これらの法に対し、心中に明確な認識を確立せねばならない。常にこれらを思惟し、心に堅固な認知を植え付ける:無常の法は絶えず生滅変化し、把握不可能で空・不実であり、依拠すべき我では無い。

これらの法を真実と見做し、我や我の所有と見做し、執取することを止めねばならない。これらに執着すれば永遠に生死に沈淪する。これらの観念を堅固に確立し、従前の誤った認知を覆せば、徐々に我見を断除し三結を断除して解脱自在を得られる。これらを実践するのは容易でない。表面上或いは口先では五蘊が空幻であると認めても、内心深層の意根は未だ承認していない。意根に承認させ認可させるには、常にこれらの道理を思惟せねばならない。「既に知っている」と慢心せず深細な思考を疎かにすれば、意根の知見は矯正されず修行は進展しない。これが肝要である。

「苦は真実でなく、苦は我ではない」という観念を確立せよ。「無常・空なるものは真実でなく我ではない」という観念も同様に確立せねばならない。このような思想観念を樹立するのは容易でないが、一旦確立すれば今後如何なる法を修するにも容易となり、知見は速やかに修正され、我見断除・明心・将来の観行に至るまで困難を感じなくなる。修行を阻むのは煩悩・煩悩習性・誤った観念理念である。観念が修正されれば煩悩も降伏し易く、智慧も生起し易い。知見の修正が最も重要であり、正しい知見があれば我見を断ち邪見を除き、後の修行における諸々の関門を突破できる。

十一、我見を断つは五蘊の敗壊法を観行すること

小乗における我見断ちは、五蘊十八界の苦・空・無常・無我性を証知することである。五蘊の我は無常に等しく、空に等しく、苦に等しく、破砕すべき存在である。五蘊は破壊可能であり、破除滅却され得る故、真実ではない。

真実真相には二義ある。一つは世俗界の真理・事実を指し、他方は大乗法における永遠不滅の第八識を指す。小乗の我見断ち修行においては、第八識が不滅で五蘊十八界と異なり、五蘊十八界の所依であることを知れば足りる。観行思惟の重点は、五蘊十八界が世俗界の真理において破壊敗壊すべき法であり真実性無く、その真相が不永住相・苦相・空相・破壊相であることを認識する点にある。

もし我見を断つことが「五蘊が第八識でないことを証得する」方向性に転じれば、方向性が大きく誤り我見は依然として存続する。多くの者の思考が誤謬の域から脱せない原因は何か?一つは何らかの誤導による先入観、他は論理的思惟力の不足である。思惟力不足は定力不足と関連し、前世の善根福徳に関わる。これは自ら定慧と善根福徳を徐々に積む必要がある。前世に一定の修学基盤が無ければ、現世の修行は急速に進展しない。因縁条件が未熟で自心の性質が菩薩に近づいていない状況で、焦って第八識を参究し、五蘊無我すら破砕せずに急ぐことは道業に害あって益無く、往々にして逆効果を招く。

十二、観行と覚受無我の証得が極めて重要である理由

衆生は皆覚受を真実と見做し、我とし、我の所有とし、覚受を追求し満足し従順し、自らの覚受の為に種々の業行(特に悪業行)を造作する。我々が生死の苦を解除するには、覚受の虚妄性・不実性・幻化性・空性・非我性を観行し、覚受が確かに空幻不実であることを証得せねばならない。これにより覚受に重きを置かなくなり、追求せず、貪瞋痴煩悩などの無明悪業を造作しなくなる。かくして我見を断除し、貪瞋痴煩悩が漸次薄れ、心が清浄化する。

覚受が如何にして空・幻化か?覚受は何処から来るか?覚受は主に六識の覚受である。実は背後にある意根の覚受も極めて重要で、意根に覚受が無ければ六識に貪染業を造作させず、解脱を求め仏法を精進修学することも無い。六識の覚受は一方で意根に由来し、意根の影響と指揮を受ける。他方、六識自らが六塵境界を了別する際、境界の影響を受け、境界に貪厭を起こし、受心所法が現起する時に苦楽受を生じる。

六識の覚受は如何にして現起するか?如来蔵が識種子を出力し六識を形成し、六識が生成され運行を開始する。五遍行心所法及び五別境心所法が現起し、六塵を分別執取し境界に対し覚受を生起させる。その後この覚受を真実・我と認め、順己者に貪り逆己者に瞋り、貪瞋痴の無明業を造作し生死輪回の果報が続く。我々が覚受を空と観じ、五蘊無我・覚受も非我を証得すれば、貪瞋痴煩悩を降伏できる。これが極めて重要である。

十三、我見を断ち得ぬ原因

我々の周囲では日々無常の事象が発生している。特に現代は情報が極めて発達し、無常に関する情報は数え切れない程存在する。然るに何故多くの者はこれらの無常情報に感慨を抱かず、深く思惟せず、殆ど平淡に見過ごすのか?特に自己に関わる無常に対し、何故慣れ麻木し適応できるのか?もし人が容易に無常に適応し、決して深く思惟せず反省せず、何ら触発されなければ、如何にして無常の中で五蘊無常非我を証得できようか?

辟支仏は木の葉の落下を見て、世間が無常で楽しまるべからざると悟り、直ちに出家し山中で無常法・因縁法を思惟し、世俗に貪着しなくなる。過去の外道も世間の無常を知り山中で修道したが、その修行理論は正しくなかった。しかしその善根は浅くはなかった。世俗を捨てる者が現代社会にどれほど存在するか?無常法に対し内心が麻木し敏感でない原因は何か?世俗への貪着が存在し、「如何なる事が起きようと世間は愛すべき依拠すべき存在だ」と考える為ではないか?この心が有れば無常を見破り難く、我見を断ち証果を得難い。

我見を断ち得ぬ者は、自らの原因を探求し、内心の思想観念・思惟習慣に潜む問題を観察すべきである。我見は内心深層の思想観念と深く関わる。大多数の者は無常に遭遇しても、たとえ苦痛でも容易に見過ごし、反省せず深く思惟せず、思想観念も不正で定力不足の為、生涯を無常と退屈の中で過ごし完全に適応する。内心に何ら触発されず、平淡に渾沌とした状態では、如何にして智慧を生起できようか?

実は、我々は真に無常を観察できず無知なのか?意識は容易に無常を了知し、苦も了知でき、空の了知も難しくない。意識心も常に無我を説く。では何故まだ我見を断てないのか?一切法が無常無我と認める者の多くは、他人が彼の我見断証果を認めても、自ら内心で承認できず、何故か?未だ心虛であり実証が無く、内心でこの理を認可せず、自らの観点が不安定だと感じている為である。彼ら自身もこれを知っている故、自らを肯定できず、平時は口先だけの戯言に過ぎない。

意識心が自らの五蘊が恒常不変と認める者は殆ど存在しない。では何故我見を断てないのか?無常の考え方が意根の見解でなく、意根が五蘊無常・一切法無常を知らない為である。故に他人が我見断ちを主張しても、自ら心虛で承認できず、証拠も根拠も無いが故である。

十四、五蘊観行には無我の観念を堅固に樹立すべし

閑暇ある時は窓外の大樹を観察し、或いは自ら大樹図を描き、常に樹根より上部の五蘊七識の来龍去脈と各部分の相互関係を思惟せよ。常に此の観行を行えば、我見を断ち明心することは困難ではない。自らの因縁条件が具足すれば、如何なる法も証果と明心を促し得る。法法皆無我と無生に通じ、偏り無し。

小乗の観行においては、心中に次の概念と思想を確立せよ:生滅変化するものは我に非ず、常存し得ぬものは我に非ず、種々の因縁が集起したものは我に非ず、出生されたものは我に非ず。これらの観念を堅固に樹立した後、禅定中の観行によってこれらの理を認めれば、我見を断じ得る。此の観念・概念・思想の樹立は、誰の助力も得られぬ各人の内心の認知である。教師が学生に「これが黄色で、斯くの如き特徴を有す」と教える如く、学生が内心でこの黄色を認知し特徴を把握するか否かは本人次第である。自ら思惟認知し概念を消化して初めて承認可能となる。

五蘊観行も此の理に従う。必ず自らの内心深層で結論を承認せねばならない。如何にして承認するか?禅定を精勤修習し、定中の思惟観行に必要な条件を具足させ、道具を整え、心力を充足させ、善思と巧慧を備えれば観行成就する。我見を断つには正しい思想観念の樹立が重要である。内心に堅固な観念が存在すれば、観念と矛盾する事理に遭遇した時、直ちに否定し得る。生滅無常が非我なる観念が一旦樹立されれば、一切法を観察し生滅変化無常を認めた後、その真実性を否認し無我を容易に認可する。思想観念の変更は最も困難であるが、一旦変更すれば後続の成果は計り知れない。

十五、理の明解は解脱の前提

解脱を求めるには必ず仏理に従って修証し、我見を断ち五蘊十八界の空・人我無きこと・四相無きことを証得せねばならない。更に五蓋を捨離し初禅を発起し、煩悩を断じて我執を去り、命終して初めて三界を出て解脱を得る。何が我か、我とは何かを知らず、七識と五蘊に固執し、空しく執着破棄と放下を叫ぶは徒労に過ぎぬ。

小乗の解脱と放下は、五蘊十八界の虚妄を観行せねば達成されない。一蘊ずつ観じ一界ずつ観じ、漸次に初果から四果を証して出離する以外に道無し。外道は此の理を知らず、長年修行して最高禅定を修め最上天に生ずるも、定中の境界を涅槃と執着し、定境が法塵であることを知らぬ。知有れば即ち想であり我であり、依然五蘊中に在って生死を出ず。解脱の期は遙か遠く、理不明なら禅定如何に強くとも解脱不可なり。

十六、修行は六識無くして成らず

仏法修行は六根を離れず、六塵を離れず、更に六識を離れず、寧ろ五蘊六根六塵六識上で修行する必要有り。十八界を離れては修行成し得ず。修行は六識の身口意を用いて行い、六識を滅除して用いざるは不可。悟後の四禅八定修習時に限り、暫く六識を滅除して禅定に深入し、無量神通を発起し慈悲喜捨の四無量心を修する。其余の時は意識心を以て仏法を思惟し、参禅し、我見を観行し、意根を薫習して其の執着と染汚を断除せねばならぬ。

六識を用いる以上、六根必要なり。六根無くして六識生起せず。且つ意根は我執を断じた大阿羅漢のみ滅却可能で、凡夫には滅却不能。未だ我見を断たぬ者は如何なる手段を用いようと我執を断ち得ず、我見を破砕して初めて自我への執着を漸次断除できる。これが修行の次第で跳躍不可。我見未断の者が「執着を断つ」と説くは単なる口先に過ぎず、到底達成不能である。

目次

ページのトップへ戻る