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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年02月25日

第二節 四念処観の修習

一、衆生の四念処と法身の差異

四念処観とは四念住を指す:身を不浄と観じ、受を苦と観じ、心を無常と観じ、法を無我と観ずる。衆生は顛倒し、身を清浄と見做し、無量劫来自身を貪求し他身を貪求する。色身が汚穢不浄で血腥充満し細菌氾濫し、大小便利に満ち九孔常に流れ、汚物不浄なることを知らぬ。実に活動便所である。此の身相を観じ実に不浄なることを以て、浄倒想に対治す。これに対し法身は清浄にして身無く相無く、念無く為無く造作無く、純一清白にして梵行清浄である。

衆生は顛倒し、受を楽と見做し、無量劫来受を貪求し却って苦因を造り果は悉く苦となる。暫しの小楽を究竟と認め厭きることなく追求する。楽時こそ苦受であり、楽自体が苦であり、楽後に更に苦なることを知らぬ。苦は苦苦・行苦・壊苦に分類される。衆生が苦を受ける時自体が苦苦であり、内心の感受が念念遷流し変化止まぬことが行苦、楽受後に楽が滅失し永続せぬことが壊苦である。一切の感受は苦楽不苦不楽受を問わず、受有れば皆苦なり。これに対し法身は受無く一切を受けず、苦受無く楽受無く不苦不楽受無く、究竟苦無く純楽・至楽大楽である。心が一切の境界を貪求せず苦受即ち除かれ、捨受自在となる。

衆生は顛倒し、心を常と認め、霊知を究竟我と認め執取して捨てず。此の心が念念生滅し刹那も住せず無常変異し究竟無我なることを知らぬ。これに対し法身は常なり。永劫壊滅せず生住せず異滅せず、本より諸仏の常住の体である。

衆生は顛倒し、法を我と認め、此の法が因縁生じ因縁散じれば法即ち壊滅することを知らぬ。壊滅の法如何にして我たり得ようか。無明の心が法を執り我と為すも、一縁を欠けば法何処に在るか。父母無くして五蘊何れより来たるか。身口意行が五蘊を造作するも、真如無くして如何にして諸行有らん。縁生縁滅即ち我に非ず。これに対し法身は我なり。種子究竟し清浄無為、再び変異せず。二十一心所有法は真如の具える所、此の心法有るを以て即ち我と為す。衆生は無我なり仏は即ち我有り。真常不変、我に非ずして誰ぞや。此の観慧を以て無明尽く除かれ、苦を断ち染を離れ究竟涅槃に至る。常に此の観を行じ早く成仏せん。

二、四念処観の具体的観行方法

心の無常を観ずるには、眼識心の無常・耳識心の無常・鼻識心の無常・舌識心の無常・身識心の無常・意識心の無常を観じる。法の無我を観ずるには、五蘊の法に我無きこと・十八界の法に我無きこと・蘊処界が生起する一切法の中に我無きこと、恒常不変の我存在せぬことを観ずる。

まず色蘊を観ずる。色蘊は生滅有り、無から有となり有から無となる。『楞厳経』で波斯匿王が説く如く、自らの色身を観じ三十年毎・十年毎・一年毎・日々・念念に変化することを知る。衆生の細胞は刻々新陳代謝し、頭髪生じ爪伸び、皮膚・筋肉・内臓血液等が変化する。今日の身体は昨日と異なり、十年前とは更に異なり、幼少期との共通点を見出し難い。色蘊が此の如く無常生滅変化し、内から外まで汚穢不浄なるが故、生滅不浄の色身如何にして我たり得ようか?如何にして我性有らんや?我は不生不滅不変で恒常一如、苦性無く真実清浄である。色蘊はこれと相反す。故に色蘊は我に非ず。

次に受蘊を観察する。受は識心の感受覚知であり、意識心を主とする。此の心は無常生滅変化し苦性を具え我に非ず。楽受・苦受・不苦不楽受を問わず、悉く苦・無常にして我性と相反す。故に受蘊は我に非ず。第三に想蘊を観ずる。想蘊は識心の了別性・執取性、言語妄想の思惟分別性であり、意識心を主とする。生滅無常変異し苦性を具え、我性と相反す。故に我に非ず。

第四に行蘊を観ずる。行は造作・運転・遷流変化である。六識の分別活動は行蘊に属し、色身の造作は行蘊、言語の造作は行蘊、妄想分別は行蘊、細胞の新陳代謝は行蘊、血液流動は行蘊、呼吸心拍腸蠕動は行蘊である。これらは悉く生滅変化無常にして苦性を具え、我性と相反す。故に我に非ず。

第五に識蘊を観ずる。識蘊は六つの識心であり、生滅無常・苦・変異にして我性無く我に非ず。十八界の六根六塵六識を観じ、悉く無常生滅変異し苦性を具え我性無きことを知る。かくして五蘊・十二処・十八界の運作が生起する一切法に、真実永恒不変の我性無く、全て虚妄無常生滅変異の永住不可なる法であり、我に非ざることを観ずる。

三、内外の心と内外の煩悩とは何か

仏が大念住経において「受を苦と観ずる」と説く際、内受と外受の二種を挙げている。外受とは観察し易い意識心の受、特に六塵境界における意識の受を指す。内受とは隠蔽が深く観察困難な意根の受を指す。大多数の者は意識と意根を区別できないが、内心深層の思想活動は感知観察可能である。只心を極めて微細にすれば足りる。

仏が「心を観ずる」と説く時、心を観察するには内心と外心の貪瞋痴煩悩を観じ、内心と外心の集中散乱・広大狭小・有上無上・有定無定・解脱非解脱を観察するよう教える。これは内心たる意根に貪瞋痴煩悩が存在し、定と不定・解脱と非解脱が存在することを示す。小乗経典から意根にこれらの心所法が存在することを証明する。世尊は明言されなかったが、大乗弟子ですら意根の法を理解証得できず、況んや小乗弟子が意根の法を正しく深く理解できる訳がない。故に世尊は意根の心所法を秘説せざるを得なかった。

疑惑煩悩には内疑惑と外疑惑が存在し、疑を断つには究竟的に断じ、必ず意根の疑惑を断たねばならない。故に三縛結は完全に意根の結を指し、意根の疑惑を断除して初めて三結を断つ。貪欲を断つには意根の貪欲を断ち、心が色界天人と相応し色界天に生ずる。瞋恚を断つには必ず意根の瞋恚を断除し、三果人となる。愚痴を断つには必ず意根の愚痴無明を断ち、三界を出離する。

小乗法は最も理解し易いが、真に小乗経典を読解できる者がどれほど存在するか。まして大乗経典を完全に理解できる者など。阿羅漢果を証得しても「汝の意を信ずるに足らず」とされる。智慧不足で意が究竟せず、完全に信頼すれば過誤を生じ易い。

仏法は断片的でなく、必ず前後貫通し連続し、相互に補完説明し合うものである。

四、内外の五蓋

仏が大念住経で五蓋を説く際、内貪欲と外貪欲・内瞋恚と外瞋恚・内睡眠と外睡眠・内掉悔と外掉悔・内疑惑と外疑惑を挙げている。内と外はそれぞれ何を指すか?

心を内外に分ける場合、外心とは衆生が普遍的発見・観察可能な心意識を指し、内心とは衆生が発見観察困難な心意根を指す。二つの識心は一顕一隠・一明一暗・一浅一深・一易変一頑固である。修行は先ず浅層の意識に落とし込み、次に深層の意根に至る。先ず意識を初歩的に転換し、最終的に意根を究竟的に転換する。故に全ての無明煩悩は、最初に顕著なのは意識層面、最終的で隠微深遠なのは意根層面である。

此の経典から、仏が小乗法を説く際、意根の法を明言せずとも暗に意根に言及し、一切の煩悩無明が意根に属し、煩悩を断つとは意根の煩悩を断ち、解脱とは意根の解脱であり、一切法を意根に帰着させ、意根の問題を解決すれば一切の問題を解決し、最終的に涅槃解脱に至ることを示している。

五、内外の七覚分

大念住経において世尊が五取蘊を説く際、色受想行識の内法と外法にも言及されている。内色は色身、外色は六塵、内受想行識は意根、外受想行識は意識である。

世尊が七覚分を説く時、七覚分を内七覚分と外七覚分に分けている。択法覚分・精進覚分・喜覚分・軽安覚分・定覚分・捨覚分は全て、意識の外覚分と意根の内覚分に分類される。内七覚分を修成せずして小乗果を証得し我見を断ち、ましてや明心見性することは不可能である。三十七道品を修め成さず、大小乗の果も論じ得ず、身心軽安成らず、定成らず、内心捨受存在せず、我見断除不可、明心見性不可。これが仏法修証の厳格指標であり、誰もこれを超越できない。仮に某が証果や明心を主張しても、それらは樹脂製の果実同然で観賞用に過ぎず、実用価値無きものである。

世尊の七覚分に関する記述から、意根には択法覚分・精進覚分(真の精進)・喜覚分(意根は単に捨受のみならず)・軽安覚分・定覚分(定と相応)・捨覚分が存在することが分かる。その後心行が八正道に符合して初めて小乗証果の条件を具足し、我見を断ち初果を証得できる。然らずんば全て偽果・模造果である。条件因縁具足せず強引に導引すれば、単なる偽果を得るのみで、日々眺めるも実用価値無し。

六、四念処観の殊勝なる果徳

仏は「七年から七日まで」の異なる期間、精進して四念処観を修すれば皆証果を得ると説かれた。これは善根深厚・煩悩軽微・遮障少なく、前世において仏法を長劫修学した者を指す。彼らが仏陀の要求通り精進修行すれば、数日から数年で証果可能である。無始劫以来仏法修学期間が短く煩悩深重・遮障重き者は、七年以上の精進修行を要する。或いは大多数の者百年を経ても証果できず、呼吸観すら観じ得ず、心如何にも静まらず、証果など論外である。

然れども仏の説かれた如く、如何なる者も四念処観を精進修し、心心念念四念処に在り、心心念念観行し、無始劫以来の五蘊世間への攀縁習気を改め、煩悩業障を降伏すれば、証果は困難でない。難は業障関を突破できず、自ら決心して修行に励まず、散乱習気を降伏できない点にある。真に勇猛精進し経典に説かれた修行を実践すれば、必ず証果できる。

此の四念処観の修行法は極めて殊勝である。小乗修行を軽視せず、実は修行の捷径である。仏の説かれた捷径こそ真の修行の捷径であり、戒定慧を具足し実修実証を要する。口先の議論でも、情思意解でも、思惟考察のみで証果する類のものではない。

仏の教える修行法から、真の実修実証が如何なるものか、如何なる代価を必要とするかを体得すべきである。一部が想像する如き意識心の理解のみで、何の代価も払わず戒も守らず定も修せず、意識の乾慧を以て証果したとする見解は誤りである。我々は仏陀の智慧を深く信じ、仏陀の教導に従うことで初めて真の修行利益を得る。

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