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五蘊の観行による我見の断ち(第一部)

作者:释生如更新時間:2025年02月25日

第二節 意根の現量証の表れ

一、意根が理を明らめ触動を受けた表れ

或る者が特定の法義に触れ、内心に大いなる震動を受け、色身に異常な現象が現れるのは、意根が触動された為である。世俗法における実証でさえ、多寡有る身心の触動と変動を伴い、平淡に過ぎ去るものでは無い。既に多くの者が法義に遭遇し、修証過程において身心に不同程度の変化を経験している。真に理を認めた時、斯くの如き現象が生起する。

平淡無事では意根と相応せず、意識心の理解に過ぎぬ。学法において教科書を読む如く流し読みし、理解したと自認し、証得したと錯覚するは、自己への甚だしい無責任である。若し此れ程容易なら、三蔵十二部を数遍読んで一部理解しただけで「一部証得」と称すれば、八地以上の菩薩に匹敵する大業となる。仏典を手にした博士課程の学生やポストドクターも文字面は理解できよう。若し理解即証得なら仏法は余りに容易で、三大無量劫の修行は不要となる。

定力不足では文章を走馬灯の如く流覧するのみ。定力具足時、内心の認知度は非凡となり、心臓を震わせ五臓六腑を揺るがす程の非凡な感覚を覚える。或る者は文章を粗雑に流覧し深く思惟せず、軽率に否定するも結局自ら誤る。其の誤りは何処に在るか?定力無く思惟観行できず、心浮ついた為である。導かれても依然観行不能で、智慧は漸増せず日々進歩せぬ。前世の善根不足の者は如何なる法を見ても驚かず、平淡に過ぎ去り真に理解した如く振舞う。

定力有る時、思惟深細にして初めて触動を受ける。此れを「深き感触」と謂う。我が古き华夏文化の内実の豊富さ、用語の精確さを見よ。身心の状態を明徹に描写し、生理学的根拠を備えている。仏法は孤立せず、衆生が智慧を以て如実認知するか否かに懸かる。「深き感触」の「深き」とは意根深層に至ることで、表面的な意識思惟では無く、故に感触を生ず。凡庸な思惟では感触無く、感慨も生ぜず、まして感慨千万とは成らぬ。

二、意根が触動を受けると何故身心に反応が現れるのか

意根が現量的に何らかの理を証得し、或る真理を認可した時――即ち常に言う「心底より認める」状態に至れば、身心に様々な変化が生じる。此れは身口意行が意根の制御と決定に依り造作される為である。証果に至らずとも、意根が或る事理に触れ其の理を認可深く肯んじ、内心触動を受ければ身心変化を起こす。例え心情爽快・身心軽安・熱涙溢る・身震い・鳥肌立つ・感情昂揚・頭皮痺れる・顔紅潮・視線虚ろ・頭内鳴動・血潮沸騰・心悸亢進・呼吸荒促・青筋立つ・逆上する等々の現象は、意根の触動と現量知により身根に大小の変化を生起させる。誰もが経験する事実であり、自ら回想すれば其の通りと知る。

此等の現象は必ずしも意根が煩悩を降伏或いは断除したことを示さず、寧ろ意根の煩悩性が甚だ重く我執情執が深い故に生起する。真に無我を現量証得した際も同様に身心大変化を伴う。意根が従前此の理を知らず、意識が如何に無我を唱えても意根は認可せず、内心無反応で依然「我」を執着するのは、明らかに我見未断の表れである。

意根が一旦五蘊の真実無我を証得すれば、身心に大震動が生起し、身心への執着が緩み、禅定深化・睡眠変化・身体軽安愉悦・病苦消退・精神愉悦等の異常現象が現出する。現量証得程変化大きく、解悟のみなら変化少ない。過去世の善根深厚で深禅定ある者が仏法を現量証得すれば、身体が虚空に浮揚し神通が現前する。仏典に記載される聖賢の悟道(大乗小乗を問わず)に神異現象が伴う所以は、禅定を以て現量証得し身心に大変化を起こす為である。

三、理解と証得の距離

恐怖映画を観る時、意識は虚構と知りつつも恐怖を覚える。ガラス張りの歩道を歩む際、意識は安全と知りつつも内心は恐れ慄き、足を上げられぬ者さえいる。意識は自らを説得して恐怖を抑えられぬ。何故か?意識の分別思惟による結論が意根に認可されぬ為である。意識が「全て虚構」と説得しても血圧上昇・心悸亢進・発汗が生じ、身体は意根の制御下にあることを示す。

特にドーム型スクリーンの映画では、意識は映像が画面内に留まることを知るも、心理的には映像が現実的で、車が自らに迫り、飛び道具が斬りつけ、銃弾が命中する恐怖を覚え、身体は無意識に回避しようとする。身心の反応は全て意根の指揮によるもので、意根の慣性的認知に基づき識心が対応反応する。故に意根を薫習成功せしめねば実質的解決は不可能である。

歩道が安全と知ることは現量認知か?此の知見に何の効用が有るか?前方を悠々と歩く人々の実例を意識が知りつつ、何故自ら立ち上がり歩めぬか?ガラスの厚さと耐荷重を意識が熟知しつつ、何故直立歩行できぬか?意識の分析思惟した理が意根に受容されず、歩道への恐怖心が存続する為、身体は戦慄・足裏痺れ・脚の震え・身震いを生じ、通路に蹲り一歩も動けなくなる。

ガラス橋の外に立つ者が雄弁に語りつつ、実際に歩道に足を踏み入れる時、身根が意根に制御される事実が明瞭に現れる。意識が如何に安全を主張しても無駄で、意根が知覚せねば依然として恐慌状態に陥る。悉く意根の身執着が甚だしいが故である。

此れを以て観るに、意識が六塵が自らの内相分であると知ることに何の効用が有るか?観行に励まねば五蘊虚妄を真に証得できぬ。知解は容易だが証得は困難である。小乗四果の証得は悉く身心覚受を伴い、大乗各果位の証得も身心覚受(夢境の証示を含む)を伴う。特に各種禅定の現前は身心覚受を必須とし、禅定深き程覚受強烈となる。二禅以上では五識消滅し覚知無きも、色身に大変化を生じ、定出後に身心覚受残存する。何故此等の覚受が生起するか?意根が現量に仏法を証得し事実真相を知り、身心変化を生起させる為である。意根の執持と調節の結果である。

意根は現量境を信じるに当たり、自ら親証を要す。他者の証明は無益で、自ら現量証得し切実に知らねばならぬ。仏法の証得も同様で、然らずんば「説食不飽」の如く自他を欺くに過ぎぬ。五蘊虚妄を知る者多しと雖も、意根深層では五蘊を真実と見做し、意識の分析結果を認可せず依然我執を固持する。故に意識は厳密に思惟し、意根を導き入念に観行を重ね、意根の実証を以て現量境を現前せしめねばならぬ。然らずんば単なる推論に堕す。

如何にして戦慄せずガラス歩道を渡れるか?歩道踏破前に意識が徹底的に安全性を分析思惟し、比量・現量・非量を悉く検討し、理路整然と歩道の絶対安全を立証せねばならぬ。意根が安全を確認し確信を得て初めて勇気を奮い歩道を渡れる。意識の透徹した分析が境界を見破り意根を安堵させ、心理的安定を得る。内心に確信が満ち準備整えば恐怖を脱し意根を説得し得、然る後歩行開始する。如何にして内心の確信を満たすか?意識の透徹分析を以て十中八九確実を看取し行動すべし。意識の分析が透徹すれば意根は認可し、沈着・確実を表し大胆に歩行し得る。

此の問題は我見断ちの観行道理と同一である。我見を断つには、意識が透徹した分析思惟を以て意根を薫染・誘導し実際の観行に導き入れねばならぬ。意根が観行後五蘊無我を確認し疑惑無くして初めて我見を断ち得る。観行に当たり意識は観行思路を整え良き先導者となり、意根に五蘊が確かに我に非ざることを内心で認可せしめねばならぬ。此時意根の確信は充足し、如何なる者に五蘊真実を説かれても意根は従わぬ。此れを成すには、意識自ら先ず理を明らめ思惟を透徹し、脈絡を整え、意根に適応期間を与える必要有り。

此の理論に初接触し思惟開始する際、或る者は内心真に恐怖を覚え、心神混乱し支え無き空虚感と恐懼に襲われる。此れは意根が無始劫来五蘊を我と執着し来たった為、突然「非我」を突き付けられ耐え難い故である。意識の不断薫染を経て時を重ね、意根が受容すれば此の感覚は漸次消滅する。意根の心理準備を充足せしむるには、意識が反復薫染し無我思想を強化し続け、遂に意根が受容する時機を待たねばならぬ。

若し意識のみが五蘊身及び一切法の虚妄を知り、意根が未だ知らざるなら、浮薄な理解に留まり真の我見断ちに非ず。初果から四果に至るまで、意根は不断に五蘊の生滅無常虚妄無我を認可し、完全受容時に至って初めて五蘊世間への執着を断尽し生死輪廻を出離する能力を得る。

意根が完全に執着を断ち切り四果を証得する時、恰もドーム型スクリーンの映画を観る如く、如何なる事象が現れようと内心泰然自若、避け迎えず。意根は身体を制御して回避せず、境界が非実在で画面内に留まることを知り恐怖を脱する。此処に衆生の心理作用が表層的働きと深層的働きを有し、決定的影響を及ぼすのは隠れた力――意根の慣性力であることが窺える。此の慣性力を転換することこそが無量劫来の生死問題(分段生死・変易生死)を解決し、無始劫来の無明の惑業苦を断ち涅槃の彼岸に至る鍵となる。

意根が五蘊への執着を断尽するのは、小乗においては四果阿羅漢、大乗では七地満心(八地入り)に相当する。八地菩薩の解脱証量は四果俱解脱の大阿羅漢に匹敵し、初地満心は慧解脱阿羅漢に相当する。但し初地菩薩は慧解脱阿羅漢の果位を取らず、思惑煩悩を悉く断尽しない。意根の人我執断尽の境地は、未証得ながら比量推論で多少理解可能である。法我執断尽に至っては更に比量非量の思惟により概略を窺い知るのみで、証得とは二大無量劫から三大無量劫の隔たりがある。知解と証得の距離は想像を絶する。

或る者は些細な知見を得て傲慢自惚れるが、其れは無意味である。仮に高深な仏法を証得しても誇るに足らず。十方世界と三世を視野に入れれば、八地菩薩の境地に至っても依然取るに足らぬ。智慧浅薄で見識狭き者程傲慢心を生じ易く、慢心が深重となる。聡明で智慧有り見識広き者は、無数の優れた存在を知る故に慢心を生じ難く、眼界が極めて広大である。

四、解悟と証悟の差異

真の我見断ちは、意識が無我の理を明らめるのみならず、意根が同時に無我を証得し、無我の理を認可することを要す。意根自ら無我を証明すれば、自我への執取が減退し、身心内外が完全に弛緩し解脱の功徳受用を得る。若し理論上の我見断ちに留まり、意識の理解のみならば、説得力無く解脱の功徳受用無く、身心世界は転換せず。意根が親証せねば現量境界に非ず。

明心して如来蔵を証得するも、意根の現量境界である。意根が自証後、五蘊十八界が我に非ざることを知れば、自我を弛緩させ身心世界に大転換を起こし、比類無き自在を得る。然らずんば意識の理解は単なる理論に過ぎず、解悟すら成立せず、生死と無縁で解脱の功徳受用を得られぬ。意根が現量観察せず親証せねば、内心認可せず身心転換無し。身心世界は意根の制御と執取に依り、意根が決定権を握る。

我見断ちと明心の際、身心世界に当時及び後日変化無く、三昧の影も現れぬなら、理論上の我見断ち・明心に過ぎず意根認可せず。明心は一面において意識心の覚悟であるが、此の覚悟は理解では無く、理路整然たる確実な証拠を伴う現量境界であり、意根も同時に証得し三昧境界が現前する。意根が現量境を認可し共に証得すれば、五蘊が本来如来蔵に属し自己に非ざることを知り、五蘊を弛緩させ身体制御を止む。即座に身体軽安快適となり、内心清明を覚え、身心が変化し従前と異なる。定力優れる程変化大で、煩悩微弱、覚受優れ、其の感覚は言語では尽くせぬ。

単なる意識心の理解に留まり、証拠不充分で推測・想像が多く、意根の現量境無き場合、身心世界は何らの変化も無い。意根が五蘊が如来蔵に属し自己に非ざることを知らぬ為、五蘊への執着と制御を続け、身体も心情も転換せず、心霊的震動も起きず、従前と差異無し。此れが意識の仮悟状態である。仮悟時、意根は依然として身体と覚知心を掌握し、身心は変化せず煩悩も依然として存続する。

五蘊の変化は意根の制御と決定に依る。真の我見断ちと明心時、意根が理を明らめ身体を制御せず、身体が自己に非ざることを知れば、身体に解脱の反応が現れる。意根は覚知心も制御せず、自己に非ざるを知る故、覚知心は重荷を解かれ種々殊勝なる境界が現出する。睡眠は意根の制御下にあり、以降睡眠も変化する。煩悩は意根に起因する故、此時煩悩は微弱化し、更に多様な奇妙な境界が現れるが、悉くを披瀝することは叶わぬ。

現量観察は理論を遥かに凌ぐ説得力を持つ。現量観察可能な者は禅定と智慧を具備する。理論は正しきを保証せず、正しきも自己と無縁である。現量観察により意根が証得し認可すれば、身心世界を転換し解脱の功徳受用を得る。意根が一旦認可すれば無用の理論は不要となる。我々の学法は単なる理論学習に留まらず、実際の観察・現量観察を以て理論の正当性を親証せねばならぬ。然る時理論は自らの現量境界となり、内心常に理と相応し、事理無礙を経て事事無礙の大解脱に至る。単なる理論知識は解脱をもたらさぬ。此の点を銘記すべし。

五、証果と明心の外的表現

問:証果と明心時の相応は、物理的結果か化学的結果か?我見断ちは意根が五蘊虚妄を認可することであるが、此の認可を如何に計量するか?明心開悟も意根に関わり、意根は一方で自らの非実在を実証し、他方で如来蔵の実在を実証するか?

答:相応は主に心の相応である。物理か化学かと問われれば、識心に相応した結果である。識心の認知が転換し五蘊非我・如来蔵真実を認め、心身相関する故、間接的に身体に相応する。身体に相応すれば物理的・化学的結果を生じ、実は四大に変化が生じる。意根が五蘊非我の理を認可し、意根が身心を制御する為、身心転変は四大の化学的変化を伴う。色身に軽安・快適・睡眠減少・内心歓喜・一意・無煩悩・無雑念・覚明現起・禅定増長等の一連の身心変化が現れ、数ヶ月・半年・一年以上持続する。定力優れれば一年を超える。

意根が無我を証得せず相応せねば、意識の表面的無我理解に留まり、身心反応無く変化無し、或いは僅かな変化が直ぐ消滅し定力生起困難である。此れは意根が無我の理に相応せず、内心震動無く身心変化を起さぬ為で、従前と大差無き状態である。或る者は我見断ちを主張するも身心覚受無く、禅定現起せず覚明無く、単なる理論に留まる。然し此等の理論は何処でも得られる為、奇異に映る。従来他者の我見断ちを検証する術無く苦慮したが、意根の働きを観行し、自らの当時の身心覚受と状態を照合し、真の我見断ち状態を検証する方法を漸次確立した。

明心見性に対しても量度を設ける必要がある。単に智慧増長で済ますのでは無く、必ず身心の変化を伴い、如何に増長し如何なる程度に至るかを問わねばならない。明心見性は比較的検証容易で、如来蔵の存在場所・運行状況・作動様式を対象とする為である。但し検証者の証量・厳格性・基準の如何により尺度が異なる。不適切な扱いをすれば解悟を証悟と誤認する。検証者自身が解悟に留まるなら被検者にとって極めて不利益で、其の者の智慧は今後伸長困難となる。証量有り厳格な検証者の下では、被検者は智慧と証量を飛躍的に向上させ、後続の修行を急速に進展させ得る。如来蔵の簡素かつ大凡の作動を現量観察できる智慧は、別相智に迫る程卓越している。

我見未断のまま明心見性に至った場合も、我見断ちの智慧証量を包含せねばならず、相応の覚明が無ければ解悟に堕す。身心覚受無く意根の認可無き状態では身心変化無し。既に我見を断じた後に明心する場合、強烈な覚明や身心覚受は現れ難い。五蘊自我を否定する段階を経た為である。現在、解悟に近い者は少なく無く、禅定不足・観行不十分で理解のみに留まり、如来蔵の簡素作動を現量観察できない。

増大する法義の観察思惟整理を通じ、意根の作動秘密を更に発見した。意根の作動は禅定と密接に関わり、定力優れる程意根の作用が顕著となり、実証が深化し、意識の表面的分析を抑制できる。浮ついた現代社会において、禅定修行を提唱強調するは証果への正道である。大衆の修行浮つきを是正し実証を促進し、口頭禅の氾濫を抑制する。然らずんば仏教は次第に実質的修証を失い滅亡に向かう。

六、我見断ちと明心における意根の智慧認知

我見断ちの証果は、意根が五蘊十八界の非我性を確認する事実である。此の中には意根自身を含み、意根自らも生滅非我なることを証得する。明心開悟の時、意根は五蘊が虚妄非我で真実ならぬことを確認するのみならず、同時に如来蔵を証得し、如来蔵が真実の自己であり、意根自らが真実でないことを了知する。此時意根は真の主を見出し、自らを主と見做さず、幾分退くことが可能となる。然し煩悩習気は依然残存するも、従前より微弱となる。意根が如来蔵こそ真の我であり、五陰身が悉く如来蔵の現起であり其の機能作用であることを証得した後、漸次如来蔵の機能作用を自己の所有と見做さなくなり、自我への執着も微弱となる。以降は我執を断ずるのみならず法執も断尽し、二執を断じ尽くして円満成仏を遂げる。

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