五蘊の観行による我見の断ち(第一部)
第二節 三十七道品
小乗における我見を断つ観行は、五蘊の苦性・空性・無常性・無我性を思惟し、一切法の生住異滅性を思惟し、色身の無常性及び各種の覚受の無常性・思想観念の無常性・身口意行の造作の無常性・全ての心識活動の無常性を思惟する。宇宙の器世間の無常性、生活環境の無常性、周囲の一切の人事物の無常性を観察する。これら一切法の無常性を観じた後、更にこれらの法の空性・苦性・変異性を思惟する。無常・苦・空・変異の法こそが非我無我であることを悟る。
観行成就の前提条件は次の通り:心性がある程度調伏され、凡夫の心性が減少し薄らぎ、多少なりとも賢聖人の心性に相応し、修すべき福徳が具足し、持戒が満たされ、忍辱と精進の度合いが十分であること。禅定が未到地定に達し、智慧の面では五蘊十八界の理を全て理解明瞭していること。これらの基礎条件が整えば賢人に近づき、因縁が熟せば我見を断つ初果の人となる。
五蘊十八界の虚妄無我性を観行すること自体は難しくない。難点は我々の三十七の助道品が修されず、証道の基礎が固まっていないため、全ての観行が非常に困難に感じられる点にある。もし三十七道品の基礎が整っていれば、少し観行するだけで五蘊の虚妄・不実・無我性を確認できる。現在の仏教学習者は比較的浮ついており、多くは仏法を聞く段階のみに力を入れ、他の基礎的な仏法修行を軽視するため、仏法を実証することが難しく、修行期間が長期化し道業の進歩が極めて緩慢である。
一、三十七品の内容:四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道。
四念処観:身不浄を観じ、受は苦なりと観じ、心無常を観じ、法無我を観ずる。
四正勤:一心に四念処を精進修行すれば、あらゆる懈怠を断じ、すでに生じた悪を断除し、未だ生ぜざる悪を生ぜしめず。すでに生じた善を生長せしめ、未だ生ぜざる善を生ぜしめ、積極的に悪を断じ善を修する。
五根:根は生長する力を意味し、信根・精進根・念根・定根・慧根の五根あり。この五根が五つの力を生長させ、無明の闇を破ることができる。
五力:信力は迷信を破り、精進力は懈怠を破り、念力は邪悪を破り、定力は散乱を破り、慧力は無明を破る。五根が増長すれば、力を得て心が怒りに壊され執着されることなく、五つの障害を治めることができる。
七覚支は:念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支。
八正道:正見・正念・正語・正業・正命・正精進・正定・正思惟。
四神足:欲神足(欲如意足)・勤神足(精進如意足)・心神足(定如意足)・観神足(慧如意足)。修行の定力が不足し心を如意に遂げられぬ場合、禅定を修習して心を摂め、定慧を等しく保ち精力を充実させ、願いをすべて満足せしめる。四神足は自心の願いを満たす四種の神通妙用。足は依り所となる意味を持ち、如意とはすべてが心のままに願いが満たされることを指す。
欲神足、欲とは希求または希望の意味。心が仏法修行に対して希求の願いを持つがゆえに、法に対する決定的な心が生じ、定力を引き起こし、定慧が増長し、神通妙用を発動させる。勤神足、勤とは精進努力の意味。仏法に対して精進努力して修行するがゆえに、法に対する決定的な心が生じ、定慧が増長し、神通妙用を引き起こす。心神足、心の念いが常に修する法に注がれることで念力が生じ、この念力の故に法に対する決定的な心が生じ、定慧が増長し、神通妙用を発動させる。
観神足、観とは観行思惟の意味。思惟するがゆえに法に対する決定的な心が生じ、定慧が増長し、神通妙用を引き起こす。衆生はこの四種の修行方法によって定力を生じさせ、願いをすべて満たし心のままにすることができる。ここから見れば、仏教を学ぶ者が定力を修めなければ心は自在を得ず、智慧は生起せず、仏法修証における願望は満たされず、定がなければ仏法は成就しない。
三十七品を修め終えた後、五蘊の法を観行思惟すれば我見を断じ、我見を断じた後は小乗の初果となり、同時に三縛結も断じられる。これにより三悪道の生死の結縛が解け、三悪道の業が消滅し、未来永劫三悪道に堕ちることがなくなる。
二、我見を断つ方法とは?
世尊は『雑阿含経』において、五蘊の虚妄性・無常性・変異性・苦性・空性・無我性を観察するよう説かれている。五蘊の一つひとつを観察し思惟することを「観行」と呼ぶ。観行には相当な定力が必要であり、三十七品を修め終えた時に初めて観行が力強く効果を発揮する。十八界についても、一界ずつその虚妄・生滅・無常・変異性を観行し、最終的に五蘊十八界が真実の我ではなく、私の所有物でもないことを確認する。心から真にこれを確認すれば、身心ともに三昧の状態に入り、我見を断つのである。
これ以降、心の深層で五蘊を真実の自己と認めなくなり、生死流転に自らを縛る三縛結(我見・戒禁取見・疑見)も断たれ、未来に三悪道に堕ちることはなくなる。これを成し遂げるには、世尊が『阿含経』で説かれた四聖諦の理を学び通じ、定力が具わった上で一つひとつ観行することが必要である。これが我見を断つための大まかな修行の方向性である。三十七品は必ず修め、八正道も修めねばならず、全ての身口意の行為が八正道に合致して初めて観行が成就し、初果の者となることができる。