衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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仏道無上誓い成す

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五蘊の観行による我見の断ち(第二部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-03-02 閲覧回数: 2651

第二章 如何に無我を実証するか

一、親証実証とは何か

円覚経原文:善男子。雲何我相。謂諸衆生心所証者。善男子。譬如有人。百骸調適。忽忘我身。四肢弦緩。攝養乖方。微加針艾。則知有我。是故証取。方現我體。

釈:仏は言う、善男子、何が我相か。我相とは一切の衆生の心が験証する所のものである。善男子。譬えば人が全身上下調和して快適であり、忽然として我が身体の存在を忘れた時、四肢が緩み、身心が極めて寂静となり、身体の在る方位さえ分からなくなる。この時軽く針で身体を刺せば、心は我が存在を知る。故に我を証取し、我という観念が生じるのである。

これは亡身の境地、及び亡身後の我に対する証知であり、身体を証知すると同時に我をも証知し、身体は我であり、覚知は我であり、五蘊は我であり、我が存在することを験証した後、我見が現れる。ここでは身体の気脈に関する事柄が関わり、気脈と心空と我見断絶の間には一定の関連があり、気脈が通達した後は身体に明らかな覚知が無くなり、この時に初めて心空となり、亡身が可能となる。亡身後に再び覚知が生じれば、現前に確実に身体・覚知・我の存在を験証するのである。

衆生の心が験証する我相とは如何なるものか。心が体悟する所、自ら体験する所、自ら感じる所、現前に観察される所、現量で感知される身体・覚知・五蘊である。これを真実に体験・感知できると感じる故に、この身体が我であり、覚知するものが我であり、能も所も有ると確信し、我相が現れるのである。

仏は例を挙げて衆生の心中における我相を説明する。人が全身内外において極めて快適で、身体の気脈が何の妨げもなく円滑に運行している時、身体を感知せず、身体の存在を忘れる。つまり能覚と所覚も存在しなくなる。この時、四肢は完全に緩み、意念を加えず、故意に締め付けたり動かしたりせず、心は四肢に注意を向けず、四肢の存在を忘れ、自身の現在の状況や方位、横臥か坐禅か、四肢と躯幹の姿勢も分からなくなる。これを亡身忘身と呼ぶ。亡身と忘身とは、当然ながら心中に所覚としての身もなく、身を覚知する能覚もなく、能所共に空じる状態である。

心において色身の我を忘れ、明らかな覚知も無い時、誰かが微かに針でその身体を刺せば、その人は直ちに感知し、我の存在を知り、色蘊と受蘊の我相が現れる。これを方便的に我が存在を実証する我相と説き、我の実証とする。無我の実証も同様に自ら体験し、自ら証知すべきであり、思惟の方式で知るものではなく、推理・推測・分析・想像などの意識機能で解き明かすものではない。真実に身体を感知するのと同様、実際に現量として無我を証得すべきである。何が実証か、今や明らかではなかろうか。この基準に照らせば、この世界で無我を実証できる者は果たして何人いるか。自らの心中で如何に我を実証しているかを深く体会し、その方式をもって無我を実証すべし。両者の原理は同一であり、差異はない。

二、脳補とは何か

豊かな想像力によって想像されたものであり、実践によって得られた結論ではないものを全て脳補と呼ぶ。脳補の実質は誤解の一場に過ぎず、実際には存在しない。例えば多くの人の証果や開悟は、修めたものではなく脳補によるものであり、想像力豊かな結果である。

いつの日か意識を半ば麻痺させた時、修行は初めて軌道に乗り、僅かながら兆しが見える。聡明な意識こそが道を妨げる因縁であり、人がそれほど賢くない時、道は初めて現れやすい。修道は愚者が行うことであり、賢者は修道せず、道を想う。想い描いた道は夢幻泡影であり、何の役にも立たない。道を想うのは易しく、修道は難し。故に大多数の者は近道を選び、想う方法を用い、修める方法を用いない。

三、解門と行門の区別

解とは、文字通り理解を意味し、理から入り、思惟による消化を指す。想像・推理・整理・帰納・臆測なども含まれ、実証前の準備作業と言える。ただし準備作業が過剰になると、観行の功夫の深化を妨げ、実証親証が困難となる。要するに解門は理から入る門であり、理の消化と消融であり、これが学仏修行において最も容易で労力を要さない着手方法である。初学者は皆この段階に留まり、突破できない。

行とは、文字通り行動を意味し、理を理解・掌握した後に実証を目指して取る行動を指す。例えば修定・観行・参究・尋伺などである。行門は具体的な行動に関わり、行動のみが目標達成を可能とする。解は未だ実践に至らず、行動力を伴わず、目標を達成できない。実施手順には持戒・修定・断悪修善・煩悩降伏・業障懺悔・遮障除去が含まれ、その後定中における参禅・参究・体悟・観行など多様な実践方法がある。これが仏法を実証親証するために必須の実践過程であり、所謂「実践が真知を生む」という道理である。この過程を経なければ真知は現れず、何かを知ったとしても真知ではない。

多くの人は解と行を明確に区別できず、解門を究竟的な行門や最終的な入道処と見做し、自ら悟りの門を塞ぐ。甚だ惜しむべきことである。解を想像に喩え、行を観に喩えるなら、観と想像の違いは甚だ大きい。想像は完全に無から境界を添加する行為であり、世俗で言う脳補に相当する。境界が自ずと現前することはなく、三昧境界も出現しない。たとえ想像が完全に正確であっても、観得たことには等しからず。一方、観は功夫が至った時に境界が自然に現前し、自発的に呈示され、ありのままに境界を見る行為である。境界が如何なるものか、そのままに見るのであり、余計な内容を添加せず、かつ三昧境界が連動して現れる。

未悟ながら悟りを語る者の殆どは、想像した法を観得た実証的法と誤認する深刻な誤解に陥っている。現量観察と想像の区別は、ほぼ100%の人が判別不能であるため、自他共に悟りと認める者のほぼ全員が想像の成分を多分に含み、現量観察によるものではない。観行の功夫が深刻に不足しているからである。私が「全ての悟りが100%偽悟」と言わないのは、言葉に余白を残す配慮であり、人を傷付けず、恨みを買わぬためである。

実証と親証を経て初めて解行相応が可能となる。自ら解した内容が実証され、自ら証したものが解した内容に符合し、実証後に疑情が断絶し、結縛が断たれ、粗煩悩が断たれる。身口意の行いが理に相応し符合し、事理が初步的に円融して背かず、語る内容が理に適い、行うことが理に合い、心と口が一致し、身心が一体となる。言動に矛盾がなく、身口意の行いが理に背く現象が存在しない。解行が相応しない場合は実証が無いことを示す。

四、我見が薄れて初めて断除できる

各衆生の我見・我執の軽重差は極めて大きく、当然ながら我見・我執が軽微な者ほど我見を断ち易い。我見・我執が重い者は修行を通じて転変し軽微化した後、初めて我見断除の望みが持てる。堅冰が一瞬で水に融けるには、堅冰が徐々に薄く、次第に堅固さを失い、最終的に瞬時に融解する必要がある。学仏修行は実際には、我見・我執を先ず淡く転じ、業障を漸減させ、遮障を軽くする過程であり、これが修行の功德である。これを基盤として後世において初めて迅速に我見を断じ得る。

修行は漸進的な過程であり、一瞬で目標に到達することは不可能である。不断の進歩さえあれば喜ぶべきである。基盤が薄弱な者は、目標を低く設定し、自身の実情に符合させるべきである。そうすれば修行に展望が生まれ、全ての目標を明心見性に定める必要はなく、達成不能による落胆や修行放棄を避けられる。意根の我見という堅冰は漸次的に淡く薄くすべきであり、この中間こそが修行である。

五、観行と想像はどう違うか

甲:観行は真実に見て観じることであり、六根が一つの事柄に集中して参与する。意根が散漫でなければ全行程参与でき、観行による所得は意根が認可する。想像は五根が参与せず、意識のみが虚構を生み出し、意根は参与できず認可もしない。

乙:観行の対象は客観的に存在する事物に基づく。想像は主観的臆測に属する。

丙:観行は意根を主とする心理活動であり、観行過程において意識が必要な誘導を行い、意根に対象を現量のまま如実に観察させる。一方、想像は意識心を主とする心理活動であり、主に意識が独影法塵を非量で了別するため、意根に実質的影響を与え難い。

丁:想像は独頭意識の運作であり、意根も参与する。意根は一切法を黙容する故、了別もする。想像は独影境に属し、非現量の了別である。観行は意識と意根が共に性境を縁とし、帯質境に属し現量了別であり、意根を薫染させ法を証得させ易い。観行は意識と意根双方に現量了別をさせる。持続的現量了別(その間他根も参与)には定力が必要で、意根が定まって初めて実証可能となる。

戊:第一に観行には一定の定力が必須であり、定力なき観行は想像に陥る。第二に定力下での観行では意根が他法を縁する事少なく、意識が誘導する法塵に集中し、観じる法塵に興味を持つ。一方、想像過程でも意根は参与するが全身全霊ではなく他法を縁する。第三に観行は意識誘導から次第に意根主導へ移行し、縁する法は全て現量境界となる。意識の想像は非量了別であり、現量境界のみが客観的実相に符合し意根を確信させる。要するに意根が真に注目・参与して初めて、意根の巨大な潜在力を発揮し、知見を徹底的に変革し正しい選択が可能となる。

想像と観行、どちらが容易で楽か。

甲:想像の方が遥かに容易である。妄想は招かざる客の如く現れる。

乙:多くの者が自らを欺き他を欺き、禅定も無く観行や証果が可能だと自称し、想像を観行と見做しながら自覚しない現状が分かる。修行の原理を理解すれば、ほとんどの時間は自力修行に頼るべきであり、終日様々な理論書に耽溺し他者の見解や見地を摂取し、他者の宝を数える必要はない。自らは結局半銭も得られないのだ。

六、三十七道品の条件を満たさずば証果明心ならず

前世で一度も我見を断じたことの無い者、或いは我見を断じた回数の少ない者は、初めて我見を断ち初果を証するのが極めて困難であり、我見断絶の必要条件である三十七道品の修習も容易でない。現在毎日修定に励む者も皆知る通り、禅定は修め難く、理に如く観行するのは更に難しく、観行の成果を得て法眼浄く空三昧を証得するのは更々に難しい。一方、前世で我見を断じた者は今世において特殊な身分に属し、娑婆世界にこのような特殊な身分の者は数える程も無く、鳳毛麟角と言える。

或る人々は常に自らを特殊だと思い込み、三五年学んだだけで開悟したと考える。しかし我見を断たずして開悟は不可能であり、開悟は我見を断つよりも更に難中の難である。故に安易に自らが開悟し明心したと思い込まず、何某かの菩薩だと称し、対外的に開悟を宣伝するのは果報的に甚だ良くない。現在は特殊な時期であり、幾つかの特殊な現象が現れているが、これが地蔵王菩薩に大きな煩いをもたらしている。この世代の命終後、地蔵王菩薩は忙しくなるだろう。菩薩となるのは余りに容易でなく、「地獄が空じない限り誓って仏とならず」、明らかに仏の功德福德を具えながら仏位を取らない。菩薩とはこのような心空無我の存在である。

地蔵王菩薩に煩いを掛けぬため、現在は皆、本師釈迦仏の教えに従い、仏の説かれた修行次第と基準に沿って修行し、自らの三十七道品が如何なる程度に達しているかを厳格に検査すべきである。その内の何れか一条でも満たさぬ場合は、証果や明心したなどと思ってはならない。最も基本的な三十七道品が修満されなければ、脱胎換骨できず、竜門を跳べず、聖となることはできない。

七、如何に我見を断じたか判断するか

小乗の三十七道品が満たされなければ我見を断じ得ず、禅定が不足すれば現前に観行できず、推量・想像に頼るのみである。喜覚分・猗覚分・定覚分・捨覚分が具足せず、或いは全く現れなければ、我見断絶には程遠い。四正勤による断悪修善が未修で悪を継続し善が未生起、煩悩が減じず心が変わらなければ、我見を断じ得ない。八正道が完全に具足せず身口意の行いに不正が残り、或いは世間法に貪着し出離心が弱ければ、同様に我見を断じ得ない。心中に我相が残り、常時我を主とし中心とし、人相・衆生相・寿者相が宛然たる四相があれば、我見は断たれていない。

三十七道品を修する過程において、身心の不断の変化に伴い、種々の吉祥なる夢境が煩悩の漸次脱落、業障の漸次消除、心の漸次清浄、身の漸次無障碍、禅定の漸次加深、世俗法の漸次遠離を示す。我見を断つ時、法眼が清浄となり五蘊が皆空無我であることを見、定慧等持の三昧境界が現前し、身心共に清浄にして三昧の中に在り、身心の覚受が非凡となる。今の衆生は根機が浅薄である為、このような三昧は極めて証得し難く、戒定慧も満足に修し難い。故に我見を断つことは極めて困難である。現在、自ら我見断絶・明心したと称する者の多くにこれらの現象が現れていないならば、それは実証ではない。

我見断絶と明心の時、既に脱胎換骨し鯉が竜門を跳んだのである。もし粗重な煩悩が未消除で心が清浄でなければ、骨は元のままで胎は変わらない。見道の条件を緩め、三十七道品・菩薩六度が具足円満でなければ、それは竜門を這って潜る行為であり、本質は依然として鯉のままで竜とは成れない。証果と明心という仏法修証の最重要箇所において不真面目・不厳格であれば、臨終に種々の悪相が現前し、悪道を免れ得ず、死後自らが陰惨恐怖の地に在ることを知り、後悔しても既に遅い。

八、我見を断じ得ぬ因

修行とは先ず色身五蘊の功能作用を否定し破除した後、初めて五蘊の背後にある真人を証得し得る。色身が如何に不実で主無き性であるか。色身は四大より成り、四大に制御され翻弄される。四大を翻弄しようとすれば実に容易でなく、大いに手間を要し、必ずしも成功しない。例えば夏の酷暑で全身汗だくとなり、或る者は湿疹も生じる。これは火大と水大の不調によるもので、エアコンで風を通せば却って身体が冷えて不快となる。これは風大の不調である。四大不調の色身は実に煩わしい。色身が存在する限り、四大は永遠に汝を翻弄し続ける。仏陀は四大を四毒蛇に喩え、伺候が難しく、稍でも油断すれば毒蛇が侵害すると説かれた。このような色身に何ら自主性が無く、真人たり得ようか。我たり得ようか。

生生世世滅びぬその我は、自由自在で自主性を具え、百毒も侵さず、一切を主宰して一切に主宰されざる存在であるべきだ。智者たる者がこのような色身を我とし我所とするだろうか。早急に自心においてこれを滅却し否定し、新たなる主人を求め帰依すべきである。これほど明白な理を自心にて未だ確認できぬなら、修行に不足あることを示す。究竟何が不足しているのか。福德・智慧・禅定・戒律など、整うものは速やかに整え、再び怠惰に耽り拖延してはならない。

色身非我・五蘊無我の理が既に明白となった時、自ら勇敢にこれを承当すべきである。無始劫以来の自我への観念を更新し、旧を去り新たに改め、焕然一新すべきだ。然るにこの我の観念は恰も固着し、如何なる説も動かず、一歩前進するのも困難である。これが障であり、恰も山が眼前に横たわり越え難い。この山を推倒するには自力と他力、衆力の和合を要する。自力とは戒力・定力・慧力・福德力・善業力を含む。他力とは、一に仏菩薩護法神の加持力、二に同参道友の推進力、三に他の善縁の力である。自力を主とし他力を輔とし、自力が具足して初めて他力も力を発揮し得る。

譬えば人が上り坂で車を押し進む際、前方に大石が道を塞ぐ。自力では如何に力を込めても車を動かせぬ。此時衆力和合が必要となる。自力とは自らの体力・根気・巧力・決断力などである。他力とは、過去に結んだ善縁と種まいた善業により、縁ある通行人が助力を申し出ることであろう。二人でも動かねば更に一人が現れ、三人の合力で大石を越え進むことが出来る。

もし往昔に善縁を結ばず他者を助けず、福德と善業の種を蒔かなければ、障礙に遭遇した時孤立無援となる。誰も汝の困難を知らず、仮に通行人が居ても縁も福も無ければ救いの手は差し伸べられぬ。

仏道を学ぶ上で修福と善縁を結ぶことは極めて重要である。成仏の道には極めて多くの助道者を要し、独力では三大阿僧祇劫の修行を渡れぬ。人を助ける举手の労すら厭い、福德を集めず善縁を結ばず種を蒔かねば、如何なる障礙も越え得ず、徒らに嘆き悲しむのみである。自ら人を助けなければ、如何にして天の助けがあろうか。

九、有所得の心は解脱の果を得られるか

常に私に向かって言う者がいる:「老師、私は証果が欲しい、明心見性が欲しい、七住位に達したい、どう修めれば良いですか」。このように語る者は果にのみ興味を持ち、過程には関心が無い。知見を欲するだけで自らを変え脱胎換骨せず、内心では果を重んじ修証と解脱を軽んじている。このような場合、如何なる外力も彼に益することは無い。世間に利益ある処では衆生が群がり、仏教に利益ある処でも同様に衆生が群がる。

何故衆生は利益ある処へ向かうのか。我があり、我所があり、法があり、執取があるからである。故に求めが生じる。我有りの心、有所得の心で仏法上の利益を求め、果を得られるだろうか。我無く求め無くして初めて果があり、我有り求め有りて何の果があろうか。果を得られると考え、仏法の中の果の利益を見て、直ちに利益ある処へ向かい奪取しようとする。これで如何なる果証を得られようか。何故今や虚偽の果が蔓延しているのか。有所得の心で偽果を奪い取れば、如何にして三悪道に堕ちざるを得まい。心中の果が空じず、利益が空じず、名利が空じなければ、我見を断じ得ようか。我見を断たずして果を得られようか。

我無く人無く衆生無く寿者無くして初めて我見を断ち果を証する。有所得の心で偽果を得る者は我見我執を増長させ、我相・人相・衆生相・寿者相を更に重くし、道に背き逆らう。道は解脱であり、背道は生死である。世俗界は名利の場であり、或る者にとって仏教界も同様に名利の場である。仏教に名利を得んと追求すれば、更に生死へ向かう。

十、三昧は修法成就の標識

問:日観を修めるには一日24時間影像が消えずに続いて初めて次の段階に進めるのか。

答:観無量寿経の十六観の各観は、相応する三昧が現れた後に観行が完了し、次の観行に進むことが可能となる。第一観の日観では三昧を修め、落日三昧を得る必要がある。心中の落日相が連続不断に現前して滅せず、身心共に禅定状態に在り、煩悩や雑念が無く、睡眠以外は定中にある状態で日観三昧が修了し、第二観に移行できる。如何なる法を修め、如何なる道を証するにも、禅定や智慧を含め、三昧が現れなければ修成したとは言えず、法を証し道を証したとは言えない。三昧出現前後の期間は睡眠も深からず、雑夢や乱夢が無く、内心にも一定の清明さがあり、睡眠は少なく軽く、昏沈しない。軽度睡眠時には心中に影像が有り、深度睡眠時には無い。

日観は全ての観行の中で最も簡単で容易な観行であるが、多くの者が三年以上修めても何の兆候も無く、三昧の影すら見えない。これを見れば修行が如何に容易でないか分かる。特に我見断絶や明心見性のような大智慧の成就は更に容易でない。観無量寿経の十六観は第三観を成就して初めて命終極楽往生が保証され、第七観を修めて初めて明心開悟する。三年で第一観を修成する者も居ない中、第三観や第七観は何年何月を要するか。修行は容易でなく、前世で既に修習し成就した者でなければ、今世では稍容易になるのみである。

十一、何故我見を断つに相応の禅定が必要か

我見を断つことは戒定慧の結合した産物であり、煩悩断後の成果でもある。慧は禅定無くして成立せず、我見断絶後に初めて解脱を得る。解脱とは煩悩の縛りからの解放であり、煩悩を断つことは智慧の成就のみならず禅定の結果でもある。禅定無くしては煩悩を断じ得ず、我見を断ち得ない。

初果・二果には未到地定が必要であり、未到地定無くしては初果向にも成れない。初果は見道所断の煩悩(欲界最粗重の下品煩悩)を未到地定中に断ずる。二果は修道所断の煩悩(欲界中品・上品煩悩)を更に未到地定中に断ずる。初果・二果の人命終後は欲界天に生じ、色界天・無色界天には生まれ得ない。色界初禅定を具えぬ故である。

二果は初果の基盤の上で四聖諦理を観行し続ける必要がある。現観は未到地定無くしては成立せず、意識の思惟分析に頼るのみで現量観察智を得られず、三果を証得できず初禅定も得られない。三果は欲界一切の煩悩を断じ、更に色界の少なくとも一品の煩悩を断じて心解脱の聖人となる。故に最低限色界の初禅定を要する。三果の人命終後は色界五不還天に生じ、或は中有身において一切煩悩を断尽し四果を証得して無余涅槃に入る。三果人が色界定を具えねば如何にして五不還天に生じ、如何にして煩悩を断尽できようか。

禅定が具足しなければ相応する煩悩を断じ得ない。色界定無くしては欲界・色界の煩悩惑を断じ得ず、未到地定無くしては欲界の煩悩を断じ得ない。四聖諦理は解脱道の依り所とならぬ。煩悩を断たずして菩提を証せると説く者は、禅定無く内心の煩悩を降伏できず、意識の解釈が勝り聡明に見えても実証の智慧無く、煩悩の縛りを脱せず六道輪廻を離れ得ない。仏を学び禅定を修めず、空想に頼る者は皆戯論に堕するのである。

十二、禅定中での観行により得た結果は必ず現量実証か

定中観行で結果を観じた場合、その結果は一に意識単独による観行、二に意識と意根の共同観行による可能性がある。意識単独の観行は決定的作用を発揮せず、意根も共に観行して初めて決定的作用を発揮し、定慧等持の三昧が現れ真の智慧となる。

何故同じ定中観行で二種の結果が生じるのか。これは定に浅深の差があり、摂受する識心の観行智慧が異なるためである。定の深浅差とは、例えば初禅定と具足した未到地定、不具足で断続的な未到地定、更に粗浅な定など、定の持続時間も様々である。これにより観行智慧に大きな差異が生じる。定が浅く未到地定が不具足の場合、意識の功能作用が大部分を占め、推理分析の作用が大きく、意根の思量作用は微弱である。故に得た結論は現量ではない。未到地定があっても毎回の持続時間が短く、観行が常に粗浅段階に留まり深化し得なければ、深細な観行智慧を得られず、結果は牽強付会的で現量を伴わない。

禅定が重要であるが故に、或る者は一心に定を修め、悪を断じ善を修めず、性障煩悩を除く方策も講じず、福德を積むこともせず、無福と性障の重さにより十数年・二十年修めても依然として禅定を得られない。逆に性障煩悩が軽微で、積極的に三宝を護持し見道の功德を積んだ者は、禅定を修めれば短期間で身体が調和し、定力が急速に増大し、他者が二三十年かけて修める成果を凌駕する。これを見れば、修行は心を修めることに在り、坐る時間の長短に非ず。心を修めず煩悩が重く性の儘に振る舞い、業障が減じず却って増大するなら、如何にして禅定を修持できようか。

十三、見地とは何か

見地の「地」とは修証の段階、置かれた身分地位を指す。瑜伽師地論において弥勒菩薩は地を十七地に分け、凡夫地から仏地に至る。各地の身分は異なり、地位は上昇する。これは福德・智慧・禅定の差異によって区分される。欲界には九地が存在し、福德によって分かれる。色界・無色界は禅定によって区分され、智慧の補助も伴う。凡夫・阿羅漢・辟支仏・菩薩・仏地は証量によって分けられ、証量には福德・禅定・智慧が含まれる。

従って「見地」という語は凡夫に用いることができない。知見が実証され、見解が証され、無生忍・無生法忍を証得した時、初めて一定の解脱智慧を具え、身分が聖賢の地位段階に上昇し、従前の知見が見地となる。

知見・考え・観点が未実証のものは、単に知見・知解・個人的な考えと呼ぶべきである。自らの観点・見解が正しいことを証したいなら、戒定慧を修習し、定中で参究し、自ら証得し見るべきである。遠く離れた思惟琢磨や主観的臆断ではならない。主観的臆断は疑いを断ち切れず、自ら見て証したもののみが疑いを断つ。疑い断絶後に初めて解脱智慧が生起し、身心世界が根本的に転換し、思想の段階・身分地位が共に上昇するのである。

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