五蘊の観行による我見の断ち(第二部)
第十二章 雑談
一、愛随眠とは何か。
愛随眠煩悩随眠とは、随眠の文字上の意味は睡眠に伴うこと、即ち隠れたる意、背後で運行する意、付き従う意である。五蘊の活動中、時処を選ばず愛と煩悩が付き従い、決定的な瞬間に愛と煩悩が現行し、染汚業が出現し、染汚種子が蓄積され、未来の苦が集起する。
愛随眠煩悩随眠有れば、心は覆蔽され真実理を見えず、愚痴により智慧光明が遮障される。故に一絲の煩悩も無明であり、心清浄ならず暗黒に陥り、智慧光明現れず。愛を断ずるは即ち苦を断ずる。愛重ければ苦重く娑婆に生じ、愛軽ければ苦軽く天界に生じ、愛無ければ即座に極楽である。
二、修行が力を得た後の現象
正精進を修行し力を得た後、修行方向が正しければ、一定の利益を得、欲望が軽減し、執着と煩悩が減少し、身心に変化が現れる。世間の無常・空・無我を知り、物質への執着が薄れ、貪心が減退する。物欲が少なければ、享受を貪らず、この世間での生活に金銭物質は殆ど要らない。世間物質に依存する習慣ある者は貪欲必ず熾盛で、金銭物質への需要多く、必死に稼いでも足りぬと感じる。足るか否かは心次第で、物質金銭の多寡に非ず。善く止足を知る者のみ心安楽を得る。
正精進修行で力を得た後、逆縁に遭う。これは業障遮障を消す大いなる助縁となる。金剛経に云う「世人の軽賎するが故に、是の人は先世の罪業消滅す」と。修行が道上りすれば、幾つかの逆縁を感得する。これらの逆縁も修行の増上縁である。逆縁は修行者の罪業を消し、極小の軽賎を受ける代償で重大罪業を滅除する。故に歓喜して逆縁を受容すべし。時に、何も為さずとも誣告誹謗されることがある。黙然と忍べば逆縁は過ぎ去り業障消滅する。忍べず反撃すれば新業を造り旧業も消えず。故に仏は忍辱を徳とし功有り、福慧を増すと説く。境遇を善く扱えば道を助ける。
三、捨覚支と行捨の区別。
捨覚支は七覚支における最後の覚支である。七覚支とは念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・猗覚支・定覚支・捨覚支を指す。捨とは一切の身心の負担と累贅を捨て去り、善悪・苦楽を問わず、如何なる覚受も捨離し、内心清浄無為となることを意味する。
行捨は不害とも呼ばれ、悪不善の行為造作を捨て去ることを指す。例えば元来某人への復讐を企てていたが、今は復讐を捨てた。元来他人を嫉妬し加害しようとしたが、今は嫉妬せず加害せず、悪行を捨て内心清浄、或いは善に住する。しかしその覚受は必ずしも捨て去れず、心中に喜楽・軽安、或いは他の覚受が残る場合があり、捨覚支とは異なる。
四、無常法と常法は共に苦法である。
一切法は無常であり、情緒も無常である。生住異滅の段階を経て、善悪を問わず持続不変ならず、永住せず。もし貪瞋痴の煩悩から生じる喜怒哀楽の情緒が永住不変なら、衆生の結末は如何なるか。結果は精神崩壊し遂に死亡する。仮に煩悩性なき喜楽が永久不変でも、その者は深甚な禅定を得られない。
世間の無常の法則是、衆生の生存に適する。もし法が常となれば衆生は耐えられず、無常法が衆生を苦しめる如く、常法も同様に苦しむ。故に世間は苦である。
五、行陰の意味。
変動し流転して静止しない法は全て行陰、或いは行蘊に属する。身心両面を含むが、身動は実は識心の動きによる。識心動かざれば身も動かず。相分の伝導も動きであり、塵境の生住異滅の変動は識の動きから生じる。識心の念念止まぬ思考念頭及び種々の心理活動は識陰に属する。これらの変動する法が如理如法の認知を遮障し、真性を弁識せず動相の行のみを認めれば、これらは行陰となる。単に法の運転性・活動性を強調する場合は行蘊と呼ぶ。
六、何時情執を断てるか。
まず身見を明らかにし断除し、その後我執を破り、さらに情執を断ずる。情執は我執断後に徐々に断除され、極めて困難である。先に貪欲あり、後に情執あり。貪欲は三果で断尽するが、情執は第一から第二無量劫の間に断尽する。貪は粗雑で断じ易く、情は繊細で特に断じ難い。
七、この仮想世界の存在意義。
この仮想世界の存在は人為的操作によるものではなく、衆生の業縁の必然的結果である。故に有意義か無意義かを論ずる余地なし。衆生に三界の業種有れば、業種消滅せざる限り仮想世界は現出し続け、衆生に業種を実現させ業報を受からしめる。仏法修行者はこの仮想世界を修行に利用できる。
衆生が直面するのは全て電気信号で何も無いが、色彩豊かで絢爛な六塵世界を解読する。その電気信号も実有でなく、見えざる種子が幻化したもので、実は世間には何も無く、世間さえ存在せず、衆生に翳病あるが故に無理やり世間とその一切法を分別する。世間及びその一切法は、汝が意義有りと見れば意義有り、無意義と見れば無意義。法に心無く、物に心無く、情景に心無く、世界に心無し。衆生に心有り、情景に意義を付与し、世界に意味を与える。汝に心無ければ世界無く、心有れば一切法あり。
八、執念を捨てるは即ち自我を捨てる。
仏法において禁取戒というものがある。外道が設立した如理ならず解脱不能の戒を、仏弟子は執取し守護してはならない。故に仏法修証において我見を断ずるには、外道の禁取戒を破棄し、その戒条を遵守せず、正しく如法に仏戒を護持して初めて我見を断ずる。従って我々も無意味な誓願や邪願に執着し、精力と心力を空費する必要はない。執有れば生死有り、解脱せず。菩薩は大智慧を要し、その智慧は世間の如何なるエリートをも凌駕する。衆生に利益なき事には時間精力を浪費せず、利益ある事、大利益ある事、最重要事のみを行う。
人前の不要な体面問題を捨てるは即ち一種の我を捨てる。他人の無意味な評価や見解を気にせず、本来我無きが故に不合理な評価を気にする必要無し。正しき事を行い、人を利する事を為し、時を浪費せず、仏菩薩と衆生に恥じぬ生き方をすれば、如何なる形でも良し。不合理な執念に固執し円融ならざるは愚痴である。執念有れば波旬がこの心理を利用し、汝をして愚行を為さしむ。無心ならば利用されず、隙を突かれず、悪果も無し。仏陀は常に菩薩に教える:虚偽の名誉名声に執着せず、毀誉褒貶に心動かさず、真理のみを堅持せよと。
修行目標を調整し、直ちに目標へ向かい、不要な事に拘泥せず。智慧を用い、意気に駆られず、他人の目に失敗者と映るを恐れず。世俗法における成敗は幻化の虚相であり、世俗で敗れても仏法において成じ易し。他人の心中に不必要に作る自己像を考慮せず、それこそが我である。諸々の我を滅除して初めて真の我見断除者となる。
九、過去現在因果経第三巻
原文:爾時太子。即便問曰。我今已知汝之所說。生死根本。複何方便。而能斷之。仙人答言。若欲斷此生死本者。先當出家修持戒行。謙卑忍辱。住空閑處。修習禪定。離欲惡不善法。有覺有觀。得初禪。除覺觀。定生入喜心。得第二禪。捨喜心。得正念。具樂根。得第三禪。除苦樂。得淨念。入捨根。得第四禪。獲無想報。別有一師。說如此處。名爲解脫。從定覺已。然後方知非解脫處。離色想。入空處。滅有對想。入識處。滅無量識想。唯觀一識。入無所有處。離於種種想。入非想非非想處。斯處名爲究竟解脫。是諸學者之彼岸也。太子若欲斷於生老病死患者。應當修學如此之行。
釈:シッダールタ太子は如何なる方便法を用いれば生死の根本を断除できるかと問う。仙人は答えて曰く、まず出家し戒を保ち、忍辱行を修し、閑静な処に住して禅定を修習すべしと。初禅に入るは欲界の悪不善法を離れ、覚と観有り。二禅に入るは覚観無く、定より喜楽生ず。三禅に入るは喜心を捨て、正念を得、楽根を具足す。四禅に入るは苦楽受を滅除し、浄念を得、捨根に入り無想報を得る。さらに彼の仙人師は無想処を修して解脱を得たと説く。実は然らず、無想処定より出定すれば、これが解脱処でないと知る。
仙人は続けて曰く、色界の念想を離れ、無色界の空無辺処定に入る。有対想を滅し、識無辺処定に入る。無量識想を滅し、ただ一識を観じて無所有処定に入る。種々の想を離れ、非想非非想処定に入る。これが究竟の解脱処であり、全ての行者が到達すべき解脱の彼岸である。太子よ、もし生老病死の過患を断除せんと欲せば、かくの如く修学すべし。
原文:爾時太子。聞仙人言。心不喜樂。即自思惟。其所知見。非究竟處。非是永斷諸結煩惱。即便語言。我今於汝所說法中。有所未解。今欲相問。仙人答言。敬從來意。即問之曰。非想非非想處。爲有我耶。爲無我耶。若言無我。不應言非想非非想。若言有我。我爲有知。我爲無知。我若無知。則同木石。我若有知。則有攀緣。既有攀緣。則有染著。以染著故。則非解脫。汝以盡於粗結。而不自知細結猶存。以是之故。謂爲究竟。細結滋長。複受下生。以此故知非度彼岸。若能除我及以我想。一切盡捨是則名爲真解脫也。仙人默然。心自思惟。太子所說。甚爲微妙。
太子は仙人の説く所を聞き、心喜ばず、思うに、仙人の説く究竟解脱処は永劫に煩悩結縛を断ずる法に非ずと。乃ち言う:汝の説く所に理解せざる所有り、今問わん。非想非非想処に我ありや無きや。若し無我ならば、非想非非想処と説くべからず。若し我ありならば、我は知覚有りや無きや。我が知覚無きならば木石の如し。我が知覚有るならば攀縁有り、攀縁有れば染着有り、染着有れば解脱せず。
粗重なる結縛を断じ尽くせども、細き結縛の存するを知らざるが故に、非想非非想処を究竟と為す。然れども細き結縛が滋長すれば、再び下劣なる生処を受く。故に生死の彼岸を渡越えず。若し我及び我の念想を断除し、一切法を捨てるならば、真解脱と名づく。仙人は黙然とし、心中に太子の説く所は甚だ微妙なりと考える。
仙人の指す涅槃の道は、実は涅槃の道に非ず。途中に戒定のみ有りて解脱慧無きが故なり。定有りて慧無きは外道、解脱を得ず。解脱は無我の心解脱なり。心に無我の智慧有りて初めて解脱を得る。解脱は諸々の結煩悩を永断して残さず、解脱の理論知見のみ有りて煩悩猶在するを解脱と称せざる。故に修行中、自らの煩悩が従前と変わり無く、理論知見を以て自慢し他を蔑む者は、実は煩悩具足の凡夫なり。故に修行の最初と最終は、無明の我相を破り煩悩を断ずるにあり。理論知見を得たのみを以て仏法を学ぶと称すべからず。智慧有れば無明無く、煩悩無し。煩悩有れば無明有り、無明有れば智慧無く、智慧無ければ生死に処し解脱せず。故に自らの修行成果を検証するは、無明煩悩の薄らいだ有無及びその程度による。