五蘊の観行による我見の断ち(第二部)
第七章 倶舎論第二十三巻(証果に応て断除すべき煩悩)
第一節 初果に応て断除すべき煩悩
一、原文:由於修惑具斷有殊。立爲三向。謂彼二聖。若於先時。未以世道。斷修斷惑。名爲具縛。
釈:修行解脱道の者、修行的過程において断除すべき煩悩惑の差別甚だ大なるが故に、煩悩惑業を断除する者を三つの果向(初果向・二果向・三果四果向)と立てて名付ける。頓根の信行人と利根の法行人という二種の聖道修行者、もし先前に世間道の善法において、修道によって断ずべき煩悩惑を断じていない場合、この者は一切の煩悩を具足する凡夫である。
この意味は、修道が凡夫より修行を始めることを示す。凡夫もまた相応する煩悩惑を断除しなければならず、全ての凡夫衆生は様々な修道過程を経なければならない。最初は必ず世間法を修し、世間法において悪を断ち善を修する。その修行内容は四正勤であり、四正勤が修め足らざれば煩悩惑を断除すること能わず、つまり煩悩結縛を具足する凡夫である。凡夫は見道前に主として三十七道品を修し、三十七道品には七覚分と八正道が含まれる。七覚分の中の定覚分が具足すれば、欲界の中下品の煩悩を降伏・断除する。
八正道の中にも正定があり、正定が具足すれば、欲界の下品煩悩を降伏・断除する。三十七道品を具足して修すれば、戒定慧が円満し、見道の条件が具足して因縁に遇えば法眼浄を得、初果を証得する。もしこれらの修道の条件が具足しなければ、因縁も具足せず、見道することは不可能である。多くの人がこの修行段階を飛び越えて見道し初果を証得すると称するのは、誤解による見道、大妄語に過ぎない。
倶舎論原文:或先已斷。欲界一品。乃至五品。至此位中名初果向。趣初果故。言初果者。謂預流果。此於一切沙門果中。必初得故。
釈:解脱道を修める者の中には、先に欲界の第一品から第五品までの煩悩惑を断じた者が存在する。この場合、その者は初果向と呼称される。初果に向かうが故に初果向と称され、やがて初果(法眼浄)を証得する。初果は「預流果」とも呼ばれ、一切の出家沙門が得る果位の中で、必ず最初に証得される。
初果向は欲界五品の煩悩惑を断除した後に初果を証得する。即ち、凡夫位の初果向において既に欲界五品の煩悩惑を断除しなければならない。凡夫が如何にして五品の煩悩惑を断じ得るか。前述の如く、凡夫は修道過程において三十七道品を修め、悪を断じ善を修める必要がある。善を修めることにより悪を断じ、悪を断ずることが即ち欲界五品煩悩の断除に繋がる。ただし、善を修めても欲界未到地定を有さず、或いは未到地定が具足しなければ、五品の惑を断ずることはできず、初果向とは成り得ない。未到地定の修行は七覚分中の「定覚分」、即ち八正道中の「正定」に相当する。もし欲界未到地定が不足すれば正定も具足せず、八正道の修道も具足せず、正しき道とは言い難い。
従って、一部の者が主張する「初果・二果の見道には禅定を要せず、未到地定も必要とせず、定を修めずに証果可能」との言説は、七覚分・八正道の理法に明らかに背き、証果の真実理を損ない、更に世尊・弥勒菩薩・諸仏菩薩の教導に反する。彼らの主張する「証果」は事実無根であり、仏法の修証を軽視する所業である。これは彼らが三十七道品の実践的修行段階を経ておらず、修行に対する盲目性と憶測的要素を露呈するものと言える。末法の世に多くの「善知識」が存在するが、彼らは知識の収集・拡散に長けるのみで、修証の理法を理解していない実態がここに顕れる。
二、初果所断除の粗重煩悩とは何を指すか
一切の法には粗相と細相の区別が存在する。粗相は顕著で直ちに感知可能な相を指し、細相は粗相の背後に潜み識別困難な微細な相である。世間法・出世間法においても大略的部分と微細部分に分類され、識心すら粗と細に分かたれる。
煩悩もまた法(心法)である以上、粗と細の部分に区分される。粗煩悩とは粗重なる煩悩を指し、煩悩中特に顕著で容易に自覚可能な部分を意味する。「重」はその深刻性を示す。明瞭かつ概括的な煩悩は必然的に重度の煩悩、あるいは顕在化した衆生共に認知可能な部分であり、存在すべからざるもの、世間的倫理に容認されぬ要素である。これこそが優先的に断除すべき煩悩である。世間人すら容認し得ぬ粗重煩悩は、まして修行界、特に聖賢の法界において存在・顕現を許されない。
貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の六根本煩悩は、各々粗と細の二大部分に分たれ、細煩悩は更に細分可能である。粗細は相対的概念であり、最粗部分を除去すれば残留した細部分が新たな粗細を形成する。この分割は極微の煩悩に至るまで継続し、凡夫の認識を超越する究極微細煩悩は八地以上の菩薩のみ断除可能である。比較的細かな煩悩でさえ、凡夫は智慧不足の故に自覚・識別不能であり、初果を証得した者でも経験・智慧未熟のため認識困難である。
一切の煩悩は大略的に上品・中品・下品の三品に分類され、各品は更に上中下に細分される。上品煩悩は最も顕著・深刻で優先的断除対象となり、これを「粗重煩悩」と称する。四聖諦修行過程において、初果向の段階で断除必須とされる。粗重なる上品煩悩を断除して初めて初果預流果への契機を得る。これを達成せねば初果向すら証得不能であり、まして初果から四果に至る道程は途絶える。
例えば貪煩悩は、粗細九品に分けることができる。更に細分すれば更に分けられ、最も粗い部分の貪は極めて深刻、或いは比較的深刻であり、普通の人でも明らかに認知可能で容認できない。これが存在すべきでなく、もし存在すれば煩悩の重い凡夫である。例えば金銭面における大貪、男女の欲望や感情における大貪、色身への大貪、名声利養への大貪など、各方面に亘り尽きることがない。その他の煩悩も同様に、深刻且つ顕著な部分は全て粗重煩悩に属し、全て初果或いは初果向の段階で断除されねばならない。
もしある者が自ら証果を得た、明心見性したと主張しながら、その煩悩が依然として重く顕著で容易に他者に発見され容認できない場合、その者は大妄語を犯していると判断できる。仮にその者が理論を滔々と述べ、説法時に雄弁を極め華麗な言辞を弄しても、彼の身口意の行いに表れる煩悩によって凡夫であると断定される。弁舌や理論水準、知識量は実際の証量を代表しない。
もしある者が特定の果位を証得したと自称し他人に語り、他者が疑念を抱くと激しく煩悩し瞋心を起こし、他者を怒らせ罵倒し復讐し、悪縁を結ぶ場合、その者は何も証得していないと断定できる。彼の煩悩が余りに粗重で、普通の凡夫を凌駕しているからである。学んだ法を頼みとして衆生を蔑視し誹謗・攻撃し、強きを恃み弱きを苛む者は、基本的に粗重煩悩を有する凡夫と断定される。
三、問:須陀洹果が五蘊身を我・我所とする知見を断除するとは、意根を我とする知見の断除を指すか?
答:初果が我見を断除するとは、意根と意識の双方が断じることを意味する。両者共に五蘊の苦・空・無常・無我を認証する。但し初果の我見断除は未徹底であり、二果では更に深く断じる故に貪瞋痴煩悩が淡薄となり、三果では更に深化して貪瞋痴煩悩を断除し、四果に至って初めて我見を徹底的に断じ、我慢・我執を断尽し、世間法に微塵も染着せず、有余涅槃を取る能力を具える。換言すれば、一切の煩悩を断尽した時に初めて四果阿羅漢を証得し、四果阿羅漢は無学の位に至り、更に修すべき法も断ずべき煩悩も存在しない。
初果には未だ貪瞋痴が残存するが、それが薄れている訳ではない。しかし初果の我見断除の功徳により、貪瞋痴煩悩は効果的に降伏され、凡夫の如く顕著に現行することはない。初果は修道過程において三十七道品を修了し、八正道を具足する。これはその心性が正直・良善であり、修行の正道を歩むことを示す。四正勤を修了したことは、初果人の煩悩悪習が降伏され容易に現行せず、善法が確立され、断悪修善の功徳による初果人の解脱的功徳受用を具足することを意味する。未証果者の主張する「初果人は凡夫と同様の貪瞋痴煩悩を有する」との言説は、初果人に対する重大な誹謗であり、事実に全く反する。
凡夫と同等の貪瞋痴煩悩を有する者を初果人と称するなら、その者は偽初果人、即ち初果を詐称する凡夫と断定される。現代社会では詐術が横行し、仏教界にも欺瞞が多い。一部は故意の詐称者であるが、大多数は無自覚に我執に囚われ、自己を過大評価し、内省を怠り、他者との優劣を競う結果、自らを害する。命終後、大妄語の業により地獄に堕する。
何故大妄語の罪業がこれ程重いか。『楞厳経』で仏が説かれた如く、貧者が帝王を詐称すれば王に捕らえられ斬首・九族誅滅される。仏法において凡夫が聖人を詐称する罪業は、世俗の帝王詐称より更に重大である。聖人は帝王を遥かに超越する存在であり、聖人詐称は仏教を混乱させ、衆生の聖凡弁別を不能にし、修証の次第を破壊する。聖人詐称は波羅夷罪(断頭罪)に相当し、命終後直ちに地獄に堕して刑罰を受ける。
四、初果の断ずる見惑
禅定は未到地定より始めて煩悩を対治し、煩悩を降伏させる。煩悩を降伏させ、遮障を除去或いは軽減して初めて初果を証得できる。初果人は見地のみを有し、見所断の煩悩を断じたに過ぎないが、煩悩と三縛結を断除するには必ず未到地定を要する。未到地定は定を修して初めて発起するが、見所断の煩悩も四加行の修行及び三十七道品の修行を経た故に、見道時に一部の欲界煩悩を断除し得る。初果は見道時に見惑を断ずるも、思惑煩悩は未断であるため、引き続き修道を必要とする。思惑煩悩は見道後における更なる修道によって漸次断除され、これも二果・三果・四果人の見地に属する。見地が透徹すればする程、我と我所の断除が深化し、心は空に近づき、煩悩は微細となる。
初果の見惑は初めて見道した際に断ずるものではあるが、初見道も漸次的な修道の結果であり、修さなければ見惑を断じ得ない。修道の内容は三十七道品と四加行であり、三十七道品中の禅定を修さず、或いは三十七道品の修養が不足すれば見道できず、まして見惑を断ずることは不可能である。故に未到地定は初果人の見道に必須の条件である。
初果見道以前には、従前の貪瞋痴煩悩を一定程度まで降伏させ、粗重部分を断除し、貪瞋痴煩悩が行者を遮障しない状態に至らしめねばならない。三十七道品の修行過程において、極重の貪瞋痴煩悩を漸次降伏させ、煩悩を微薄化し、心を柔軟にし、智慧を明朗化する。全ての遮障は密雲の如く次第に稀薄となり、智慧の陽光が雲間より透して初めて見道する。見道前の煩悩の淡薄さは、従前の深刻な煩悩に対する相対的概念であり、二果時の貪瞋痴淡薄の程度とは異なる。両者は相対性の観点から用いられる同語彙であっても内実は全く異なり、混同不可である。
四聖諦:苦聖諦・苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道聖諦。この内、苦滅道聖諦は修道の真理、依拠すべき理論である。この理論の修学は初果以前より開始され、四果阿羅漢の証得に至るまで継続する。故に修道は見道後に始まるのではなく、四聖諦に接触した時点で開始される。最初に四念処観を修行し始めた時点で既に修道は始まっており、修さずして如何にして見道できようか。三十七道品中の四正勤:一、已生の悪法を断ぜしむ。二、未生の悪法を生ぜざらしむ。三、未生の善法を生ぜしむ。四、已生の善法を增長せしむ。これらの修善滅悪の修道内容は衆生の煩悩を対治し、対治後に煩悩を降伏させ微細化して初めて見道が可能となる。
第二節 修道に於いて断ずべき三界八十一品の思惑
原文:地地失德九。下中上各三。論曰。失謂過失。即所治障。德謂功德。即能治道。如先已辯。欲修斷惑九品差別。如是上地。乃至有頂。例亦應爾。如所斷障一一地中各有九品。諸能治道。無間解脫九品亦然。
釈:三界の各地における過失と功徳は総じて九種有り、九種の中更に各々下中上に三分され、略して二十七種となる。各々の種は更に下中上に三分される故、衆生の有する一切の思惑煩悩は細分して八十一种となる。
「失」とは過失を指し、衆生の過失は即ち貪瞋痴煩悩であり、修道によって対治すべき煩悩の障礙である。「徳」とは功徳を指し、煩悩思惑を対治する修道によって獲得される功徳である。若し煩悩惑の九品差別を断じ修めんと欲すれば、修道を修めねばならず、定を修めねば惑を断じ得ない。欲界より三界の頂である非想非非想天に至るまで、各地に九品の煩悩過失が断除を要し、それら各品の煩悩過失を対治する修道も亦九品に分かれる。三界一切地の九品思惑を断尽すれば、無間の解脱を得る。
所謂る「無間の解脱」とは、身心が刹那毎に解脱し、各法に於いて解脱し、如何なる時も解脱している状態を指す。この解脱は意識単独では獲得不能であり、最終的に意根によって獲得される。意根が解脱すれば一切解脱し、意根が解脱せねば一切解脱せず。意根を解脱せしめんとすれば、修道は深く意根に至るまで修めねばならない。この深みに至るには必ず定を修め、定無くしては意根に到達せず、意根は智慧を得ず、智慧無くして解脱不能である。故に解脱とは定慧等持であり、意識の乾慧のみでは成し得ない。
三界は総じて九地に分たれる:欲界・色界初禅天・二禅天・三禅天・四禅天・無色界空無辺処天・識無辺処天・無所有処天・非想非非想天。各地は相応する禅定の境界を有し、各禅定は相応する煩悩思惑を対治する。これが修道の功徳である。而して思惑は過失に当たり、その過失は禅定を以て対治される。禅定に修行の功徳が現前すれば、その功徳を以て煩悩思惑を対治し、後にこの功徳によって証果を得る。当然ながら、禅定より引かれた解脱の智慧証量が合わさって初めて解脱が成就する。
九地には相応する九品の思惑が存在する。欲界の貪瞋痴は大略的に下・中・上三品に分かれ、各品は更に下中上三品に細分され、総じて九品となる:下下1・下中2・下上3;中下4・中中5・中上6;上下7・上中8・上上9。これら九種の思惑は欲界定及び初禅定の中で断除されねばならず、禅定無くしては一品たりとも断じ得ない。これ無くしては初果向も得られず、まして初果の証得は不可能である。禅定修行を飛び越えることは修行とは称せず、如何なる理論知識を学ぼうとも、思惑を断たねば生死の苦を遮断できず、必ず業に随って生死を漂流する。ここに禅定修行の功徳の甚大さが明らかであり、これを回避する畏れや困難の軽視は問題解決に非ず。而して禅定修行は戒律の厳守無くして成立せず、戒を守らねば禅定は修まらず、修道とは言えず、功徳も生ぜず、煩悩過失は軽減されず、命終すれば煩悩惑業に随って三悪道に流転する。
初禅天の貪瞋痴思惑は下・中・上三品に分かれ、各品は更に下中上三品に細分され総九品となる:下下1・下中2・下上3;中下4・中中5・中上6;上下7・上中8・上上9。同様に、二禅天の貪瞋痴思惑は:下下1・下中2・下上3;中下4・中中5・中上6;上下7・上中8・上上9。三禅天・四禅天・空無辺処天・識無辺処天・無所有処天・非想非非想天も各々相応する九品思惑を有し、総じて八十一种の思惑煩悩となる。
原文:應知此中下下品道勢力。能斷上上品障。如是乃至上上品道勢力。能斷下下品障。上上品等諸能治德。初未有故。此德有時。上上品等失已無故。如浣衣位粗垢先除。於後後時漸除細垢。又如粗闇。小明能滅。要以大明方滅細闇。
釈:修道者は了知すべきである。下下品の道の勢力が上上品の煩悩障を断除し得ること、また上上品の道の勢力が下下品の煩悩障を断除し得ることを。上上品を対治する功徳は、修道の初期段階では未だ顕現せず、一旦現前すれば上上品の過失は消滅し、上上品の思惑は既に断除される。例えて言えば、衣類を洗濯する際、粗大な汚れを先に除去し、後に漸次微細な汚れを除去するが如し。また、濃厚な暗闇は微弱な光明で滅却可能であるが、微細な暗闇を滅却するには大光明を要し、細闇が滅却されて初めて完全な明るさが得られる。
原文:失德相對理亦應然。白法力強。黑法力劣故。刹那頃劣道現行。無始時來展轉增益上品諸惑。能令頓斷。如經久時所集衆病。服少良葯能令頓愈。又如長時所集大闇。一刹那頃小燈能滅。
釈:過失と功徳が相対する理も同様である。善法の力が強く悪法の力が劣る故に、一刹那の短時間に於いて最も低浅なる道が現前し、衆生が無始劫以来増長し続けた上品の貪瞋痴煩悩惑を頓時に断除し得る。例えれば長期間に蓄積された疾病が少量の良薬によって頓時に治癒されるが如く、或いは長期に亘り蓄積された大暗闇が一瞬の小灯火で消滅するが如し。
煩悩過失を対治し得る道とは即ち「徳」であり、修道によって発起する功徳を指す。修道の功徳は戒・定・慧の三つを包含し、三者は不可欠である。戒も定と同様に下中上品に分類可能であり、慧も同様に下中上品に分たれる。戒を保持する事により心が効果的に制約され散乱せず、これが定の修行と相俟って禅定が現前する。禅定を有するが故に四聖諦の理及び大乗の理が心に浸透し融通無碍となり、智慧が顕現する。戒律を厳格に守れば守る程、禅定は深化し、法義は深く心に入り、義理は融通し、煩悩は軽減され、徳は増大する。故に戒を保つは徳であり、禅定は徳であり、智慧は徳である。この徳は功徳のみならず福徳でもあり、此の徳により来世善道に生を受く。徳はまた根器であり、道を載せる根本の器である。徳有れば道有り、道有れば解脱有り。
道と徳が合して「道德」となる。徳高く名望重き者は、敢えて宣伝せずとも其の徳が自然に感応する。例えれば花香り自然に蝶を招くが如し。道と徳を備えた者を下品の者が動かせば、直ちに損害を被る。因果が許さず、徳もまた許さない。大動には大損、小動には小損が伴い、現世に花報を蒙り、後世に果報を受く。避くること能わず、何となれば其の道德巍々たるが故なり。例えれば国王の位尊く権重きに辱めれば牢獄に投じられ、或いは斬首され、九族誅滅に至るが如し。其の勢力盛んなるが故なり。
第三節 二果に応て断除すべき煩悩
原文:若先已斷。欲界六品。或七八品。至此位中名第二果向。趣第二果故。第二果者。謂一來果。遍得果中。此第二故。
釈:もし先前に欲界の六品の思惑を断じ、或いは七・八品の思惑を断じた場合、この位階に到達すれば第二果向と称される。第二果に向かうが故である。第二果は「一来果」を指し、人間界と天界を各一度往復した後に無余涅槃に入る。一切の証得すべき果位の中において、一来果は第二位に位置するため、二果と称される。
欲界の六・七・八品の思惑は、前五品の思惑より微細で断除困難である。一旦断除すれば断徳が向上し、果位は当然五品断徳の初果向・初果を超越する。欲界の九品煩悩思惑は全て欲界の法(色・声・香・味・触・法)に関連し、欲界の飲食・衣具・生活資具への貪瞋痴、男女欲への貪瞋痴を含む。第一品の下下品煩悩惑は最も粗重・混濁・低劣で過失最重のため、最優先で断除されるべきである。二品はこれに次ぎ、三品は更に軽減され、五品まで断除すれば初果向となる。初果向は凡夫に属し三悪道流転を免れず、然れども三悪道堕趣の確率は激減する。初果位に至って初めて三悪道流転の苦を完全に滅除する。
欲界五品煩悩惑を断除せんと欲すれば、戒を保持し定を修めねばならない。欲界定が生起すれば五品思惑煩悩を降伏・断除する。此の煩悩惑を断じた後も戒保持と定修行を継続し、観行智慧を生起させ五陰の苦・空・無常・無我を証得し、三昧が現前して法眼浄を得、初果を証得する。此の中で禅定が核心的要件であり、欲界未到地定無くしては一切の煩悩惑を降伏・断除できず、初果向すら獲得不能である。
未到地定が何故五品思惑を断除できるか。定は心を安定させるものであり、先ず身体が安定し、その後心が安定する。心が定まれば心の動揺が抑制され、色声香味触法への執着が減少し、煩悩は自然に断たれる。二果向及び二果で断除する煩悩惑は、初果向・初果で断ずる煩悩惑より微細かつ深層であるが、依然として欲界に属する煩悩惑である。残り一品を断じれば欲界煩悩惑を断尽し、未到地定を有すれば断除可能であり、色界定・無色界定では更に容易に断除できる。
証果や明心に禅定を必要とせず、煩悩を断じる必要も無く、初果の煩悩は凡夫と全く同様だと主張する者が存在する。これらの言説は、当人が真の修道段階を経験せず、自心が凡夫の煩悩と相応している事実を露呈し、その「証悟」や「明心」に重大な疑義を生ぜしめる。禅定無き者は当然ながら禅定の功徳受用を知らず、如何なる煩悩も断じ得ず、その煩悩は凡夫と全く異ならない。然るに実際は異なり、禅定は断徳・福徳・功徳を具え、修道の最重要鍵であり推進力である。禅定という核心要素無くしては我見を断ずる智慧は生起せず、意識の理解は決定的作用を為さず、意根の智慧こそが無明煩悩の存否・来世の趣向・解脱の可否を決定する。
初果の証得は脱胎換骨に相当する。意根が主体であり、如何なる骨格(性質)を有するかが胎を決定する。意根の無明煩悩を断たねば骨格は変化せず凡夫の胎を脱せず、中有において入る胎は意根の骨格によって定まる。何故禅定が意根の脱胎換骨を可能とするか。禅定が六識を降伏させ、六識の活動を緩慢化するためである。六識の動きが減少すれば意根の六識支配・調節も減退し、執着心が弱まり、心は法義に安住しやすくなる。法義を吸収消化する能力が増強され、法義に対する考察が集中化し、漸次法義に融通し智慧が生起、煩悩を断除して部分的或いは完全な解脱を得る。禅定無き場合、六識の六塵への執着が止まず、意根の六識指揮も継続し、法義に安住できず智慧も生起せず、煩悩は断たれず解脱の望みは絶たれる。
第四節 三果に応て断除すべき煩悩惑
原文:若先已離欲界九品。或先已斷初定一品。乃至具離無所有處。至此位中。名第三果向。趣第三果故。第三果者。謂不還果。數準前釋。
釈:若し先の修道において既に欲界の九品煩悩惑を離脱し、或いは色界初禅天の一品煩悩惑を断じ、更には無色界の無所有処天の煩悩惑までも離脱した場合、この位階に至れば三果向と称され、三果に向かう。第三果は「不還果」であり、再び人間界に来て修道せず、直接五不還天において無余涅槃に入る。
三果の解脱智慧には多様な差異が存在するが、詳細は後述する。現段階の論点は、三果向が既に欲界の一切煩悩惑を離脱し、更に色界初禅の第一品煩悩惑すら断除している事実である。欲界の一切煩悩惑を離脱するには、欲界未到地定のみでは不十分であり、必ず色界初禅定、最高で無色界無所有処定を要する。
何故欲界思惑を断除しただけでは三果向に留まり三果に至らないか。煩悩を先ず断除し遮障を除去した後、五蘊を観察して更に深い見道智慧を生起させ、三果見道を以て初めて三果を証得するからである。二果も同様に、二果向が未到地定で八品思惑を断除し煩悩遮障を除去して初めて、五蘊観察を深化させ二果見道智慧を生起し二果を証得する。初果も亦、凡夫位の未到地定において五品思惑を断除し粗悪な煩悩遮障を除去した後、五蘊の苦・空・無常・無我を観行し、最初の我見断除智慧を得て初果を証得する。
此の見道基準に照らせば、娑婆世界に真の小乗見道者は果たして幾人存在するか。若し小乗に真の見道が無ければ五蘊不滅の状態であり、如何にして更に高次なる大乗見道が存在し得ようか。巷に溢れる偽見道・虚見道、自他共に認定する「果位」の実態を思えば、後世の果報を想う度に戦慄を禁じ得ない。何故未だに多数の者が恐懼を知らぬのか。愚痴の為である。棺桶を目にしても涙せず、自ら棺内に横たわる時には涙も流せず、三悪道に於いて血を流すのみである。
原文:次依修道。道類智時。建立衆聖有差別者。頌曰。至第十六心。隨三向住果名信解。見至亦由鈍利別。論曰。即前隨信隨法行者。至第十六道類智心名爲住果。不複名向。隨前三向今住三果。謂前預流向今住預流果。前一來向今住一來果。前不還向今住不還果。阿羅漢果必無初得。見道無容斷修惑故。
釈:三果向を経た後、再び修道に依って道類智が生起する時、衆聖の差別が顕現する。第十六心に修至した際、三果向の断徳に随って三果位に安住する者を「信解」と称する。随法行の「見至」も根の利鈍に応じて差別が生ずる。前述の随信行・随法行の修行者が第十六道類智心に至れば、三果の住果と名づけられ、向果の名称を捨てる。前段階の初果向・二果向・三果向に随い、現在は三果に安住する。即ち、前は不還向であったが、現在は不還果に安住する。阿羅漢果を証得する際には「向」が存在せず、最初から中間果位無く直証する。何となれば阿羅漢見道には修ずべき惑も断ずべき惑も残存せず、前三果の修行を完遂した者のみが四果阿羅漢を証得し「無学」となる。前三果は悉く有学(修学・修行・断惑を要する位)であり、第四果のみ無学(修学・修行・断惑を要せざる位)である。
第五節 四果以前に断除すべき煩悩
一、阿羅漢は慧解脱と倶解脱の二種に分かれる。慧解脱の阿羅漢は禅定が初禅のみで解脱智慧を主とし、倶解脱の阿羅漢は四禅八定或いは滅尽定を加える必要がある。阿羅漢は一切の煩悩現行を断尽せねばならず、初禅以上の禅定無くしては貪・瞋・我慢等の煩悩を断尽できない。この根拠は『瑜伽師地論』や『アビダルマ倶舎論』に明記されている。
如何なる煩悩であれ、最も粗浅な煩悩でさえ、禅定を以て初めて断除可能である。禅定無くしては如何なる煩悩も断除・降伏できず、欲界の最粗重なる五品煩悩を断除して初めて初果向となり、初果に近づく。これらは全て禅定を要し、禅定が深まる程断除する煩悩も増大する。色界禅定無くしては欲界の貪欲煩悩も瞋恚煩悩も断尽できず、三果阿那含や四果阿羅漢を証得できない。故に仏法の修証において禅定は極めて重要不可欠であり、禅定無き者は実修も実証も語れず、仏法修学は戯れに堕する。従って「禅定を修めずに証果可能」と主張する者は、一切煩悩を具足し我見を断じ得ぬ具縛凡夫であると判別される。
煩悩断除の程度に従って証果を判断できる。証果は煩悩断除と密接に関連し、禅定と不可分である。煩悩は即ち無明であり、無明を断じて初めて智慧を得て解脱する。煩悩有れば智慧無く、禅定無ければ煩悩有りて智慧無し。仏法は一環一環が有機的に連関しており、各要素が断絶し「此の法は此れ」「彼の法は彼れ」と分離する状態は、仏法が通達せず関門を突破せず、実証無きことを証明する。
二、我慢何が故に道を障げる因縁となるか
道は即ち無我なり。我慢は即ち有我なり。我と無我は相背き、無我の道を障げる。我が重き程、無我の道及び無我の観行を障げる。有我の心を以て無我を観行すれば、観じ来たって観じ往くも終に我に帰し、道を証得できず。『瑜伽師地論』に挙げられる我慢は悉く「我」を字頭とし、我有れば必ず我慢有ることを示す。我慢は我の顕現なり。故に一切の煩悩は我に因りて有り、我は即ち罪根・禍首なり。若し或る者が「我証果を得たり」「我は汝等より優る」「我は最勝なり」等の態度を示せば、直ちに此の者の我執が重く、我見を断じておらず、従って我慢の重き者は我見を断じ得ないと了知される。修道は不断に煩悩を断除する過程であり、煩悩が軽き程我見は薄く、道に近付く。三向四果は煩悩断除の程度に依って定まる。
三、倶生我見と我慢の差異
或る者は我慢と倶生我見の差異を理解せず、我慢を倶生我見と看做し「四果に至って初めて倶生我見を断ず」と主張する。この誤解は甚大で、真の我見断除を不可能ならしめる。倶生我見は意根の我見であり、二種の我見の一つである。初果時に断除すべきであり、断ぜねば初果人ではなく我見を断じた者とは言えない。我慢は意根の最深重なる煩悩であり、意根の倶生我執に属し、倶生我見に非ず。倶生我執は四果臨証前に至って初めて断じ得る。故に四果阿羅漢のみが我慢の現行煩悩を有さない。
我慢と倶生我執は我見を依処として存在する。我見を断除した後、我慢と倶生我執が漸次微薄化し最終的に断尽する。我見が断尽すれば我慢も消滅する。故に倶生我見と我慢を混同してはならず、概念を混淆すべからず。
下意識の中に「我」が存在し、思索・分析・比較を要せず自然に現れるのが我慢である。これは意根の認知であり、骨髄に染み込んだ如きもので、意根の我慢は発覚困難で抜根更に難しく、卑劣慢・高慢・過慢を含む。心に「我」有れば必ず我慢有り。衆生は悉く「我」を自覚し、或いは傲慢に、或いは卑下する。これらは全て我見を基盤とするもので、断除困難で根深く固着する。例えれば赤子が他人に抱擁されようとして不機嫌になり顔を背ける行為は、生来の我慢であり、意根に随伴して現れる。意識の比較を待たず、意識の有無に関わらず、意根は生得的に我見と我慢を有する。自己顕示を好み、目立ちたがる者の我慢は重く、過誤を指摘されれば不愉快を示す者は悉く我慢に属す。自らを優れていると考える者は皆我慢を有し、他者との比較を好む者は悉く我慢の現れである。「自我」の認知有る者は全て我慢を有す。
意根の倶生我見は根深く固着した我見であり、五蘊を我と認める心理は察知困難で極めて隠微である。故に多くの者は倶生我見を降伏・断除できず、「意識の分別我見を断ずるのみで我見を断じ初果を証得した」と主張する。然れど意根の倶生我見を断たねば、意識の分別我見を仮に断じても意根に依って不断に我見が生起し、無自覚の内に随所で顕現する。この状態は極めて厄介である。
倶生我見は意識の我見では無いため、感覚的なものではなく、意識の分別我見は表面的で分別作用を伴う。分別無き時は存在せず、意根の我見より発見・降伏が容易である。然れど降伏後も再現し断尽せず、何となれば意識の倶有依たる意根が我見を断たぬ限り、意根に随転する意識が真に我見を断ずることは不可能だからである。これにより我見が随所に現れ、常に抑制を要するも往々にして抑制不能となる。命終時は当然意根の倶生我見と煩悩に随い生死苦海を漂流し、三悪道を免れない。
三縛結を断じた初果人にも我慢が残存する。貪瞋痴が弱化した二果人でさえ依然として我慢の煩悩心所を有し、三果に至って初めて我慢を降伏、或いは一部断除するが断尽せず、四果に至って初めて断尽する。意根の倶生我執は倶生我見より断除困難であり、次第的に言えば先ず倶生我見・分別我見を断じて初果を証得し、次に両我見の観行を深化させ貪瞋痴を弱化させて二果を証得し、更に両我見の観行を深化させ初禅定を修得し煩悩を断除して三果を証得する。意根の倶生我見を徹底断尽すれば倶生我執も断尽し、我慢が消滅して四果阿羅漢を証得する。
四、無明を破り煩悩を断ずることが真の修行である
十二因縁中の無明・行・識・名色の前四支は、名色の出生が即ち生死輪廻の苦の継続を示す。而して生死流転の苦は完全に無明に因る。無明は愚痴であり、愚痴有れば愚痴の業行が生じ、六識に不断に貪瞋痴煩悩の身口意行を造作させ、悪業の種子を蓄積し、此れより生死の苦が相続不断となる。従って修行は無明煩悩を破砕すべきであり、無明が破られれば智慧を得る。
無明と智慧は対立関係にあり、秤の両端が高低を揃える時と同様、智慧有る時は煩悩無く、煩悩悪業を造作せず、煩悩有る時は心中に無明の存在を顕す。如何なる煩悩の造作も無明有りて智慧無きが故であり、智慧有れば如何なる煩悩業も造作せず。一旦或る者が煩悩業を造作し、不如法の身口意行を為せば、此の者の無明未破・智慧未生を証明し、生死の苦を断絶できぬ。
学仏成就の指標は無明を破り、煩悩を断じ、智慧を増すことに在り、理論知識の多寡に非ず。理論知識を学ぶ最終目的は無明を破砕し煩悩を断除するに在り、此の宗旨を離れれば法を学ぶ意義は失われる。生死の苦を了脱せんと欲すれば、悪を断じ善を修め、善道に向かい解脱を得、悪を為せば悪道に堕ち生死の苦を受く。若し無明を破らず煩悩を断たねば、如何に仏法知識を学ぼうとも生死苦の解脱に資せず。故に多量の理論知識を掌握することは修行の方向に非ず、無明を破り煩悩を断じ智慧を増すことこそが正道である。