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五蘊の観行による我見の断ち(第二部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-03-02 閲覧回数: 2829

第三章 如何具体に五蘊を観行するか

一、観行五蘊は識心の観行を主とする

五蘊十八界の空・無我を観行するには、五根および五根に対応する五塵を観行するだけでなく、六識と意根、六七識に対応する法塵をも観行しなければならない。実際、五塵に対しても意根は対応しており、五塵が現れても意根が興味を持たなければ、五識が生起して五塵を了別することはなく、六識は五塵境と法塵境の存在を知ることができない。六識の生起はすべて意根が主導権を握っており、六識が生起する目的は五塵と法塵を了別・処理するためである。したがって意根は法塵に対応するだけでなく、五塵にも対応している。六識が存在しない状況、あるいは六識が了別する力を持たない状況では、すべて意根が単独でこれらの法を観照し攀縁している。例えば身根の状況は、意根が時処を超えて如来蔵に随って了知し続けており、身体のすべての状況を、時に意識・五識に知らせ、時に六識に知らせない。たとえ意識に知らせる場合でも、意識はその理由を理解できない。

五蘊を観行する核心は、やはり識心の無我性を観行することにある。五蘊の主体は識心であり、最も「我」と錯覚されやすい。五根と六塵は「我所」と錯覚されやすいが、「我所」の無我性は比較的認識しやすく、識心の「我」は最も看破しにくい。識心も法の一種であり、如来蔵の中で生滅を繰り返し、しかも刹那的に生滅している。これらの法は真諦の立場から見れば生滅がなく、すべて如来蔵性であるが、世俗法の立場から見れば、如来蔵を除く一切の法は生滅し、現象は絶えず変化し、有と無が対立し合っている。変化するのは識心の刹那生滅だけでなく、識種子が出力して滅し回帰する過程における念々の浮動、さらに塵境も刹那的に変化し、四大種子が出力滅回しながら色法が生滅変異している。

禅定が比較的深まると、五蘊十八界の法は心中で次第に独立し、相互の密着度が緩む。独立すれば各個撃破が容易だが、密着していると複雑化し、より真実らしく見えて虚妄・無我性が見えにくくなる。禅定状態では識心の活動が緩慢で微細になり、法への執着が軽微となるため、遮障が小さくなり事物の本質が識心に認識されやすくなる。したがって禅定には事実真相を澄明し、識心の了別性・認知性を客観公正にし、智慧を開きやすくするなど極めて多くの利点がある。仏道を学ぶ者が禅定を修めないのは実に惜しい。仏語を信じ、戒定慧を具足してこそ良き仏弟子と言える。

二、如何に無我の観行を深めるか

五蘊を観行する際、深い禅定があれば思惟は極めて深細となり、法義の中へひたすら深入りし、層を重ねて法義の謎を解き明かすことができる。観行思惟を行う時は、緩やかに、細やかに、深く、自己の身口意と現在の状態を照らし合わせながら、可能な限り広範な範囲で探究・観行し、五蘊が我ならざることを識知しなければならない。色蘊がなぜ我でないか、受想行識蘊がなぜ我でないかを探究し、思考する際は常に「なぜ」という問いを追加し、この疑問を解決するため深く細やかに思惟を巡らす必要がある。形式的な理解や表面的な納得に留まり、真に内心に落とし込まれていない場合、全ての理論的知識は空虚となり、根本問題や実際問題を解決できない。

如何にして観行思惟を行うべきか。例えば「色身は我に非ず」を観行する場合、「非我」という結論は釈尊のものであり、我々自身の結論ではない。従ってこの結論は我々と無関係であり、観行後に自ら真にこの結論に到達して初めて、それが自己の智慧の結晶となり、解脱の功徳を享受できる。釈尊の結論は単なる手掛かりであり、自己の智慧を啓発するための参考として機能する。我々はこの結論を逆方向に辿り観行思惟できる:なぜ色身は我でないのか?色身は空であるから。なぜ色身は空なのか?色身は苦であるから。なぜ色身は苦なのか?これが最初の観行着手点であり、緩やかに思惟を重ね様々な根拠を探求する必要がある。最終的に「色身は確かに我ではない」との結論に至り、これをもって身見・我見を断じる。

各人が観行後に得る智慧や証得する果位は必ずしも同一ではない。因縁が異なり、観行に差異があり、身見を断除する程度が異なるため、どの程度を証得しどの段階まで修行したかによる。仮に初果を証する場合でも層別があり、身心の受用と転変の程度も一様でない。例えば同学年の児童でも学力に差があるように、証果は卒業に相当するため卒業時の水準も人により異なり、早期卒業者と遅滞卒業者が存在する。各修行者が参究する法の範囲・角度・深度が異なり、思惟力に差があれば証法の智慧に差異が生じる。智慧が異なれば煩悩の消除と行為転変の程度も異なる。思惟が深細であればあるほど定力は向上し、定力が向上すれば思惟は更に深細となり、証得の程度は深化し究竟へ近づき、心行の転変は徹底化する。

三、色身が我に非ざる観行の着手点

衆生は普遍的に色身を我・我所とし、外界の生存環境をも自己の所有物と見做す。もし色身が我・我所に非ずと観行思惟しようとするならば、まず生存環境である六塵境界が我・我所に非ずと観行思惟し、その基盤の上で色身の非我観行を行う方が容易となる。

なぜこのように言えるのか。外界の六塵は色身と同様、如来蔵中の地水火風空の五大種子によって構成され、性質を同じくする。さらに外界六塵は色身より自心からやや隔たりがあり、執着思惟が軽微であるため着手しやすい。仏は外界六塵を我々の「外身」と説き、また「外界」と呼び、色身を「内界」「内身」とされる。内外は相補的・相通的関係にある。六塵の非我・非我所を確認するのは比較的容易であり、色身も六塵と同一道理である。これにより自心と色身の間に距離を生じさせ、若干の分離を可能にすれば、色身の非我・非我所観行の確認が容易となる。

世俗界において色身を研究する学問を医学と呼ぶ。中医学でも色身の構造を山河大地と類似・相同・類同するものと説き、身体治療において色身を神秘化・特殊視せず、山河大地を治める如く、生存環境を整えるように扱う。この中医学的見解は極めて科学的で仏法に近く、観行の着手点を見出す上で大きな示唆を与え、修得速度を向上させる。

世俗法に「流水腐らず戸枢蠹せず」と説かれる。色身も同様で、身体が閉塞すれば悪臭を放ち、腐敗して腫瘍や癌細胞が発生する。器世間において四大が調和を失えば河川決壊・地震津波・火災風害が頻発し、滄海が桑田に、桑田が滄海に変ずる。色身もまた然り、四大不調により気虚血虚・風寒・上火・泄瀉・腫瘍癌症などが発生する。楞厳経に登場する諸聖人も、外界の地水火風を観行した後、自らの地水火風を反照し、種々の三昧を証得して成就を遂げた。したがって六塵境界の観行を着手点とすることは、色身観行への近道と言える。

四、色身を見破り解脱を得る

人体解剖図を観察すれば、人体の動作が筋肉の伸縮によって形成され、機械的であり、真実の「我」が動作しているのではないことが分かる。人体は意根が使用する工具に過ぎず、超高精密・全自動の機械装置であり真実ではない。実は全て如来蔵によってプログラムされたものである。この神経元システムを見れば、正負極の電線の塊であり、絡み合った縄の塊に過ぎない。そこから想蘊と受蘊が引き出され、行蘊と識蘊が形成される。このように分解組み立て可能な肉体とは一体何か?我なのか?これを我と見做せるのか?実は何物でもなく、全く我ではなく、私の所有物でもない。数十年から百年程度使用し、駄目になれば新たに良いものと交換すればよい。我々はこれを見破り、心中の重荷を取り除き、軽安自在に解脱し、煩悩無き境地に至るべきである。

この色身は使用するだけで十分であり、執着する必要はない。色身全体、六識の機能作用を含め、全て固定プログラムを有する。如来蔵が設計・編成し、意根が使用する。もし誰かに頬を叩かれ、拳を喰らっても諦めるがよい。あなたを打つことはできず、打たれるのもあなたではない。無理難題を押し付けられても諦めるがよい。あなたを侵害できず、傷つけられるのもあなたではない。世間はそのままに任せ、善悪に拘る必要はない。真実ではないものに固執する必要があろうか?あなたが私を恨み、私が彼を憎む。あなたが私を嫌悪し、私が彼を疎む。これら煩悩は全く道理がなく無意味である。微生物間の争いから国家間の戦争、世界大戦に至るまで、際限なく争うが、全く道理がなく、誰も倒せず、生じては滅し、滅しては生じ、生も死も存在しない。仮に世界が数百万年消滅しても、単に絡み合った縄の塊が消えたに過ぎない。

釈迦仏の親族数百名が瑠璃王に殺害された際、阿難は失心して慟哭したが、仏陀は平常通り静寂を保ち、怒りも恨みも抱かなかった。なぜ仏陀はこれほど達観できたのか?一切に真人真事が存在せず、幻化した空なるが故に、仏陀は解脱し、阿難は解脱せず苦悩したのである。

五、如何に我見の落着点を観察するか

自己の我見の落着点を探求するには、自身の貪求を観察する方法がある。過剰な需要は貪りとなり、不合理な需要は貪りとなり、求めるべきでないものを求めることが貪りとなる。なぜこれほど多くの求があるのか?心中に我が存在し、色身を我と見做し、受陰を我と見做し、想陰を我と見做し、行陰を我と見做すため、五陰のために貪求するからである。もし心中に我がなければ少欲知足となり、適度に止まり、過剰に探し求めず、ましてや不如法な手段や不合理な方法、他者を害する方法で自己の利益を追求することはない。

心中に我なき者は心思を費やして求めず、手段を選ばず求めることもなく、縁に随って生きる。我なき者は何事も他者の立場に立ち問題を処理し、他者の利益を考慮し、他者の感情を配慮する。ただしこの配慮は必ずしも他者の無理な要求に従順であることを意味せず、他者の長遠的・究竟的利益を出発点とするため、その用心と行為が必ずしも他者の理解と同意を得られるわけではない。

心中に我ある者、我見の重き者は必然的に我執も重く、人と接し事を為すに当たり自心を出発点とし、自我を重んじ、自己の観念・見解を基準とし、他者の意見や見解を求めず、他者の感情を考慮せず、往々にして自己の習気に従い事を成してから報告し、先斬後奏し、他者の利益を侵害するか否かを顧みない。もし他者が自己に従わなければ激怒し、報復手段を講じて自我の利益を奪回し、心中の怨みを晴らし、結果を考慮しない。このように自他との闘争過程において、自己が勝利する度に無我修証の道から後退し、生死の苦の坑へ一歩踏み込み、現世後世の苦難を加重させる。

善く観察することは修行において極めて重要な要素である。善く観察すれば全ての事柄における真の利害得失を秤量でき、長遠的利益は常に現前の利益より重要であり、長期的効果は短期的効果を遥かに凌駕する。我見の重き者は目先しか見えず、眼前の微細な利益に目を曇らせる。これが所謂「業障」である。何を以て業障と為すか?過去世の無明業因が自己の我見・我執を増長し、智慧の発現を阻害し、事の真相を見極められず、自己の真の利益を知らず、無益な事を極大の利益と見做して追求し、結果として道理に背き、得る所少なく失う所多い。

衆生は「無明」という用語を比較的婉曲と感じ、「愚痴」という用語を粗俗と感じるが、実は両語は同一の意味である。仏陀は「愚痴」という語を用いて衆生の心性を表現しており、既に極めて穏やかな表現と言える。仏陀が時に弟子に向かって「咄!痴人!」と叱咤することもある。実際、如何なる言語を用いようとも衆生の痴と愚を完全に表現し尽くせず、何を説いても十分に伝わらず、何を語っても衆生は無反応であるため、沈黙せざるを得ない。仮に須弥山を梃子として用いても、衆生心中の痴・愚・鈍を動かし得ないのである。

六、如何にして塵消を成し得るか

塵の生滅変異性・不実在性・虚仮性・空性を証得した後、心は塵に対し空じ浄まり、見解が転換し、知見が転換し、正見を具足する。心中に塵無く、塵を見て塵に非ずと了知し、塵三昧を獲得し、塵三昧の中に住する。しかし塵は消滅せず、仮相は依然存在する。ただそれに対する一切の認知が転換し、迷わず、顛倒せず、執取しないのみである。

塵は心が了別する相であり、色相と心相、及び非色非心相を含む。心は根であり、法は塵である。この両者は鏡に付した痕の如し。禅定が無いため、法を学ぶ際に理は理、事は事であり、永遠に別次元の事柄となる。一旦事に遭遇すれば、理は後頭部へ逃げ去り、事に嵌められる。このような学法では、いつまで経っても解脱できないのか?

七、如何に速やかに我見を断除するか

我見を断じて初果乃至四果を証得できるか否かは、当人の身見・我見が軽微か深刻かによる。身見の軽微な者は色身の状態を気に掛けず、色身に特別な手入れをせず、色身の安危に執着せず、恐怖感が稀薄である。このような者は色身と五蘊に執着しないため、我見を断じて聖果を証得しやすい。色身五蘊を気に掛けないため心中の障碍が少なく、禅定を得やすく、五蘊観行を深め続け、観行が功を奏し、我見断除が容易となる。

過去の修行者は善根福徳が深厚で、物質生活が未発達の世間に生きながら物欲に支配されず、欲望少なく、享楽や娯楽を貪らず、無駄に福報を消耗しなかった。そのため道業に専心して不断に進歩できた。現代人は異なり、享楽と快適な生活を貪り、心が様々な欲望に覆われ、業障が消えないばかりか増長さえし、道業の進歩が極めて困難である。

過去の阿羅漢は頭陀行を実践できた。身見我見が無く我執を断じ、自我の安危への恐怖心が無く、色身を取り巻く環境に拘らず、ただ各種心行を滅して無余涅槃を証得しようとした。現代人は色身を過度に気遣い、栄養・保養・養生に努めるが、業障の故に色身を良好に保つ者も稀で、却って身見を増長させ、修行上の突破が難しい。色身への微細な配慮は結局得る所少なく失う所大であり、軽重を見極められない。これらは現代生活環境の影響と善根福徳の不足により、盲目に福徳を消耗しているためである。

故に速やかに我見我執を断除せんとするなら、常に自己の色身五蘊を気に掛けず、過度に自己を保護せず、自己と生活環境を淡泊に見なし、心を道業に集中すべきである。同時に無駄に福徳を消耗しないよう注意し、福徳は修道に極めて重要である。仮に諸大菩薩の福徳を有しても安易に消耗せず、福徳を点滴積み重ねてこそ、最終的に仏の福徳を成就できる。

八、自己が我見を断じた状態にあるかどうかを如実に判断する

問:次第に五陰の無常・苦・非我を観察し、受想行識において再び我見・我所見を起さなくなった後、さらにどのように増上できるか?次の方向性は何か?あるいはこの作為無き寂静の状態を暫く保てば、自動的に「生は尽き、所作は成し、後に有を受けず」を自証できるのか?実践過程において、定から出て短時間(一、二時間)経つと、猿の心が再び戻り、執着と作為を欲する。この循環反復から判断すると、何処かで仏陀の教法と完全に接続できていない可能性がある。

答:「自ら証せり、我が生は尽き、所作は成し、後に有を受けず」は四果の大阿羅漢の境地である。我々はこれを考えず、まず初果を確実に真実のものとして獲得してから後の段階を論ずべきである。初果でさえ、前世で我見を断じたことのない者にとっては既に極めて困難である。

五受陰の苦・空・無常・無我を観察する際、真に五受陰が苦・空・無常・無我であると認めているか否かを正しく判断することが極めて重要であり、最も肝要な点である。自己が無我と認めることが即ち無我ではない。観行思惟時には心が清浄に見え、定から出て観行しない時には心中に依然として我が存在し、心が清浄でないならば、真に我見を断じておらず、真の無我に至っていない。その場合は再び観行を続け、工夫を重ねるべきである。

九、自心を反照する

他者から賞賛・称賛されると心中で快感を覚えるのは何の心か?非難・諷刺されると瞋恚を生じるのは何の心か?自己と無関係の人事物には無関心なのは何の心か?自己と密接に関わる人事物に特別な関心を抱くのは何の心か?これらの心は如何にして生起し、如何に変化し、如何に滅するか?この時の心は五蘊中のどの蘊によって引き起こされるか?この五蘊はあなたか?各人は皆この心に執着し、この受覚に執着しているか?

十、苦集の方便断と究竟断

四聖諦の修行順序は、苦を知り、集を断ち、滅を慕い、道を修める。あるいは苦を知り、滅を慕い、道を修め、集を断つ。集を断つことは方便断集と根本断集に分かれる。方便断とは禅定が無く証果していない段階で、意識が自らを抑圧して悪業を造らず、少なく造ること。根本断集は究竟断であり、煩悩を断除した後、意根が悪業を造作する考えと動力を持たず、意識の抑圧を必要とせず、自動的に悪業を造らなくなる。これにより旧悪業の種子は消滅し、新悪業の種子が集積せず、後世に苦が無くなる。

苦は如何にして生じるか?生命の最初期には五蘊世間も苦も存在しない。意根が無明により外境に攀縁し、知ろうとするため、如来蔵が世界を出生し、続いて五蘊身を出生する。五蘊が世間に住するに当たり、意根の無明により不如理な悪業を造作し、業種が集積するため後世の苦報が生じる。仏教を学び修行するに至り、不断に苦諦を思考し、苦の根源が前世に集積した悪業であることを了知する。これにより苦を断つ方法を考え始め、道を修めて悪業行を集積せず、無我を証得した後、無明煩悩を断除し、漸く苦を滅する。

十一、観行の工夫不足により観念を転換できない

問:観行において意識が非我であることを観察する際、どうしても証拠を見出せません。あなたは「意識が一つの法塵を了別した後に消滅し、別の法塵上で再び運行する」と説かれます。しかし私にはこの「知る」意識心が依然として我と感じられます。絶えず変化しているとはいえ、この「知る」性質は変わらず、困惑しています。

答:これは未だ如実に観察できておらず、観行の工夫が不足しているため認識が不十分で、観念を転換できない状態である。四聖諦中の苦諦:苦・空・無常・無我について、仏が苦諦を説く順序に注意せよ。無常・空・苦・無我は一環一環が次第につながっている。観行時はこの順序に従い、完全に第一を観行した時、第二の結論を導出し、第二を観行した時は第三の結論を導出し、第三を観行した時は第四の結論を導出すべきである。これが達成されない場合、障碍と抵抗が生じる。何の障碍か?無始劫以来の固着した思想観念が自己を障碍し、従前の観念を転換できず、新たな観念と認識を形成できない状態である。例えば「無常の法は空であり得難く把捉できない」と知りつつも、無常のみを理解し空の思想に入れなければ、観行は停滞し進行不能となる。

仮に空の段階を完全に観行できても「空なるものは苦である」との思想観念を形成できない場合、障碍が生じ観行が停滞する。五蘊が全て苦であると観行できても「苦の根源は我に非ず」との結論に至らなければ、最終的な瓶頸に直面する。如何にしてこの瓶頸を突破するか?或いは如何にして各瓶頸を突破し、従前の誤った思想観念を転換するか?深く深く思惟する必要がある。この過程において持戒・禅定・如理思惟及び福徳・願力が極めて重要であり、これらの修持を重視すべきである。

十二、我見を断ずることは色身を変化させることではない

我見を断ずることは五蘊の不実在性・空性・無我性を観行するのであり、身体を何らかの形状に変えたり、欠損させたりして色身の無我を確認するものではない。身体の変化は禅定の力に依るもので、我見を断たずとも禅定を修めるだけで色身を変化させ得る。身体が麻痺・障害を負った者でも依然として我見が深重ではないか?もし観行によって色身を黄金に変え得たとしても、却って我見が増長する可能性がある。核心は思想的認識にあり、現量において色身が虚偽・空・不実在であることを認知し、思想を転換することで身体を変化させる必要はない。障害者を観想してはならない。万が一禅定力が増強され実際に身体に異常が生じれば、破綻するではないか?身体が組み合わされたものと観ずるだけで十分である。

十三、我見を断ずる最も肝要な点は観念の転換にある

我見を断ずるにはまず旧来の思想観念を転換し、新たな思想観念を確立し、新たな認知体系を構築しなければならない。無常の現象に対する明晰な認知を持ち、五蘊世間の無常・生滅変異を充分に清醒に認識し、生滅変異する法を空・無我として確立する必要がある。しかしこのような思想観念の確立は極めて困難である。現象は観察しやすいが観念は転換し難く、正しく如理なる観念の樹立は世間法の無常を観行するよりも数段困難である。無常は実際観察しやすいが、有に慣習化されているため空と確認することが難しく、空を知りつつも無我と確認できないのは、旧来の「我」の観念が突破し難いからである。

これには意図的な観念転換の訓練が必要である。如何に訓練するか?例えば玩具の自動車を分解・組み立てし、その中に真実の玩具自動車が存在するか観察する。鉄板の集合体が玩具自動車と言えるか?玩具自動車という実体が存在するか?玩具自動車は因縁所生の法であり、自主性がなく生住異滅し、生滅変異し、本来空であり我の性質を持たない。プラスチックの人形を分解・組み立てし、人形を形成する因縁性、人形自体の生滅変異・無常性・空性を観察することもできる。反復実験と観察を通じて漸次「有」の観念を打破し、「空」の観念を樹立し、新たな観念認知を形成することで、初めて我見を断じやすくなる。

十四、如何に気息を観じて身見を断ずるか

問:修定時に常に気の動きによって深定に入れません。気の観行から突破して身見を断つことは可能ですか?

答:深定に入れないならば、観行も深く継続できず、如何なる法を観行しても同様である。しかし観行が一心不乱かつ連続不断に達成できれば、禅定は漸次深まり、定と慧、止と観が相互に関連し促進し合う。気を観ずるとは気息を観ずることであり、気息は呼吸にも関わるため、四念処の観行範疇に属する。五蘊中の任意の法を着手点として観行すれば、身見を断つことができる。肝要は未到地定を有することである。

体内の種々の気は物質的色法である。気の生住異滅・苦空無常無我を観行できても、色蘊の我見を断ずるのみで、識心の我見は未だ断じ得ない。しかし体内の気を明晰に観行することも極めて良く、点をもって面を帯び、全身の色法を観行し明らかにし、その来龍去脈を知り、生滅変異無常を証得できれば、色身我見を断ずるだけでも相当に優れており、煩悩が軽減された後、識心の苦集滅道を観行しやすくなる。

如何にして気を観行し身見を断ずるか?俗に「一息継がねば気絶し身滅び、陰陽隔絶す」と言う。気は色身に対しこのように重要である。気は体内で酸素を運搬し、血液循環を促進し、気血が合わさって色身生存に必要な養分となる。気血の潤い無くして色身必ず滅ぶ。気は四大種子によって構成される色法であり、風大を主とするため、流動性と浮動性を有し、全身を巡行する。一旦某所で閉塞すればその部位に病障が現れる。気が四大で構成される色法であるならば、生滅変異の無常法であり、気の無常性・変異性・空性を観行すれば、即ち苦性を知り、苦性即ち我にも非ず我所にも非ずと了知する。気が非我ならば、気によって支えられる色身も同様に生滅変異無常、苦空無我である。気という角度から観行しても、身見を断ずることが可能である。

十五、空は看護できるか?

問:座禅中に自己を空じ、「空」を見守ることに専念することは可能か?

答:自己を空じようとするなら、まず何が自己かを知らねばならない。空じる心が自己であり、空じられる法が自己である。自己が空じられたなら、空じる心も空じられる法も存在しない。そうなれば既に自己を空じた後、如何にして空を見守るのか?空を見守る必要があるのか?空を見守る「看」が存在する時点で既に空でなく、能看と所看が共存しているため空ではない。あなたが見ているその空もまた有であり、これは頭の上に頭を乗せるようなものである。

座禅中に自己を空じた際、この状態を持続しようと念じれば、既に空ではない。空境に住すること、或いは空心静座することは純粋な禅定に過ぎず、無我の智慧を生じさせない。定中に観を起こして初めて観慧が生じる。これは六祖壇経で六祖が明確に批判した点であり、経典を読む時は理解できても実践時には混乱する。定中に法義を観照せず、観行せず、疑情が無ければ智慧は生じない。例えば念仏三昧であっても、定が如何に深くても疑情・観行・参究が無ければ、如何にして智慧を生じ我見を断じ、或いは明心できるのか?

観行とは何か?世俗法において、ある種の人や事柄を多く経験すれば、徐々に見透かし、以後気に掛けなくなる。観行も同様で、多く観れば見透かせる。見透かすとはどういう意味か?人と長期接触すればその人物を見極め、取捨選択し、交際継続を決断する。自己を観察するのも同様で、五蘊身心を不断に観行すれば、時を経て五蘊を見透かす。道理は同じである。智慧優れた者は早く見透かし、智慧甚だ劣る者は後世に至って見透かす。しかしこの基礎は必ず築き、工夫は必ず行わねばならない。

十六、心空無為と有為不空

仏道を学ぶ修行者は人群の中でも独処においても、自己の存在感を弱め、過度に自己を気に掛けず、自己を特別視せず、強がらず、何事も第一を求めないべきである。自己は真実存在せず、相手も真実存在せず、群体も真実存在せず、第一第二も無く、最良最悪も無く、全ては仮構の名相に過ぎない。もし人が常に「全ての人に勝ちたい」「必ず全ての人より優れ強くなりたい」「目立ちたい」「注目を集めたい」と考えるなら、我性が極めて強く、無為に相応せず、聖人の心に相応せず、我見を断じて聖賢となるのは困難である。

聖人の心は空無為であり、このような心性を持たない。自己を突出させようとすればするほど心性は人後に堕し、聖人はこれと逆で、自我存在感が無く、有為の事を行いながら心は無為である。ただひたすら大衆のために尽くす者のみが聖人となる資格を有する。

十七、虚相仮相にも虚仮の用あり

真空とは如来蔵を指す。真実であり性空であり、その心体には一法も無いが一切の法を顕現できる。妙有とは五蘊十八界の法の相が有りながら実質は無く、全て如来蔵が顕現した虚妄の法である。虚妄の法は虚妄ながらも存在しないとは言えない。衆生が秒単位で五蘊を用い食事・着衣・歩行し、五蘊で生活し、虚妄の十八界に生きているためである。見るは仮色、聞くは仮声、嗅ぐは仮香、味わうは仮味、覚るは仮触、識るは仮法である。見聞嗅味触識は全て五蘊の作用であるため、五蘊の表面的存在現象を否定できない。

五蘊は真実の存在ではないが、虚妄的存在という方式を有する。衆生が日々五蘊を用いているにも拘わらず、五蘊が存在しないと言う。心中で真に五蘊が虚妄であると認め得た時、それが即ち我見を断じた状態である。衆生が皆この境地に至らんことを願う。もし五蘊の虚相さえも存在しないと否定すれば、我見を断じ得ない。五蘊十八界を観行できなければ五蘊十八界の虚妄不実性を見極められず、全ての無明煩悩を消除できないからである。

十八、一切法は皆仮名である

例えば国家の場合、単独の一人は国とは呼ばれない。単独の人間が国でないなら、多人も国ではなく、十億人も国ではない。国は何処に存在するか?仮名である!故に一切法は皆仮名であり、実体無く、真如を除く。同様に、頭一つで人とは呼ばれず、腕一本で人とは呼ばれず、脚一本で人とは呼ばれず、組み合わされても人とは呼ばれない。何を以て人と為すか?人無し!これ仮名であり、実体無し!一切法は皆仮名であり、実体無く、真如を除く。

何を以て某某なる其人と為すか?某某なる其人無し。頭脳髄も某某なる其人でなく、腕脚も某某なる其人でなく、思想覚知観念受覚も某某なる其人でない。集合しても更に某某なる其人でないが、この法を離れて某某なる其人を見ることはできない。もし某某なる其人を罵る者がいても、某某なる其人に罵り届くか?届かぬ!もし某某なる其人を打つ者がいても、某某なる其人に打ち届くか?これまた届かぬ!某某なる其人空なり、打罵皆空なり!其人其事無し。

十九、五蘊は何故仮相か?

問:何故尊貴なる五蘊と卑賤なる五蘊が共に仮相と言えるのか?又心経に「諸法は皆空相にして生滅無し」と説かれるのは何故か?

答:例えば子供が積木で家を組み立てては壊し、再び組み立てては壊すことを反復する場合、家は無から有となり、有から無となる。生じては滅し、滅しては生じる。故に家は虚幻の仮相・空相である。しかし積木自体は常に存在し毀損せず、積木が存在し子供が飽きずに組み立てる限り、家は不断に出現し存在する。故に家は常に存在する空相であり、生滅無し。

同様に、五蘊は七大種子によって構成される。因縁具足時、七大種子が五蘊を構築し、因縁消散時には五蘊は分散して原始の七大種子状態に戻る。因縁再び具足すれば七大種子は再び五蘊を構築する。このように五蘊は因縁業力に従い不断に生滅する。七大種子が福ある業種と因縁に依って構築した尊貴なる五蘊も、福無き業種と因縁に依る卑賤なる五蘊も、共に仮相・幻化相であり空相である。

五蘊が滅しても七大種子は残存する。この七大種子が因縁再び具足すれば再度五蘊を構築し、反復して五蘊を出生し続ける。七大種子に依って五蘊は永遠に出生し、断絶無く存在し続ける。この観点からすれば、空相なる五蘊は生滅無く、衆生は永遠に流転する。七大種子と業種と因縁が存在する限り、五蘊を如何にすることもできない。

二十、如何に正しく識陰を認識するか(一)

『持世経』原文:佛告持世,何謂菩薩摩訶薩正觀察選擇識隂。菩薩摩訶薩觀非隂是識隂。顛倒隂是識隂。虛妄隂是識隂。何以故。持世。是識隂從顛倒起。虛妄緣所系。從先業有。現在緣所系。屬衆因緣。虛妄無所有。

釈:仏は持世菩薩に言われた。何を菩薩摩訶薩が正しく識陰を観察認識することとするか。菩薩摩訶薩は識陰と呼ばれる陰など存在しないことを観じ、識陰は無所有である。顛倒陰が識陰であり、虚妄陰が識陰である。何故か。持世よ。識陰は顛倒心から生じ、虚妄の業縁に縛られ、過去世の業から生じ、現在の業縁に属する。識陰が衆多の因縁和合により出生する以上、識陰は虚妄無所有で空である。

識陰の粗相の虚妄を証得することは無生忍であり、極細相の虚妄を証得することは無生法忍である。本来法無く、法無き中で因縁力により強いて識陰を建立する。識陰は虚妄幻化にして所有無し。この理の存在を容忍することが無生忍または無生法忍である。

原文:憶想分別起。從識而生。有所識故。名之爲識。從憶想分別覺觀生。假借而有。有所識故。數名爲識。以識諸物故。以起心業故。以思惟故。衆緣生相故。起種種思惟故。數名識隂。從有所識。有識像出。示心業故。攝思惟故。數名識隂。

釈:識陰は意根の憶想分別より生起し、阿頼耶識より生起する。識陰に識別の機能有るが故に識陰と称す。識陰は意根の憶想分別の覚観より出生し、衆多の因縁を仮借して有り、識別の機能作用有るが故に五蘊数に堕ち、識陰と名づく。識陰が諸法を識別し得るが故に、心の業行を生起し得るが故に、思惟を起し得るが故に、衆多の因縁和合相有るが故に、種種の思惟を起し得るが故に、五蘊数に堕ち識陰と名づく。

原文:或名爲心。或名爲意。或名爲識。皆是意業分別故。識隂所攝。識相識行識性示故。數名識隂。如是非隂是識隂,不生不起不作,但以顛倒相應緣。虛妄識故,數名識隂。

釈:識陰は或いは心と名付けられ、或いは意と名付けられ、或いは識と名付けられる。これらは皆意業の分別に属し、識陰に摂せられる。識の相貌・識の運行・識の性質が示現するが故に、五蘊数に堕ち識陰と名付けられる。この如く本来陰入無きものを識陰と為し、識陰は実は本より出生せず、起用せず、如何なる機能作用も無い。しかし顛倒相応の業縁により虚妄に諸法を識別するため、五蘊数に堕ち識陰と名付けられる。

原文:何以故。是識隂從衆因緣生。無自性。次第相續生。念念生滅。是識緣不生隂相。何以故。是識隂生相不可得。決定相亦不可得。生相不可得故。決定相不可得故。根本無所有故。自相無故。牢堅不可得故。

釈:何故かと言うに、識陰は衆多の因縁和合より生じるため、自性が無い。次第に相続して生じ、念念に生滅する。この識の縁は陰相を生ぜず。何故か。識陰の生相は不可得であり、決定相も不可得である。生相不可得の故に、決定相不可得の故に、根本的に所有無く、自相無く、堅固なる相も不可得である。

二十一、如何に正しく識陰を認識するか(二)

『持世経』原文:智者正觀察選擇通達。非隂是識隂。凡夫於非識隂生識隂相,以覺觀分別憶想。顛倒相應。虛妄所縛。強名爲識隂。貪著是識隂。依止所識。依止識種種示思惟故。生起識隂。是人種種分別。貪著内識。貪著外識。貪著内外識。貪著遠識。貪著近識。以識相故。分別起識隂。

釈:智者は正しく観察・選択・通達すべきである。所謂る識陰は本来陰入の自体的性相が無く、識陰無きに仮名して識陰と為す。然るに凡夫は識陰に非ざる法に対して識陰の相貌を生じ、自らの覚観・憶想・分別を用い、顛倒心と相応し、虚妄相に縛られ、強いて識陰と名づく。凡夫は虚妄相を識陰として貪着し、虚妄の識別性に依止し、識陰に依止し、種々の識陰の思惟機能性を示現し、識陰相を生起する。

凡夫は種々分別し、身内塵を識別する内識に貪着し、身外塵を識別する外識に貪着し、内外識に貪着し、過去未来の遠き識に貪着し、現在眼前の近き識に貪着す。虚妄に識心の相貌を了別し、虚妄の識心相貌を了別する故に、これらの虚妄の相貌を執って識陰と為す。

原文:是人以憶想分別。若心若意若識。假借強名是心是意是識。如是知種種心相生。是凡夫貪著識隂。爲識隂所縛。心意識合故。起種種識隂。分別虛妄事故。以一相故。以決定相故。能得是心是意是識。能得分別愛著。

釈:凡夫は憶想分別を根拠とし、これが心、これが意、これが識と説く。識心の相貌を仮借し、強いて心・意・識と名づける。このように分別した後、心中に識心の種々の相貌を生起する。凡夫は識陰に貪着するが故に識陰に縛られ、心・意・識が和合する故に識陰を顕現し、心中に識陰の相貌を生起する。識陰が虚妄に種々の事相を分別し得るが故に、虚妄に識陰の和合相を見るが故に、心中で識陰に相貌が決定されるが故に、凡夫は是れ心・是れ意・是れ識と執り、分別と貪着を加える。

原文:是人依止識隂。深貪識故。亦得過去識隂。貪著念有。亦得未來識隂。貪著念有。亦得現在識隂。貪著念有。諸凡夫於見聞覺知法中。計得識隂。貪著念有。是人貪著見聞覺知法。爲識隂所縛。貴其所知。以心意識合系故。馳走往來。所謂從此世至彼世。從彼世至此世。皆識隂所縛故。不能如實知識隂。

釈:凡夫は識陰に依止し、識陰を深く貪着するが故に、過去の識陰を執り、識陰を貪着して実有と念じ、未来の識陰を執り、識陰を貪着して確実存在と認め、現在の識陰を執着する。

識陰を実有法として貪着する故に、諸凡夫は一切の見聞覚知の法において、識陰の機能作用として計着執着する。識陰を有として貪着計着する故に、凡夫は見聞覚知の法に貪着し、識陰に縛られ、能知能覚の法を宝愛珍重する。心・意・識の三者が和合し共同して其の心を係縛するが故に、凡夫は六道において不断に生死輪廻し、生来死去し、此の世から後世へ、前世から此の世へ往来する。全て識陰に係縛されるが故に、識陰を如実に了知し看破することができない。

二十二、如何に正しく識陰を認識するか(三)

『持世経』原文:識隂虛妄不實。顛倒相應。因見聞覺知法起。此中無有實識者。若不能如是實觀。或起善識。或起不善識。或起善不善識。是人常隨識行。不知識所生處。不知識如實相。

釈:識陰は虚妄であり、実有の法ではない。妄見の法であり、無中に有を見る顛倒心と相応し、能見能聞能覚能知の法によって生起する。所謂る見聞覚知の中に、実在の識心が存在して見聞覚知しているのではない。もしこのように如実に識陰を観察しなければ、善法を造作する識陰、不善法を造作する識陰、或いは善不善法を造作する識陰が生起する。このような者の心は常に識陰に随って流転し、識陰の出生する処を知らず、識陰の真実の相貌を知らない。

原文:持世。菩薩摩訶薩於此中。如是正觀。知識隂從虛妄識起。所謂見聞覺知法中衆因緣生。無法生法想故。貪著識隂。是諸菩薩如實觀時。知識隂虛妄不實。從本已來常不生相。知非隂是識隂。想隂是識隂。幻隂是識隂。

釈:持世よ、菩薩摩訶薩は見聞覚知の中で如実に識陰を正観し、識陰が虚妄の識より生起することを了知する。即ち見聞覚知の法において衆多の因縁が識陰を生じ、法無き中に法の念想を生起させ、識陰に貪着する。諸大菩薩がこのように如実に観察する時、識陰が虚妄不実であり、本初より全く出生していないことを知る。識陰に本体的相貌無きものを所謂る識陰と知り、心念思想の流転する想陰も識陰であり、種々の虚幻なる陰入法が所謂る識陰であることを了知する。

原文:譬如幻所化人識。不在内亦不在外。亦不在中間。識性亦如是。如幻性虛妄緣生。從憶想分別起。無有實事。如機關木人。識亦如是。從顛倒起。虛妄因緣和合故有。如是觀時。知識皆無常苦。不淨無我。知識相如幻。觀識性如幻。

釈:例えるなら幻化された人の識は、内にもなく、外にもなく、中間にもない。識の性質もまたかくの如し。幻の如く虚妄の縁より生じ、憶想分別より起り、実事無し。機関仕掛けの人形の如し。識もまたかくの如く、顛倒より起り、虚妄の因縁和合によりて有る。この如く観ずる時、識は皆無常苦にして不浄無我なることを知る。識相が幻の如く、識性を観ずるも幻の如し。

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