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五蘊の観行による我見の断ち(第二部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-03-03 閲覧回数: 1925

第八章 倶舎論疏第二十三巻(聞思修証四慧)

聞所成慧と思所成慧は、四加行――煖・頂・忍・世第一法という四種の善根が生じる以前に現れる智慧であり、この二種の智慧は堅固さを欠き、逆境に遇えば退失する。思所成慧の次の修所成慧に至って初めて、観行の智慧は退失しなくなる。四種の善根中の忍善根が現れる時、善根は不退転となり、観行の智慧も退失しない。四加行を修し終わった後に初めて証慧が現れ、四聖諦によって生じる智慧、すなわち現量智・法智・類智などを証得する。

第一節 聞慧

原文:襍緣法念住總有四種。二三四五蘊爲境別故。唯總緣五名此所修。彼居此中修四行相。總觀一切身受心法。所謂非常苦空非我。然於修習此念住時。有餘善根能爲方便。彼應次第修令現前。謂彼已熟修。襍緣法念住。

釈:四念住中の法念住を修習する際には、身念住・受念住・心念住を交えて観察し、法念住のみを縁とするのでなく、他の三念住をも交えて縁とする。法念住の修習に対応する受想行識蘊の四種の境界がそれぞれ異なるため、色受想行識の五蘊を総じて縁として法念住を観修する。行者は法念住において苦諦の四行相――苦・空・無常・無我を修習し、総体的に身・受・心・法の苦空無常無我性を観行する。而して法念住を修習する際には、煖・頂・忍・世第一法などの他の善根が修証の方便となり得る。行者は次第を追って修習し、四種の善根を一一現前せしめるべきである。此等の四種の善根が現前する時、行者が雑縁法念住を熟達したことを示す。

原文:將欲修習。此念住時。先應總緣。修無我行。次觀生滅。次觀緣起。以觀行者。先觀諸行。從因生滅。便於因果。相屬觀門。易趣入故。或有欲令。先觀緣起。此後引起。緣三義觀。此觀無間。修七處善。

釈:行者が此の法念住を修習しようとする際、まず総体的に五蘊を縁として無我の行相を観じ、次いで五蘊の生滅を観察する(此れは五蘊の無常行相を観ずる)。更に五蘊の縁起を観じる(此れは五蘊の空行相を観ずる)。観行者が先ず身・受・心・法の諸行が因縁に随順して生滅することを観ずることで、因果の相属する角度から無我・無常を観じやすくなり、四聖諦の理へ趣入し易くなる。或る者は先ず五蘊の縁起を観察し、その後で蘊・処・界の三法義に縁する観行を引き起こす。此の観行方法は、断えることなく七処善根(色受想行識五蘊に於いて各々苦・集・滅・道・味・患・出離を観察する)を修習することを指す。

原文:於七處善。得善巧故。能於先來。諸所見境。立因果諦。次第觀察。如是熟修。智及定已。便能安立。順現觀諦。謂欲上界。苦等各別。於如是八。隨次第觀。修未曾修。十六行相。彼由聞慧。於八諦中。初起如斯。十六行觀。如隔薄絹。睹見衆色。齊此名爲。聞慧圓滿。

釈:七処善を修するにおいて善巧を得たが故に、先に観行した一切の境界において因果諦理を建立し、即ち五蘊の苦集滅道を明らかにし、次第に五蘊の七善処を観察する。かくして観行智慧と禅定を熟練して修習した後、四聖諦に順ずる現観諦智を出生する。順現観諦とは欲界・色界・無色界各々の苦諦・集諦・滅諦・道諦等に随順する智慧を指す。この時点では未だ現量観行智慧は無いが、煖法善根を生起し、四聖諦理に背かず。

かくして四念住と四聖諦の八種義理に対し、その次第に観行し、従前未修の十六種行相を修習する。行者は聞法により得た智慧をもって、この八種諦理の観行において初めて十六種行相の観行を生起する。この時の智慧は薄き布絹を隔てて一切色相を観るが如く、ここに至って聞慧は修円満する。

聞慧が円満する時、四念住と五蘊を観ることは薄絹を隔てて色を見る如く、色の輪郭は未だ明晰ならず朦朧とする。聞慧出現以前は一切法を更に朦朧と見、無明甚だ重し。聞慧を修するに至り無明稍々薄らぎ、思慧・修慧を修するに至り無明更に薄らぎ、証慧出現して初めて無明の一部を断除し、三縛結を断ずる。

上述の論文に説かれる聞慧の特徴と修行過程に照らし、自らの聞慧が如何なる程度に修され、修習円満したかを検証すべし。仮に修習円満したとも、これ僅かに聞慧の段階に在り、証慧には尚遠し。若し数年間修しても聞慧さえ円満せざるなら、何処に不足有るかを検証し、如何に差を補い、如何なる措置を取り、精進して修道を急ぐべきかを考えるべし。

第二節 思慧

原文:思所成慧。準此應說。次於生死。深生厭患。訢樂涅槃。寂靜功德。此後多引。厭觀現前。方便勤修。漸增漸勝。引起如是。能順決擇。思所成攝。最勝善根。即所修總緣。共相法念住。

釈:思所成慧は聞所成慧の準則に従い説くべきである。聞所成慧が円満した後、生死輪廻に対し深く厭患を生じ、世俗を厭離し、涅槃の寂静功徳を欣求する。その後さらに世間を厭離する観行を多く引き起こし、世間の厭うべき相を現観し、これにより修道と観行がますます精進し、観行が深化し、智慧が殊勝となる。遂に五蘊の苦空無常無我の諦理に随順する順決択分を引き起こし、思所成慧に属する最勝善根が現れる。これが修ずる五蘊総体に四聖諦の共相を縁する法念住である。

共相とは一切衆生の五蘊が同様に苦空無常無我であることを指す。全ての衆生の五蘊はこの共通属性を具え、これに対し別相は個別の衆生の五蘊が持つ苦空無常無我の属性である。法念住は別相と共相の両角度から次第に観察し、初めて修行が円満する。

ここに思所成慧の相貌と特徴が示される。最も重要なのは五蘊世間への厭患心、三界世間への厭離、清浄なる涅槃功徳への向往、五蘊の苦空無常無我性への随順、四聖諦理への不違背、四念住への如理如実なる決択、順決択分の発起である。順とは四聖諦に随順し背かぬ意である。もし内心が無我無常苦空の理に抗拒すれば、順決択分なく、聞慧も円満せず。

学人が未だ五蘊世間への厭離心を生ぜず、世間への欲求と希求を抱き、世間法を讃歎し、三界世間法に貪着し、眷属への執着と情執深きならば、思所成慧なく四聖諦理に随順せず。かくして修所成慧は更に具足せず、証道から遠く離れる。所謂証果明心の者の言行を観察すれば、世間を厭患する者は極めて少なく、大多数は世間への貪欲と希求に満ちている。故にこれらの所謂果は真果と大きく隔たり、後世の果報を思えば慨嘆せざるを得ない。

或る者は「大乗法を修学し仏道を成さんとする者は五蘊を保有し、五蘊世間で修行し自利利他すべきで、世間を厭離すべきでない。厭離するは非菩薩種姓である」と言う。此言は誤りである。菩薩は声聞縁覚と同様に世間を厭うべきだが、厭いながらも離れず、決して凡夫のように世間を喜楽せず貪着せぬ。世間が幻化であると知る菩薩の智慧が、如何にして幻の世間に希冀と欲望を抱けようか。欲・貪・喜楽有るは智慧に欠陥有り、空幻の理を明らめざるを示す。菩薩は世間の空幻を知り、心淡泊で無欲無求だが、道業と衆生のため願力に随い世間を歩まざるを得ない。凡夫の心は「已むを得ず」ではなく、世間を欣求し耽着し、離れ難し。故に小乗・大乗を問わず、思所成慧を修得すれば必ず世間への厭離欲を生じ、菩薩が欲を離れざるは真の菩薩に非ず。

聞所成慧と思所成慧には禅定が伴うが、深浅が異なる。基本的な粗浅な禅定すらなければ、聞所成慧は円満せず、まして思所成慧・修所成慧は論外である。各智慧は禅定と不可分であり、定無く心乱れれば聞思不具足。定浅ければ慧浅く、定深ければ慧深し。後の修所成慧の集積過程では、未到地定を具足せねば参証成就できず、見道に至れない。未到地定不具足の状態では聞慧・思慧や修慧を持つことは可能だが、修慧は円満せず、従って見道できない。

原文:準上論文。即是三義七處等後。起總相念住。入暖法也。三義觀者。即蘊處界。三科義也。七處善者。如實知色苦。色集。色滅趣。色滅行。色味。色患。及色出離。如實知受想行識七亦爾。如實知色。是四智知。謂法類智。世智苦智。

釈:上述の論文に照らして知るべきは、蘊処界の三科義および七処善を観察した後、五蘊の総相に縁する法念住が生起し、煖法善根に入る。三義観とは蘊・処・界の三法を観察することを指す。七処善とは、色蘊の苦・色蘊の集・色蘊の滅道・色蘊滅の修する道・色蘊の味・色蘊の過患・色蘊の出離性を如実に知り、且つ受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の七処善も色蘊と同様に如実に知ることを指す。また色蘊を如実に知れば四種の智、即ち法智・類智・世俗智・苦智が生じる。

解脱者は十種の智を具える:法智・類智・世俗智・他心智・苦智・集智・滅智・道智・尽智・無生智。五蘊各々の七処善を如実に観察することにより、智慧をもって色蘊を如実に知る。色蘊を知る智慧には四種あり、法智・類智・世智・苦智である。法智は一切法を総体として無我無常苦空を智慧観知し、類智は総体法中の同類法を智慧観知し、世智は世俗界の法に対し衆生の根機に応じて適宜化導し、苦智は五蘊世間を如実観察し、一切法が苦であり取るべからざることを智慧知する。

第三節 修所成慧の四加行四善根

一、四念処の観行は四聖諦と関係があるか。四念住の観行過程において、各念住は四聖諦理を観行し、合わせて十六の行相を観察する。十六行相を具足して観行すれば、四種の智慧境界、即ち四種の善根を得る。これら四種の善根は煖・頂・忍・世第一であり、四加行とも呼ばれる。これは見道前に必ず経る段階である。四加行四善根は修所成慧に属し、これ以前は聞慧と思慧に留まり浅く、意根に熏習されず、意根が触発され変化し、苦空無常無我に随順し、順決択分を発起して初めて修所成慧が生じる。修所成慧が円満具足して初めて見道する。故に四加行は極めて重要であり、皆が理解すべきである。私は徐々にこの法について説く。

さらに補完すべき理論は三十七道品である。詳細に説き、各人が自らが三十七道品を修しているか、どの程度修したかを自覚させる。最後に、見道前の修道過程において、禅定中に断ずべき欲界の粗重なる煩悩を解説する。細かな煩悩は見道後に初めて断除可能であり、見道前には断じ得ず、色界の煩悩は更に断じ得ない。これで小乗の法は概ね足り、これ以上説く必要はない。

修道とは、実に九割の時間を個人の用功に費やし、僅かな時間を聞法と理論知見の吸収に用い、修行の方向を誤らせぬようにする。理論知見が充分吸収された後は、完全に個人が専心一意に用功すべきであり、理論学習に時間を費やせば事を遅らせる。故に今後多くを説かず、実修を妨げぬよう心掛ける。理論不足があれば逐次補完するが、基本は実修を主とし、理論は足りれば良し。貪り多く求めても効果薄く、時間を浪費するのみ。

四加行の修行段階では、意根への有效な熏習により身心が変化し、心が以前より清浄となり、煩悩が軽減し、身口意行が清浄化する。これにより初めて見道後の聖賢の心行品質に相応し、見道が可能となる。故に身心が変化し煩悩が軽減したからといって見道・証果した訳ではなく、程遠い。大乗法で悟ったと疑う者で、これらの法を修せず円満せざる者は、疑いを断つべし。悟りも解悟もしていない。悟後も身心世界に変化なき者、知見のみ増えた者、三十七道品未修・四加行未達で聞思段階に留まる者は、甚大なる誤解を抱いている。何故このような誤解が生じるのか。

二、1+1=2を知ることは、聞思修証の四種の慧の中においてどの慧に属するか?

聞思修証の四種の慧は全て1+1=2を知る。しかし知と知の差は極めて大きく、一歳児でも1+1=2を知り、訓練された犬でさえ知り得る。大学教授も数学者も1+1=2を知るが、その差は如何ほどか。1+1=2はゴールドバッハ予想中の難題であり、中国数学者では陳景潤と華羅庚のみが証明に着手した。華羅庚らは証明できず、陳景潤が完全証明したかは不明である。1+1=2を証明できる者は億に一人もおらず、着手できる者は億に一人を超えず、思索する者は千分の一万分の一に満たず、単に知る者は無数に存在する。

我々が皆1+1=2を知ると言うこの「知」の虚構性は如何ほどか。同様に、仏法修行者が四聖諦や如来蔵の法を学び、数年あるいは二、三年、場合により二、三ヶ月で悟りを証したと称するなら、その虚構性は甚大である。大多数は修の段階に至らず、如実なる修行の因縁も不足し、見道の条件を満たさぬ中で、修慧や証慧を語る資格はない。思慧を得るだけでも大いに結構である。仏道修行が容易ならざる道であることを悟り、自らを過大評価せず、仏法を過小評価せぬこと。さもなければ旧業未消の上に新業を積み、後世の解脱など叶うまい。

幼稚園児や小中高生が1+1=2を実証せんとするなら、如何に努力すべきか。証明の因縁条件を如何に整えるか。億分の一、十億分の一の実証確率において、彼らが将来実証する可能性は如何ほどか。数学的天才でなければ可能性は皆無に近い。1+1=2の証明において最も重要なのは論理演算の過程であり、結果は既知としつつ未知として過程を埋める労苦である。陳景潤の苦闘を知れば、その代償の大きさが分かる。

仏教において四聖諦や般若唯識に触れる仏子も少数存在するが、全体から見れば極めて少ない。彼らの大小乗への理解度は様々で、四種の慧の多くは聞慧に留まり、思慧に至る者も稀で、修慧に達する者は極少数。証慧に至る者は億分の一の可能性すらある。では、四聖諦理や如来蔵の空理を知りつつ未実証の修行者は如何に実証すべきか。あるいは仏法を解悟した者が更に実証へ至るためには、如何なる因縁条件を整え、如何なる努力を要するか。

仏法を解悟した者が実証するには、既に得た理解を全て忘却し、結果を未知として探究過程に持ち込まぬこと。これには修慧が必要で、三十七道品・戒定慧・菩薩六度を実修し、見道の条件を具備し、深甚な禅定中に理に従って参究せねばならない。故に解悟者は既知を捨て、名利心・競争心・虚栄心を断ち切り、一から着実に歩む覚悟が要る。多大な代価と労苦を払い、一滴の汗に一粒の収穫があることを信じ、如何なる犠牲も厭わぬ覚悟が真の実証をもたらす。

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