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五蘊の観行による我見の断ち(第二部)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-03-02 閲覧回数: 2248

第五章 阿羅漢と解脱

一、解脱とは何か?

解脱とは、一切の貪・瞋・痴の煩悩を離れることである。解脱とは、色・声・香・味・触・法に対して心に掛かり碍げるものがなく、繋がれ縛られることもなく、貪らず瞋らず、喜ばず憂えずである。解脱とは、一切の人・事・物・理に対して掛かり碍げるものがなく、繋がれ縛られることもなく、貪らず瞋らず、喜ばず憂えず、有るも無いも同じである。解脱とは、衣食住用行に随縁応対し求めることなく、貪り得る心がないことである。解脱とは、世の中で生存し、善く止足を知りその日を過ごし、分に過ぎた思いを抱かないことである。解脱とは、過去を追憶せず未来を幻想せず、また現在に住着せず、念念に留まらないことである。解脱とは、一切の人・事・物・理に心が着かず、その苦・空・無常・無我を明らかにし、その来龍去脈を明らかにし、その幻化して得られないことを明らかにすることである。解脱とは、一切の法に対して心が空しく、自在に碍げるものがないことである。

二、解脱と自在

一切の法を修習する目的は、一切の法の空性・仮性・中道性を見破り、それによって自心に智慧を獲得し、一切の境界に対して心が空しく碍げるものなく、功徳の受用を得て、世間の煩悩から解脱するためである。

或る者は問う:解脱は何の役に立つのか? 解脱には何の役にも立たない。何も用いず貪り執わなければ、それが解脱である。解脱とは束縛から離れて自在になることである。解脱には苦がなく、籠から離れた鳥のように自在に羽ばたき、罠から脱した猛虎のように山の上下を随意に徘徊し、手綱を離れた野馬のように広い天地を自由に駆け巡る。また或る者は問う:自在は何の役に立つのか? 自在も何の役にも立たない。何も用いなければそれで自在である。自在とはただ「我」の束縛のない感覚であり、感覚さえもなく、感覚があれば自在ではない。故に「役に立たない」が最も良く、役立てようとして何になる? 用いることが何の役に立つ? 役に立つものは全て重荷と束縛であり、全て苦である。

解脱して無我となるには、日々自らに問うべきである:私は飯を食うのは何のためか? そして答える:飯は色身の存在のためである。再び問う:色身が存在するのは何のためか? 答える:色身の存在は生きるためである。再び問う:生きるのは何のためか?……根を掘り下げ、壺まで叩き割るように問い詰め、決して自分を安易に許さない。その後は智者は智を仁者は仁を見、各々己の見解を述べ、境界が紛然と顕れ、思想が躍然と紙上に現れ、差異が自然と明らかになる。反観し、反省すれば、次第に修道の中に入る。日々このように自らに問えば、いつか必ず覚り、貪着せず執着せず、暢やかに自在に解脱し、煩い無く悩み無く、最後には自らが超然と物外に超脱し、洒落きり抜けるのである。

三、解脱した人の心の状態とは何か?

解脱とは煩悩を断ち切り、心が空しく無我であり、五蘊十八界に執着せず取らないことである。色蘊に取着せず、受蘊に取着せず、想蘊に取着せず、行蘊に取着せず、識蘊に取着せず、色に取着せず、声に取着せず、香に取着せず、味に取着せず、触に取着せず、法に取着せず、財・色・名・食・睡に取着せず、名聞利養に取着せず、世間法を貪らず、縁に随って物に応じ、功利心がなく、計算心がなく、報いを求めず、権勢や名声を求めない。権力に媚びず、自らを高く掲げず、人目を引こうと争わず、強引に奪い取らず、自己を顕示することを好まず、欺き騙さず、策略を巡らさず、一切の法に心を用いず、世間法が彼を拘束することはできない。五蘊の世間が畢竟空であるがゆえに、繋がれるものも掛かり碍げるものもなく、取るも取らぬも共に得られず、枷が心に着かず、自在に碍げるものがない。

四、なぜ四果阿羅漢は八地菩薩の解脱の証量に相当するのか?

小乗の四果阿羅漢は無余涅槃に入ることができる。大乗では初地菩薩から煩悩を断じた三果の聖人であり、地上の菩薩は解脱の正位に入り四果を証得できるが、もし証得して命終すれば無余涅槃に入るため、仏は菩薩が四果を証得し解脱の正位に入ることを許さず、七地満心まで至って初めて四果を証得し八地菩薩位に入る。八地以上の菩薩は再び無余涅槃に入らない。故に解脱の証量から見れば、四果と八地菩薩の解脱の証量は等しい。初地満心でも四果を証得してはならず、そうすれば仏戒に触れ仏に呵責され、仏も菩薩が四果の果位を証得しないよう護持する。

五、阿羅漢と辟支仏の修行は五蘊を捨て涅槃を取ること

阿羅漢の四聖諦の修行および辟支仏の十二因縁の修行は、減法と捨法であり、五蘊の世間を次第に捨て去る。彼らの心中に法・物・五蘊があるがゆえに、修行において絶えず減少させ、心・行・業を減じ続け、貪欲と一切の煩悩を捨て、最後に涅槃を取る。阿羅漢たちは確かに三界が存在し、五陰身が存在し、苦受が存在し、因果が存在すると認めるがゆえに、これら一切を捨て去り三界を出離する決心を下す。取捨の心は巧偽を成すため、最上最真実の修行法とは言えず、これが修行者全ての通る道ではある。

しかし修行は次第と段階に分かれる。まず悪を棄て善を取り、心が善となれば、悪も善も取らず、取らず捨てず、心を中道に住らせる。菩薩は一切の法が如来蔵の幻化であることを了知し、心中に物無ければ捨てるものもなく、一切の法に取らず捨てず、貪らず厭わず、坦然と面して衆生を度し、故に決して三界を離れ涅槃を取ろうとはしない。

六、阿羅漢が無余涅槃に入ることは灰身泯智であって万念俱灰ではない

阿羅漢が無余涅槃に入った後、彼の三界の世間法は消失して見えなくなる。正確に言えば、三界の世間において阿羅漢という者は存在しなくなる。三界の世間とは欲界・色界・無色界を含み、これを器世間と呼び、極めて多くの色法を含む。阿羅漢が無余涅槃に入れば、七識に対応する帯質境・性境・独影境などの色法が生じないだけでなく、彼の第八識に対応する本質境の色法も生じず、本質境が無ければ帯質境・独影境・性境も存在しない。これらの境界は三界の業種が現じた依報の世間法であり、正報は五蘊身である。

万念俱灰となるのは凡夫の世俗人である。聖人は心無く念無く願無く希冀無いため、灰や俱灰という概念に及ばず、阿羅漢が世俗人のように万念俱灰となることはあり得ない。万念俱灰とは心中の多くの希望や願いが実現できず、大いに失望して世間において何の考えや念いも無くなることを指すが、意根には未だ多くの考えや願いが滅しておらず、ただ実現できないだけである。一方、阿羅漢は灰身泯智であり、元来五蘊の世間に何の願いも寄せないため、五蘊身と解脱の智慧を必要とせず、身心共に捨て去る。仏が「灰身泯智」という言葉で阿羅漢の愚を形容したのは、灰身とは現在の色身五蘊及び未来世無量劫の五蘊色身を滅して捨てることであり、泯智とは三界解脱の智慧を泯滅させることを意味する。つまり阿羅漢は身心共に捨て去り、解脱と寂静と名付けるのである。

実際の真の解脱とは何か? 一切の境界に直面した時、あたかも境界無きが如く、欲無く求め無く、見て視えず聞いて聴こえず、心を用いず、自ら動かず避けず、染められず触れず、極めて自在であることである。仏陀はこのように自在に解脱し、五蘊身の解脱色を妨げず、転識成智の七識心を妨げず、身と智共に存在して離れず、如何なる天魔外道も為す術がない。これが仏陀の無住処涅槃の境界であり、何の法にも住着せず、無垢識の如く無為であり、真如の如く無為であるが、有為を妨げず、大円鏡智の如く有為にして無為であり、有為と無為が渾然一体となり一片に打ち解け、離れない。この境界は比類無く、故に衆生の境界と仏陀の境界は比べるべくもない。

七、阿羅漢の第八識心体にはどのような業種があるか?

阿羅漢が有余涅槃に在る時、縁に随って日を過ごし、五蘊世間の一切の法を執取せず、心空しく無我であり、三界世間法の業種は次第に消失する。三界世間の業種が無いため、後世にも三界世間は存在せず、まして五蘊身が三界世間に出生することはない。阿羅漢の第八識に三界の業種が残存するならば、種子は必ず現行して業行に酬償し、これでは無余涅槃の境界が成立しない。

しかし阿羅漢が無余涅槃に入った後、遅かれ早かれ再び三界世間に現れる。阿羅漢は涅槃に入る前に大乗法を聞き、大乗法の種子を植え付けたため、種子が成熟すれば第八識は意根の識種子を出力し、意根を出生させ中陰身に入り、再び胎に投じて大乗を修学する。業種は意根と相応し、意根は業種と相応する。意根が三界世間を執取しなければ世俗の業種を留めず、執取があれば引き続き善悪の業を造作し、業種が残存すれば後世は業種に随って胎を投じ輪廻する。意根が執取せず六識が業を造らなければ業種が無く、業報を受ける必要がない。

八、入流とは何か?

入流とは解脱の聖道流に入ることである。解脱にはまず生死を束縛する我見と邪見を断除することが必要で、これ以降は三縛結を具える凡夫ではなくなる。入流の過程において禅定が不可欠であり、欲界の未到地定以上の禅定を具えなければ我見を断ち聖道流に入れない。禅定のみ、あるいは初禅定のみで我見三縛結を断除しなければ聖道流に入れず、そうでなければ四禅八定を具える外道も皆聖道流に入ることになる。それでは外道の四禅八定を修めても解脱できるのか? 既に三縛結を断じた者は聖道流に入るのであり、入ってから断じる能力を得るのではない。

九、仏陀の涅槃は一切の法を滅ぼすことか?

仏陀の涅槃と阿羅漢の涅槃には本質的な違いがある。仏陀が涅槃に入った後も、十方世界で衆生を度化するために無数の五蘊身を化現し続ける。故に仏は五蘊身を解脱色と呼ぶ。仏が一つの世界で衆生を度化する縁が一時的に終われば、色身を滅して方便として涅槃と称する。例えば釈迦牟尼仏が娑婆世界で涅槃に入り、色身が一時的に離れて滅したとしても、釈迦仏は依然として娑婆世界の法主・教主・導師であり、娑婆世界の衆生は釈迦仏に教化された弟子に属する。同時に釈迦仏は無量無辺の五蘊身を化現し、十方世界で十方の衆生を教化する。阿羅漢が涅槃に入った後は再び色身五蘊を持たないため、阿羅漢の涅槃には解脱色が無く、彼らの涅槃は究竟自在ではなく解脱が徹底しない。

仏は五蘊を具えるが解脱しており、解脱色は衆生の肉眼で見られ、世間の如何なる法にも繋がれない。衆生も五蘊を具えるが世間法に繋がれるため解脱を得られない。心が解脱すれば色身も解脱し、五蘊全てが解脱する。故に解脱は必ずしも色身五蘊を滅ぼす必要はなく、理にかなわず法に合わない心念と知見を滅ぼし、心念を理にかなった如実の知見見地に転じれば解脱する。

十、処世の道

人の目は皆このようなもので、白いピンポン玉に猫目石を嵌めた機械的装置に過ぎず、真に受けてはならない。もし誰かがあなたに情を含んだ眼差しを向けても、それはピンポン玉から水が溢れ、猫目石から流れ出たものであり、大河となってあなたを溺れさせず、丘を崩し山を倒して押し流すこともないから気にせずよい。もし誰かがあなたに秋波を送っても、それはピンポン玉が光を放ち、猫目石から投射されたものであり、大自然の光の方が温かいから気にせずよい。もし誰かがあなたを怒目して睨んでも、これはピンポン玉が発火し、猫目石から噴き出したものであり、あなたを焼き付けることもなく燎原の烈火とはならないから恐れず、気にしなければ自然に消える。

私を愛そうと憎もうと、私には関係ない。私は悠然と自在である。一切を淡く見て心を水のように静め、相に着かず、天下に事無く、天地自ずから広し。もし天地さえ見えなくなった時、真に解脱するのだから、何と素晴らしいことか!

十一、俱生我執を断じた阿羅漢は永遠に在家者ではない

問:ある見解によると、俱生我執を断じれば心に掛かり碍げるものがなくなり、自分や親族の生死に対する畏怖が無くなり、自身の財産の損失に対する恐れも無くなる。これは大解脱を得た状態だが、出家を望まない在家居士にとって適切だろうか? 真にこの境界に至れば、多くの仕事ができなくなるように思われるが?

答:まず、俱生我執を断じ尽くした者は小乗では四果の大阿羅漢であり、大乗では八地菩薩である。在家者が四果大阿羅漢に至ることは不可能で、在家者の最高位は三果までである。三果に至ることは極めて困難で、三果の者は世俗においてほぼ世間法に興味を持たず、必ず出家の道を探し、出家の機縁も非常に多く、家庭に対しても興味が無く耐えられなくなる。出家しない場合でも大半は縁に随って日を過ごすが、依然として一部の執着が残り、家庭生活や仕事に対しても縁に随い、執着性は大きくない。

大乗の四果阿羅漢は八地菩薩の果位にあり、彼らは通常娑婆世界に来ず、仮にこの世界に来ても家庭を養い仕事に就くような世俗生活を送らない。彼らの福德は比類なく広大であり、世俗の仕事で日を過ごすような卑俗な事などあり得ない。衆生を度す事業は全て縁に随い、一片の執着も無い。何故わざわざ仕事や家庭維持に身を屈する必要があろうか? 実際、娑婆世界で初地菩薩や三果の者を見つけることさえ極めて稀であり、地上の菩薩は通常出家して衆生を度す。菩薩が多過ぎて全員が出家して衆生の模範となる必要が無い場合を除けば。

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