四念処経講記(第二版)(新修正)
前 言
四念処経は大念住経とも呼ばれ、その内容は四念処の修習である:身を不浄と観じ、受を苦と観じ、心を無常と観じ、法を無我と観ずる。修習が成就した後、三果あるいは四果を証得し、解脱を得て清浄なる涅槃に入る。したがって四念処法を修学する目的は、我見を断除し、煩悩を降伏させ、解脱を得ることにある。修習の過程において、ひたすら心念を四念処の観行に住すれば、時が経つにつれて功徳が深まり必ず身見・我見を断除し、解脱果を証得できる。三結及び一切の煩悩結縛を断じ、生死の結縛を解き、未来永劫三悪道の苦も受けず、六道輪廻の苦からも解脱する。もしこのような観行を行わなければ、我見を断除することは困難であり、三結も断じ難く、生死の結縛を解くことができず、苦海から出ることができない。
三結とは我見・戒禁取見・疑見である。我及び我見とは何か。いわゆる我とは、五蘊十八界の生滅無常なる仮我である。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊及び六根・六塵・六識というこの仮我を我と見做すことが我見である。我見の中に身見が存在し、色身を我と見做す知見である。身見・我見を共に断除して初めて邪見を断じ生死を出離できる。我見を主とし、所々で我を執着する結果は何か。結果としてこの生滅無常の仮我のために無量無辺の三種の業行を造作し、業行を造作した後は六道に拘束され苦を受けることになる。我見は一つの結であり、この結によって我々は六道、特に三悪道に縛られ、生死の大苦から出離できない。
戒禁取見とは何か。解脱を得るために一種または複数の戒律を制定し遵守するが、これらの戒律が解脱へと導くものでなく、理にも法にも適わず、これに依って修行する者が解脱を得られないものを指す。もしこれらの不如法な戒を如法如理と執取し、遵守実行するならば、この知見を戒禁取見と呼ぶ。戒禁取見は一般に外道が施設した戒を指し、その戒法は色身の身行上で秩序を乱すのみで、正知見を得られず、解脱の智慧を持たず、自心の煩悩を降伏させることができない。そのような戒法を守っても生死輪廻から解脱できず、それらの戒法自体を執取することは一つの結縛となり、更に自らを六道輪廻に縛り付け、生死の苦から脱することができない。
どのようなものが理に適わず法に適わない戒か。制定された戒が心を修め心行を改めるために用いられず、単に身体的外相にのみ着目するものは、理に適わない戒禁取戒である。仏が制定した戒と一致せず、内包と目標が一致せず、解脱の目的を達成できないものは、理にも法にも適わない戒禁取戒である。これらの理法に適わない戒を執取することを戒禁取見と呼ぶ。
例えばある外道は、魚が水中で自由自在に生きているなら、我々も魚のように水中に浸かり続ければ将来自由解脱を得られると説く。このように施設された戒法で自由和解脱を得られるか。得られない。別の外道は、牛や羊が草のみを食べ他物を摂取しないから清浄自在であり、我々も草のみを食べれば清浄自在解脱を得られると説く。しかし草のみを食べて真に清浄解脱を得られるか。全く得られない。我見を断つことと草を食べるか否かは全く無関係であり、解脱は自心の在り方、心の用い方、智慧に依存するもので、単なる飲食の一面のみによるものではない。
更に別の外道は、解脱を得るには無量劫来に造作した一切の悪業を消滅させねばならないと説く。その業を如何にして消滅させるか。彼らは無意味な苦行で自らを苦しめ、一日一麻一麦のみを食し、或いは土を食べ、或いは長期の断食で飢えを耐え忍び、灰土の上に臥し、夏は火で焼かれ冬は氷で凍らせる。要するに様々な方法で自らの身体を痛めつけ、これで無量劫来の罪業が消滅し解脱を得られると考える。しかしこのような自虐行為で一切の罪業を消滅できるか。当然できない。考えよ、我々は無量劫来どれほどの罪業を造作したか。無量劫来の罪業は数え切れず、地獄道の罪業のみでも無量無辺である。ましてや餓鬼道・畜生道の業、その他の業を加えればなおさらである。このような自虐で全ての罪業を消し去れるか。当然消せない。特に衆生への負債は、これらの方法では返済できないのである。
無量劫以来に造ってきた罪業をどうすれば消滅させ、三悪道の苦しみを免れることができるか。ただ我見を断ち、三縛結を断ち、心中の一切の無明を断除するしかない。もし誤った知見を転倒させ、心中に「我」という存在を認めず、五陰の「我」が虚妄で不実なものであると認めれば、この「我」を用いて造作した罪業もまた虚妄不実となり、こうして三悪道の罪業を免れる。我見を断じ三縛結を断ずるには、五陰十八界の無我性を観行し、五陰が仮我で空幻であり真実でないことを証得しなければならない。外道のいわゆる戒行は根本的に全ての罪業を消すことができないため、それらの理に適わぬ知見を戒禁取見と呼ぶ。
第三の結縛は疑結、すなわち疑見の結縛である。疑見とは何か。内心に抉了できない法が存在し、五陰が果たして真実かどうか、生滅無常のものかどうか、未来世に至ることができる不滅の「我」として依存できるかどうかを確定できない状態を指す。この疑惑が晴れず躊躇いが生じれば、五陰に対する依存と信頼が残り、五陰に依って造作した三悪道業を消し去ることができず、業に随って三悪道を流転する。この疑見こそ煩悩の結縛であり、断除しなければ必ず煩悩惑業苦が滅しない。
如何にして疑見の煩悩を断除するか。五陰の苦・空・無常・無我性を学習観察して「確かに我は存在しない」と認め、五陰無我を確認して心中の疑惑を消し去れば疑結を断つと言う者がいる。では意識が五陰の苦・空・無常・無我を思惟するだけで、内心深層の疑惑を断除できるか。恐らく不可能である。意識の理解は意根の証を代表せず、二者は誰が修すれば誰が得るものであり、意根が修せず観察しなければ証得できず、我見を断つことはできない。無始劫以来、意根自体に具わる深重な無明は、意識の簡単で粗浅な思惟理解では根本的に消し去れず、我見を断つことができない。如何にして疑結を断除するか。疑結を断除するには必ず禅定を修め、禅定中に細心に観行思惟するか、仏の説く四念処の観行法に従って真実に工夫を凝らし、手抜きをせず八正道・七覚分を踏実に修行し、禅定と空三昧を発起しなければならない。
仏在世時の大根器の衆生は、五陰無我の理を聞いたその場で、反復思惟観行せずに四果阿羅漢を証得し、袈裟を着し鬚髪自ら落ち、神通現前することができた。例えば大迦葉(マハーカッサパ)、舎利弗(シャーリプトラ)、須菩提(スブーティ)などがそれである。これは彼らが前世に四果を証得してから今に至るまで無量劫、あるいは三無量劫を経ており、仏の再来者として生まれつき禅定と宿命通を具え、阿羅漢として生を受けたため、一語を聞いて即座に証果する様を示現できるからである。意根が無量劫以前に既に証果し、断滅することなく五陰無我を知悉しているため、意識が意根を教化熏習する必要がない。今世の五陰と意識は新たなものであっても、仏法に触れ意識が微かに思惟すれば即座に証果し、意根の牽制を受けないため極めて迅速に証果する。
もし意識が宿命通を具え、生来より五陰無我を知悉しているならば、改めて我見を断つ必要なく証果する。しかし衆生を度化するため、今世の意識が一句の仏法を聞いて思惟せずに五陰無我を証得する様を示現できる。前世に証果した者は今世も速やかに証果し、意識が意根を熏習教化する必要がない。前世における証果回数が多ければ多いほど、意根に無明障道が存在せず、今世の証果が速やかになる。意根が熏習転換された者は極めて利発で、意識が理解するだけで足りる。前世で初果を証得した者は今世も初果を容易に得るが、二果を得ることは困難である。なぜなら意根が初果レベルの観行智慧にしか対応していないからである。
前世で二果を証得した者は今世二果を得やすいが、三果を得るには意根が三果に対応せず、改めて三果の内容を観察思量し、意識と意根が共同で証得しなければならない。前世で三果を証得した者は今世三果を得やすいが、四果を得るには意根が四果の境界に対応せず、改めて四果の内容を観察思量する必要がある。これが再来人が他者より迅速に証果し明心する所以である。
以上三縛結の解釈を終え、次に四念処の経文解説を開始する。