衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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四念処経講記(第二版)(新修正)

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2024-12-02 閲覧回数: 36

第二章   身念住を観る

三、色身の不浄を観る

原文:複次。諸比丘。比丘於皮覆包。充滿種種不淨物之此身。觀察此身。上至頭發。下至蹠底。知於此身。有發髦爪齒。皮肉筋骨髓。腎脏心脏。肝脏肋膜。脾脏肺腸。腸間膜胃。排泄物膽汁。痰膿血汗。脂肪淚淋巴液。唾液粘液。關節液尿。

釈:続けて言うと、諸比丘よ、比丘は皮膚に包まれ、様々な不浄な物で満たされているこの身体に対して、この身体を観察すると、上の髪の毛から下の足の板底骨まで、この身体には髪の毛、細毛、眉、手、足、歯、皮膚、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、排泄物、胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪、涙、リンパ液、唾液、粘液、関節液、尿などがあることを知るでしょう。

この経文は修行で身を観察して不浄法を行うための鍵です。世尊が比較的詳細に話してくれたので、私たちは経文に沿って観察に入り、観行をより詳細に行うことができます。これらの物は、髪の毛を除いて、皆表皮に包まれています。表皮はとてもきれいに見えますが、包まれている物は非常に汚く不浄で、様々な生臭い匂い、臭い匂いがし、血気と粘液が満ちて、ぼんやりとしています。一つ一つ取り出して、あるいは皮を剥がしてみると、誰でも嫌うでしょう。これらの不浄な物が色身を構成しています。こんなに汚い色身に対して、衆生は貪り執着して離れようとしない。本当に愚痴です。

原文:諸比丘。猶如兩口之袋。填進種種谷物。即稻粳綠豆。豆顆胡麻糙米。其眼者開解之。得觀察。此是稻。此是粳。此是綠豆。此是豆顆。此是胡麻。此是糙米。

釈:諸比丘よ、上記のような物で満たされている色身は、二つの口を開けた袋のようです。たくさんの穀物がこの袋に入れられています。袋を開けて見ると、一つ一つ数えることができます。これは水稲で、これは粳米で、これは緑豆で、これは豆粒で、これは胡麻で、これは玄米で、目で見るだけで何の豆があるかがわかります。同じように、身体を開けて、皮を剥がすと、身体の中に何があるかがわかります。一つ一つ数えることができ、観察することができます。

この色身は袋のようで、二つの口を縛り、中に様々な物を入れています。頭の天頂は封口で、足の底は封口で、外側は皮で、中には様々な物があります。皮を剥がした後、中には血肉、様々な液体、内臓、骨髄などの物があります。身を観察して不浄を感じることは、皮膚の表面から始めることができます。もし顕微鏡で皮膚を観察すると、皮膚の表面は全部細菌であることがわかります。目の中には細菌があり、涙の中には細菌があり、鼻水、唾液、皮膚の各表面は全部細菌であることがわかります。各部位の細菌は、形状、大きさ、数量が皆異なります。

ある種の禅観は、身体の上のこれらの細菌や虫を専門的に観察して身見や我見を断つものです。これらの細菌は、三つの頭と六本の腕を持つものもあり、色とりどりのものもあり、牙をむき、爪を張るものもあり、とても凶悪で恐ろしいです。彼らは互いに殺し合い、殺し合って終わると、数量や種類が不均衡になり、身体は病気になります。皮膚病や胃腸病などは、皆細菌の数量や種類が不均衡になることによって起こるでしょう。もし胃の中で飢えを感じると、これは細菌が食べ物を欲しているからです。もし身体の中に欲念が生じると、これもこれらの細菌が攪乱する結果です。胃に入れた食事は、全部細菌によって分解消化されます。食事が胃に下がると、細菌は食事を分解して砕き、泥状になり、身体はその一部を吸収して、血液に入れることができます。身体はこれらの細菌に依存して新陳代謝を行う必要があり、細菌も肉体に依存して生存する必要があり、衆生は細菌に依存して命を保つ必要があり、細菌は衆生の色身に依存して生存する必要があります。これらは皆仏が見て言ったことです。仏の目は顕微鏡よりも無量倍細かく微細で、だからこれらの細菌を見ることができます。

空気の中にも細菌があり、どこにも細菌があります。これらの細菌も衆生で、将来は仏に成ることもできます。彼らも意識心、意根と如来藏を持っています。もし衆生が病気になって薬を飲むと、薬は最初飲む時は効き、病気を治すことができます。飲む時間が長くなると、効き目がなくなり、抗薬性と呼ばれます。なぜこうなるのでしょうか。薬を飲むことは細菌を対処するためです。細菌は薬を飲んで、気分が悪くなると、以後は飲まないで、同じ薬は殺菌作用がなくなります。これからも細菌も識心の分别を持つことがわかります。

身体の皮膚表面を観察すると、非常に汚いです。さらに中を詳細に観察すると、血液の中、筋肉の中、筋、骨、骨髄の中は全部細菌であり、様々な粘液の中にも細菌があり、身体の中も非常に汚いです。このように実際の状態をそのまま詳細に色身を観察すると、ゆっくりと身体に執着しなくなります。もし美女を見たとして、彼女の皮膚から始めて、皮膚表面のそれらの細菌を観照し、観照し終わって皮を剥がし、中の不浄な物を観照し、中から外へと発散される嫌な匂いを感じると、どこにもきれいなところはありません。後でも述べるように、美女が死んで数日後、身体は膨張し、打傷の跡ができ、色が変わり、形状が変わり、それから膿を流し、それ以後は自分で想像してください。

衆生が執着する色身は、実際には非常に汚く不浄です。例えば、食べる食事は、土の中から育っています。土の中には何でもあり、どれだけきれいに洗っても汚いです。食べ物を何口か噛んで吐き出して、その状態を見てみるか、胃に咽下去的食事を嘔吐して、その状態を見てみるか、その匂いを嗅ぎ、実際に身体は移動するトイレ、糞の袋でもあり、臭皮囊とも呼ばれます。考えてみると、身体や食事ななどは何も執着する価値がありません。

原文:諸比丘。比丘如是於皮覆包。充滿種種不淨物之此身。觀察上至頭發下至蹠底。知於此身。有發髦爪齒。皮肉筋骨髓。腎脏心脏肝脏。肋膜脾脏。肺腸腸間膜。胃排泄物膽汁。痰膿血汗。脂肪淚淋巴液。唾液粘液。關節液尿。

釈:諸比丘よ、比丘はこのように皮で覆われ、様々な不浄な物で満たされているこの色身上で、頭頂から足の底まで観察し、この色身上には髪の毛、細毛、指の爪と歯、皮と肉と筋と骨髄、腎臓と心臓と肝臓、肋膜と脾臓、肺、腸と腸間膜、胃、排泄物と胆汁、痰、膿血と汗、脂肪、涙とリンパ液、唾液、粘液、関節液と尿があることを知る。

仏は比丘たちに、色身の不浄を引き続き観察するように教えました。頭頂から足の底まで観察してください。本当の観察を通じて、色身がこんなに汚れていることを発見すると、まるで刺繍入りの枕のようです。外見はまだ見た目はそれなりになっていますが、中に入れているのは皆汚れた物で、きれいなものは一つもありません。こうして観察し続けると、自分の色身に対して離れたいと思う心、嫌悪の心が生じ、色身にあまり気を遣うことも、色身に執着することもしなくなります。

原文:如是。或於内身觀身而住。於外身觀身而住。又於内外身觀身而住。或於身觀生法而住。於身觀滅法而住。又於身觀生滅法而住。

釈:色身の不浄を観察し終えた後、心は内身の観行に住むか、外身の観行に住むか、あるいは内外身を同時に観行することに住むか、色身の新たに生じる法の観行に住むか、色身で消滅する法の観行に住むか、あるいは色身の生法と滅法を同時に観行することに住む。

先ほど紹介したような色身内の物について、更に綿密に観察を続ける。まず、色身上の生法を観察する。色身上で徐々に何かが生じているのかを観察する。例えば、爪が生える、髪が伸びる、皮膚からできる膿疱、内臓器官の嚢腫や結石など、様々な病気の発生などである。その後、色身上の滅法を観察する。身体の中から何が消失しているのかを観察する。例えば、内臓器官の切除や摘出、様々な病気の消失、滅去などである。そして、更に色身の生法と滅法を同時に観察する。

原文:尚又智識所成及憶念所成。皆會有身之思念現前。彼當無所依而住。且不執著世間任何物。諸比丘。比丘如是。於身觀身而住。

釈:こうして観察していくうちに、智慧が生じ、色身に関する憶念も生じる。その結果、心の中は色身に関する思いでいっぱいになる。この時、修行者は心を色身に依拠させず、色身を客観的に見ることができ、色身と自分を密接に結びつけない。また、心は世間のどの物に対しても執着しない。諸比丘よ、比丘はこのように色身を観察しながら住むべきです。

これらの内容を全て観行し終えた後、思想の中は色身に関する念頭で満たされるが、色身に住まない。心は色身に依存しない。なぜなら、それは空で無我で、無常で変異するものだからである。心の中では身体の「私」という観念を取り除き、色身を空にする必要がある。身を亡くして初めて、一種の空の定に入ることができ、智慧の認識を生じさせ、身我見(色身を私とする知見)を断つことができる。さらに、世間の他のどの事物に対しても、心は住まない、貪着しない、執着しない。全てを空にし、これらは全て本当ではない。もし身体さえ私ではないなら、身外の物はさらに私ではない。修行してきた今でも、この観念を認めることはできないかもしれない。本当に観行を完了し、智慧を備え、他の見道の条件も全て備えた時、心の念は変わり、本当に我見を断つことができる。三縛結もそれに伴って断ち、二度と三悪道に堕ちることはない。

この理を認めることは容易ではない。今はただ意識心が知っているだけで、意根はまだ認めていない。まだそのような悟りの程度に達していない。一旦達し、意根が認めると、身心の状態は全て変わり、心の念も変わり、逆転する。意識心の浅い知識は、それほどの力を持っていない。もし意根が認めない場合、一旦何かをすると、意根は依然として以前の認識と理念に従って決定を下し、意識の認識に従って選択をすることはできない。なぜなら、身口意の行為は意識によって主導されるのではなく、深い層の意根によって主導され、選択がなされるからである。

例えば、他人に100元を布施することを約束した場合、この考えは心底から湧き出ていない。口では約束したが、ただ意識心が「私は他人に100元を与えるべきだ」と思っているだけで、意根はあまり喜んでいない。他人に100元を与えることに何のメリットがあるのか理解していない。お金を出す時、心の中で惜しむ気持ちが生じる。だから私たちは仏法を学ぶ時、禅定の中に深く入り、できるだけ意根自身に仏法を考えさせる必要がある。意根が一旦考えて理解したら、道理を理解し、思想観念と行為は全て変わる。「身を観察して不浄」という法は、常に禅定の中で深く、細かく、全面的に観行して考える必要がある。「私は知っている、それはとても簡単で、そういうものだ」と思って、深く観行することを軽んじないでください。

以上に述べた内容が「身を観て身に住む」ことで、四念处観の「身を観察して不浄」についてはこれで終わります。身を観察することは呼吸を観察することから始まり、出息入息を知る必要があり、長呼吸短呼吸を知る必要がある。呼吸の時の身体の状況をはっきりと知る必要がある。長呼吸の時、全身の状況をはっきりと知る必要がある。身体の中で生じる法を知る必要がある。消滅する法を知る必要がある。一切の生滅の法を知る必要がある。身内の法、身外の法を知る必要がある。色身がどのように不浄であるかも観行する必要がある。観行を完了し、心の中の色身の観念がしっかりとなった時、色身を空にし、身体を私である、本当であるという観念を取り除き、心の念を空にしなければなります。色身だけでなく、一切の法も空にし、どの法に対しても執着しないようにして、これによって身見と我見を断つことができます。