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阿含経十二因縁釋

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2024-11-10 閲覧回数: 1873

第二節 世尊は十二因縁を順番にも逆にも参究する

(二八五)世尊は十二因縁を順番にも逆にも参究する

原文:如是我聞。一時。佛住捨衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。我憶宿命未成正覺時。獨一靜處。專精禪思。生如是念。世間難入。所謂若生若老。若病若死。若遷若受生。然諸衆生。於生老死上及所依不如實知。

釈:世尊が舎衛国の祇樹給孤独園にいるとき、諸比丘に告げられた。「私は宿命通を用いて過去を思い起こす。まだ仏として正等覚を成していないとき、一人で静かなところにいて、一心に精進して禅修観行思惟に没入し、こういう考えが生じた。この世間は苦難に満ちている。これらの苦難は生まれることによってもたらされるか、老いることによってもたらされるか、病むことによってもたらされるか、死ぬことによってもたらされるか、生命が遷謝することによってもたらされるか、投生することによってもたらされる。しかし衆生は生老病死の過患を如実に知らず、生老病死が依拠する法も如実に知らない。」

原文:我作是念。何法有故生有。何法緣故生有。即正思惟。起無間等知。有有故生有。有緣故生有。複思惟。何法有故有有。何法緣故有有。即正思惟。起如實無間等知。取有故有有。取緣故有有。

釈:私は禅思の中でこのような疑問を抱いた。一体何の法が存在していれば生命体が現れるのか?何の法の縁故によって生命体が生まれるのか?すぐに禅思の中で正思惟を起こし、正思惟した後、間断なく疑いのない知恵と認識が生じ、以下の道理を証得した。三界の器世間があるから、生命体が生まれる。三界の器世間で生命体が生存する条件が揃っているから、生命体が現れる。

この基礎の上で、私はさらに考えた。一体何の法が具足していれば三界の器世間の生存条件が具足するのか?何の法の縁故によって三界の器世間があるのか?そこで正思惟に入り、正思惟した後、如実で間断なく正しい知恵と認識が生じた。五陰の世間法を執着するから、三界の器世間の有が生じる。心が五陰の世間法を執着する縁故に、三界の器世間の有が現れる。

この段落では、仏陀が如理実修の経過、真参実証の過程を語っている。まず参究する法に対して疑いを起こし、疑いの情が深く生じたとき、単純な意識の思惟ではこの疑いを解決できない。なぜなら意根が疑いを起こしているからで、この疑いは自分自身で解決しなければならず、意識は意根の代わりになれない。そこで仏陀は定の中で正思惟を起こし、つまり深く細かい意根の参究を行い、参究の結果、間断なく正しい正等正知が生じる。間断なく知ることは、正しく意根の知である。意識の知はしばしば間断し、特に命終後にはそうである。意根が自ら参究したから、最後には意根自身が間断なく真理を証知し、法の真実性を証知する。

もし仏陀に禅定がなければ、一つには意根が疑いを起こせず、意識の浅い疑いだけになる。二つには意根が深く細かく参究できず、最後に間断なく知ることができず、意識による推論分析理解判断になってしまい、法の真実性を実証できない。だから独覚仏辟支仏は深い山中で独りで修行し、禅定は非常に深く、思惟力も非常に深く細かく、他の人よりも優れており、そして正思惟である。外道たちは禅定も深いが、正思惟がない。なぜなら邪見があるから、思惟が正しくない。深い禅定があり、意念が集中し、思惟力が強ければ、大きな智慧、如実智を開くことができる。

仏陀はそのときまだ独覚仏で、世間には仏が出現せず、法も出現せず、伝法の僧もいない。一人で出家して山林にいて、禅定も智慧も非常に深く細かく、独りで五陰の世間の生老病死の苦しい法の原因を思惟し、そして世間がこんなに苦しいのに、衆生はなぜ自覚し悟らないのかと考えた。仏陀は衆生の苦しみを解脱するために、禅定の中で生命がどのように現れるのかを探求した。

原文:又作是念。取複何緣。何法有故取有。何法緣故取有。即正思惟。如實無間等起知。取法味著。顧念心縛。愛欲增長。彼愛有故取有。愛故緣取。取緣有。有緣生。生緣老病死。憂悲惱苦。如是如是。純大苦聚集。

釈:私はまた一つの疑問を抱いた。五陰の身に対する執取は何のためにあるのか?何の法があるから執取があるのか?何の法を縁として執取が生じるのか?このような考えが生じた後、すぐに正思惟に入り、そして如実で間断ない智慧が生じ、取着心があるのは五陰の世間法に対する貪欲と執着、心が絶えず法を顧み、心が法に縛られ、五陰の世間法に対する貪愛と欲望が絶えず増えるからだと証得した。貪愛があるから取着心があり、貪愛の縁故に執取が生じる。執取があるから三界の世間の有が生じ、三界の世間があるから生命体がその中に生まれる。生命体が生まれると老病死や憂悲悩苦があり、無量の大きな苦しみが集まる。

この文章が示す意味は、貪愛と欲望が生老病死苦の直接的な根源であり、だから貪愛は苦であって楽ではなく、苦の原因であって楽の原因ではない。衆生は逆さまで、この理を知らず、あちこちで貪愛し、恋々として捨てられず、深く定に入ってよく考えたことがない。世間には何が貪愛しうるのか、このような貪愛の結果は何か、楽が得られるのか?貪愛の実質は何か?一体何が貪愛して捨てられず、執取し続ける価値があるのか?

もし因縁条件が揃って、独り静かなところにいて、すべての法、すべての心の行いについて、細かく静かに観行すれば、如実にすべての法には貪愛しうるものがないこと、すべての欲望は不実であり、すべて苦しみであり、世間には根本的に何もなく、世間もないことを知る。こうして心は空になり、心が空になれば、苦しみは消え、楽を得て、解脱する。肝心なのは勇気を出して根源を追及し、一つ一つの環節を追究し、心と法がいったい何であるか、何があるかを深く究め、最後に心と法は何でもなく、何もないことが分かり、そうすれば世間のことは解決し、衆生は自在に解脱する。

原文:諸比丘。於意雲何。譬如緣膏油及炷。燈明得燒。數增油炷。彼燈明得久住不。答言如是。世尊。如是諸比丘。於色取味著。顧念愛縛。增長愛緣故取。取緣有。有緣生。生緣老病死。憂悲惱苦。如是如是。純大苦聚集。

釈:諸比丘、どう思いますか?例えば膏油と炷を縁として、灯明が燃えて光を放つ。何度も膏油と炷を増やせば、その灯明は長く燃え続けるでしょうか?比丘たちは「はい、世尊」と答えた。比丘たち、この道理と同じように、もしあなたたちが色に取着し、それに耽溺して抜け出せず、いつも色を振り返って想い、貪愛に縛られてしまう。色に対する貪愛を絶えず増長させるので、執取が生じる。色に執取することによって、後世の業種が残り、未来の三界の世間の有が絶えず現れる。三界の世間の有があるから、衆生の生命が生まれ、生命があれば老病死や憂悲悩苦があり、このように世間最大の苦しみが集まる。

原文:我時複作是念。何法無故。無此老病死。何法滅故。老病死滅。即正思惟。起如實無間等知。無生則無老病死。生滅故。則老病死滅。複作是念。何法無故無生。何法滅故生滅。即正思惟。起如實無間等知。有無故生無。有滅故生滅。

釈:私はこの時またこのような考えを抱いた。何の法がなければ老病死がないのか?何の法が滅べば老病死が滅ぶのか?このような疑問が生じた後、すぐに正思惟に入り、正思惟した後、如実で間断ない智慧が生じ、生がなければ老病死がなく、生が滅べば老病死が滅ぶと知った。またこのような考えを抱いた。何の法がなければ生がないのか?何の法が滅べば生が滅ぶのか?すぐに正思惟に入り、正思惟した後、如実で間断ない智慧が生じ、三界の世間の有がなければ生がなく、有が滅べば生が滅ぶと知った。

これは十二因縁の逆推、つまり逆流、生死の流れに逆らうことで、前は十二因縁を順推し、つまり順流、生死の流れに従うことである。表面上は推しているように見えるが、実際は深く思量しているのであり、浅い推論作用ではない。甚深な禅定を持つ修行者で、疑問が深い人は、意識の浅い推論ではなく、すべて意根が禅定の中で深く考え参究している。順推で生老病死の流れを推していけば、逆推で生老病死を滅ぼす方法を知り、解脱を得ることができる。生老病死の根源を見つけ、根源から遮断すれば、生老病死は断たれる。

原文:又複思惟。何法無故有無。何法滅故有滅。即正思惟。生如實無間等觀。取無故有無。取滅故有滅。又作是念。何法無故取無。何法滅故取滅。即正思惟。生如實無間等觀。所取法無常生滅。離欲滅盡捨離。心不顧念。心不縛著。愛則滅。彼愛滅故取滅。取滅故有滅。有滅故生滅。生滅故老病死。憂悲惱苦滅。如是如是。純大苦聚滅。

釈:私はまた再び思惟した。何の法がなければ三界の有がなくなるのか。何の法が滅びるから三界の有が滅びるのか。このような疑問を抱いた後、私は直ちに正思惟に入り、正思惟した後、如実で間断のない観行の智慧が生じ、執取がなければ三界の有がなく、執取が滅びると三界の有が滅ぶことを証得した。

私はまたこのような疑問を抱いた。何の法がなければ執取がなくなるのか。何の法が滅びると執取が滅ぶのか。直ちに正思惟に入り、正思惟した後、如実で間断のない観行の智慧が生じ、すべての取着する法は無常で生滅すること、無常で生滅する法に対して欲望がなくなり、欲望を滅尽し、法の貪欲と法の愛を捨離し、心がもう五陰の世間法を顧みなく、心がもう五陰の世間法に縛られなくなれば、貪愛が滅ぶ。貪愛が滅ぶと、世間法に対する執取が滅びる。執取が滅びると、三界の有が滅ぶ。三界の有が滅ぶと、生が滅ぶ。生が滅ぶと、老病死や憂悲悩苦が滅ぶ。このように、世間の最大の生死の苦しみの大火聚が滅ぶ。これから以降、もう苦しみの受けることはない。

なぜ五陰の世間をもう執取しなくなれば、三界の世間の有が消えるのか。なぜなら執取性は意根の無明で、意根の遍計所執性であり、三界の世間は意根の無明と執着によって建てられたからである。意根が執着を断尽し、もう五陰の世間を執取しなくなれば、心が空で清浄になり、もう三界の業行を造作しないか、少なく造作し、三界の業種は次第に消える。生命の存続期間において、有余涅槃にあり、命終時に意根がすべての法を取らなく、執着しなければ、如来藏はもうどんな法も生じさせることができず、意根の識種子も生じさせることができず、意根が滅び、五陰の身が消え、これからもう五陰の身を生じさせなくなり、自身が属する三界の世間の有もそれに伴って滅び、もう生じない。なぜなら三界の世間の有がなくなれば、後世の生命が依拠するものがなく、さらに三界の業種がなければ、生命が生じる条件と因縁が揃わないから、もう生命体が現れない。

なぜ貪愛が滅ぶと、執取性が滅ぶのか。なぜなら貪愛は心を五陰の世間に深く陥れ、抜け出せなくし、五陰と離れることができず、必然的に世間法を執取するからである。もし貪愛がなければ、法に対してあってもなくてもよく、縁に従って自在で、執取する動力もない。だから生死輪廻は貪愛によって引き出される。貪愛を捨て、三界を愛恋しなければ、必然的に涅槃し、もう生死を繰り返さない。

原文:諸比丘。於意雲何。譬如油炷然燈。若不增油治炷。非彼燈明未來不生。盡磨滅耶。比丘白佛。如是世尊。如是諸比丘。於所取法。觀察無常生滅。離欲滅盡捨離。心不顧念。心不縛著。愛則滅。愛滅則取滅。乃至純大苦聚滅。

釈:諸比丘、どう思いますか。例えば油炷で灯を燃やす場合、油を増やさないし、炷を整えないなら、その灯の明かりは未来に生じなく、すべて消え去るではないか。比丘たちは仏に白いた。「はい、世尊。」諸比丘たち、このように、もしあなたたちが取る法に対して、法の無常と生滅性を観察すれば、心は欲を離れ、欲を滅尽し、欲を捨離し、もう五陰の世間法を顧みず、これらの法に縛られなくなり、そうすると貪愛が滅ぶ。貪愛が滅ぶと、心の執取性が滅ぶ。執取が滅ぶと、三界の有が滅ぶ。三界の有が滅ぶと、未来世の生が滅ぶ。生が滅ぶと、老病死や憂悲悩苦が滅ぶ。さらに純大な苦しみの集まりが滅ぶ。

世尊はここで灯の明かりを生老病死の純大な苦しみの集まりに譬え、灯油を貪愛の煩悩に比べる。私たちが灯炷に油を加えなければ、この油灯は長く燃えることができず、すぐに消え去る。同様に、生死の大きな苦しみに対して、私たちがもう貪愛の煩悩を加えなければ、貪愛はゆっくり薄れ消え、そして苦しみは滅ぶ。もし貪愛が絶えず増えれば、生死の大きな苦しみはますます集まり、いつ苦しみを滅ぼせるでしょうか。悟りのある人は生死輪廻の苦しみの中で、もう煩悩を増やすべきではなく、智慧を増やすべきである。智慧の火で貪愛の煩悩を照らし破り、最後に貪愛を断尽し、解脱を得る。

世尊が衆生に苦しみを滅ぼす方法を教えるのは、自心が取着する法に対して常にその無常性と生滅性を観察することである。自分が取る五陰の世間が本当に生滅無常であることを証得した時、その時五陰の世間に対する貪愛を絶えず捨離し、もう念じることも気にかけることもなく、最後に貪愛を完全に滅ぼせば、もう縛られなくなり、世間の生死の苦しみから解脱する。修行の中で念を転じ、方向を転じ、心を転じ、煩悩を転じることが上手であれば、智慧が生じる。智慧の大火が燃え始めると、煩悩は滅ぶ。智慧がなければ、煩悩は絶えず成長する。智慧があれば全てがあり、智慧がなければ、煩悩の苦しみがある。

(二八七)世尊は十二因縁を順番にも逆にも参究する

原文:爾時。世尊告諸比丘。我憶宿命未成正覺時。獨一靜處。專精禪思。作是念。何法有故老死有。何法緣故老死有。即正思惟。生如實無間等。生有故老死有。生緣故老死有。如是有取。愛受觸。六入處名色。

釈:世尊は諸比丘に告げられた。私は往世を憶える。まだ正等正覚を成していない時、一人で静かなところにいて、一心に禅思に没入した。こう考えた。何の法があるから老死があるのか。何の法が縁故に老死があるのか。すぐに正思惟に入り、正思惟した後、如実で間断ない智慧が生じ、生があるから老死があり、生が縁故に老死があることを知った。このように一つ一つ逆に推していくと、生命体が生まれるのは三界の器世間があるからで、三界の有を縁として生命体が生まれることを証得した。三界の器世間の有があるのは衆生が五陰の世間法を執取するからで、衆生の執取を縁として有が生じる。

衆生が五陰の世間に貪愛があれば執取が生じ、貪愛の縁故に執取が現れる。衆生が五陰の世間に受があるから貪愛が生じ、受の原因で貪愛が生じる。衆生が六根が六塵に触れるから受が生じ、触の原因で受が生じる。衆生が外六入と内六入があるから触が生じ、内外六入の原因で触が生じる。衆生が名色があるから六入が生じ、名色を縁として六入が生じる。

原文:何法有故名色有。何法緣故名色有。即正思惟。如實無間等生。識有故名色有。識緣故有名色有。我作是思惟時。齊識而還。不能過彼。

釈:私はまたこのような考えを抱いた。何の法があるから名色があるのか。何の法を縁として名色が生じるのか。すぐに正思惟に入り、その後如実で間断ない智慧が生じ、阿頼耶識があるから名色が生じ、阿頼耶識を縁として名色が生じることを知った。私がこのような思惟をしている時、阿頼耶識まで思惟して、それ以上は思惟できない。なぜなら、その前にはもう何の法もないからで、つまり何の法も阿頼耶識を生じさせることはできず、あるいは何の法も阿頼耶識を生じさせることを促すことはできず、前には阿頼耶識を超える法はない。これは生死の流れに逆らって根源を追及することで、生死の源は阿頼耶識にあり、阿頼耶識から生死が流れ出る。

原文:謂緣識名色。緣名色六入處。緣六入處觸。緣觸受。緣受愛。緣愛取。緣取有。緣有生。緣生老病死。憂悲惱苦。如是如是。純大苦聚集。

釈:阿頼耶識を縁として名色があり、名色を縁として六入処が生じ、六入処を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老病死や憂悲悩苦があり、このように三界生死の大きな苦しみが集まる。

なぜ阿頼耶識から生死が流れ出るのか。意根に無明があり、五陰の世間法を所有したいと思うからで、阿頼耶識は意根の無明と業種に従い、三界の世間と五陰の身を生じ、生死はその中にある。十二因縁は無明に従って生死の流れが生じ苦しみが生じ、十因縁は生死の流れに逆らって無明を滅ぼし苦しみを滅ぼす。十二因縁の生死の流れがあるのは、衆生の意根に無明があるからで、無明を縁として、阿頼耶識は無明によって一連の生死の鎖を生じ、衆生を苦海に押しやる。十因縁の逆生死の流れは、生老病死の現象から一直線に根源を追及して阿頼耶識まで辿り着き、もし阿頼耶識を証得し、阿頼耶識がどのように五陰の名色を生じさせるかを知れば、菩薩となり、大乗の修行に入る。

もし十二因縁と十因縁の各分支を実証すれば、中乗の聖人である辟支仏独覚仏となる。辟支仏たちは十因縁の各分支を実証しても、阿頼耶識については推測で実有と考えているだけで、阿頼耶識を証得しておらず、阿頼耶識がどこにあり何の作用をしているかを見つけていないので、阿頼耶識を実証したものには本質的な違いがある。

原文:我時作是念。何法無故則老死無。何法滅故老死滅。即正思惟。生如實無間等。生無故老死無。生滅故老死滅。如是生有。取愛受觸。六入處名色。識行廣說。

釈:私はこの時またこのような考えを抱いた。何の法がなければ老死がないのか。何の法が滅べば老死が滅ぶのか。すぐに正思惟に入り、その後如実で間断ない智慧が生じ、生がなければ老死がなく、生が滅べば老死が滅ぶことを知った。このように思惟していくと、三界の有がなくなれば生が現れず、三界の有が滅べば生が滅ぶことを証得する。取がなければ三界の有がなく、取が滅べば三界の有が滅ぶ。

貪愛がなければ取がなく、貪愛が滅べば取が滅ぶ。受がなければ貪愛がなく、受が滅べば貪愛が滅ぶ。触がなくなれば受がなく、触が滅べば受が滅ぶ。六入処がなければ触がなく、六入処が滅べば触が滅ぶ。名色がなければ六入処がなく、名色が滅べば六入処が滅ぶ。六識の業種がなければ名色が滅び、六識の業種が滅べば名色が滅ぶ。身口意の業行がなければ六識の業種がなく、身口意の業行が滅べば老死が滅ぶ。

原文:我複作是思惟。何法無故行無。何法滅故行滅。即正思惟。生如實無間等。無明無故行無。無明滅故行滅。行滅故識滅。識滅故名色滅。名色滅故六入處滅。六入處滅故觸滅。觸滅故受滅。受滅故愛滅。愛滅故取滅。取滅故有滅。有滅故生滅。生滅故老病死。憂悲惱苦滅。如是如是。純大苦聚滅。

釈:私はまたこのような思惟をした。何の法がなければ業行がなくなるのか。何の法が滅べば業行が滅ぶのか。すぐに正思惟に入り、その後如実で間断ない智慧が生じ、意根の無明がなければ業行がなく、意根の無明が滅べば業行が滅ぶことを証得した。業行が滅べば六識の業種が滅び、六識の業種が滅べば未来世の名色が滅び、名色が滅べば六入処が滅び、六入処が滅べば触が滅び、触が滅べば受が滅び、受が滅べば愛が滅び、愛が滅べば取が滅び、取が滅べば有が滅び、有が滅べば生が滅び、生が滅べば老病死や憂悲悩苦が滅び、そしてこのような大きな苦しみの集まりが滅ぶ。

十二因縁の生死の循環は結局すべて意根の無明によるもので、意根が始作俑者である。だから生死の輪廻から離れ、解脱したいなら、必ず意根の無明を破って断ち切らなければならない。意根がもう三界の世間を妄想して歩くことがなくなれば、身口意の業行が滅ぶ。意根がすべての法が空で無我であることを証得すれば、もうどんな理由も、どんな動力もなく、いかなる法も執取しなくなる。取着がなければ苦しみがなく、解脱して自在である。

意根が五陰の世間に対して心の行いがなく、願いがなく、攀縁がなく、執取がなければ、もう六識にさらに多くの身口意の業行を作らせない。七識の心はすべて清浄になり、無為になり、静寂になり、三界の業は終わり、業種がなくなり、未来世にはもう五陰の世間がなく、名色もなく、このように一時的に寂灭する。未来無量劫以降、大乗の法縁が熟し、再び寂灭涅槃から生まれ、菩薩道を実践し、自らを度し他をも度し、仏道を完成させ、本当の寂灭のところ、つまり無住処涅槃に入り、もう灰身泯智する必要はない。

意根の無明を破ることは我見を断ち須陀洹果を証得することから始まり、さらに辟支仏果を証得して、三界の生死の無明の種子を断ち尽くし、まだ無始無明と塵沙無明が未来の仏道の修証において少しずつ破られ、すべて断ち尽くされると、大覚世尊となる。ただ三界の無明を断ち尽くすだけではほんの一部しか覚悟しておらず、大覚ではなく、究竟覚でもない。仏道を学ぶ道では発心がとても重要で、発心が大きければ大きければ、覚悟も大きく徹底的になり、仏になるのも早くなる。

原文:我時作是念。我得古仙人道。古仙人迳。古仙人道跡。古仙人從此跡去。我今隨去。譬如有人。遊於曠野。披荒覔路。忽遇故道。古人行處。彼則隨行。漸漸前進。見故城邑。古王宮殿。園觀浴池。林木清淨。

釈:私は十二因縁を前後してすべて思惟し通した後、このような考えが心に生じた。私は今古代の聖人が歩いた道を歩いている。古代の聖人が歩いた径路を歩いている。古代の聖人たちはこの道を通って行った。私は今それに従って行く。たとえばある人が深山の曠野を旅し、荒れ地を切り開いて道を探していると、突然古い道に出会う。古人が通ったところで、その人は古人が通ったところに従って進む。少しずつ前進して、古い城邑、古い王の宫殿、大観園や浴場、林や木々が清浄なのを見る。

原文:彼作是念。我今當往白王令知。即往白王。大王當知。我遊曠野。披荒求路。忽見故道。古人行處。我即隨行。我隨行已。見故城邑。故王宮殿。園觀浴池。林流清淨。大王可往。居止其中。王即往彼。止住其中。豐樂安隱。人民熾盛。

釈:この人はこう考えた。私は今すぐに王に行って知らせるべきだ。すぐに王に行って、大王、あなたは知ってください。私は曠野を旅し、荒れ地を切り開いて道を探していました。突然古い道に出会いました。古人が通ったところです。私はそれに従って進みました。進んだら古い城邑、古い王の宫殿、大観園や泉流浴場、林や木々が清浄なのを見ました。大王、あなたはそこに行って、そこに住んでください。そして大王はそこに行って住み、国を治めました。それから国は豊かで、人民は豊かで安らかで楽しく、盛んになりました。

仏はこの話を譬えて、自分が十二因縁を探究する過程は、昔の聖人が用いた方法と同じで、歩いた道も同じで、探究した結果も同じで、結論も一致するということを示している。古い聖人たちは真理を証得し、仏陀も今同じように真理を証得し、皆解脱し、生死の大きな患いから出て、安らかな涅槃の城に到達し、安らかで楽しい生活を享受している。古仙人道は八正道を指し、古い城邑や古い王の宫殿は涅槃の境地を表している。私は古仙人の道に従って、無明の果てまで歩き、無明を滅ぼし、そうすれば生老病死や憂悲悩苦も滅ぶ。曠野を旅し荒れ地を切り開いて道を探すことは、十二因縁を修行する道が非常に厳しくて容易ではないことを表し、不屈の精神と絶え間ない模索と探索が必要で、やっと生死の源と奥義を探究し、生死の源を遮断し、涅槃に到達して解脱することができる。

原文:今我如是。得古仙人道。古仙人迳。古仙人跡。古仙人去處。我得隨去。謂八聖道。正見正志。正語正業。正命正方便。正念正定。我從彼道。見老病死。老病死集。老病死滅。老病死滅道跡。見生有取。愛受觸。六入處名色。識行。行集行滅。行滅道跡。

釈:仏は言う。私は今、このように古仙人の修行の道、古仙人の修行の跡、古仙人の帰るところを見つけた。この道は八正道である。正語、正見、正念、正定、正思惟、正業、正命、正精進。私はこの八正道に従って、老病死の苦しみを見て、老病死の苦しみの集まりを断ち、老病死の苦しみの滅を証得し、老病死の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は生の苦しみを見て、生の苦しみの集まりを断ち、生の苦しみの滅を証得し、生の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は有の苦しみを見て、有の苦しみの集まりを断ち、有の苦しみの滅を証得し、有の苦しみを滅ぼす道を修めた。

私は取の苦しみを見て、取の苦しみの集まりを断ち、取の苦しみの滅を証得し、取の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は愛の苦しみを見て、愛の苦しみの集まりを断ち、愛の苦しみの滅を証得し、愛の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は受の苦しみを見て、受の苦しみの集まりを断ち、受の苦しみの滅を証得し、受の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は触の苦しみを見て、触の苦しみの集まりを断ち、触の苦しみの滅を証得し、触の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は六入処の苦しみを見て、六入処の苦しみの集まりを断ち、六入処の苦しみの滅を証得し、六入処の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は名色の苦しみを見て、名色の苦しみの集まりを断ち、名色の苦しみの滅を証得し、名色の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は六識の業種の苦しみを見て、六識の業種の苦しみの集まりを断ち、六識の業種の苦しみの滅を証得し、六識の業種の苦しみを滅ぼす道を修めた。私は身口意の業行の苦しみを見て、身口意の業行の苦しみの集まりを断ち、身口意の業行の苦しみの滅を証得し、身口意の業行の苦しみを滅ぼす道を修めた。

原文:我於此法。自知自覺。成等正覺。爲比丘比丘尼。優婆塞優婆夷。及餘外道沙門婆羅門。在家出家。彼諸四衆。聞法正向信樂。知法善。梵行增廣。多所饒益。開示顯發。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。

釈:私は十二因縁のこの法について、自分で証知し、自分で覚悟し、他によらず、最後に無上正等正覚を成した。私が仏に成った後、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷、そして他の外道の沙門や婆羅門、在家者や出家者など四衆の弟子たちのために、彼らがこの法を聞き、解脱の法門を信じて楽しみ、無明を滅ぼす正しい道に向かい、この法門の善い果報を証知し、梵行を増やし広げ、四衆の弟子たちに多くの利益を与えるため、私はここでこの古仙人の修証の道を開示する。仏はこの経を説き終えた後、諸比丘たちは仏の説法を聞いて、とても喜び、信じて受け入れ、実行した。

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