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煩悩無尽誓い断つ
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阿含経十二因縁釋

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2024-11-10 閲覧回数: 1787

第二節 名詞概念の解説

一、名色の意味

色とは地水火風の四大からなる色法を指し、肉眼で見えるもので、色陰のようなものである。名とは名前の法で、肉眼では見えないが、作用があり、色身に作用して色陰を構成し、知覚され、観察されるものである。例えば受陰、想陰、行陰、識陰などである。名色は衆生の五陰身を構成し、衆生の生生世世の実じゃない私である。この私は堅固でなく、破壊され、滅びるもので、生住異滅の法であるから、私ではなく、仮に私と名づけられる。名の中には意根とその作用、六識とその作用が含まれる。

二、緣覚仏と独覚仏

辟支仏は二種類に分けられる。一つは緣覚仏で、もう一つは独覚仏である。緣覚仏は仏が在世する時代に生まれ、仏が十二因縁法を説くとき、緣覚仏は仏に従って十二因縁法を修行し、甚深な禅定の中で深く細かく因縁法を思惟し、参究して最後に辟支仏の果位を証得する。五蘊世間はすべて因縁によって生じることを実証し、一つの因縁法が欠ければ生じない。因縁によって生じる法であれば、空で、自性がなく、無常である。この理を証得すれば緣覚仏である。

独覚仏は仏も三寳も在世しないときに、自分一人で世間の無常の現象を考え、ゆっくりと十二因縁法を探り当て、十二因縁の各支分を実証する。独覚仏は生生世世仏に従って修行し、善根が非常に深い。彼はこの世に生まれて仏が在世して法を説いていないし、仏法も在世していないが、前世に修めた善根と福德のため、世間のある現象を見て、心に疑問が生じ、深く考えるようになる。例えば秋の風が吹いて、木の葉が木から落ちるのを独覚仏が見て、心に疑問が生じ、この現象を明らかにするために、一人で深山や森の中に入って独りで修行し、絶えずこれらの生滅の現象を深く考え、参究する。

独覚仏は考える。人は生まれても死ぬ。木は秋になると木の葉が落ちて、春になるとまた芽吹く。これはどういうことなのか?なぜ万事万物には生滅があるのか?そこで禅定を修めながら絶えずその中の因縁を探っていく。毎日座禅して思惟し、万事万物が生じる根源を探し求める。これも禅修、思惟修と呼ばれる。何年もの苦労の修行を経て、ついに十二因縁法を悟り、人無我を証得し、世間の万事万物万法はすべて因縁によって生じ、因縁によって生じる法は空で偽りで無常であることを知り、それによって辟支仏の果位を証得する。

独覚仏は四禅八定を持っているので、辟支仏の果位を証得したとき、三昧の力によって神通が現れ、その後彼は神通を使って衆生を度化する。もし彼が托鉢に行き、衆生が彼に飲食を布施すれば、彼は衆生に報いるために神通を示し、空中で行住坐臥し、体から水が出て、下から火が出て、体から火が出て、下から水が出て、山を貫いて地に入り、衆生は見て非常に羨ましくなり、それによって仏法に対して信楽を生じ、それに従って修行する。もし辟支仏が世間での縁が尽きれば、無余涅槃に入り、この世を去り、もう三界に来ない。

阿羅漢と辟支仏は涅槃を証得した後、みな三界世間を離れる。仏法は世間で伝えられなくなり、苦しむ衆生は救われない。だから仏は二乗の人の慈悲心は薄いと言う。彼らは自分だけの苦を滅ぼしたいだけで、衆生も苦から離れるのを助けることを考えない。しかし菩薩たちの慈悲心は大きく、すべての衆生を利楽する事業を捨てない。慈悲喜捨の四無量心を修行し、十無尽願を発し、生生世世広く衆生を利楽し、尽きることなく、仏になるまで、決して無余涅槃に入らない。仏になった後、無量無数の五蘊身を変化させて果てしない衆生を利楽する。

三、十二因縁と十因縁の中の識はそれぞれ何を指すか

十二因縁では、無明は行を縁とし、行は識を縁とし、識は名色を縁とする。ここの識は六識を指す。六識が造作する身口意の行為によって、後世の業種が残り、胎に入ってこそ後世の名色がある。しかし十因縁の中の識は名色を縁とし、名色は識を縁とする。ここの識は六識を指さない。なぜなら名色は識を縁とするという意味は、名色がこの識に依存して生住異滅の現象があるからで、先にこの識があって、それから名色があり、六識がある。名色の中には既に六識が含まれているので、六識は名色に従ってあり、生住異滅のものであり、またこの識に依存して生住異滅がある。だから名色は識を縁とする識と六識は同等の関係ではなく、生むと生まれる関係である。この識は天地より先の根本識で、生まれない滅びない万法を生じる阿頼耶識である。

四、缘起性空の内包

缘起性空は小乗法の空の角度から、如来蔵が生じた一切の法がすべて世俗法であることを観察するもので、大乗如来蔵の角度から観察するものではない。世俗において一切の法はすべて因縁によって起こり、形質はすべて空で、生滅し、敗壊し、長く続かず、得られず、つかめない。これが小乗法の角度から世俗法の性質を見るもので、その因は一切の法を発起する源・起源で、言い換えれば以前に造業した業種で、善悪無記の三種の業を含む。縁は業種を促し、助けて現行させて果報となる人・事物・環境で、因縁が具足すれば、業果が実現する。凡そ因縁によって生じる法は、因縁が変われば、法も変わる。だから世間の一切の学問や生産事業も、世間の絶えず変化する縁に従って変化し、固定していない。

しかし出世間の真理は因縁によって生じる法ではないので、変わらない。もし変わるものなら、真理や聖諦と呼ぶことはできない。第七識だけが無因無縁で存在しているが、実際に第七識の存在にも因があり、それは第七識の一念無明である。この一念無明が滅べば、第七識も滅して存在しなくなる。第七識の存在には縁がなく、無始劫以前から存在しており、生じる助縁を見つけられないので、第七識には始まりがない。無明に始まりがないから、無始無明と呼ばれる。

すべての法が缘起性空であれば、因も性空で生滅し、縁も性空で生滅し、それで因縁が滅びたとき、一切の法も滅ぶ。ここには大乗如来蔵法は関わらず、如来蔵がこれら一切の法を生じたことには触れていないので、小乗の空法と呼ばれる。如来蔵に触れなければ、一切の法が空になることは根本点に落ちていないように見え、まるで一切の法があるから、缘起性空になる。実際に一切の法は大乗如来蔵の角度から見れば、すべて如来蔵であり、実質的な一切の法はなく、一切の法は生じないので、滅びもしない。如来蔵の変化相だから、何が生じるのか、何が滅ぶのか。すべて如来蔵の外に出ない。

小乗の空は敗壊する空で、大乗如来蔵の空性は生滅しない空性心で、両者の本質は異なり、混同してはならない。缘起性空は小乗法のその種の空無で、まだ大乗如来蔵法の修行の内包に触れていないので、缘起性空は究竟ではない。また一切の世間法の究竟の意味と本質は何かを悟らなければならない。

阿羅漢果や辟支仏果を証得した後、大乗法に転入して如来蔵法を修行し、如来蔵を悟証した後、さらに段階的に五蘊世間法を観行すれば、五蘊と如来蔵の関係、五蘊の生じると滅ぶ真相を知り、如来蔵の体性、五蘊世間の実質を徹底的に悟り明らかにし、無明が尽きてこそ仏になれる。五蘊世間の缘起性空だけを悟得しても、小乗の方面の空だけを証得したに過ぎず、仏になれない。

五、行は識を縁とし、識は名色を縁とするをどう正しく理解するか

まず仏経の翻訳に誤解がある可能性がある。経典翻訳者の修証レベルはバラバラで、各種の証量も異なり、また証量が全くない翻訳者もいて、翻訳された仏経の法義に差異が生じる。一人が翻訳すれば一つの水準で、複数の人が翻訳すれば複数の水準になる。昔の小乗の修行者は皆意根を理解しておらず、経典翻訳において意根に関する法義に遭遇すると、理解に偏りが生じ、理解できないものもある。もしこの人の禅定が非常に良ければ、修証においてこの不足を補うことができるが、経典の解説や翻訳においてはこの部分の不足を補うことができず、後世の禅定を持たない人々に種々の誤解を生じさせ、実証できなくなり、やむを得ず推理、分析、想像を用いる。

仏教を学ぶ人が法義においてまだ貫通しておらず、意根を理解し実証できないなら、経典に対する認識に誤解や通じない部分が出てくる。例えば十二因縁の無明は行を縁とし、行は識を縁とするところで、どう考えてもこの行と識が何を指すのかわからず、両者の関係がはっきりしないし、運行の前後の順序も逆になってしまう。もし行は識を縁とするの識を第七識あるいは第八識と理解すれば、法義は大きく外れてしまう。何の行が第七識を生じるのか?第八識の行だけが第七識を生じるが、しかし第八識には無明がないので、無明は行を縁とするところが説明できない。何の行が第八識を生じるのか、世出世間のいかなる行も第八識を生じることはできない。だから行は識を縁とし、識は名色を縁とするの識は第七識や第八識ではなく、六識しかない。

では何の行が六識を生じるのか?ここの六識は実際には六識の業種を指し、身口意の行為によって六識の業種が生じる。身口意の行為と六識は平行・並列の関係なので、六識は身口意の行為によって生じるのではなく、六識の業種こそが身口意の行為によって生じる。六識は第八識によってしか生じられず、第七識の無明は助縁で、第八識は第七識の無明に従って六識を生じさせて身口意の行為を造作させ、六識の業種を残し、後世に五陰名色が生じる因となる。このように一環一環と繋がって運行してこそ、完全な十二因縁の生死輪廻の苦がある。

六、诸法は因縁によって生じる。私が言うには、それは即ち空である

因は、一切の法が生じる内在的な動力であり、業種とも言えるし、過去世に造作した業行とも言える。縁は、一切の法が生じるために必要な外的な力。業種の因と外的な縁があってこそ、诸法が生じる。しかしその中にはまた一つの理由がある。それは誰が因縁を通じて诸法を生み出すのか?この理由は他になく、唯阿頼耶識のみ。

例えば小麦の生じるのは、因は小麦の種で、縁は気候や土壌などで、因縁が具足すれば、小麦の芽が生じる。しかし小麦の芽は自発的に生じることはできず、人為的に種を土壌に植え、肥料をやり、水をやり、灌漑し、風を通す必要がある。もし人為的なことがなければ、たとえ小麦の種があり、地水火風があっても、両者が和合しなければ、小麦の芽は生じない。

同じように、もし業種と外的な縁だけがあり、阿頼耶識が両者を統合しなければ、诸法は生じない。なぜなら诸法は七大の種子を組み合わせてできており、阿頼耶識にはこの七大の種子があり、業種も含まれており、外的な力も诸法の中の法で、同じく七大の種子を組み合わせて、阿頼耶識によって生じるからである。だから诸法は何の法であれ、すべて阿頼耶識によって生じる。つまり因縁によって生じる。

既に诸法は因縁によって生じるのであれば、もともとない後天的に生じるもので、生じれば滅びる。因縁が滅ぶとき、诸法も滅びる。だから诸法は空で、因縁によって生じる法は空で、得られるものはない。

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