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阿含経十二因縁釋

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2024-11-10 閲覧回数: 1783

第三節 十二因縁は誰のために作られるのか

(二八八)舎利弗と摩訶拘絺羅の十二因縁対話

原文:爾時。尊者捨利弗。尊者摩訶拘絺羅。在耆闍崛山。爾時尊者捨利弗。晡時從禪覺。詣尊者摩訶拘絺羅。共相問訊慶慰已。於一面坐。語尊者摩訶拘絺羅。欲有所問。寧有閑暇見答與不。尊者摩訶拘絺羅語尊者捨利弗言。仁者且問。知者當答。尊者捨利弗問尊者摩訶拘絺羅。雲何尊者摩訶拘絺羅。有老不。答言有。

釈:尊者舎利弗はある日の午後、禅定から起き上がり、尊者摩訶拘絺羅の住処に行き、挨拶し問いかけた後、片側に座り、摩訶拘絺羅に言う。私には質問がありますが、あなたは暇があって答えてくれますか。摩訶拘絺羅は「尊者、尋ねなさい。知っていれば答えます」と言う。舎利弗は拘絺羅に尋ねる。尊者、あなたはどう思いますか。世の中に老いという現象はありますか?拘絺羅は「あります」と答える。

原文:尊者捨利弗複問。有死不。答言有。複問雲何。老死自作耶。爲他作耶。爲自他作耶。爲非自非他。無因作耶。答言尊者捨利弗。老死非自作。非他作。非自他作。亦非非自他作。無因作。然彼生緣故有老死。

釈:舎利弗はまた尋ねる。世の中に死という現象はありますか?拘絺羅は「あります」と答える。舎利弗はまた尋ねる。あなたはどう思いますか。老いと死という現象は自然にあるものなのか、それとも他の縁や原因によって作られるものなのか、あるいは自然と他の縁が共同して作り出すものなのか、それとも自然にあるものでもなく他の縁によって作られるものでもなく、何の縁も原因もなく現れるものなのか?拘絺羅は答える。老いと死は自然にある現象ではなく、他の縁によって作られるものでもなく、自然と他の縁が共同して作り出すものでもなく、非自非他で自然にあるものでもなく他の縁によって作られるものでもなく、何の理由もなく作られるものでもない。しかし生がある縁故に老いと死がある。

原文:如是生有。取愛受觸。六入處名色。爲自作。爲他作。爲自他作。爲非自他無因作。答言。尊者捨利弗。名色非自作。非他作。非自他作。非非自他作無因作。然彼名色緣識生。

釈:舎利弗はまた尋ねる。同じように、生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、これらの現象は自然にあるものなのか、それとも他の縁や原因によって作られるものなのか、あるいは自然と他の縁が共同して作り出すものなのか、それとも自然と他の縁が共同して作り出すものでもなく無因に現れるものなのか?拘絺羅は舎利弗に答える。生という現象は自然にあるものではなく、他の縁によって作られるものでもなく、自然と他の縁が共同して作り出すものでもなく、非自然と他の縁が共同して作り出すものでもなく、無因にあるものでもない。しかし三界の有がある縁故に生が現れる。

三界の有は自然にあるものではなく、他の縁によってあるものでもなく、自然と他の縁が共同してあるものでもなく、非自然と他の縁が共同してあるものでもなく、無因にあるものでもない。しかし執取がある縁故に三界の有が現れる。執取という現象は自然にあるものではなく、他の縁によって作られるものでもなく、自然と他の縁が共同して作り出すものでもなく、非自然と他の縁が共同して作り出すものでもなく、無因にあるものでもない。しかし貪愛がある縁故に執取が現れる。貪愛は自然にあるものではなく、他の縁によって生じるものでもなく、自然と他の縁が共同して生じるものでもなく、非自然と他の縁が共同して生じるものでもなく、無因に現れるものでもない。しかし受がある縁故に貪愛が生じる。

受は自然にあるものではなく、他の縁によって生じるものでもなく、自然と他の縁が共同して現れるものでもなく、非自然と他の縁が共同して現れるものでもなく、無因に現れるものでもない。しかし触がある縁故に受が生じる。触は自然にあるものではなく、他の縁によって現れるものでもなく、自然と他の縁が共同して生じるものでもなく、非自然と他の縁が共同してあるものでもなく、無因に現れるものでもない。しかし六入処がある縁故に触が現れる。

六入処は自然にあるものではなく、他の縁によって生じるものでもなく、自然と他の縁が共同して作り出すものでもなく、非自然と他の縁が共同して作り出すものでもなく、無因に現れるものでもない。しかし名色がある縁故に六入処が現れる。名色は自然にあるものではなく、他の縁によって生じるものでもなく、自然と他の縁が共同して生まれるものでもなく、非自然と他の縁が共同して生まれるものでもなく、無因に生まれるものでもない。しかし六識の業種がある縁故に名色が生じる。

原文:複問。彼識爲自作。爲他作。爲自他作。爲非自非他無因作。答言尊者捨利弗。彼識非自作。非他作。非自他作。非非自他作無因作。然彼識緣名色生。

釈:舎利弗はまた尋ねる。その六識の業種は自然にあるものなのか、それとも他の縁によって生じるものなのか、あるいは自然と他の縁が共同して作り出すものなのか、それとも自然でもなく他の縁でもなく無因に生じるものなのか?拘絺羅は舎利弗に答える。六識の業種は自然にあるものではなく、単に他の縁によって生じるものでもなく、自然と他の縁が共同して生まれるものでもなく、非自然と他の縁が共同して生まれるものでもなく、無因に生じるものでもない。しかし六識は名色がある縁故に生じる。

原文:尊者捨利弗。複問尊者摩訶拘絺羅。先言名色非自作。非他作。非自他作。非非自他作無因作。然彼名色緣識生。而今複言識緣名色。此義雲何。尊者摩訶拘絺羅答言。今當說譬。如智者因譬得解。譬如三蘆立於空地。展轉相依。而得竪立。若去其一。二亦不立。若去其二。一亦不立。展轉相依。而得竪立。識緣名色亦複如是。展轉相依。而得生長。

釈:舎利弗はまた拘絺羅に尋ねる。あなたは先ほど名色は自然にあるものではなく、他の縁によって生じるものでもなく、自然と他の縁が和合して生まれるものでもなく、自然と他の縁が和合して生まれないものでもなく、無因無縁で生まれるものでもないと言いました。しかし名色は六識の業種がある縁故に生じると言いました。あなたは今また六識は名色がある縁故に生じると言います。これはどういう道理ですか。

拘絺羅は答える。私は今譬えを言いましょう。もし智慧のある人なら、譬えによって道理を悟ることができます。たとえば三本の葦が空地に立つには、三者が互いに頼り合ってこそ立てることができます。一本の葦を取り除けば、残りの二本も立てなくなります。二本の葦を取り除けば、残りの一本も立てなくなります。三者が互いに頼り合ってこそ立てることができます。識と名色が互いに縁があり、互いに頼り合うのもこのようです。互いに頼り合ってこそ成長できます。

名色五陰は六識の業種に縁って生じるという道理はこうです。六識が絶えず身口意の行いを作り、業種が残っていると、五陰の世間は滅びることができず、後世にまた三界で五陰の身が生まれ続けます。後世の業種があるので、中陰身があり、後世の名色があります。意根は中陰身の中で業種に従って六道輪廻を流転し、阿頼耶識と一緒に生まれ変わり、後世の最初の名色があります。名は意根第七識で、色は受精卵です。六識は名色に縁って生じるという道理はこうです。衆生の胎児期の名色がさらに成長した後、六入処が成熟し、六根が六塵に触れると、六識が名色五陰の身の中で生まれます。このように名色と六識は互いに頼り合う関係で、お互いに生まれ、運行し続けることができ、このように生死は絶えません。

十因縁の中にも識が名色に縁り、名色が識に縁るという説があります。ここの識は六識の識ではなく、阿頼耶識の識、第八識の識です。つまり阿頼耶識は名色五陰の縁によって五陰の世間で自分の運行と造作をすることができ、名色も阿頼耶識に縁って生まれ、発展し、絶えず運行することができます。阿頼耶識がなければ依るものがなく、名色の生じることはなく、名色がなければ阿頼耶識は無余涅槃の状態になります。

原文:尊者捨利弗言。善哉善哉。尊者摩訶拘絺羅。世尊聲聞中。智慧明達。善調無畏。見甘露法。以甘露法具足身作証者。謂尊者摩訶拘絺羅。乃有如是甚深義辯。種種難問。皆悉能答。如無價寶珠。世所頂戴。我今頂戴尊者摩訶拘絺羅。亦複如是。我今於汝所。快得善利。諸餘梵行。數詣其所。亦得善利。以彼尊者善說法故。我今以此尊者摩訶拘絺羅。所說法故。當以三十種贊歎。稱揚隨喜。

釈:舎利弗は賛嘆して言う。素晴らしい、素晴らしい。尊者摩訶拘絺羅。世尊の声聞弟子の中で、あなたは智慧が明達で、自心を善く調伏し、無畏で、甘露の法を見て、甘露の法によって身をもって証しをする者、つまり尊者摩訶拘絺羅です。このような甚深な義理の弁論があり、種々の難問に皆答えることができます。無価の宝珠のように世の人々に頂戴されます。私が今尊者摩訶拘絺羅を頂戴するのもこのようです。私は今あなたのところで善法の利益を得ました。その他の梵行もあなたと何度も交流して善利を得ました。あなたが善く説法するからです。私は今、尊者摩訶拘絺羅の説法によって、三十種の讃嘆をし、功徳を称え、随喜します。

(二八九)五蘊に対して如何にして厌离し解脱を得るか

原文:爾時。世尊告諸比丘。愚癡無聞凡夫。於四大身厭患。離欲背捨。而非識。所以者何。見四大身。有增有減。有取有捨。而於心意識。愚癡無聞凡夫。不能生厭。離欲解脫。所以者何。彼長夜於此。保惜系我。若得若取。言是我我所相在。是故愚癡無聞凡夫。不能於彼生厭。離欲背捨。

釈:仏は諸比丘に告げる。心性が愚癡で解脱の法に対して何の見聞もない凡夫は、自身の四大で構成される色身に対して厌離心を生じることができ、色身に対する種々の欲望を離れ、色身を捨て去り、色身を顧みないことができる。しかし彼等は識心に対してはそうではなく、識心に対して離欲、背捨、捨離することができない。なぜこうなるのか。凡夫たちは四大で構成される色身が増減変化があり、無常で、固定して変わらないものではないことを見ることができるから、色身に対して取着したり捨てたりすることができる。

しかし自身の意識心と意根に対して、愚癡で見聞のない凡夫は厌離心を生じることができず、離欲して解脱することができない。なぜなら。彼等は長い生死の長夜の中で、自身の心識を特に愛惜し、識心を我として縛り付け、何かを得て何かを取り、これが我で、我の所有物で、我が識の中にあり、識が我の中にあり、我と識が互いに存在すると言う。だから愚癡で見聞のない凡夫は識心に対して厌離して欲を離れ、背捨することができない。

仏陀が愚癡無聞の凡夫という言葉を使うが、一部の人々はそれを好まないかもしれないが、仏は人を罵倒するのではなく、事実を述べているだけである。凡夫は愚癡で見聞がないのである。正法を聞いたことがなく、無明が深いことが愚癡無聞であり、見聞があれば愚癡が破れ、智慧を得ることができる。

色身は衆生に看破されやすい。なぜなら生滅変異が比較的明らかだからである。色身は地、水、火、風の四大種子が和合して生じる。地大は硬い性質を持つ。例えば筋肉、骨格、筋、髪、爪、歯、皮膚などの物質は硬さがあり、地大種子を含んでいる。硬さがなければ行住坐臥ができない。水大は湿潤な性質を持つ。身体の表面の皮膚や内臓器官、血液、汗、尿などは湿り気があり、水大種子を含んでいる。火大は暖かさを持つ。身体の内外に温度があり、これが火性で、火大種子を含んでいる。人が死んだ後、火大がなくなり、死体は冷たくなる。風大は流動性を持つ。呼吸や血液の流動、気脈の運行は風性の作用で、風大種子を含んでいる。風性がなければ血液が流動できず、飲食も流動して消化吸収排泄できない。

すべての色法は地、水、火、風が一定の比率で和合して成る。どの成分が多ければ、物質はその性質を主として持ち、和合の比率が違えば、形成される物質も違い、身体の各部位の器官も違う。私たちの色身だけでなく、宇宙世界のすべての物質も四大で構成される。四大の和合の比率が違えば、形成される物質も違う。色声香味触法の六塵も四大で構成され、すべて色法に属し、ただ表現形式が違うだけで、色法を識別する識心も違う。四大種子は如来藏に存在し、如来藏が四大種子を送り出して色身を形成する。だから色身は如来藏によって生じる。

身体の増減変化、例えば太りや痩せ、身体器官の移植や摘出など、これらの増減変化があることは、この身体が偽で不実であることを示している。色身の生滅変異性を看破すれば、厌離心を生じることができ、離欲し背捨することができ、従順したくなく、もう愛惜して守る必要がなく、身体がどうでもよく、偽の皮袋で、真実の我ではないと感じる。

しかし愚癡で見聞のない凡夫衆生は識心に対して厌離を生じることができず、離欲することができず、背捨することができない。根源はどこにあるのか。なぜなら衆生は皆識の作用を貪着し執着するからである。識の作用は比較的リアルで魅力的で、だから絶えずつかみ取り、自分のものにしようとする。色身のすべての機能作用は識があるから生じる。例えば行住坐臥は、身識がなければできない。行住坐臥は身識の作用で、生命活動は行住坐臥のこれらの活動から離れられない。だから衆生は貪着する。身識があれば動ける、眼識があれば見える、耳識があれば聞こえる、鼻識があれば香りを嗅げる、意識心があれば思考し分別し、分析し判断し、推理し、妄想を打つことができる。各識が協力して種々の作用を生じる。意識心と前五識が一緒に分別し、一緒に作用する。これらの機能作用は真実で生き生きとして感じられる。これが我で、我の所有物であると思うから、貪着し捨てない。

識心が非我であることは証明しにくい。明らかに一つの我があって一切法を知ることができるように感じられ、とても真実で、私は確かにここに座って法を聞いている、私の眼が色を見ることができ、確かに接触するすべての物質色法を見ることができる。私は確かに音声を聞くことができる。眼耳鼻舌身の見聞覚知の作用が虚妄であるとは思わない。だからつかまえて放さない。意識の種々の作用が虚妄であると認めることができない。意識が確かに思考でき、妄想を打つことができ、推理でき、計画できると感じる。だから衆生は識心を虚妄であると見なすことができない。しかしこの関門を越えなければ、大小の果位を証得することができない。

だから仏は言う。愚癡無聞の凡夫は四大の色身に対して厌離を生じることができ、離欲し、背捨することができるが、自身の識心に対しては離欲することができず、厌離することができず、背捨することができず、自身の心を好み、何事も自身の心に従って行う。自身の心に対して離欲することができない。なぜならこの識心が確かにこれらの機能作用を持つと感じるからである。

衆生は生生世世の生死の長夜の中で愛惜し縛り付け、我として捉える。いつも自分の意に従い、自分を愛護し、自身の識心を愛惜する。私が何を得る、私が何を所有する、私が何を占有するか、これらはすべてこの識心の意志である。だからこの識心の機能作用を我として、真実に存在し、永遠に滅びない自身として捉える。実際、識心はいくつかの状況下で滅びる。例えば法を聞いている時、聞いているうちに寝てしまい、後で何を言っているかも知らない。この時識心は滅びて存在しない。寝ていても夢がない時、六識心も滅びて存在しない。目が覚めた後、これらの識心が再び現れる。生滅があり、生じることも滅びることもでき、識心は常に生滅の過程で変化している。

しかし阿頼耶識の機能作用は常に存在し、変化がなく、外縁に頼る必要がなく、機能作用は全て変化がない。阿頼耶識は常に一切法を生じ、一切法を変現する。誰もそれを妨げることができない。それが本当のものである。入定しても寝ても、どんな状況でも、それは常に存在し、常にその機能体性作用を持つ。前六識はそうではなく、常に生滅変化している。

原文:愚癡無聞凡夫寧於四大身。系我我所。不可於識。系我我所。所以者何。四大色身。或見十年住。二十三十。乃至百年。若善消息。或複小過。

釈:仏は言う。愚癡無聞の凡夫は四大で構成される色身を我や我の所有物として考えるくらいなら、識心を我や我の所有物として考えることはできない。なぜそう言うのか。なぜなら四大で構成される色身は、せいぜい十年、二十年、三十年、あるいは百年住世して滅び去る。もし色身をよく世話すれば、住世が百年を超えるかもしれない。

原文:彼心意識。日夜時克。須臾轉變。異生異滅。猶如獼猴。遊林樹間。須臾處處。攀捉枝條。放一取一。彼心意識。亦複如是。異生異滅。

釈:しかし心意識は日夜時刻を問わず、須臾の間に流転し、刹那々々に変化している。この時に生じてあの時に滅び、ここに生じてあそこに滅びる。猿が林の木々の間を遊ぶように、ほんの少しの間に多くの場所を巡り、木に登って枝をつかみ、一つの枝を放して別の枝をつかむ。全く落ち着かない。人々が言う心意識もこのようで、異生異滅、この時に生じてあの時に滅び、ここに生じてあそこに滅び、この法に生じてあの法に滅び、あの法に生じてこの法に滅び、この身で消えて、あの身でまた生じ、日夜時刻、種々の変化があり、決して止まることがなく、異なる時に生じ、異なる場所に生じ、異なる種類に生じる。

凡夫の我見で最も深刻なのは識心の機能作用を我であり、我の所有物だと考えることで、この我見は最も断ち難い。色身の我見を断つのは少しやさしい。なぜなら色身の生滅変異の現象は観察しやすく、識心と分けられるからである。識心の生滅変異の現象は観察し理解しにくい。なぜなら五陰身のすべての機能作用は識心によるもので、あまりにも綿密で連続しているから、真実だと感じられ、自分が作用している、自分の作用だと感じられ、識心の受想行識の作用を自分と分けて看破するのは難しい。

もし識心を我や我の所有物として考えるなら、臨終の時に、しっかりと識心をつかみたくなり、一心に見聞覚知を求め、見聞覚知が徐々に消えていくことを恐れる。明らかに識心の機能作用がますます弱くなり、身体がますます役に立たなくなっているのを感じても、なんとしても識心を滅ぼしたくなく、非常に苦しく、死という現象を受け入れられない。それでも凡夫は自分の識心が無常で生滅変異するものだとは思わず、依然としてこれらの作用が再び起こることを望んでいる。

原文:多聞聖弟子於諸緣起。善思惟觀察。所謂樂觸緣生樂受。樂受覺時。如實知樂受覺。彼樂觸滅。樂觸因緣生受。亦滅止。清涼息沒。如樂受。苦觸喜觸。憂觸捨觸因緣。生捨受。捨受覺時。如實知捨受覺。彼捨觸滅。彼捨觸因緣生捨受。亦滅止。清涼息沒。

釈:多聞の聖弟子はすべての縁起法に対して善く思惟し観察する。楽触の因縁が集まると楽受が生じることを観察する。楽受を感じる時、楽の受覚を如実に知る。楽触が滅ぶと、楽触の因縁によって生じた受覚も滅び、心は清涼になり、止まり、消える。楽受のように、苦触が生じる時、苦の覚受を如実に知り、さらに喜触、憂触、捨触の因縁が生じて喜の覚受、憂の覚受、捨の覚受が生じる時、喜受、憂受、捨受を如実に知る。喜触、憂触、捨触の因縁が滅ぶと、喜触、憂触、捨触も滅び、心は清涼になり、寂止する。

原文:彼如是思惟。此受觸生。觸樂觸縛。彼彼觸樂故。彼彼受樂。彼彼觸樂滅。彼彼受樂亦滅止。清涼息沒。

釈:多聞の聖弟子はこのように思惟すべきである。これらの受触は触の楽受と触の束縛を引き起こす。一つ一つの触の楽受が生じると、一つ一つの楽受が生じる。一つ一つの楽触が滅ぶと、一つ一つの受楽も滅び、心は清涼になり、寂止する。

多聞の聖弟子は諸の縁起に対して善く思惟し観察できる。世間のすべての法は因縁によって生じ、一つの法も因縁によって生じないものはない。因縁があれば世間法が集まり、因縁がなければ、法は現れない。縁が違えば、生じる法も違い、衆生の色身も違い、生存環境も違う。縁はどこから来るのか。身口意の業によって形成された種子である。多聞の聖弟子は諸の縁起に対して善く思惟し観察できるが、凡夫は思惟し観察することが下手で、彼らは五陰に現れるすべての法が現れるのは正常で、当然だと考える。聖弟子が縁起を観察する時、生老病死の源と因縁を深く究め、最初の縁起まで探究する。

楽受を例にして因縁生法を説明する。苦触、喜触、憂触、捨触もすべて因縁によって生じる感覚で、苦楽憂喜捨、これらの受の生じるのは触のためで、苦の触、楽の触、喜の触、憂の触、捨の触があってこそ種々の感覚がある。これらの触の縁がなければ、これらの心の感覚は生じない。だから苦楽憂喜捨の触も感覚も虚妄で、生滅変化無常である。すべての縁によって生じる背後には原因と奥義がある。

捨受とは何か。苦も楽も感じず、快適も苦痛も感じず、自分を忘れたように感じて、他に多くの感覚がない。これを捨受という。いつ捨受が生じるか。座禅中に捨受が比較的多く現れる。たまに自分を忘れ、周りの一切を忘れ、楽の受も苦の受も生じない。その時が捨受である。心が定まっている時、私は今苦受をしている、私は今楽受をしている、私は今喜受をしている、私は今憂いの感覚をしている、私は確かにこれらの感覚を知っている、私は如実に知覚する。もし苦楽憂喜捨の触が滅びれば、苦楽憂喜捨の受も消え滅びる。滅びた後は静まり、止まり、心は清涼になり、寂しくなる。

原文:如是。多聞聖弟子於色生厭。於受想行識生厭。厭故不樂。不樂故解脫。解脫知見。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。

釈:このように、多聞の聖弟子は色陰に対して厌離心を生じ、受陰、想陰、行陰、識陰に対して厌離心を生じる。厌離するから色受想行識を好まず、心が解脱し、こうして解脱の知見を具える。そして「私の生命はもう尽きた。清浄な梵行は既に立てられた。私が一生でやるべきことはすべてやった。私は自分で知っている。死後にはもう未来世の三界世間がなく、未来世の三界の法もない」と言う。

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