阿含経十二因縁釋
第四節 苦を滅ぼし解脱する道
(二九〇)観行して触は受けを縁とすることを通じて解脱を得る
原文:譬如兩木相磨。和合生火。若兩木離散。火亦隨滅。如是諸受緣觸集。觸生觸集。若彼彼觸集故。彼彼受亦集。彼彼觸集滅故。彼彼受集亦滅止。清涼息沒。多聞聖弟子如是觀者。於色解脫。於受想行識解脫。於生老病死憂悲惱苦解脫。我說彼於苦得解脫。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。
释:仏は言う。例えば二つの木が互いに接触して擦れ合うと、やがて火が生じる。もし二つの木が離れれば、火もまた消える。このように、すべての受は触に縁って集まる。すべての受は触によって生じ、触によって集まる。もし一つ一つの触が集まれば、一つ一つの受も集まる。一つ一つの触が集まることがなくなれば、一つ一つの受の集まりも消えて止まり、心は清涼になり、静まる。多聞の聖弟子がこのように観行すれば、色蘊に対して解脱し、受想行識蘊に対して解脱し、生老病死や憂悲悩苦に対して解脱する。このような場合、私は彼らが苦に対して解脱したと言う。
仏は二つの木が互いに擦れ合って火を生じることを例にして、触が集まれば受も集まるという緣生の道理を説明する。二つの木が擦れ合うと火が生じ、もし二つの木が接触しなければ、触の因縁がなくなり、火もなくなる。衆生の苦悩の因縁は触によって生じる。もし触という因縁がなくなれば、もう触らなければ、受もなくなる。触の因縁がなくなれば、受の感覚もなくなる。
どのような受でも、触の縁が集まれば、受の集まりが生じる。縁が絶えなければ集まりも絶えない。集まりがあれば触があり、触があれば受がある。触が生じ、触が集まれば、受の集まりが生じる。受の生じる条件は先に接触することで、接触は縁の作用であり、縁がなければ接触できない。万事万物はすべて縁に依って生じ存在する。そして縁は前世の業縁によって生じる。触が滅べば受も滅び、受の集まりが滅びれば心は滅止し、清涼になり、静まる。
仏は衆生に触の集まりが受の集まりであり、触があれば受があり、触も受も虚妄であることを認識させる。受は意識心を主として生じる受で、触は六根と六塵が触れ合うことによって生じ、この中には縁があってこそ触れ合うことができる。だからすべての事物の生じるのには緣起が必要で、縁がなければ生じない。縁があれば生起する。緣起の法も虚妄で、衆縁和合によって生じるもので、つまり真実ではない。第八識の如来藏だけが条件に依らずに存在し、集まり起こる因縁法ではない。
(二九一)内触法を観察して解脱を得る
原文:爾時。世尊告諸比丘。我說内觸法。汝等爲取不。時有異比丘從座起。整衣服。稽首禮足。合掌白佛言。世尊所說内觸法。我已取也。時彼比丘於佛前。如是如是。自記說。如是如是。世尊不悅。爾時尊者阿難。在佛後執扇扇佛。佛告阿難。如聖法律内觸法。異於此比丘所說。阿難白佛。今正是時。惟願世尊。爲諸比丘。說賢聖法律内觸法。諸比丘聞已。當受奉行。
释:世尊は諸比丘に告げる。私が説く内触法を、あなたたちは観察できるか。この時、外から来た新しい比丘が座から立ち上がり、衣服を整え、礼拝し、手を合わせて仏に言う。世尊が説かれた内触法、私は既に観察しました。この時、この比丘は仏の前で様々な説明をして自分を裏付けるが、彼のどの説明も世尊は喜ばれない。この時、尊者阿難は仏の後ろで扇子を持って仏に扇いでいる。仏は阿難に告げる。賢聖の法と律にある内触法は、この比丘が言う内触法とは違う。阿難は仏に言う。今こそ正しい時です。唯願わくは世尊、比丘たちのために賢聖の法と律にある内触法を説かれますように。比丘たちが聞けば、受け入れて奉行します。
内触法とは何か。勝義根の内の触で、眼が色に触れ、耳が声に触れ、鼻が香りに触れ、舌が味に触れ、身が触塵に触れ、意が法に触れ、触れた後に識が生じ、識が再び塵に触れる。
原文:佛告阿難。善哉。諦聽。當爲汝說。此諸比丘取内觸法。應如是思惟。若衆生所有種種衆苦生。此苦何因何集。何生何觸。作如是取時。當知此苦億波提因。億波提集。億波提生。億波提轉。
释:仏は阿難に告げる。よし。よく聞け。私は今あなたに説く。あなたたち這些の比丘が内触法を観察する時、このように思惟すべきである。もし衆生のあらゆる種々の苦しみが生じた時、この苦しみの原因は何か。苦しみは何の法が集まって生じるのか。何の法が生じてこれらの苦しみが生じるのか。何の触が生じてこれらの苦しみが生じるのか。このように観察内触法する時、この苦しみは取ることが原因で生じることを知るべきである。取が集まれば苦しみも集まる。取が生じれば苦しみも生じる。取が流転し出せば苦しみも流転し出す。
原文:複次比丘。取内觸法。又億波提。何因何集。何生何觸。彼取時當複知。億波提愛因愛集。愛生愛觸。複次比丘。取内觸法。當複知愛何因何集。何生何觸。如是取時。當知世間所念。諦正之色。於彼愛生而生。系而系。住而住。
释:また、比丘たちよ、内触法を観察する時、何の法が取の生じる原因なのかを観察すべきである。何の法が集まれば取も集まるのか。何の法が生じれば取も生じるのか。何の法が触れれば取も触れるのか。観察する時、貪愛が原因で取が生じ、貪愛が集まれば取も集まり、貪愛が生じれば取も生じ、貪愛が触れれば取も触れることを知るべきである。
比丘たちよ、内触法を観察する時、また貪愛の生じる原因は何なのかを観察すべきである。何の法が集まれば貪愛も集まるのか。何の法が生じれば貪愛も生じるのか。何の法が触れれば貪愛も触れるのか。このように観察する時、世間の人々が心に念じる精細で正しい色陰の時、貪愛が生じ、色陰が生じることを知るべきである。心が貪愛に縛られる時、色陰も縛られる。心が貪愛に縛られる時、色陰も縛られる。
これは世尊が説かれた十二因縁法の一部である。前には触の集まりが受の集まりの原因であると説かれ、今は愛の集まりが取の集まりの原因であると説かれている。愛があれば取があり、取があれば生老病死、憂悲苦悩の苦がある。貪愛の原因で六塵に取着し、取った後に有があり、有があれば生があり、生があれば苦が出てくる。
原文:若諸沙門婆羅門。於世間所念。諦正之色。作常想恒想。安穩想。無病想。我想我所想而見。則於此色愛增長。愛憎長已。億波提增長。億波提增長已。苦增長。苦增長已。則不解脫生老病死。憂悲惱苦。我說彼不解脫苦。
释:もし沙門や婆羅門が世間の人々が憶念する精細で正しい色声香味触法に対して、常にあると考え、永遠に変わらないと考え、安穏であると考え、病気がないと考え、我がもの、我が所有のものと考えて見ると、この色に対する貪愛が増長する。貪愛が増長したら、取も増長する。取が増長したら、苦も増長する。苦が増長したら、生老病死や憂悲苦悩に対して解脱できない。私は彼らが苦に対して解脱できないと言う。
恒は永遠に変わらず滅びないこと、安穏は固定されて永遠に変わらないこと、永遠に私のもの、無病は過患がないという意味である。衆生がこの六根六塵六識を過患があるものと考えず、私のもの、私の所有のものと考えて追求し、貪愛し、つかむと、このように生死の輪廻は絶えない。もしこれらの法がすべて過患があり、生老病死や憂悲苦悩を生じることを知れば、もうこれらの法を追求しなくなる。
これらの考えがあれば、色への貪愛が増長し、ますます貪欲になり、貪愛が増長すれば生死はますます断ち切れなくなり、苦悩も増える。この貪愛が増長した後、執取も増長し、三界の有も肯定的に増長する。三界の有が増長した後、生命は絶えず、苦も絶えず増長する。貪愛が重ければ重いほど苦も増え、増長し、ますます生老病死や憂悲苦悩から解脱できなくなる。衆生は皆楽を追求するが、結果的に皆苦しむ。なぜなら衆生はずっと苦の原因を作っているからで、貪愛があれば苦がある。阿羅漢は貪愛もなく、執取もしないので、もちろんもう生老病死の苦はない。
原文:譬如路側。清涼池水。香味具足。有人以毒著中。陽春之月。諸行路者。風熱渴逼。競來欲飲。有人語言。士夫。此是清涼池。色香味具足。然中有毒。汝等勿飲。若當飲者。或令汝死。或近死苦。
释:仏は譬えを言う。たとえば道端に清涼な池があり、水は香りと味が十分にある。しかし誰かが毒をその中に入れる。春の暖かい月に、道を行く人々は暑さと乾きで喉が渇き、競ってこの池の水を飲もうとする。その時、ある人が言う。「皆さん、これは清涼な池で、香りも味も十分にありますが、中には毒が入っています。あなたたちは飲んではいけません。もし飲んだら、あなたたちは死んだり、死に近い苦しみに遭うかもしれません」。
原文:而彼渴者。不信而飲。雖得美味。須臾或死。或近死苦。如是沙門婆羅門。見世間可念。耑正之色。作常見恒見。安穩見。無病見。我我所見。乃至不得解脫。生老病死。憂悲惱苦。
释:しかし喉が渇いている人は信じずに飲む。確かに美味しい水を飲むが、しばらくして死んだり、死に近い苦しみに遭う。同じように、沙門や婆羅門が世間の可愛く端正な色を見て、常にあると見、永遠に変わらないと見、安穏であると見、病気がないと見、我がもの、我が所有のものと見ると、解脱できず、生老病死や憂悲苦悩に苦しむ。
原文:若諸沙門婆羅門。於世間可念耑正之色。觀察如病如癰。如刺如殺。無常苦空非我。彼愛則離。愛離故億波提離。億波提離故則苦離。苦離故則生老病死憂悲惱苦離。
释:もし沙門や婆羅門が世間の可愛く端正な色を見て、これらの色を病気のように、癰のように、刺のように、殺戮のように観察し、無常で苦しく空で我がないと考えると、貪愛は離れる。貪愛が離れれば、取も離れる。取が離れれば、苦も離れる。苦が離れれば、生老病死や憂悲苦悩も離れる。
原文:譬如路側清涼池水。香味具足。有人以毒著中。陽春之月。諸行路者風熱渴逼。競來欲飲。有人語言此水有毒。汝等勿飲。若當飲者。或令汝死。或近死苦。彼則念言。此水有毒。若當飲者。或令我死。或近死苦。我且忍渴。食干麨飯。不取水飲。
释:たとえば道端の清涼な池の水は、香りも味も十分にある。しかし誰かが毒を入れる。道行く人が喉が渇いて水を飲もうとする時、別の人が彼らにこの水には毒があると言う。飲めばすぐに死んだり、死に近い苦しみに遭うだろうと。飲む人は考える。ここの水には毒がある。毒のある水は飲めない。飲めば死ぬから、しばらくの間我慢して喉の渇きに耐え、乾いたご飯だけを食べて水を飲まない。そうするとこれらの道行く人は立ち去り、毒水を飲まず、したがって毒に当たって死ぬことはない。
それで私たちはこれから心の中に「もう毒水を飲んではいけない」という戒めを刻み込むべきである。一念の貪愛が生じたら自分に「もう貪愛してはいけない。もう毒水を飲んではいけない」と言う。何かの法が好きになったら自分に「もう好きになってはいけない。好きになると毒水を飲むようなものだ」と言う。何かを惜しむ気持ちが生じたら自分に「もう惜しんではいけない。惜しむと毒水を飲むようなものだ」と言う。こうして徐々に貪愛が薄れ、その後滅び、最後に苦がなくなる。このように少しずつ自分を戒め、最終的に解脱への道を歩むことができる。
原文:如是沙門婆羅門。於世間可念之色。觀察如病如癰。如刺如殺。無常苦空非我。乃至解脫。生老病死。憂悲惱苦。是故阿難。於此法如是見。如是聞。如是覺。如是知。於過去未來亦如此道。如是觀察。是故阿難。於此法如是見。如是聞。如是覺。如是知。於過去未來。亦如此道。如是觀察。
释:このように、沙門や婆羅門が世間の可愛く念じる色を見て、病気のように、癰のように、刺のように、殺戮のように観察し、無常で苦しく空で我がないと考えると、貪愛を遠ざけ、生老病死や憂悲苦悩から解脱できる。阿難よ、だからこの内触法についてこのように見、このように聞き、このように覚え、このように知るべきである。過去や未来についても同じ道を行い、このように観察すべきである。観察を繰り返して最後には一切の法が無常で苦しく空で我がないことを証得し、そうすればもう貪愛や執着をしなくなり、生老病死や憂悲苦悩は滅び、心は解脱し、清涼で静かになる。
(二九二)苦滅の道
原文:爾時。世尊告諸比丘。雲何思量觀察正盡苦。究竟苦邊時。思量衆生所有衆苦。種種差別。此諸苦何因何集。何生何觸。思量取因取集。取生取觸。若彼取滅無餘。衆苦則滅。彼所乘苦滅道跡。如實知。修行彼向次法。是名比丘向正盡苦。究竟苦邊。所謂取滅。
释:世尊は諸比丘に告げる。どのように思量し観察すれば完全に苦を滅尽させ、究極の苦の端に達することができるか。その時、衆生のあらゆる苦、そしてこれらの苦の種々の差別相を思量すべきである。これらの苦は何が原因で、何の法の集まりによって、何が生じて、何の法の触れ合いによって現れるのか。最後に思量して取が原因で苦が現れ、取の集まりによって苦が現れ、取の生じることによって苦が生じ、取の触れ合いによって苦が生じることがわかる。もしその取がすっかり滅びて残りがなければ、すべての苦も滅ぶ。比丘たちは苦を滅ぼす修行の道と方法を如実に知り、そして正尽苦に向かう助道法や次要法を修行すべきである。これが比丘が正尽苦に向かい、究極の苦の端に達する方法である。つまり取が滅ぶことである。
原文:複次。比丘思量觀察正盡苦。究竟苦邊。時思量彼取何因何集。何生何觸。思量彼取愛因愛集。愛生愛觸。彼愛永滅無餘。取亦隨滅。彼所乘取滅道跡。如實知。修習彼向次法。是名比丘向正盡苦。究竟苦邊。所謂愛滅。
释:また、比丘が思量し観察して正尽苦に向かい、究極の苦の端に達しようとする時、取が何が原因で、何の法の集まりによって、何が生じて、何の法の触れ合いによって現れるのかを思量すべきである。最後に取の出現は貪愛が原因で、貪愛の集まりによる因縁で生じ、貪愛が生じれば取も生じ、貪愛が触れ合えば取も生じることがわかる。貪愛が永遠に滅びて残りがなければ、取もすぐに滅ぶ。比丘たちは取を滅ぼす道と方法を如実に知り、そして苦を滅ぼす法や助けとなる次要法を修習すべきである。これが比丘が正尽苦に向かい、究極の苦の端に達する方法である。つまり貪愛が滅ぶことである。
衆生が取を滅ぼし、もう法に取着しなければ、衆苦も滅ぶ。究極に苦を滅ぼす方法は何か、中間に修める道は何か、私たちは如実に知るべきである。苦を滅ぼす修行方法を如実に知ること、つまり正尽苦に向かう向法と次法を修習することである。これは三十七道品を含む四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道である。向は苦を滅ぼす方向に向かうこと、次は助けとなる次要の法である。主要な法は五蘊を観察して我見を断つことで、向次法を修習する目的は我見を断つための準備をすることで、見道の前提条件を満たしてこそ、如理に観察し観行し、最後に我見を断つことができる。
原文:複次。比丘思量觀察正盡苦。究竟苦邊。則思量彼愛何因何集。何生何觸。知彼愛受因受集。受生受觸。彼受永滅無餘。則愛滅。彼所乘愛滅道跡如實知。修習彼向次法。是名比丘向正盡苦。究竟苦邊。所謂受滅。
释:また、比丘が思量し観察して正尽苦に達し、究極の苦の端に至ろうとする時、貪愛が何が原因で生じ、何の法の集まりによって生じ、何が生じて貪愛を生じさせ、何の法が触れ合って貪愛を生じさせるのかを思量すべきである。思量観察した後、貪愛は受の因縁によって生じ、受が集まることによって生じ、受が生じることによって貪愛が生じ、受が触れ合うことによって貪愛が生じることがわかる。受が永遠に滅びれば、貪愛も滅ぶ。比丘たちは愛滅の修道の跡を如実に知り、向法と助道法を修習すべきである。これによって比丘は正尽苦に向かい、究極の苦の端に至る。つまり受の覚知を滅ぼすことである。
受の前は触で、触れなければ受は生じない。受がなければ貪愛はなく、貪愛がなければ取もない。衆生は毎日触れ続け、六根が六塵に触れなければ耐えられない。なぜ耐えられないのか。無明のためで、触の根源は無明である。本当の修行者だけが意根を降伏させ、攀縁を止め、空を証得して初めて、もう触れたくなくなり、静寂に耐えられる。
原文:複次。比丘思量觀察正盡苦。究竟苦邊時。思量彼觸何因何集。何生何觸。當知彼觸六入處因。六入處集。六入處生。六入處觸。彼六入處滅無餘。則觸滅。彼所乘六入處滅道跡。如實知。修習彼向次法。是名比丘向正盡苦。究竟苦邊。
释:また、比丘が思量し観察して正尽苦に達し、究極の苦の端に至ろうとする時、触が何が原因で現れ、何の法の集まりによって生じ、何が生じて触を引き起こし、何の法が触れ合って触を生じさせるのかを思量すべきである。観察した後、触は六入处の因縁によって現れ、六入处の集まりによって生じ、六入处の生じることによって触が現れ、六入处が触れ合うことによって触が生じることがわかる。六入处がすっかり滅びて残りがなければ、触も滅ぶ。比丘たちは自分が修習する六入处滅尽の道跡を如実に知り、正尽苦に向かう向道法と次要法を修習すべきである。これが比丘が正尽苦に向かい、究極の苦の端に至ることである。
原文:複次。比丘思量觀察正盡苦。究竟苦邊時。思量彼六入處。何因何集。何生何觸。知彼六入處。名色因。名色集。名色生。名色觸。名色永滅無餘。則六入處滅。
释:また、比丘が思量し観察して正尽苦に達し、究極の苦の端に至ろうとする時、六入处が何が原因で生じ、何の法の集まりによって生じ、何が生じて六入处を生じさせ、何の法が触れ合って六入处を生じさせるのかを思量すべきである。観察した後、六入处は名色の因縁によって生じ、名色の集まりによって生じ、名色の生じることによって六入处が生じ、名色が触れ合うことによって六入处が生じることがわかる。名色が永遠に滅びて残りがなければ、六入处も滅ぶ。
原文:彼所乘名色滅道跡。如實知。修習彼向次法。是名比丘向正盡苦。究竟苦邊。所謂名色滅。
释:比丘たちは自分が修習する名色滅尽の道跡を如実に知り、向道の法と次要の助道法を修習すべきである。これが比丘が正尽苦に向かい、究極の苦の端に至ることである。つまり名色を滅ぼすことである。
名色五陰があれば六入があり、衆生がいれば六入がある。六根が不完全でない限り、六入处が現れる因縁は名色があるからである。名色はいつから現れるのか。受精卵から現れ、母胎から出て肉体が成長し、死ぬまでの段階が一期の名色である。五陰は色受想行識で、色は身体、名は七つの識と七つの識の機能作用である。五陰は衆生を構成し、衆生は名色とも呼ばれ、名色も五陰と呼ばれる。名色があれば受精卵があり、眼耳鼻舌身の五根が生え、五根が生えてから触れ、触れれば受があり、受があれば愛があり、愛した後に取があり、取れば有があり、有があれば生があり、生まれた後に老病死や憂悲苦悩がある。これは生死の因縁の鎖である。
比丘が再び思量し観察して苦を滅ぼし究極の苦の端に至ろうとする時、六入の因はすべて名色によることを思量すべきである。名色が集まれば六入も集まり、名色が生じれば六入も生じ、名色が触れれば六入も触れ、名色を永遠に滅ぼして残りがなければ、六入も滅ぶ。名色をどう滅ぼすか。これには向法、次法、助道法を修習し、その後一つ一つ観行して、名色を滅ぼし、五陰を滅ぼすことができる。
原文:複次。比丘思量觀察正盡苦。究竟苦邊時。思量名色。何因何集。何生何觸。知彼名色。識因識集。識生識觸。彼識欲滅無餘。則名色滅。彼所乘識滅道跡。如實知。修習彼向次法。是名比丘向正盡苦。究竟苦邊。所謂識滅。
释:また、比丘が思量し観察して正尽苦に達し、究極の苦の端に至ろうとする時、名色は何が原因で生じ、何の法の集まりによって生じ、何が生じて名色が生じ、何の法が触れ合って名色が生じるのかを思量すべきである。
観察思量した後、名色の生じるのは六識の業種の因縁によることがわかる。六識の業種が集まることによって名色が生じ、六識の業種が現れると後世の名色が引き起こされ、六識の業種が触れ合うことによって後世の名色が生じる。六識の業種がすっかり滅びて残りがなければ、名色も滅ぶ。比丘たちは六識の業種を滅ぼす道跡を如実に知り、向道の法と次要の助道法を修習すべきである。これが比丘が正尽苦に向かい、究極の苦の端に至ることであり、つまり六識の業種を滅ぼすことである。
原文:複次。比丘思量觀察正盡苦。究竟苦邊時。思量彼識。何因何集。何生何觸。知彼識行因行集。行生行觸。作諸福行。善識生。作諸不福不善行。不善識生。作無所有行。無所有識生。是爲彼識行因行集。行生行觸。彼行欲滅無餘。則識滅。彼所乘行滅道跡。如實知。修習彼向次法。是名比丘向正盡苦。究竟苦邊。所謂行滅。
释:また、比丘が思量し観察して正尽苦に達し、究極の苦の端に至ろうとする時、六識の業種は何が原因で生じ、何の法の集まりによって生じ、何が生じて六識の業種が生じ、何の法が触れ合って六識の業種が生じるのかを思量すべきである。観察思量した後、六識の業種は身口意行の因縁によって生じ、身口意行が集まることによって六識の業種が生じ、身口意業行が生じることによって六識が生じ、身口意業行が触れ合うことによって六識の業種が生じることがわかる。福行を作れば善の六識の業種が生じ、不福不善行を作れば不善の六識の業種が生じ、無所有行を作れば無所有の六識の業種が生じる。これが身口意行の因縁、身口意行の集が六識の業種の生じることを決定し、身口意の行生、行触が六識の業種を生じさせる。もし身口意行がすっかり滅びて残りがなければ、六識の業種も滅ぶ。比丘たちは行を滅ぼす道跡を如実に知り、向道の法と助道法を修習すべきである。だから行が滅べば比丘は正尽苦に向かい、究極の苦の端に達する。
六根における身口意業行が絶えなければ、六識の業種は絶えず生じる。業種が残れば未来世の名色がある。もし何の身口意業行もなければ、六識の業種は生じず、業種が残らなければ未来世の名色もない。名色が生じれば六入があり、六入があれば触があり、触があれば受があり、受があれば貪愛があり、貪愛があれば執取があり、そして三界の有が現れ、五陰身が生じ、これから生命は絶えず、生老病死や憂悲苦悩が再び繰り返される。これはすべて身口意業行が絶えないために起こる結果である。
原文:複次。比丘思量觀察正盡苦。究竟苦邊時。思量彼行何因何集。何生何觸。知彼行無明因。無明集。無明生。無明觸。彼福行無明緣。非福行亦無明緣。非福不福行亦無明緣。
释:また、比丘が思量し観察して正尽苦に達し、究極の苦の端に至ろうとする時、身口意業行は何が原因で生じ、何の法の集まりによって生じ、何が生じて身口意業行が生じ、何の法が触れ合って身口意業行が生じるのかを思量すべきである。思量した後、身口意業行は無明の故に生じ、無明が集まることによって身口意業行が生じ、無明が生じることによって身口意業行が生じ、無明が触れ合うことによって身口意業行が生じることがわかる。福業の身口意業行も無明の故に生じ、非福不善の身口意行も無明の故に生じ、非福でも非不福でもない身口意業行も無明の故に生じる。
原文:是故當知。彼行無明因。無明集。無明生。無明觸。彼無明永滅無餘。則行滅。彼所乘無明滅道跡。如實知。修習彼向次法。是名比丘向正盡苦。究竟苦邊。所謂無明滅。
释:したがって比丘たちは知るべきである。身口意業行は無明を因縁として生じ、無明の集まりによって生じ、無明の生じることによって生じ、無明の触れ合いによって生じる。もし意根の無明が永遠に滅びて残りがなければ、身口意業行も滅ぶ。比丘たちは無明を滅ぼす道跡を如実に知り、向道の法と助道法を修習すべきである。これが比丘が正尽苦に向かい、究極の苦の端に至ることであり、つまり無明を滅ぼすことである。
原文:佛告比丘。於意雲何。若不樂無明而生明。複緣彼無明。作福行非福行。無所有行不。
释:仏は比丘たちに言う。あなたたちはこのことをどう考えるか。もしあなたたちが無明を喜ばず、心中に明が生じたならば、あなたたちはまた意根の無明によって福行や非福行を造作したり、あるいは非福行でも非非福行でもない舎行を造作したりするだろうか。
明と無明は二つの対立する面である。無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明が少なければ、残りは明である。もしすべてが明ならば、無明はなくなる。まるで天秤の両端のように、無明が高ければ明は低くなり、無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明がなければ、六識は身口意行を造作しなくなり、業種も残らず、再び生まれ変わることもなく、名色もなくなり、名色がなければ六入もない。六入がなければ触れないし、触れなければ受けない。受けなければ貪愛せず、貪愛せずに取ろうとしない。取ろうとしない、占有しようとしないならば、生存の条件もなく、三界の有もない。有がなければ名色も生じず、そうすれば老病死や憂悲苦悩はすべて滅び、もう現れなくなり、生死の苦の問題は解決する。
このように比丘たちは三界を出て解脱を得るが、この解脱はまだ究竟の解脱ではなく、一念の無明を滅ぼしただけの一時的な解脱であり、まだ極めて多くの微細な無明が滅ぼされていないので、まだ微細な生死の苦が滅ぼされておらず、解脱は究竟ではない。仏の解脱こそ究竟の解脱である。どうすれば仏のように究竟の解脱を得ることができるか。それなら三界を出ず、大いなる誓願を発し、引き続き大乗を修習し、五蘊身を保ち、自らを度し他をも度し、上に求め下に化すれば、すべての法を円満にし、究竟の解脱を得ることができる。
原文:比丘白佛。不也世尊。所以者何。多聞聖弟子。不樂無明而生明。無明滅則行滅。行滅則識滅。如是乃至。生老病死。憂悲惱苦滅。如是如是。純大苦聚滅。
释:比丘は世尊に答える。いいえ、世尊。なぜなら、多聞の聖弟子は無明を喜ばず、明が生じれば、無明が滅べば身口意業行が滅び、身口意業行が滅べば六識の業種が滅び、六識の業種が滅べば、生老病死や憂悲苦悩、このように乃至純大苦聚がすべて滅びます。
原文:佛言。善哉善哉。比丘。我亦如是說。汝亦知此。於彼彼法起彼彼法。生彼彼法。滅彼彼法。滅止清涼息沒。若多聞聖弟子無明離欲而生明。身分齊受所覺。身分齊受所覺時如實知。若壽分齊受所覺。壽分齊受所覺時如實知。身壞時壽命欲盡。於此諸受一切所覺。滅盡無餘。
释:仏は言う。素晴らしい、素晴らしい。比丘よ。私もこう言う。あなたたちもこれを知っている。ある法によって別の法が起こり、別の法が生じ、別の法が滅び、最後に心は寂滅無為になり、心は清涼になり、息止められる。もし多聞の聖弟子が無明を滅ぼし、欲を離れて明が生じれば、色身上に解脱の受と覚が現れる。色身上に解脱の受と覚が現れたら、如実に知るべきである。もし寿命上に解脱の受と覚が現れたら、この時も如実に知るべきである。身が壊れて寿命が尽きようとする時、これらのすべての受と覚はすべて滅びて残りがない。
原文:譬如力士取新熟瓦器。乘熱置地。須臾散壞。熱勢悉滅。如是比丘。無明離欲而生明。身分齊受所覺如實知。壽分齊受所覺如實知。身壞命終。一切受所覺悉滅無餘。
释:たとえば力士が新しく焼けた瓦器を取り、熱いうちに地面に置くと、たちまち割れて壊れ、熱もすべて消える。このように比丘よ、無明が滅び、欲を離れて明が生じれば、色身上の受と覚を如実に知り、寿命上の受と覚を如実に知り、身が壊れて命が尽きる時、すべての受と覚はすべて滅びて残りがない。