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阿含経十二因縁釋

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2024-11-10 閲覧回数: 1515

第五節 世間の集と滅

(二九三)仏が異なる比丘に縁起法を説く

原文:爾時世尊告異比丘。我已度疑。離於猶豫。拔邪見刺。不複退轉。心無所著故。何處有我。爲彼比丘說法。爲彼比丘。說賢聖出世。空相應緣起隨順法。所謂有是事故是事有。是事有故是事起。

釈:世尊はある他所から来た比丘に告げる。私は既に疑いを度し、猶予から離れ、邪見の刺を抜き取り、もう退転しない。心が何にも執着しないから、どこに私があろうか。それでその比丘たちに法を説く。その比丘たちに、賢聖が証得した出世の空相応の緣起随順の法を説く。つまり、この事があるからその事があり、この事があるからその事が生じる。

原文:所謂緣無明行。緣行識。緣識名色。緣名色六入處。緣六入處觸。緣觸受。緣受愛。緣愛取。緣取有。緣有生。緣生老死憂悲惱苦,如是如是。純大苦聚集。乃至如是。純大苦聚滅。

釈:これがいわゆる十二因縁法である。無明があるから身口意行が生じ、身口意行があるから六識の業種が生じ、六識の業種があるから後世の名色が生じ、名色があるから六入が生じ、六入があるから触が生じ、触があるから受が生じ、受があるから愛が生じ、愛があるから取が生じ、取があるから有が生じ、有があるから生が生じ、生があれば老病死や憂悲苦悩があり、その後生死の大苦が集まり、乃至于修行によって生死の大苦聚が滅ぶ。

度疑の意味は、仏は既に無明を断尽し、一切の疑いがなくなり、心は非常に肯定して一切の法を知り、世間と出世間の一切の法がどんな道理であり、これらの法の実相が何であるかを知っている。しかし衆生はまだ疑いを度しておらず、疑いが非常に多く、わからない法が多く、したがって事相において非常に迷い執着している。これらはすべて無明に由来する。無明の範囲は非常に広く、衆生の無明と疑いは数えきれない。数量で計算すれば、衆生の無明は十方世界のほこりほど多い。

無明には三種類ある。一念無明、無始無明、塵沙無明で、悟りを開いても、まだ仏になる道においてわからない法が非常に多く、ほこりや砂のように多い。等覚菩薩でさえまだ一品の無明が破れていない。破尽して初めて仏になれる。無明に長くとどまることは、長く暗闇にとどまることである。最も根本的な邪見は我見であり、私があるから、すべての煩悩が現れ、すべての邪見は私から来る。我見が断たれれば、他の邪見も一つ一つ順に断たれる。世尊は邪見の刺を抜き取り、すべての不正な見解をすべて断ち切り、無明をすべて断ち切る。無明があれば邪見があり、悟りを開いてもまだ邪見があり、仏になって初めて邪見がなくなる。

原文:如是說法。而彼比丘猶有疑惑猶豫。先不得得想。不獲獲想。不証証想。今聞法已。心生憂苦悔恨。矇沒障礙。所以者何。此甚深處。所謂緣起。倍複甚深難見。所謂一切取離。愛盡無欲。寂滅涅槃。

釈:世尊はこのように法を説いたが、その比丘にはまだ疑惑と猶予があり、決断できない。彼は以前、自分は法眼を得て、解脱を得て、証果したと思っていたが、実際には法を得ておらず、証果も得ておらず、解脱も得ていない。今世尊が十二因縁法を説いて聞いて、心に憂苦、悔恨が生じ、心が迷い、障害がある。なぜなら、十二因縁法は彼が以前修学した四諦の理よりも更に甚深くて難しく証得しにくい。難しいのは、十二因縁法を修めて最後には一切の三界の法の取着を離れ、三界への貪愛を滅尽させ、貪欲を断ち切り、寂静涅槃を得なければならないからである。

原文:如此二法。謂有爲無爲。有爲者若生若住。若異若滅。無爲者不生不住。不異不滅。是名比丘諸行苦。寂滅涅槃。因集故苦集。因滅故苦滅。斷諸徑路。滅於相續。相續滅滅。是名苦邊。比丘。彼何所滅。謂有餘苦。彼若滅止。清涼息沒。所謂一切取滅。愛盡無欲。寂滅涅槃。

釈:有為と無為の二つの法は、比丘が置かれている一切の行苦と寂滅涅槃の二つの状態を示している。有為法は生住異滅の現象が存在するが、無為法には生住異滅の現象が存在しない。比丘が涅槃に入る前は有為で、すべての五蘊の行苦が滅びた後、涅槃の無為になる。諸行苦の因が集まれば苦も集まり、行苦の因が滅べば苦も滅び、こうして生死への道を遮断し、生死の相続を遮断し、生死の相続が滅べば苦の端に達する。

比丘よ、阿羅漢や辟支仏たちは何の法を滅ぼしたのか。無明煩悩を断ち切った後に残る苦を滅ぼした。有餘の苦が滅びて止まれば、一切の行を止め、心は清涼になり、息止められ、滅びる。これがいわゆる一切の取る心行を滅ぼし、貪愛が永遠に尽き、もう貪欲がなくなり、寂滅涅槃の楽を得る。仏はこの経を説き終えた後、比丘たちは仏の説法を聞いて、喜んで奉行した。

阿羅漢や辟支仏たちが修行して最後に、一切取離、愛尽、無欲、寂滅、涅槃に達し、心は一切の法に取着せず、一切の法に執着せず、もう多くの法を持ちたいと望まず、つまり取が滅ぶ。取が滅べば貪愛もなくなり、貪愛も尽きれば無欲になり、この三界世間にもう何の考えや追求もない。もしまだ考えや願いがあれば、意根の執着が絶えず、また次の世があり、愛が尽きず、欲が離れなければ、寂滅涅槃にはなれない。だから無欲になってからが寂滅で、寂滅すれば涅槃で、こうして五陰はすべて滅び、生住異滅のない涅槃心第八識だけが残り、つまり涅槃の境地である。

四諦法と十二因縁法は小乗の有為法で、小乗の有為法は無為法の阿頼耶識から離れられない。仏は一切の法の出生は有為で、住も有為で、変異も有為で、滅失も有為であると説く。宇宙の大千世界にはすべて生、住、異、滅があり、すべて有為法である。無為とは生まれもせず住まいもせず、異なりもせず滅びもしない。どんな法がこのようなのか。第八識だけがこのようである。だから阿羅漢や辟支仏が無余涅槃に入った後は無為になる。なぜなら有為の七識心や行がないからである。身口意行などの有為法の中には無為法が含まれている。そうでなければ有為法も現れない。有為と無為は二つとも同時に運行し、有為が滅べば、残るのは無為で、つまり寂滅涅槃である。

有為には苦があり、一切の苦はすべて結果である。果があれば因があり、身口意行が因である。因が作り出されたら、果は未来世に現れるかもしれないし、今すぐ現れるかもしれない。縁が具足すれば果は現れる。縁が具足しなければ、因として、種子として残り、将来結果となる。修行とは因を種えることである。果はいつ現れるのか。縁がいつ具足すれば、いつ果を得る。悟りを開く縁は何か。菩薩の六波羅蜜である。菩薩の六波羅蜜を円満にすれば、明心の果が現れる。早く果を得たいなら、早く菩薩の六波羅蜜という縁を具足させればよい。もし菩薩の六波羅蜜の修行を重視しなければ、明心の縁が具足しない。いつどの世に明心するかはわからない。

ある人は修行の果を命終の時に得るようにして、命終に西方極楽世界に往生できるように求める。しかし命終の時に極楽世界に往生する縁が必ず具足するとは限らない。誰も命終の時に往生する縁が必ず具足することを保証できない。仏が保証していなければ、誰の保証も役に立たない。ただ現世で生きている間に往生の縁を具足させることができることを保証できるなら、生きている間に極楽世界が自分の三昧の中に現れるか、あるいは阿弥陀仏が自分の三昧の中に現れる。このような三昧力と仏の加持力によって、命終に往生できることが保証される。

(二九四)六触入処における解脱と縛りの差別

原文:爾時。世尊告諸比丘。愚癡無聞凡夫。無明覆。愛緣系。得此識身。内有此識身。外有名色。此二因緣生觸。此六觸入所觸。愚癡無聞凡夫。苦樂受覺。因起種種。雲何爲六。眼觸入處。耳鼻舌身。意觸入處。

釈:世尊は諸比丘たちに告げる。愚痴で聞こえない凡夫は無明に覆われ、愛の縁によって縛られ、この識身を得る。内にこの識身があり、外に名色がある。この二つの因縁によって触が生じ、この六触入処に触れられる。愚痴で聞こえない凡夫は苦楽の受覚を生じ、種々の原因によって起こる。何が六つあるか。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処。

衆生の心はすべて無明に遮られている。もし無明を取り除けば、心に光明が透き通り、すべての事理が明らかになる。仏の心には覆いがなく、心は光明を放ち天と地を照らし、十方法界はすべて明るい。すべての凡夫の心には愛の因縁による縛りがあり、それゆえ眼識身、耳識身、鼻識身、舌識身、意識身があり、この六識身を識身という。愛がなければこれらの識身はない。六識身があれば十一種の色法および心法に触れ、苦楽捨の受けを生じる。

衆生は無始劫以来の貪愛によってこの六識身を有し、なぜ六識は身内の識なのか。勝義根の内で生じる識だからである。なぜ名色は外身に属するのか。名色は外入りで、勝義根の外から勝義根に入り、六識と触れ合い、受け覚えがあり、その後身口意行が絶えず、六識も絶えない。もし六根が六塵に触れなければ、六識は滅び、六識が滅べば種々の受け覚えもなく、何もなくなる。ここまで説明すれば、私たちは十二因縁のこの鎖がはっきりし、五陰身のすべての活動がはっきりする。意根の無明が滅ばなければ、身口意行はいつも現れ、このように業種は絶えず累積し、未来世の名色は絶えず生じる。これが来世の名色が生じる原因である。

原文:若黠慧者無明覆。愛緣系得此識身。如是内有識身。外有名色。此二緣生六觸入處。六觸所觸故。智者生苦樂受覺。因起種種。何等爲六。眼觸入處。耳鼻舌身意觸入處。

愚夫黠慧彼於我所。修諸梵行者。有何差別。比丘白佛言。世尊是法根。法眼法依。善哉。世尊。惟願演說。諸比丘聞已,當受奉行。

釈:もし賢い人が無明に覆われ、愛の縁によって縛られ、この識身を得る。このように内に識身があり、外に名色があり、この二つの因縁によって六触入処が生じ、六触に触れられるため、賢い人は種々の苦楽受覚を生じる。何が六つあるか。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処。

愚痴な凡夫と賢い人は六触入処において皆苦楽など種々の受けを有し、もし彼らが皆私の法の中で梵行を修めるなら、彼らの間には何の差別があるか。比丘たちは仏に言う。世尊は法の根源で、法の眼目で、法の依り所です。世尊、ぜひこの意味を説いてください。比丘たちは聞いた後、信受して奉行すべきです。

原文:爾時。世尊告諸比丘。諦聽善思。當爲汝說。諸比丘。彼愚癡無聞凡夫。無明所覆。愛緣所系。得此識身。彼無明不斷。愛緣不盡。身壞命終。還複受身。還受身故。不得解脫生老病死。憂悲惱苦。所以者何。此愚癡凡夫。本不修梵行。向正盡苦。究竟苦邊故。是故身壞命終。還複受身。還受身故。不得解脫生老病死。憂悲惱苦。

釈:この時、世尊は諸比丘たちに告げる。よく聞き、よく思惟しなさい。私は今あなたたちに説明します。諸比丘よ、あの愚痴で聞こえない凡夫は無明に覆われ、愛の縁によって縛られ、この識身を得る。彼らは無明を断ち切らず、愛の縁を尽くさない。身が壊れ命が終わると、また受け生をする。また受け生をするから、生老病死憂悲苦悩から解脱できない。なぜなら、この愚痴な凡夫は本来梵行を修めず、正尽苦に向かわず、究極の苦の端に至ろうとしないからである。だから身が壊れ命が終わると、また受け生をする。また受け生をするから、生老病死憂悲苦悩から解脱できない。

原文:若黠慧者。無明所覆。愛緣所系。得此識身。彼無明斷。愛緣盡。無明斷愛緣盡故。身壞命終。更不複受。不更受故。得解脫生老病死。憂悲惱苦。

釈:もし賢い人が無明に覆われ、愛の縁によって縛られ、この識身を得る。しかしこの賢い人は梵行を修めて無明を断ち切り、愛の縁を尽くす。無明を断ち切り愛の縁を尽くすから、身が壊れ命が終わると、もう受け生をしない。もう受け生をしないから、生老病死憂悲苦悩から解脱できる。

原文:所以者何。彼先修梵行。正向盡苦。究竟苦邊故。是故彼身壞命終。更不複受。更不受故。得解脫生老病死。憂悲惱苦。是名凡夫及黠慧者。彼於我所。修諸梵行。種種差別。

釈:なぜこのようになるのか。賢い人は精進して梵行を修めるから、正尽苦に向かい、究極の苦の端に至る。だから身が壊れ命が終わると、もう受け生をしない。もう受け生をしないから、生老病死憂悲苦悩から解脱できる。これが愚痴で聞こえない凡夫と賢い人が私の法の中で梵行を修める時の種々の差別である。

賢い人は無故に賢いわけではない。前世の基礎があり、かつて清浄な梵行を修めたから、今世は正尽苦に向かい、苦を滅ぼす端に至り、最後に究極の苦の端に達し、解脱を得ることができる。前世に梵行を修めなかったが今世に法を聞いた人は、精進して修行しなければ、無明を断ち切ることは不可能で、また次の世がある。衆生が仏法を学び修行するのに速いものも遅いものもあり、これはすべて前世の根拠と一定の関係がある。同じ仏法を修学しても、ある人は受け入れが早く、ある人は遅い。差別は前世の根拠が異なることにあるが、最後には皆大きな解脱を得る。たとえ三悪道の衆生であっても仏法を聞いたら、理解できなくても種子を植える。再び人身に転生したとき、他の人より根気が鋭い。

(二九五)世間集滅の因縁

原文:爾時。世尊告諸比丘。此身非汝所有。亦非餘人所有。謂六觸入處。本修行願。受得此身。雲何爲六。眼觸入處。耳鼻舌身。意觸入處。

釈:世尊は諸比丘たちに告げる。あなたたちの今の色身はあなたたちのものではなく、他の人のものでもない。六触入処が絶えず運行して滅びず、自身の種々の願行を満たすため、受け生してこの色身を得る。何が六触入処か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処。

原文:彼多聞聖弟子於諸緣起。善正思惟觀察。有此六識身。六觸身六受身。六想身六思身。所謂此有故。有當來生老病死。憂悲惱苦。如是如是。純大苦聚集。是名有因有緣世間集。

釈:多聞の聖弟子たちは一切の縁起法に対して、善く正しく如理に思惟観察できる。六識身があるから、六触身、六受身、六想身、六思身がある。いわゆる「此有故彼有」とは、六識身があるから未来世の生老病死や憂悲苦悩があり、このように純大苦が集まる。これを有因有緣世間が集まるという。

仏は衆生に六識身、六触身、六受身、六想身、六思身があると言う。六識身とは眼識、耳識、鼻識、身識、意識。六受身とは眼触生受、耳触生受、鼻触生受、舌触生受、身触生受、意触生受。六触身とは眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触。六想身とは眼触生想、耳触生想、鼻触生想、舌触生想、身触生想、意触生想。六思身とは眼触生思、耳触生思、鼻触生思、舌触生思、身触生思、意触生思。思とは抉择決定と行為造作を指す。たとえば眼根が色塵に触れて生じる思は、眼識が抉择し、かつ行為造作があり、さらに運行し続ける。これは行陰に属する。

目が色を見るとき、眼識には思と行があり、抉择と行為造作がある。耳が音を聞くとき、耳識には抉择と行為造作があり、分別することは行為造作で、六思身とも呼ばれ、六行とも呼ばれ、行陰とも呼ばれる。だから思は行を含む。思と想は異なり、想は了別執取の行為、あるいは六七識の妄想、分別、計画などの思想活動を指す。この思は主に抉择と抉择後の行為造作にあり、六つの識の行為造作は身口意行だが、抉择した後、静止して寂灭し、身口意行の造作がない場合もある。

「此有故彼有」とは十二因縁を指す。前の鎖は因で、後の鎖は果で、二つ目の鎖から、各鎖は前の鎖の果であり、同時に次の鎖の因でもある。最後の大苦聚は果だけで、因ではない。最初の無明は因だけで、果ではない。前の因がなければ、無始以来あるものである。十二因縁は縁起法で、世間の一切の法はすべて縁起法である。無因無緣なら、一切の法は現れない。これを有因有緣世間集という。世間は因縁によって集まる。有因有緣世間滅も、滅びも有因有緣で、無故に滅ぶものではない。

しかし一つの法は因縁にない。因縁によって生じない。それは万法の因で、万法はそれがあるから現れる。それは阿頼耶識第八識である。それはいかなる縁にもよらず存在し、それを生じる法はない。法爾如是的に存在する。この法だけの存在にはなぜなどという理由がなく、原因がない。その他の一切の法の存在にはなぜなどという理由があり、因縁がある。第八識があるから、世間の一切の仮相が立てられ、宇宙、虚空、大千世界、衆生の五陰身、それは万法の因で、万法の根、万法の縁でもあり、それ自身には根も縁もない。

原文:謂此無故。六識身無。六觸身。六受身。六想身。六思身無。謂此無故。無有當來。生老病死。憂悲惱苦。如是如是。純大苦聚滅。

釈:有因有緣世間集の意味は、この因縁がなければ、六識身がなくなり、続いて六触身、六受身、六想身、六思身も消えてしまう。この因縁が消えることによって、未来の生老病死や憂悲苦悩がなくなり、このように純大苦聚も滅ぶ。

原文:若多聞聖弟子。於世間集世間滅。如實正知。善見善覺善入。是名聖弟子招此善。得此善法。知此善法。入此善法。覺知覺見世間生滅。成就賢聖出離。實寂正盡苦。究竟苦邊。所以者何。謂多聞聖弟子世間集滅如實知。善見善覺善入故。

釈:もし多聞の聖弟子が世間の集と世間の滅を如実に正しく認知し、善く観察し、善く覚悟し、善くこの法に入るならば、聖弟子はこの善法を招き、この善法を得て、この善法を知り、この善法に入ることができる。世間の生と滅を覚知し、証見し、賢聖の出離の果を成就し、真実に寂灭の正尽苦を証得し、究極の苦の端に達する。なぜこう言うのか。多聞の聖弟子が世間の集と世間の滅を如実に知って、善く観察し、善く覚悟し、善くこの法に入るからである。

「此無故彼無」の道理は、たとえば無明がなければ、身口意行がなくなる。行がなければ、六識の業種がなくなる。六識の業種がなければ、名色がなくなる。名色がなければ、六入がなくなる。六入がなければ、触がなくなる。触がなければ、受がなくなる。受がなければ、貪愛がなくなる。貪愛がなければ、取がなくなる。取がなければ、有がなくなる。有がなければ、生がなくなる。生がなければ、老病死や憂悲苦悩がなくなる。無明がなければ、生老病死がなくなり、中間のどの鎖が断れても、十二因縁全体の生死の循環はすべて断たれる。

生死の苦楽の鍵は執取するかどうかにある。執取が絶えないと、苦悩も絶えない。なぜなら、あなたが何を取ろうとも苦を取っていることになり、何を取ろうとも刺を取っていることになり、何を取ろうとも毒薬を取っていることになる。執取して貪愛することは苦を取っていることで、貪愛は苦であり、貪愛の集まりは苦の集まりで、取の集まりは苦の集まりである。私たちは決して忘れてはならない。取れば、苦を取っていることになり、毒薬を取っていることになり、最後に自分を害することになる。

世間の苦の集まりと滅びの道理を知り、賢聖の出離の果を成就する。この知は意識の理論上の知だけではなく、主に意根の知でなければならない。なぜなら意根は主となって決断する識であり、意根が知って初めて、苦の業を作らないように選択でき、苦を滅ぼし苦の集まりを断つことができ、生死から解脱できるからである。意識が苦を知っても、意根が知らなければ、同じように主となって苦の因を作り続ける。なぜなら意根がすべての身口意行を決定し、意識は決定的な役割を果たさず、苦を知っても仕方がないからである。だから法を学ぶには意根を修めなければならず、意根の心に学びを入れなければならない。意識心も非常に重要であるが、意根はもっと重要である。

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