衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 分類: 総合 更新時間: 2024-11-09 閲覧回数: 3335

第五章 戒律の章

一、学戒とは何か

例えば、幼児が歩き方を学ぶ場合、正常に歩けるまで、学歩期にある。学歩中はよく転んで、手が物につかまり、体が何かにもたれるが、時々転倒して手足を怪我することもある。足腰が熟練し、東西南北を自由に歩けるようになると、学習が終了し、独行者と呼ばれる。しかし、時々つまずくこともあり、成人でも不注意でつまずくことがある。また、例えば幼児が言葉を学ぶ場合、ああ、ううと言いながら、一文字、二文字から、文になり、ついには自心の意を自由に表現できるようになると、学語が終了する。

菩薩が学戒することも同じで、煩悩の習性が心に付着して、自覚できない。新しく戒律を受けるが、その意味がわからず、どう守るかも知らない。毎月、戒を読み上げてその理を明らかにし、時々戒律に違反し、気づいたら悔い改め、悔い改めてからは改めるが、改めてもまた犯す。苦労し、軽い戒律も守りにくく、重い戒律も犯す。煩悩が断ち切られ、三果、四果に至ると、自由で洒脱で、縁に応じて自在で、心に負担がなく、もう規範を越えない。重い戒律を犯さない、軽い戒律を守ることができるが、やはり時々不注意があり、轻い戒律に漏れがあるが、重い戒律を犯さない。これを持戒と言い、初地から八地に相当する。八地以降、習性が尽き、自然に任運し、諸戒律に対して、持つことも犯すこともない。

出家菩薩の十重戒や在家菩薩の六重戒を犯した者は、持戒とは言えず、学戒と言うだけである。軽い戒律も守りにくく、多く違反する者も、持戒とは言えず、学戒と言うだけである。学戒は容易ではなく、幼児が言葉を学ぶや歩き方を練るよりも難しいが、これは菩薩が成長するために必ず通らなければならない段階である。この段階を過ぎると、菩薩大人、如来の子と呼ばれ、心が解脱し、自在无碍で、三界を駆け巡り、理と事が円融する。

二、戒律を守ることに関して、修行者が身と口が業行を犯さないことはすでに良いが、意業は守るのが難しい。心が常に正しい念に住んでいれば、邪念が現れる機会がなく、これが守戒である。正しい念とは何か。仏を念じ、法を念じ、聖賢僧を念じ、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を念じることである。修心の法を多く深く知ると、意業が減少する。定力が強まると、意業も減少し、因果の理を知ると、心の警戒心が高まる。

守戒するには、まず理を明確にすることで、自分自身の行為を無理に制御するのではない。理が明確になれば、意根が感化され、意業は自然に現れなくなる。すべての修行の中で、理を明確にすることが最も重要で、知見が自分自身の身口意行を導くことができる。次に、定が深くて煩悩を抑えることができる。最後に、因を知り果を達することで、この事の原因があれば、それがある事の果を招くことができることを知り、身口意のすべての業行を造作する瞬間、自分自身の如来藏に記載があり、果報は必ず現れることを知ると、心の警戒心が高まる。これらにはすべて過程があり、戒を受けて戒体を得た後、戒体自体が非を防ぎ、悪を止める功徳の作用がある。菩薩戒体は更にそうで、菩薩戒は心を戒めるもので、完全に守って犯さないようにするには、一定の菩薩果位まで修学しなければならない。それ以前は、犯戒することが免れないが、軽重が異なる。菩薩戒を受けると非常に多くの利益があり、自分自身の警戒心が大きく、加えて護法善神の守護があり、道業が速く進歩する。

三、五戒の開遮について

すべての戒行で、衆生に大きな利益をもたらし、しかも根本的な利益であれば、遮らず、開縁できる。自分自身の私利のためではなく、一律に遮止し、個人の煩悩や悪習のために戒を開けてはならない。酒戒に関して、病気を治すために、薬酒を用いて、体に塗る、飲むことができるが、酒の味に執着してはならない。殺生戒に関して、薬を飲んで菌を殺すことはできる。その他の蚊、蟻、蝿、虫などに関して、害意がなく、故意に殺さなければ、犯していない。

盗戒に関して、他人が同意しないで取ることは犯している。他人や集団のより大きな利益のためであれば、犯していない。厳密に言えば、自分自身のものでないものに対して、所有しようと思うと、犯している。淫戒に関して、配偶者以外と非梵行を行うことは犯している。ここには戒を開ける条件があるが、皆がまだ菩薩性を備えていないので、一時的に言わない。妄語に関して、大妄語は、禅定を証得していないのに証得したと言う、羅漢果を証得していないのに証得したと言う、明心していないのに開悟したと言うことで、大妄語は必ず悪報を受けるが、懺悔できる。その他の小妄語は、他人を助け、救うためには、戒を開けることができる。大きな原則はこうで、具体的な事に遭遇したとき、智慧を用いて具体的に対処する必要がある。私心や煩悩心がなく、衆生や団体のためには、事情に応じて考慮することができる。五戒を犯しても、懺悔でき、再び戒を受けることができる。

四、仏学を学ぶ人の中で、五戒を厳格に守り、少しも犯さなくて満点を得る人はどれだけいるだろうか。五戒に少し欠陥があって、八十分を得る人はどれだけいるだろうか。五戒の大部分を守り、六十分を得る人はどれだけいるだろうか。恐らくとても少ない。妄語をしないという戒は、私が推測するに、幾人も守れる人はいないだろう。つまり、人は完全に正直ではなく、完全に信頼できるものではない。

誰もが完全に殺生しないでいるだろうか。盗み、つまり不予取とも言うが、他人が同意しないで、自分自身が取ることは盗みである。自分自身のものでないものを、心の中で自分自身のものと思うことも盗みである。人も含めて、配偶者以外の人に対して、心の中で邪念を抱くことも盗みである。心が正常でなく、意図が真でも善でもないことはすべて邪である。他人の同意を得ないで、勝手に他人のものを食べたり飲んだりすることも盗みである。多くの人が勝手にやりたい放題で、何も考えずに行動する。ある人は手段を用いて、他人を無理に同意させ、他人が口では同意するが、心の中では同意しない場合も、やはり盗みである。盗みには名声も含まれ、名声を騙し取り、地位や権勢を騙し取ることも盗みである。

人はいつも縁を求め、自私自利で、縁に応じず、心を守らず、誠実でなく、多くを貪求する結果、犯戒し、心が散乱し、禅定が得られない。また、五戒を受けていない人、または五戒を受けようとも思わない人がどれだけいるだろうか。戒を受けることも、守ることもしないのに、深い禅定と智慧を持ちたいと思うことは不可能で、妄想で証果や開悟を得ようとすることは更に不可能である。

五、増戒とは、再び戒を受けることを意味する。増上縁とは、識心を生じるのを助ける一つの縁(法)である。増語とは、語は音声言語を表し、音声言語で義を顕すことを増語と言い、法義を助けて表示する音声言語を増語と呼ぶ。ここでの義は、菩薩摩訶薩の義を指す。

六、無為法を証得していないときの持戒は、すべて漏れがあり、煩悩があり、煩悩と応じた持戒で、漏れのある持戒である。無為法を証得した後、さらに修学する戒は増上戒である。心行が本当に漏れのない人、漏れのない持戒ができる人は、三果、四果の人及び初地以上の菩薩で、彼らの心行は貪嗔痴の煩悩と応じておらず、漏れのないものである。

智慧を開く前提条件は多く、戒はその一つで、全部ではない。ただ持戒するだけではだめで、福德と禅定などの条件も必要である。無数の持戒者が智慧を持っておらず、人間身を保つだけで、または天に生まれて福を享受するだけである。智慧がなければ、戒行をうまく守ることもできず、戒相がわからず、戒の内包と目的がわからず、戒の開遮持犯がわからず、ただ外見に着手し、修心を知らず、時に犯戒しても知らず、または守戒していると思うことさえある。より多くの人は小乗の有相戒を守り、大乗菩薩の利他戒を犯す。

小乗戒は自分自身を修めるもので、他人は顧みない。菩薩戒は起心動念が自分自身のためであれば犯戒で、本当の大菩薩は心心念念が衆生のためでなければならず、衆生に有益で、仏法の伝承に有益であれば、自分自身が犯戒して苦しんでも、衆生に有益なことをしなければならない。時に小乗戒を守ると、大乗戒を犯し、大乗の利楽衆生の戒を守ると、小乗戒を犯す。菩薩はこのとき、善く選択する必要があり、自分自身が小乗戒を犯しても、大乗菩薩の心地戒を守るべきである。

釈迦仏が菩薩であったとき、衆生を救うため、小乗戒を背かざるを得なかった。それは衆生を助け、正法を護持するためである。正法を護持し、衆生を救うために小乗戒を背くことは、罪がないだけでなく、功がある。仏は経典の中でも言っている。悪世において、正法を講じる法師を護持するために、刀剣を持つことができ、破法の悪人を殺すことができる。こうすると、その功徳は正法を講じる法師よりも遥かに大きく、命終して仏のそばに行き、仏の第二の大弟子となり、正法を講じる法師は命終して仏の第三の大弟子となる。

私たちは仏学を学んで、まず菩薩になり、最終的には仏になる。だから、大乗菩薩戒をよく学び、大乗菩薩戒をよく守るべきで、これが自分自身の心を守ることである。菩薩戒と小乗戒が衝突するとき、私たちは善く自分自身の心地戒を護持し、自分自身の個人利益のためではなく、すべて大衆と仏法のためにする。こうすれば、成就が速い。

七、問:末法時代に私たちはどうやって持戒すべきか。仏学を初めて学ぶ人は五戒と八戒を持つ必要があり、長く菩薩を修学している人は有相戒を持つ必要がなく、相を捨て、相を分別しなくてもよく、直接に大乗菩薩の無相の心地戒を持つことができるのか。

答:まず、初めて学ぶ菩薩と長く修学しているという概念の内包を明確にする必要がある。どんな段階の人が初めて学ぶ人に属し、どんな段階の人が長く修学している人に属し、それぞれの特徴は何か、心理状態はどうか。

長く修学している菩薩は、多生多劫菩薩として過ごしており、菩薩の習性がある。生まれつき煩悩が非常に軽微で、または煩悩がなく、身口意行がすべて清浄で、誰にも教えられなくても自動的にそうなっており、さらに無意識に習慣的に衆生を善に教化することが好きで、自我を顕すためではなく、完全に衆生が悪を捨て善に向かうことを望んでいる。菩薩が生まれつき煩悩が軽微であるか、または煩悩がないとすれば、地上菩薩が再来して初めてできることで、前世ではすでに煩悩を断ち切っており、今世は隔陰の謎があるため、時々非常に軽微な煩悩があるが、これを煩悩の習性と呼ぶ。

長く修学している菩薩は、生生世世菩提を証悟しており、今世、仏法に出会うと、前世の修行の慣性と方法に従って自動的に修行し、すぐに禅定を生じ、間もなく自動的に証果し、再び明心開悟する。それほど難しくない。証果と明心した後、すぐに前世の証量とつながり、果位は前世の果位で、禅定は前世の禅定で、さらに修行を続けると、道業が速く進歩する。衆生を教化する方面において、今学んで今から薫習する必要がなく、自然にどうやって衆生を教化するかがわかり、衆生を貪嗔痴に向かわせることはなく、衆生の煩悩を容認することはなく、自然に厳しい師となり、弟子に対して高い標準で厳しい要求をする。

このような長く修学している菩薩だけが、大乗菩薩の心地戒を有効に持つことができる。なぜなら、心地がすでに清浄で、仏陀が制定した有相戒を犯さないからである。例えば、五戒と八戒を特に守る必要がなく、自然に犯戒しない。身口意行がすべて清浄である。初禅以上の禅定があり、煩悩が断ち切られ、心地が清浄である。この基礎の上で、初めて無相心地戒を持つことができ、心が戒相の縛りを受けなくてもよく、心地の清浄に影響を与えないことはすべてでき、目的は衆生を救うことで、自分自身の欲望に従うのではない。

もし菩薩が心の中にまだ欲望があり、嗔恚があり、愚痴も重いとすれば、必ず厳格に有相戒を持つ必要があり、五戒、八戒を一つ一つ厳格に守り、決して犯さない。犯した場合は、疾首痛心して発露懺悔する。特に菩薩戒は、より厳格に守らなければならず、少しも自分自身を容認してはならない。貪嗔痴の煩悩が一つも断ち切れていない菩薩、特に最も基礎的な未到地定もない菩薩は、まだ無相戒を持つ資格がなく、根本的に無相戒を持つことができない。なぜなら、心地が清浄でなく、起心動念がすべて煩悩と応じているからである。必ず有相戒をよく持ち、一歩一歩様々な事相から自心を拘束し、規範を越えないようにする。初禅定が生じた後、煩悩が断ち切られて初めて、相を捨てて心地の清浄を守ることを試みることができる。

上記の長く修学している菩薩の特徴がなければ、すべて初めて学ぶ菩薩に属し、厳格に有相戒を修学し、身行と口行の拘束を捨てて、勝手にやりたい放題で、自分自身の貪嗔痴の煩悩に従ってはならない。肉を断つことができず、酒を断つことができず、葷辛を断つことができず、これらの口福を享受したいという人が、言い訳をつけて、「私は相を取らず、相を分別しない。私は心地戒を持つ。葷辛を食べても、心の中で葷辛の相を着ない」と言う。そうであれば、直接にベジタリアンになればどうである。なぜ料理の種類を選んで毎日変えて、繰り返しは食べないのか。もし心の中ですでに相を着ないのであれば、一年中同じものを食べても飽きないはずで、善知止足すべきである。春夏秋冬の四季にそれぞれ一着の服で十分である。喉が渇いたら水を飲めばよい。そんなに凝る必要はない。他人の口や胃に入るのではない。

現在の仏学を学ぶ人は、可哀相で、憎らしい。明らかに善根が薄く、長く修学している菩薩であると自認し、明らかに五戒、八戒、菩薩戒を守ることができないのに、無相の心地戒を持つと大声で叫んでいる。自己認識が全くなく、高い理想を空しく叫ぶ人ばかりで、このままでは仏教は必ず衰退し、誰も成就できない。世尊が口で宣した戒定慧の三无漏学を、今、戒学と定学を捨て、乾慧の慧学だけにする。一人一人が仏法を講じるとき、口が滑らかで、道理が通っているように見えるが、実際には何の修行もなく、目が高いが手が低い。これが現在の仏教界の乱れた状況で、整えることができない。なぜなら、衆生の強い慢心が原因である。

八、ある人が言う。「因縁に対し、物事を手に取り、手放す。自在に、洒脱に。」しかし、これは本当の手放しではなく、自在でも洒脱でもない。これは自己麻痺である。本当に手放すには、本当に我見を断ち、初禅定を修して煩悩を断ち、貪愛を断ち、その後初めて手放せる。洒脱になれる。この程度まで修学していなければ、本当の手放しではなく、愚かで洒脱ではない。

多くの人が縛りを望まない。皆、自在になりたいが、縛りと自在が何なのかを知らない。そこで、戒律を縛りと見なし、禅定を縛りと見なし、戒律の拘束を受けるのが自在でないと感じ、それで戒律を捨て、自由奔放になる。知らず知らずのうちに、仏陀が戒律を制定した目的は、衆生が解脱するためである。だから、戒律を別解脱戒と呼ぶ。衆生は守戒することで、犯戒しないので、因果の悪報がない。守戒すると、我見を容易に断ち、煩悩を容易に降伏し、煩悩を断ち切ることができる。煩悩を断ち切ることで、解脱でき、自在になり、心が規範を越えないし、人に対しても、事に対しても心を動かさない。これが本当の解脱である。拘束を受けたくないという心があると、それは解脱できない、自在でない心である。戒衣、礼忏衣とも呼ばれ、解脱服とも呼ばれる。受戒、戒を読み上げ、経を読み、懺悔するときに着る。この法事により、心が徐々に解脱する。

九、守心戒とは何か

守心戒とは、心に起心動念を生じさせず、貪嗔痴の煩悩を起こさせないことである。これは非常に難しく、煩悩を断ち除かなければならず、煩悩を抑えることさえ容易ではなく、抑えきれないことがよくある。現代の世間では、身と口の戒を守ることが容易ではなく、犯戒の機会が多く、少しでも自制が利かなければ、身と口の戒を犯してしまう。

なぜ身と口の戒を犯すのか。それは心が原因である。心に貪嗔痴の煩悩があると、身と口が業を造る。もし心を守ることができれば、身と口はどんなことがあっても犯戒して悪業を造らない。もし心が犯戒しなければ、身と口はどんなことがあっても犯戒していない。なぜなら、貪嗔痴の煩悩の心行がないからである。すべての戒は、有心か无心かを基準とするが、一般の人にとっては他人の心を見分けることが難しいので、他人の身と口を基準とする。もちろん、誤判断することが多い。

小乗の戒行は身と口の業行を基準とし、身と口が犯戒しなければよく、心行がどうであれ関係ない。大乗の菩薩は心地戒を基準とし、起心動念がすべて自分自身のためでなければよい。本当の大乗戒は守るのが非常に難しい。例えば、『瑜伽師地論』に記載されている菩薩戒は、初地以上の地上菩薩向けに制定されており、地前菩薩は貪嗔痴の煩悩を断ち除いていないので、守ることができず、身と口が犯戒すれば犯戒とみなされる。地後菩薩は心行を基準とし、心が衆生のためであれば、犯戒していない。

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