衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 分類: 総合 更新時間: 2024-11-09 閲覧回数: 1812

第十二章 修行篇(2)

二十一、菩薩道の修行の道は長い、一時的な目先の速さや遅さにこだわる必要があるだろうか。目標の達成は三つの無量劫で、三つの無量劫の時に最も速く仏道を完成するのであれば、勝者である。まるで一万メートルの長距離競走のように、賢明な者であれば、誰が百メートル以内の前後を気にするだろうか。体力に応じて長期的な計画を立て、手配し、優先的にゴールに到達することを保証することが根本で、その他のことは重要ではない。

人は遠慮がなければ必ず近憂がある。目標がより長期的であれば、智慧がより広大で、胸襟がより広博で、度量がより雄大で、志気がより高遠で、足腰がより力強く、信心がより十分である。一時的な速さや遅さ、勝ち負けを気にするな。

今、末法時代に、そんなに多くの菩薩種性の人がいなく、そんなに多くの良い道器がないので、決して速やかな証果と明心の速成班を行ってはならない。この二年間、私はいくつかの現象を見て、少し目を覚まされた。速成班は大きな害を及ぼし、そこから出てくるのはすべて粗悪品で、仏教の正常で秩序ある発展を危害する。

多くの人が本当の修証の手がかりを見つけられない、これは正常な現象で、その修証の因縁がまだ成熟していないことを示している。彼らがあちこちでぶつかりながら、徐々に自分自身を成熟させ、善根福德と禅定智慧を徐々に増やし、菩薩の条件を整え、菩薩の心性と德行を養う。少なくとも人としての德行と教養、人としての人格が必要で、そうでなければ、どうやって菩薩として衆生を引きつけることができるだろうか。衆生を泥沼に引き込み、誰も気づかない。朱に交われば赤くなり、墨に交われば黒くなる。衆生は知らず知らずのうちに悪習に染まり、それを菩薩行だと思っているが、この結果もとても恐ろしい。

私はいくつかの悟りを求める人を観察して、人柄が極めて悪く、人としての振る舞いが全くできず、良い人になろうともしない。もしこれらの人がすべて修証の手がかりを知り、最後の結果を知り、いわゆる有名無実の菩薩になったら、これからの仏教はどうなるだろうか。考えるだけで恐ろしい。

悟りを速やかに明心開悟し証果しようとする人ほど、悟るべきではない。このような焦る心があるから、不純な目的があり、菩薩の心性がまだ不足し、何も求めない心性がまだ養われていない。このような人が一旦悟ると、更に求めることが増え、名聞利養の心が抑えられなくなる。だから修行ということは、自然と成し遂げられるものでなければならない。因縁が成熟した人は、抑えることができないほど、必ず自然に悟り、自然に菩薩となる。

速やかな証果と明心は、福德の蓄積が不足し、業障がまだ消えておらず、煩悩がまだ降伏されていない。一旦証果と明心に近づくと、業障が出て遮障し、煩悩が現れて妨げ、障害が重なり、菩提と道心を退失しやすく、後続の修行が力不足になる。だから因縁が成熟していない場合、決して手を下すべきではなく、決して未熟なものを摘んではならない。そうしないと、人を害し、自分自身を害し、仏教を害する。

仏教が速成班を行うなら、心性速成班、道心速成班、人性速成班、禅定速成班しか行うことができず、決して証果速成班と明心速成班を行ってはならない。もし心性が速成できない、人性が速成できない、道心が速成できない、禅定が速成できないなら、証果と明心がどうして速成できるだろうか。

多くの人が私に苦情を言って、修行の手がかりがなく、どうやって参禅し明心するのか、どうやって観行し証果するのかが分からないと言う。今考えると、そうなのは正しい。知らないのは正常で、手がかりがないのは正常である。大変な苦労を経てしばらくの間磨かれ、因縁が成熟すると、すべてが分かり、理解できるようになる。

二十二、主人が部屋の中で花を鑑賞し、それから独り言を言った。「赤い花はとても美しい」。その時、そばにいるオウムがそれを聞いて、つぶやいた。「赤い花はとても美しい」。オウムが言ったことは、如実の言葉であるか。現量観察であるか。花の赤色と美しさを証得したか。どれもない。オウムはただ口まねをしており、この言葉の内包を全く知らず、自分が何を言っているのかも知らないかもしれない。だから、何かを言えるからといって、修行があり実証があるわけではない。

仏経によると、十信位の衆生は仏を学んで既に数多くの劫が経ち、仏に出会ったことも多く、無量数劫の仏を学ぶ修行でも初地菩薩のレベルにしか到達していない。悟りを開き明心する住位菩薩は、初地菩薩からまだ三分之二の修行時劫があり、既に成仏の道の九分の一の道程を歩んでおり、これはすでにとても長い時劫を修学してきたことで、大変容易ではない。これから分かるように、仏を学ぶ修行は容易なことではなく、道業が一つのレベル上がるたびに、費やす必要がある時間と精力は計算できないほどである。だから、誰も油断できず、自分が理解しただけでどんな果位を成就したと思うことはできない。そんな簡単なことではない。もしその道を歩んでいなければ、前の道程も見えず、想像だけではもちろん簡単に感じ、成仏が容易に思える。既に成仏した人だけが、成仏の道がどういうものかを知り、経験したことを話すのが信頼できる。

二十三、課文を暗記すると同時に、必ず課文の内包を理解し、そうであることを知り、その理由も知らなければならない。仏を学ぶ過程は、まず課文を読み、次に課文を暗記し、続いて課文を理解し、そして重要な点は課文が言う内包を証得し、その後、知り証得したことに従って実行することである。こうすれば、すべての課文が自分自身のものとなり、学んできたものではなく、これからどこでも広く課文を説くことができ、すべてが自分の心の中の課文を説いていることになる。

二十四、仏を学ぶのに、いつも本を暗記し、盲信するだけでは、道業がどうして進歩できるだろうか。智慧がどうして増長できるだろうか。やっと人身を得て、大乗了義法に出会ったのに、自分の頭脳をよく利用せず、深く細かく思惟せず、実証を求めないと、人身を得たのが無駄で、本当の仏法に出会ったのも無駄で、数十年が過ぎても、自分自身は何もないままで、惜しくないだろうか。できるだけ自分自身の正しくない、道理に合わない仏を学ぶ方法を変えなければならない。宝を数えるだけではなく、自分のポケットに宝を入れなければならない。他人のために宝を数えても役に立たず、結局自分自身は空しいままである。必ず定を修め、定の中で仏法を観行しなければならない。定を離れると理解も十分できず、ましてや証得などできるはずがない。証得した智慧だけが究極の智慧で、自分自身の智慧で、理解したものは信頼できず、ましてや理解が不十分な場合にはなおさらである。

三蔵十二部経をどんなによく暗記しても、意根がうまく薫習されなければ、中陰身の中でこれらの知識も役に立たない。理論知識は結局知識で、自分自身が証得していなければ、自分自身の手に掌握していなければ、根本的に役に立たない。だから私はいつも皆さんに定カと観行を強調している。これは知識よりもはるかに重要である。しかも果位に関することは、理論知識とは関係がない。どんなに多くの仏法を暗記できても、証得していなければ、零の果位である。仏法を証得した人は、理論知識がそれほど多くなくても、実際の証量がその果位の高低を決定する。

二十五、現代人は苦に耐えられないので、言い訳をつけて、苦行は道ではないと言う。苦行は道ではないが、修行は苦行から離れられない。これは人が様々な欲に振り回されることを脱却する能力があることを表し、欲がない心の行為で、心が清浄で修行が速い。釈迦仏の本生修行の事跡を読むと、釈迦仏は無量世も苦修行をし、半句の偈を求めるために、自身を捨てて羅刹に与えたことさえある。諸仏菩薩は因位の修行の中で、苦行を主とし、欲を享受しない。今の世間では、修行の風向きが逆転し、苦行は道ではないとなり、欲を享受しながら、聖人の名誉と果位を求めようとする。魚と熊掌は両方とも得られるだろうか。

欲が強く、捨てることができず、その心理を隠そうとする人がいる。そこで言い訳をつけて、菩薩は大福德の人で、衆生に自分自身の福德を示す必要があると言う。だからこれらの人はいつもどこでも享受を重視し、既に成就したように振る舞う。もしそうなら、釈迦仏は当時、無福の人で、出家した後、福德を享受できなかったのか。十方の諸仏菩薩が修行している時、皆無福の人で、修行中に福を享受できなかったので、それほど福德を大切にしたのか。西天二十八祖、東土六祖、過去の時代のすべての禅師大徳は皆無福の人で、福德を享受できなかったのか。

二十六、肉を食べるか否かについて、これに執着しなくてもよいと言う人がいる。つまり、相に執着しないこと、心を収めることが戒であることが根本であると言う。しかし、事実と結果、因果は誰が執着するか、執着しないかに関係なく、必ず現れる。片思いでは何も解決できない。

心を収める能力があることで初めて本当の戒を持つことができる。心を収める能力がなければ、戒を持つことはできない。誰が心を収めることができるか、どの程度修めることで本当に心を収めることができるか、これが重要で、自分が心を収めていると思うからといって、心が収められているわけではなく、自分が相に執着していないと思うからといって、相に執着していないわけではない。その考え方は当てにならず、道理がない。相に執着しないことができるには、対応する真理を証得し、深い禅定が必要で、そうでなければ、執着を破り、心を収めることができない。それ以外のことはすべて口先だけの言葉に過ぎない。

はっきりさせなければならない。どの程度修めることで心を収めることができるか。自分自身に問いかけて、自分自身が心を収めることができるかどうかを考える。もしできるなら、どんな問題も解決でき、食べるか食べないかもどうでもよい。もし肉を食べること、食べないことに執着することが相に執着することであると言うなら、肉を食べること、食べないことに執着しないことは、既に心が相に執着していないことを意味する。既に相に執着していないなら、何を食べてもよいはずで、もう気にしないはずで、白米だけでも食べればよいし、ピクルスを一皿添えてもよいし、肉のない生野菜を食べてもよいし、何を食べてもよい。食べるものに執着しない人は、残飯残菜でも何でも食べるはずで、腹を満たし、修行に励むことができればよく、その他のことは気にしない。本当の不執着はこのようなもので、肉を食べることを避けなくてもよいと言うのではない。

二十七、本当の修行は心を修めることで、心を修めるには自分自身の心地に力を入れるべきで、様々な私(我)の心念を空にすること、心中の私(我)を排し、できるだけ空にし、私(我)をできるだけきれいに排除し、心中に私(我)がなくなるまですることである。他人を修めるために外向きに力を入れ、他人や他法を自分自身の私(我)性に従わせるのではない。修行の目的は、様々なレベルでの私(我)のない状態を達成することで、私(我)がなければなるほど良く、私(我)がなければなるほど成就し、私(我)がなければなるほど解脱し、私(我)がなければなるほど自在で、私(我)がなければなるほど仏に近づき、最後に完全に私(我)がなくなれば成仏する。そして、心中に衆生の利益を入れ、仏教の利益を入れ、つまり、自分自身の利益を入れない。最後には、自分自身がすべての利益を得たこと、解脱の大きな利益を得たことがわかる。この利益は私(我)のない心、私(我)のない行為で換えられたもので、様々な小さな私(我)による行為で得られたものではない。

それでは、毎日朝目を覚ましてから、夜に心念が止まるまで、時時刻刻自分自身の内心を反省し、様々な思想と念頭を反省する。もし自分自身の心念がすべて私(我)で、私(我)の様々な利益があることがわかれば、私(我)があることの不利な要素を思惟し、自分自身を叱り、自分自身を説得し、自分自身を鎮め、心中の私(我)が氾濫して他人や他法を犯し、私(我)を順応させ他を排他することがないようにする。

心を赤ん坊のように単純、純粋、清浄、清新、柔らかく、硬くなく、一つの塵も染まらないようにする。こうすれば、身心が滋養を受け、清浄で至るところ柔らかくなり、如来藏が私たちに脱皮換骨をさせ、聖人の私(我)のない素地ができ、聖人が生まれ、それによって聖心が成就し、聖身が自在になる。こうして欲界の尊、色界の尊、無色界の尊になり、三界の尊になり、最も殊勝な果報が求めることなく得られ、得ても執着し住まない。

衆生を自分自身と一体と見なし、私(我)のない大悲の心を生じ、私(我)のない心ですべての世界の苦難の衆生を救う。私たちの未来には、この一つのことしかできない。世俗のことはなく、世俗の利益の争いはなく、様々な権勢と名誉地位の争いはなく、すべて仏事菩薩事で、すべて私(我)のない利他のことである。それなら、私たちは今から始めるのが最善で、聖賢になってから始めるのを待つべきではない。待っても聖賢の果は来ない。

二十八、仏を学ぶ人の精進は外道に劣らないはずである。

仏の世の時、長爪梵志という外道がいた。彼は自分自身の甥である舎利弗と論争するため、外道の幾つかの大部の典籍を学ぶことを志し、学び通じない限り爪を切らないと誓い、人から長爪梵志と呼ばれた。外道が世間の無意味な論争のために、こんなにも精進し、爪を切る時間がなく、長年爪を切らなかったのに、私たち仏を学ぶ人はどうやって精進しているのか。毎日、お茶を淹れたり、おしゃべりしたり、街をぶらついたり、掃除をしたり、食事をしたり、家族と集まったり、养生のためにヨガや気功をしたり、道友と冗談を言ったり、自慢をしたり、十分に寝たりして、一日が終わる。修行に使う時間はどれくらいあるのか。

世界では、どれくらいの仏を学ぶ人が外道のように精進して修行しているだろうか。恐らくとても少ない。どれくらいの仏を学ぶ人が外道のように世間を見破り、世俗を捨てて修行しているだろうか。恐らくとても少ない。三人の中に必ず私の師がいる。私たちは本当に外道から多く学ぶべきで、彼らの長所と優点、そして捨てる精神と精進して努力する精神、世俗を軽んじる精神を学ぶべきである。仏を学ぶ人がこのような精神を持てば、法義が正しければ、道を得られないことは難しい。

そうして精進する外道は、仏に出会うと得度し、戒行が清浄で、禅定が備わり、智慧もあり、適切な仏法に出会うと、精神を集中して一思いにすると、証果する。それは本当の証で、解ではない。私たち現在の仏を学ぶ人はできるだろうか。戒を守ることができず、禅定を修めることができず、大乗法のグループでどれだけ長い間薫習しても、証悟にはほど遠い。せいぜい解釈するだけである。内道と外道の差はどれほど大きいのか。一部の人が外道を軽んじているが、そのような外道なら、私が出会えば教えるのがどんなに簡単か。決して疲れることはなく、せいぜい彼らが大心を発することができないだけである。仏を学ぶ人が発する大心も、進んだり退いたりして、信頼できない。

二十九、菩提心を忘れて、諸善法を修めることは、魔業である。これをどう理解するか。

菩提心には二種類がある。一つは先天性の不生不滅の菩提心で、一切の衆生、一切の善法の依止するところとなることができ、これは自性本心、有為でも無為でもある第八識を指す。もう一つは後天的に諸善法を修めることで生じる自度度他を望む菩提心で、七識心が菩提自性に依止して発するもので、生滅性で、有為から徐々に無為に近づく。

衆生は最初に菩提心を発するとき、多くの場合、単純で純真であるが、長い間の修道の過程で、最初の発心を忘れる可能性がある。諸善法を修めても、その目的が純正でなく、私念と私欲が混じり、自性菩提と最初の発心に違反する。これらの私念と私欲は、目的が個人の利益に向けられていることを表し、無私に仏教や衆生のためではなく、自分自身の私利が仏教全体や衆生の利益よりも高い。

そうして、このような私心で修行して衆生を救う善法は、魔の性質を含む。なぜなら、魔王と魔民はすべて強い欲を持っており、彼らが善事をしないわけではないが、善事をする目的が純正でなく、利益が個人にあるので、結果は多くの場合善でなく、善の表面には悪の実質が隠れている。だから、個人や小さな団体の利益を目的とする善業はすべて魔業である。

三十、菩薩は永遠に衆生から離れることができない。心を発し、志を立てて成仏し無余涅槃に入らない限り、生生世世衆生と一緒にいる。菩薩は異なるレベルに分かれている。まず、我見を断ち切っていない菩薩は、衆生から離れようとしても、不可能で、三縛結に縛られて、三悪道から免れられず、三悪道の衆生と離れることができない。人間界や天上界に戻っても、人天の衆生と離れることができない。我見と三縛結を断ち切った後、地前までの菩薩は、どこに行っても衆生と一緒にいて、衆生から離れることができない。地後の菩薩は、十無尽願を発したことから、願力に引きつけられ、無余涅槃に入ることは不可能で、それゆえに必ずまた衆生と一緒にいなければならない。

重要なのは、各レベルの菩薩がどんな衆生と一緒にいるのが良いのか、この問題をしっかりと把握することである。菩薩が願を発する場合、どんな願を発すれば自分自身に適しているのか、はっきり考える必要があり、将来后悔しないようにする。

各菩薩の第一の任務、最も重要な任務は、三縛結を断ち切ることで、しかも本当に断ち切り、残りの縛りを残さないことである。それから初めて、衆生を救うことができ、相応しい衆生を相対的に縁に応じて選ぶことができる。

娑婆世界で衆生を救うことを願い、地球で衆生を救うことを願い、地球から離れず、娑婆世界から離れないが、自分自身の三縛結を断ち切っていないので、命が終わると縛りに従って三悪道に行ってしまう。明らかに衆生を救うことを願っているのに、自分自身を救うことができないうえ、他の菩薩に救われる必要があるなんて、どうして衆生を救うと言えるだろうか。

仏を学ぶことも、善を行うことも、願を発することも、すべてのことをするには相当な智慧が必要で、一時の情熱に任せ、何をしようと思ったらそのままやる、結果を考えないのはいけない。

三十一、菩薩の十無尽願

諸仏は世に降り立ち、衆生を普度し、八相成道を示し、その内容をしっかりと覚える必要がある。兜率天宮から降生し、入胎し、住胎し、出生し、出家し、成道し、転法輪し、涅槃する。だから仏は必ず出家人で、僧数に属し、在家者ではない。仏は華厳経の中で菩薩に十無尽願を発するように教えている。その中の一つの願は、菩薩は必ず広大な神通を持つことで、これは必修の内容である。神通がなければ、自分自身が成就できないだけでなく、衆生を救うこともできない。しかし、神通は入地した後に修めるのが最善で、悟りを開いた後に修めるのも非常に無理で、それ以前は神通を修めることを提唱しない。

菩薩の心量が小さすぎると、このような広大な誓願を発することができず、たとえ発しても、実行することができない。心量がどれだけ大きいかによって、菩薩の事業がどれだけ大きいかが決まる。私たち各衆生の未来世でできることは一つだけで、自度と度人で、生生世世このことで、すべて仏事で、三界の世俗面の追求は一切ない。それでは、私たちは今から自分自身の心ができるだけ世間相に執着しないように訓練し、世間の個人利益を追求しないようにし、世間の生存利益のために人と争わないようにする。財色名食睡、色声香味触、家族親族を含め、すべてのものを、心の中で捨てることができるだけ捨てる。こうすれば、心が空で清浄で広大になり、如来藏の程度まで広大になれば、究極に達する。

衆生界が尽きるまで、私の願は尽きない。衆生界は尽きることができるのか、いつ尽きるのか。仏経によると、誰かが仏に尋ねた、衆生界は尽きることができるのか、衆生は尽きることができるのか、仏は答えなかったようだ。仏が知らないから答えられないのではなく、衆生の数が本当に無辺無際で、数え切れないほど多いからである。各菩薩の任務は極めて重く、たとえ成仏しても、永遠に衆生を救う事業に忙しい。十方世界の無数の衆生は無量無辺で、仏も菩薩も仏法もない世界もとても多い。それらの世界の衆生はとても苦しんでおり、私たちこれらの菩薩が心を発して救うのを待っている。

私たちが将来、衆生を救う能力があるとき、すべてが衆生のために考えるべきで、個人の私利のために争うべきではない。菩薩がそれぞれの家族や名声、地位の問題で激しく争って、あの衆生はどうするのか。過去に発した菩提大願はどこに行ったのか。私たちは今、できるだけ大きな願を発し、将来世に菩提心を忘れないようにし、すべてが自分自身の道業を成就し、衆生を成就するためで、世俗の利益のためではない。

衆生の善根福德が成熟していないと、仏法に出会うことができない。私た们は皆、できるだけ衆生に善根を多く植え、衆生の善根を早く成熟させるべきである。もし衆生の善根が成熟していなく、福德が不足していると、仏が目の前にいても、役に立たない。もし衆生界が尽き、衆生がいなくなったら、仏が仏国土を持つ意味があるだろうか。仏が無数の仏国土を成就するのは、衆生を救うためで、衆生がいなくなったら、仏は形を留めて世に住むだろうか。もう留まらないで、仏国土も役に立たない。だから、将来の状況を見ると、私たちは今、何を争う必要があるだろうか。すべての法は空で、一時的に使える程度でいい、執着する必要はない。

三十二、適格な仏陀の弟子になる

学校では、適格な学生は必ず、徳智体が全面的に発展した三好学生である。仏教では、仏陀の良き弟子は、戒定慧が全面的に発展し、六波羅蜜が備わった仏弟子で、才能と心性が完璧に結合した修行者である。徳才兼備の人は、非常に貴重な人材で、非常に稀である。もしある能力だけがあり、心性が善良でなく、柔軟でない場合、このような人は重用できない。もし心性が善良で、能力が不足している場合、まだ無理やり使うことができ、育成することができる。もし能力と心性がどちらも悪い場合、断固として使うことはできない。

心性は無我に現れる。我見を断つ前に、ある人は我性が強く、ある人は我性が弱い。我性が弱い人は当然、我性が強い人よりも我見を断りやすく、証果しやすい。いつも他人を支配しようとする人は、我性が強い人で、人に管理されたがらない人、上司に従いたがらない人も、我性が強い人で、心性が調和しておらず、すべて私(我)の心が原因である。我性が弱い人は、比較的に気ままで、愛想がよく、人や事に対してどうでもよいという態度を持ち、自分自身の地位と権勢をあまり気にしない。団体で問題が最も多いのは、我性が強い人たちで、強力なリーダーがいなければ、この団体は混乱してしまう。

仏教団体には必ず護法神が護持している。各人の心性を護法神はよく知っている。この人がどんな心性で、どんな目的があり、どんな役割を果たすことができるか、護法神は明確に知っている。だから、一人の人が団体でどんな役割を担うべきか、護法神が管理する。ある人は私心が強く、団体に破壊的な役割を果たすと、護法神は方法を考えて追い出し、隔離する。

三十三、全世界が絶えず生滅変異しており、最後にはすべて空無になる。ましてや私たちの小さな肉の体は、独りで存在することができず、より速く変異し、長くは存続できない。私たちが毎日、自分自身と周囲のすべてにそんなに執着するのは、本当に必要がない。

誰もが早晩、消滅しなければならない。生命が存在するうちに、生死という大事に目を向け、些細で重要でないことにこだわるな。食べること、飲むこと、排泄することなどのことは重要でない。名聞利養などのことも重要でない。生活が豊かかどうか、順調かどうかも重要でない。重要なのは、死んだ後どうするか、来世にどうするかである。生命が終わると、この世のすべての出来事が過眼の煙となり、意味がなくなる。激しい争い、人我是非もすべて消え去り、軽微なものになる。むしろ、時間を多く費やして、自分自身が未来世に持っていけるものに心を向け、自分自身のために後世の資糧を蓄えるようにし、持っていけないものにはもう心を使うな。

生活が順調で自在で、家庭が和やかで円満で、事業に成功し、名声と権勢が増大し、それによって自分自身が満足すると感じる時、それは貪愛が成功した時で、迷いの時でもある。追求する方向が間違っていると、重心を失う。いつかこのすべてが消えるとき、苦しみ、失うという喪失感を感じ、落胆し、失望する。むしろ、良い時期に、道業を追求し、得ることなくすべてを得、すべてを得ても得たという感覚がなく、内心が解脱自在で、解脱感や自在感がない状態が、極楽である。

三十四、世界が広大で、仏国土が広大で、宇宙が広大で、意識では想像できない。私たちはせいぜい蟻のようなものである。蟻の世界には何があるのか。蟻の生活には、何を追求し、何をこだわり、何を誇りにできるのか。蟻の国には、何が争う価値があるのか。各蟻の五陰身には、何を執着し、貪愛する価値があるのか。

しかし、仏が見る蟻の群れは、本当に自分自身の五陰身に執着しすぎている。七尊の仏が出世しても、蟻は依然として蟻の身である。これはまさに蟻の愚痴性の現れ、執着性の現れである。私たちと蟻にはどんな違いがあるのか。無量の仏が出世しても、依然として六道の衆生身であり、やはりそんなに愚痴で執着しており、非常に深い無明がある。恥じないのか。自分自身を責めないのか。慚愧という二種類の善心所法がないのか。

智慧はすべてよりも高く、解脱は何よりも重要で、どんなに苦労しても得る価値がある。そうでなければ、蟻のように永遠に愚痴で可哀想になり、自分自身がどんなに偉いと思い込んでいる。

多くの人が仏を学んでいるのに、山や川に興味を持ち、あちこちを遊び、目の前の景色に貪愛し、貴重な時間を修行に使うことを知らない。蟻のような自分自身がどれだけ遠くまで行けるかを知らない。蟻の群れがいくら歩けても、日夜休まずにも、砂漠を抜け出すことは難しく、ましてや国土を抜け出すことはできない。私たちが飛行機に乗っても、地球上の領空を離れることは難しい。むしろ、自心を開き、視野を広げ、大千世界を包容し、無限の宇宙の奥義を探究し、自分自身が無所不知、無所不能になり、本当の智者と仏陀のような有能な人になり、無辺無際の心量と智慧徳能を持つようにする。

仏を学ぶ修行は、最後にはすべての法が空で、空さえも空であることを証得することである。五蘊は空で、十八界は空で、私(我)は空で、万法は空で、仏法も空で、成仏も空で、仏も空である。心中ですべての法、すべての相を空にし、空の観念も空にする。観世音菩薩の耳根圆通法门で言うように、能空所空をすべて空に尽くし、空の法も残さないと、到達する。だから、今から始めて、自分自身が自分自身を空に見るように訓練し、自分自身に関係ある、関係ないすべての人、事、物、理を空に見るようにするが、とてもやりにくい。

一般の衆生は、順境で貪愛を起こし、逆境では反省しやすい。逆境が多すぎると、嗔心を起こし、一部の人は自暴自棄になる。正常な修行環境は、時には順境で、時には逆境で、逆境が順境よりも少し多いことで、その利点は、一つは業障を消去できること、一つは心地の覚醒を保つことで、順境に惑わされにくく、道心が固くなり、逆境と順境を徐々に空に見ることができ、執着性を速やかに取り除くことができる。

三十五、鯉が竜門を跳び越えて脱皮換骨して竜神になる前に、どれだけ勢いを蓄え、どれだけのエネルギーと大きな福德を蓄積し、どれだけの力が必要で、勢いよく一躍し、瞬間的に脱皮換骨できるのか。

多くの人はあまり力を蓄積せず、多くの代価を払わず、急いで跳んでしまう。その結果、跳んだのは竜門ではなく、竜族の一員にもなれず、依然として元の鯉のままである。中には鼻も青ざめ、顔も腫れ、体を傷つけ、姿を失い、一枚の竜鱗も得られない者さえいる。何の欲も捨てようとせず、勝手に聖人になることを妄想する。これが現代人の最大の欲である。

多くの人は本当に姿を捨てて出家することを拒み、世間の欲を手放せず、言い訳をつける。出家とは煩悩の家を出ることで、僧衣を着るかどうか、髪を剃るかどうかに関係なく、心が出家することが本当の出家であると言う。この言い訳は堂々としすぎて、自分自身が世俗の欲を手放せない心理を完全に覆い隠しており、出家の身分が必要なのは本当に大きな欲である。

三十六、修行者は自心を反省することに慣れるべきである。

念頭自体は識心の作用で、心所法である。念頭を発見することは、識心が心所法を発見することで、これが反省である。賢い人は皆、反省することに慣れており、自覚しなくてもこれが反省である。反省に慣れている人は皆、自制カがあり、自己省察、自己督励、自己管理、自己成長ができ、すべてが自動的で自覚的で、人に監視され、督励される必要がない。このような人はリーダーに適しており、少なくとも人にリードされる必要がない。

仏を学ぶ修行者は、悟りのある人であるはずで、更に時々自分自身を反省し、内心を省み、毎日三回自分自身を省み、こうして徐々に改過し、煩悩を降伏することができる。もし自分自身を反省することに慣れていなければ、自分自身の身口意行が法に則っていない面を発見できず、自分自身を修正し、変更し、自己を向上させることができない。このような場合、自分自身の心の中では仏念が多いのか雑念が多いのか、はっきりしているはずで、反省することは容易ではなく、重要なのは習慣で、良い習慣を身につけると、当然のことのように自然にできるようになる。

三十七、菩薩の六波羅蜜の中で、一つは忍辱波羅蜜である。忍辱を修めるのは何のためであるか。ある人は心念を降伏するためだと言い、ある人は嗔心を降伏するためだと言い、ある人は相を破るためだと言い、ある人は福を積み、業を消し、自己を調伏するためだと言い、ある人は相を離れ、心が住まないようにするためだと言い、ある人は恒順衆生のためだと言い、ある人は慈悲心を養うためだと言い、ある人は般若智慧を啓発するためだと言い、ある人は他の辱を忍び、無我行を修めるためだと言い、ある人は四相を破るためだと言いる。

これらの言い方はすべて正しい。総合的に言えば、全面的になる。

三十八、各人が修行において重要な時期になると、障害の縁が現れる。これは修行が力を得ている結果である。修行を続ければ、障害の縁は消える。修行が力を得ていないとき、一般的に障害の縁は現れない。だから、挫折に遭遇しても自分自身を疑わないで、勇敢に前進する。

修行の順序は、まず広博で、その後専精である。もし一方的に広博でいると、意識の知識の蓄積に過ぎず、解脱とは関係がない。参禅して実証すべき時には、すべての経書を置いて、専心して参禅する。この時、経書を重点的に読むと、道を妨げる。過去の禅宗の祖師は、参禅する弟子が経書を読むのを見ると、制止し、叱責した。現在では、誰も弟子に何を言う勇気がなく、人が広学多聞をするのを止めることができず、師匠にレッテルを貼るのを恐れる。一部の人は七八十歳まで修行しても、心はまだ広学多聞に向けられており、私も何も言えない。自分自身の生死は自分自身が決める。現代人の最大の特徴は、知識と学問が好きで、解脱が好きでないことである。

三十九、仏法を思う心念を心中の主な念とするには、もちろん仏法を重視し、他の世俗の人、事、物を重要視しない。すべての心配事、または大部分の心配事を仏法に集中させ、できるだけ他のことに目を向けないようにする。自分自身を低く保ち、自己の五陰身を何でもない、全く役に立たない、一芸も持たないものと見なし、人の群れの中で、自分自身が少しバカに見えるようにする。それ以外の印象はない。外に向かって自分自身がどんなに能力があるか、文学や芸術の教養があるか、琴、碁、書、画ができるか、歌や踊りが上手で、文章が美しいか、美術編集が得意で、詩、詞、歌、賦が上手で、権勢を謀ることができるか、販売や企画が上手で、どんな権貴で、一表人才で、第一人者であるなどを自慢しない。これらをすべて捨て、自分自身が誰であるかを忘れ、一日中、仏法以外はぼんやりして、生きる屍となり、生きていればよい。世間のものに対して全く愛着がない。こうすれば、心念がすべて仏法になり、主な念が明確になり、決して道を得られないことはない。世俗の念を打ち破れば、出世の法身が生きる。

一般の人はこれができない。仏法は世俗を離れるもので、どうしようもない。世俗を享受しながら、仏法の証量を持つことは、魚と熊掌を両方とも得ることと同じで、不可能で、先に出世して初めて入世できる。

四十、仏を学ぶ修行は無相法を学ぶことで、心は徐々に有相の世俗法から離れ、心が世俗と相を離れて初めて、徐々に清浄無為になり、出世間の無為法と応じることができる。もし世俗の最も普通の祝日でも、気にし、流れに従うなら、心が世俗と密接に結びつき、軽く見なければ、どうして解脱できるだろうか。修行者は最後には凡俗を超越しなければならない。だから、私たちは世俗法とあまり密着してはならず、深く世俗界に陥って抜け出せないようにし、道と逆行してはならず、いつ解脱の大道に歩み始めることができるだろうか。

四十一、私たちが問題を考えるとき、思考の道筋はできるだけ広げるべきで、固定された型にこだわらず、自分自身の見解を繰り返し思考し、検証する。正方向から検証した後、反方向からも検証し、どちらの面でも誤りがないことを確認して初めて、やっと自分自身を信じることができるが、必ずしも正しいとは限らない。なぜなら、大きな智慧は前世の善根とつながっており、つまり、他とは異なる大きな智者になるには、必ず前世からの慧が必要で、ある世で突然に大きな智慧が生まれるわけではない。前世から慧眼を持つ人は、権威を崇拝せず、名声を崇拝せず、印刷された文字にこだわらず、必ずこれらの枠を越え、際立つことができる。

権威崇拝をしないことで、心量を広げることができる。心量が広がると、視野も広がり、見るものが広くなり、既知の固定された理論に縛られず、その思考の智慧が独特で、深く、広大で、こうして実相に触れ、本来の事実を発見することができる。

智慧は心量に伴う。心がどれだけ大きいかによって、智慧がどれだけ広大であるかが決まる。心が如来藏のように空であれば、智慧が如来藏にますます近づき、成仏が期待できる。

四十二、念仏、礼仏は、一つは福を修めること、二つは定を修めることで、身体で礼仏し、慢心を折り伏せることができれば、功がある。定を修めるとき、数量ではなく、質が重要で、質とは心が一つの境に住み、散らず、乱れないことである。それでは、ゆっくりと念じ、心で念じ、心で聴き、心で思い、心で憶える。ゆっくりと礼拝し、身体をゆっくりと動かし、心念を集中させ、身体の動作に注意するか、仏を思い、仏を憶え、身心が一体となる。息が穏やかで、あるようでないようで、心念が一つになり、忘れることがない。日が経つと自然に功が成り、話頭を参究し、自心如来を参究する能力ができる。

毎月、自分自身の菩薩の六波羅蜜の修行の程度をチェックする。布施波羅蜜はどれだけ修めたか、貪心と吝嗇心をどれだけ捨てたか、自分自身の金銭や財物に執着する心が緩んだか、人に対して寛大になったか、戒律の修持はどうか、無理に戒を守り、戒が一種の束縛と感じるのか、自覚的に戒を守り、束縛と感じないのか、戒を守る必要がなく、犯戒する心が全くないのか、後者は心が既に降伏され、外境に執着せず、内心世界に戻っていることを示す。

忍辱波羅蜜に関して、すべての人、事、物に対して忍耐力があるかどうか、争いを起こさないかどうか、内心が淡泊で、自分自身の意に合わない人、事、物に対しても、どうでもよいと感じるかどうか、特に法に関して、理解できない深い法に対して、受け入れ、安忍できるかどうか、その内包をゆっくりと推測できるかどうか。

精進に関して、心の中の世俗法が徐々に減少しているかどうか、仏法への憧憬と修持への希求がますます強くなっているかどうか、布施、持戒、修定、修慧に関して、積極的で、努力しているかどうかをチェックする。

修定に関して、自分自身の心が落ち着いているかどうか、攀縁や散乱が減少しているかどうか、一つの義理を思考することが長い時間続けられるかどうか、修める法に対して、決定的な信心があるかどうか、忘れることがないかどうかをチェックする。

修慧に関して、自分自身が成仏の道を成就するために修める内容をすべて理解しているかどうか、各ステップをすべて理解しているかどうか、明心見性の内容を理解しているかどうか、解脱の理を明瞭にしているかどうか、真如の理をますます理解しているかどうか、如来藏の体性がますます明確になっているかどうかなどをチェックする。

四十三、定を修めることも私たちが毎日必ず行う課題で、定を修めることで私たちの身体が健康になり、精神が愉快になり、身心が統一され、意根の攀緣が減少し、エネルギーが外に放出されず、心思が集中し、定力が増強され、智慧が開発される。エネルギーが外に放出されることは、大きな面積の木板を地面に置き、力を入れて押し下げても、地面には浅い痕跡しか残らないのと同じで、エネルギーを集中させると、錐子が一点に刺さるように、錐尖が地面に深く入る。私たちの心識も同じで、ますます集中すると、深い法理を思考することができ、心が散らず乱れず、しかも思考の程度が深く、透徹で、正しい結論を得ることができ、智慧の潜在能力を開発することができる。

定を修めることには二種類がある。一つは静定で、身口意が全て動かず、身心を収め、口を閉じて語らず、心が乱れるような考えをせず、気が全身を通り、身体の障害を排除し、身体が軽く、気分が爽快で、神が安らかで、心が定まり、精力が充実し、身体が丈夫である。二つ目は動中定で、身心が毎日大部分の時間、活動や運動の中にあるが、これをよく利用しなければならず、自己を放逸させてはならず、心識が絶えず攀緣し、貴重な時間を浪費してはならない。活動の中で、現在必ず行わなければならないことをしっかりと行うだけでなく、同時に心念も正念に縁する。いわゆる正念とは、念仏、念法、念僧、念戒、念经、念咒、一つの義理を参究し、一つの話頭を参究し、一つの公案を参究するなどである。最初は念仏から始め、心で仏を念じ、心で仏を思い、心で仏を憶える。行住坐臥において、念念と仏が一体となり、定力が備われたら、参究に変える。それでは、毎日、自分自身に定課を定め、座禅で定を修める時間を一時間以上、座禅中に一時間以上思考する。その他の時間は、全部念仏または念咒し、心識を変え、外法に縁させない。

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